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Posts Tagged ‘原子力発電所’

田中正造や在日朝鮮人問題などを専攻しつつ、反原発運動や指紋押捺反対運動などに携わりつつ、2015年になくなった熊本大学文学部長・教授の小松裕さんの追悼シンポジウムを母校の早稲田大学で10月1日に開きます。私、中嶋久人も実行委員の一人となっております。直接、小松さんをご存知ない方も、ぜひおいでください。下記ブログで詳細はお伝えする予定ですが、本ブログでも転載する形で告知していきたいと思います。よろしくお願いします。中嶋久人

https://tsuitoukomatsu.wordpress.com/

小松裕写真(2001年11月25日坂原辰雄氏撮影)

故小松裕氏写真(2001年11月25日坂原辰雄氏撮影)

 

追悼・小松裕 その歴史学から何を学ぶか ー 研究と社会との接点を求めて

 

日時:2017年10月1日(日)13:00〜17:00(開場12:30)

所在地:早稲田大学早稲田キャンパス14号館101教室

主催:小松裕追悼シンポジウム実行委員会

【報告】

1、小松裕の田中正造研究の現代的意義 菅井益郎(國學院大學元教员)

2、小​​松裕のアジア認識・在日朝鮮人認識への関心 木村健二(下関市立大学名誉教授)

3、実践する歴史学 – 小松裕とハンセン病問題 藤野豊(敬和学園大学教員)

4、熊本大学文化史研究室」と小松さん 植村邦彦(関西大学経済学部教授)

【討論】

*当日は資料代として1000円を申し受けます。

◆懇親会のご案内◆イル・デパン17:30~(予定)ご参加の方は、下記の連絡先へメールでお申し込みください。(〆切:7月末日)連絡先:小松シンポジウム実行委員会tsuitou.komatsu@gmail.com(担当:大久保)

ご案内

追悼・小松裕 その歴史学から何を学ぶか – 研究と社会との接点を求めて

2015 年 3 月、歴史家の小松裕さんを喪って、早くも2年が過ぎようとしています。享年60、熊本大学文学部長のまま逝かれ、その歴史研究も時を停めました。しかし、彼が追い求めた学問の姿は、いまのような時代にこそ求められるのではないでしょうか。

小松裕さんは、半生をかけて、歴史研究と社会との接点を模索してきました。専門である日本近代史では、自由民権百年記念運動・指紋押捺反対運動・ハンセン病問題への取組みなど、人権と民主主義を追求する運動を研究者の立場から担い、支えてきました。それはやがて、「いのち」を見据えた日本近現代史の歴史叙述として結実します。同時に、熊本という場所に深く根ざしながら、地域の歴史研究を担いつづけてきました。熊本大学では、西洋の 社会思想と日本の近代思想を学ぶことを目的に史学科に新たに設置された「文化史研究室」を拠点に、新しい歴史学の創造に力をつくしました。そのようにして30年近く、歴史研究 者の責務として地域への発信と啓発を欠かさぬ姿勢を貫きました。

小松さんのライフワークである足尾鉱毒反対運動の指導者、田中正造についての研究は、 こうした研究と社会とを結びつけようとする努力のたまものでした。詳細な実証研究から見出された正造の、そして渡良瀬川流域の人々の豊かな思想は、「3.11」以降、産業文明を問い直す動きが高まるなかで、あらためて貴重な示唆を与えてくれています。小松さん自身、反原発の運動でも先頭に立って活躍していました。

しかし、時代は小松さんが目指したものとは真逆に向かって進んでいるかに見えます。ナショナリズムが高まり、他者を排斥する動きがかつてないほど強まっています。それらに便乗し、かつ扇動して、「戦後日本」を一面的に否定し去ろうとする動きも顕著です。これらの背後には、近現代史を中心とした歴史意識をめぐる幾多の衝突や断層がありますが、いずれも日本社会の今後を左右する根幹にかかわることです。歴史学は、あらためてその有効性を問われています。

このような状況に対峙するためにも、私たちは、小松さんが遺された仕事とその姿勢から 多くを学べるはずです。そこでこのたび、その人となりとお仕事を偲びながら、いま歴史研究に何ができるか、みなさんとともに考え、語り合う場を企画しました。懇親会の席もご用意しましたので、小松さんを知る方も、あるいは著作から知った方も、どうかこの機会に大勢お集まりいただき、小松さんの学問と人生を語り合いましょう。ぜひ一人でも多くのみなさまのご参加をお願いします。

2017年5月

小松裕追悼シンポジウム実行委員会
新井勝紘(元専修大学) 大門正克(横浜国立大学) 大久保由理(日本女子大学) 大日方純夫(早稲田大学) 戸邉秀明(東京経済大学) 中嶋久人(早稲田大学)

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前回のブログでは、5月8日に私が常磐道を使って福島県浜通りを北上しようとしたが、常磐道が片道一車線、対面通行で、以前よりも交通量が増え、横風にもあったため、いわき市最北のいわき四倉インターチェンジで常磐道を下りたことを紹介した。この時点で、私は迷った。常磐道でも帰還困難区域を通過せざるをえないのだが、一般道国道6号線は福島第一原発の前を通過しており、より高線量の地点があると予想せざるをえない。

実際、後から調べたことだが、国道6号線は常磐道より多くの被曝を強いられることになっているようだ。「物流ニッポン」というサイトの2015年7月13日付の記事では、次のように説明されている。

内閣府の原子力災害対策本部原子力被災者支援チームが6月24日に公表した資料によると、避難指示区域通過による被ばく線量は、国道6号で放射線量が最も多い区間(42.5キロ)を時速40キロで通過した場合が「1.2マイクロシーベルト」。これは、胸部X線集団健診の被ばく線量60マイクロシーベルトの50分の1程度だ。また、常磐道・広野インターチェンジ(IC)―南相馬IC(49.1キロ)を時速70キロで通過した際の被ばく線量は0.37マイクロシーベルトで、X線健診の160分の1に当たる――としている。
http://logistics.jp/media/2015/07/13/251

今、考えてみると、常磐道でもそれなりの被曝を覚悟しなくてはならないが、その3倍以上の被曝になっていたようである。沿道のモニタリングでも、常磐道では最大毎時4μSv程度だが、国道6号線沿いには毎時12μSvの地点もあるようだ。福島第一原発により近い国道6号線では、より被曝を覚悟しなくてはならないのである。

とはいえ、多分、公開されている限り、一度は福島第一原発前を通りたいと考えてもいた。そこで、四倉から国道6号線を使って、浜通りを北上することにした。

とはいえ、四倉から楢葉町までの区間は避難指示が解除されている。事故後、行ったこともある。事故後に行かなかったところは、富岡町から浪江町の区間だ。大雑把に言えば、富岡町中心部は居住制限区域(年間20〜50mSv)、富岡町北部ー大熊町ー双葉町が帰還困難区域(年間50mSv以上)、浪江町(海岸部)以北が避難指示解除準備区域(年間20mSv以下)となっている。とにかく、行ってみることにした。

このあたりは、山地と海に挟まれ、山地からは小河川が流れ、小河川に沿って平坦地があって田畑や小さな街並みが所在し、それぞれの小河川流域を区切るように岡があって、そこに林地が広がっているという地形だ。その地形にはもちろん変化はない。国道6号線沿いに所在する林地は新緑となっており、そこここで、藤の花が満開となっていた。見た目だけでは、「美しい自然」なのである。

国道6号線における帰還困難区域の通行は、放射線を多少でも遮蔽できる自動車でしか許されない。自動二輪や徒歩は通行禁止となっていた。そこで、帰還困難区域の境界は、車道は開放されているが、警官もしくは警備員が警戒していた。たぶん、自動二輪や歩行者を追い返すことが任務なのだろう。

帰還困難区域に入ってみると、津波に遭わなかったところでは、意外と町並みはかたづいている感じがした。地震で壊れていたような家屋は撤去されたようであり、残っていた家も青いビニールシートなどで屋根が補修されていた。ただ、国道6号線の沿いにある全ての家の前にはバリケードが築かれていた。また、国道6号線と交差する道路の多くは封鎖され、そこも警官もしくは警備員で警備されていた。

当たり前だが、警官・警備員以外に人はいない。富岡町(北部)・大熊町・双葉町の街並みに住民はいない。新緑の林に囲まれた、それらの街には人は住んでいないのである。

もちろん、線量の高低などは体感できるわけはない。ただ、ところどころに線量を表示する電光掲示板があった。表示されている線量は、最高毎時3μSV台だったかと記憶している。ただ、「ここは帰還困難区域(高線量区域を含む)」や「この先帰還困難区域につき通行止」という立看がそこここにあった。

この帰還困難区域内には、福島第一原発入口もある。しかし、それも封鎖されている交差点の一つにすぎない。

この帰還困難区域の通行に大きな支障はなかった。しかし、車の外に出ることが許されない地域である。信号以外で車を一時停止する気にもならず、写真撮影もしなかった。とにかく、早く通過したいと願うばかりであった。

ようやく、双葉町をぬけ、浪江町に入った。浪江町の海岸部は比較的線量が低く、避難指示解除準備区域となっている。しかし、そこも、それなりに家屋は補修されているものの、住民はほとんどいなかった。

住民をみかけたのは、浪江町をぬけて南相馬市小高に入ってからであった。そして、北上し、南相馬市の中心部である原町に入ると、それなりの賑わいをみることができた。そこから、飯舘村をぬけて、福島市にむかい、帰京の途についた。

帰還困難区域の印象を一言でいうことは難しい。「高線量」の危険とは目に見えないものであり、直接的には常磐道の対面通行のほうが危険に感じてしまう。帰還困難区域の「自然」の美しさが目をひき、「危険」を感じさせなくしている面もある。

しかし、放射線量の高さは、この地に人が自由に出入りしたり、住むことを許さない。たぶん、除染家屋の補修、地震・津波被災の後片付け、避難住民の荷物の運び出し、福島第一原発の廃炉作業など、それぞれの用務で立ち入っている人々はいるだろう。でも、一般には、短時間であっても、車などの遮蔽物から外に出ることは許されていない。

結局、立ち入ること禁止する警官・警備員をのぞけば、街並みだけしか残っていない。そこにいたはずの人々は、立ち退いたままなのだ。帰還を強く望む国・県すら、この地への早期帰還は想定していない。帰還困難区域のありようは、東日本大震災と福島第一原発事故の一つの結果ともいえよう。

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5月8日、久方ぶりに福島県浜通りを訪問した。目的地は、居住制限区域の浪江町であった。そのすぐ北側の南相馬市小高や、福島第二原発南側の楢葉町まで行ったことはあるが、福島第一原発事故以後、浪江町に到着したことは一度もなかった。

どのルートで行くか、結構悩んだ。福島市まで東京から東北道を北上し、伊達市もしくは飯舘村で山越えし、相馬市もしくは南相馬市に出て国道6号線を南下するというルートは、途中の放射線量も相対的に低く、何度も使った。ただ、やや遠回りなのは否めない。しかし、南側から常磐道もしくは国道6号線を北上するルートは、相対的に近いが、放射線量の高い帰還困難区域を通過せざるをえない。どうしようか。

結局、一度も使っていない常磐道を北上するルートを選んだ。途中のいわき中央ジャンクションまでは快適だった。沿線の山々は新緑で、ところどころ藤の花が咲いていた。湯ノ岳パーキングエリアでは放射能情報などを伝える小さな小屋のようなものができていたが、それだけだった。しかし、いわき中央をこえると、それまで片道二車線だった常磐道が一車線となり、ところどころで反対車線と対面通行になった。それには、前から恐怖感をおぼえていたのだが、以前よりも交通量が増え、制限速度時速70kmで走っていると後続の車が団子状態になり、反対車線を通行する車も格段に増えた。横風もあって車もぶれてきており、結局、いわき市最北のいわき四倉インターチェンジで常磐道を降りるよりほかなくなってしまった。

実際、常磐道の対面通行区間では、事故がおきている。5月4日、常磐道のより北の部分で死亡事故がおきた。朝日新聞のネット記事をみてほしい。

死亡の母娘、水族館帰りに事故 常磐道、車とバス衝突
2016年5月5日12時57分
 福島県大熊町下野上の常磐道下り線で4日午後8時45分ごろ、高速路線バスと乗用車が衝突し、乗用車の2人が死亡した事故で、県警は5日、死亡したのは、同県広野町に住む中国籍の秦丹丹さん(33)と、長女で小学1年生の熊田京佳さん(6)と発表した。

 県警によると、バスの乗客40人のうち38人と運転手、事故後にバスに追突した乗用車の運転手の計40人が軽傷を負い、そのほとんどが近くの病院に搬送された。バスは東京・池袋発、福島県相馬市行きの高速路線バスで、秦さん親子は宮城県内の水族館に遊びに行った帰りだったという。

 現場は富岡町の常磐富岡インターチェンジ(IC)と浪江町にある浪江ICの間の片側1車線の対面通行区間。県警は、秦さんの運転する乗用車がセンターラインをはみ出して、バスに正面衝突したとみて調べている。(後略)
http://www.asahi.com/articles/ASJ552T3FJ55UGTB001.html

前々から、いわき四倉までの対面通行区間をなんども通行して、そのあやうさを私は認識していた。それゆえ、新規全面開通した常磐道は、単に放射線量が高いというだけではない危険性があると考えていた。この事故と私の経験は、その危険性をまざまざとみせたものといえよう。

そして、この事故については、対面通行だけの問題にはすまなかった。この事故地点は、放射線量が高い帰還困難区域であった。そのことについて、朝日新聞のネット記事は次のように伝えている。

福島)帰還困難区域での事故、現場は、課題は
茶井祐輝、本田雅和2016年5月7日03時00分

 大熊町の常磐道下り線で4日夜、高速路線バスと乗用車が正面衝突した事故があり、乗用車の2人が死亡した。現場は東京電力福島第一原発事故の影響で帰還困難区域になっており、付近の放射線量は毎時4マイクロシーベルトを超すことも。バスに乗っていたけが人の多くはマスクもなしで2時間近く、路上にとどまらざるを得なかった。(後略)
http://www.asahi.com/articles/ASJ565D1RJ56UGTB00T.html

これも、懸念されていたことの一つであった。事故が起きると、巻き込まれた人々は、放射線量が高い地域にもかかわらず、事故地点にとどまって助けを待たなければならない。特に事故車に乗っている人々は、追加事故をさけるために、車から降りなくてはならないのだ。実際、福島県内の高速道路のサービスエリアやパーキングエリアでは、そのように指示するポスターがはってあった。結局、無用の被曝を余儀なくされるのである。

このように、福島県浜通りには、原発や放射線だけではない生活上の困難が存在する。たぶん、片道一車線の高速道路は、日本のそれぞれの地方にみられるであろう。そして、それぞれ危険性や不便を甘受せざるをえないことになっていることだろう。直接には交通量の少なさ、より大きくいえば周辺地域の人口の少なさがゆえに、危険や不便であっても、「片道一車線」の「交通道路」は建設されている。それでも「東京」直結が望ましいと地域では認識されているのであろう。原発があろうがなかろうが、「過疎地」であるということは、地域住民にそのような危険性を強いている。そして、このような構造を前提として、原発は建設されるのだ。

他方で、福島県浜通りでいえば、一般の「過疎地」の状況に加えて、福島第一原発事故による放射能汚染という問題もかかえている。事故の救護をまつために「無用」の被曝を余儀なくされるということは、他地域ではありえない。常磐道での交通事故は、「放射線被曝」にもつながっていくのである。

なお、常磐道を降りた私は、一つの決断をした。福島第一原発の入り口がある国道6号線を使って北上するルートをとるこにした。それについては、別の機会に述べたい。

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最近、日本において国民国家批判を提唱した故西川長夫の晩年の著作を読んでいる。晩年の西川は、「植民地主義」という言葉をキーワードにして現代世界を考察していた。その一つが『〈新〉植民地主義』(平凡社、2006年)である。この中で、西川は、9.11の映像を見て、「平和研究」で著名なヨハン・ガルトゥング(安倍晋三とは全く違う意味で「積極的平和主義を提唱した)の次の文章を想起したと回想している。

しかしながら、ますます相互依存が深まる世界にあって、他国で行使される暴力が、たとえばテロ行為という形で、自国にもたらされる傾向は強まるであろう。そしてそのことは、搾取と抑圧という構造的暴力の二つの基本形態にもあてはまる。自然を搾取すれば、生態系が破壊される。人々を搾取すれば、アル中や麻薬、犯罪、自殺などの深刻な社会的病が発生する。国全体を搾取すれば、債務問題や貿易問題が起こってくる。そこには宿命的なものがある。「あなたのいうこと、なすことはすべて、いずれ自分に帰ってくる」(「まえがき」、『構造的暴力と平和』日本語版、中央大学出版部、1991年)

西川長夫によれば、この文章は東欧とソ連の崩壊直後に書かれたもの(1990年代初頭だろう)だということだが、西川は次のように指摘している。

いまでは9・11の予告のように思えます。だが、同時にこの文章はグローバリゼーションの見事な定義になっているのではないでしょうか。キーワードは「相互依存」ですが、それは必ずしも調和的な関係ではなく、そこには「搾取」と「抑圧」という「構造的暴力」が働いている。

3.11を経験し、その淵源の一つであった福島への原発立地ということを自分なりに検討してみて、この文章は、9・11だけでなく、3・11の予告にもなっていたと思う。なぜ、福島に原発が集中して立地していたのか。それは、単純化すれば、破滅的な原発事故の可能性を前提として、東京や大阪などの日本社会の「中心」をなすところではなく、それらから遠く離れており、人口や経済も集中しておらず、事故が起きたとしても日本社会総体への影響が小さいと考えられた「過疎地」であるために建設されたのだ。しかし、3・11をふりかえってみれば、原発事故の被害は、原発があった地元にとどまるものではない。もちろん、原発がある福島地域が最も大きいのではあるが、放射性物質は、福島だけにふりかかったわけではない。本来は影響がないようにしたはずの「首都圏」でもかなりの放射性物質が降下し、ある程度の被曝が余儀なくされた。さらに、地球全体の大気や海洋も放射性物質により汚染された。そして、今でも放射能汚染は続いている。結局、ガルトゥングにならって「あなたのいうこと、なすことはすべて、いずれ自分に帰ってくる」としかいいようがないのだ。

そして、今、パリで起きた連続テロ事件の報道に接してみると、またもや、ガルトゥングの先の文章が想起される。「他国で行使される暴力が、たとえばテロ行為という形で、自国にもたらされ」ているのであり、「あなたのいうこと、なすことはすべて、いずれ自分に帰ってくる」としかいいようがない。私たちは、眼前から暴力や放射能のようなものを遠ざけ、自分たちとは関係がないと考えられてきた「辺境」の地にその矛盾をおしつけてきた。しかし、やはり「あなたのいうこと、なすことはすべて、いずれ自分に帰ってくる」宿命は存在しているのである。

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2015年10月20日、元福島第一原発事故作業員が発症した白血病が、被曝による労災と認定された。福島第一原発事故に関連してがん発症が被曝として認められたのは初めてのことである。まず、下記のNHKのネット報道をみていただきたい。

原発事故の作業員が白血病 初の労災認定
10月20日 16時10分

東京電力福島第一原子力発電所の事故の収束作業などにあたった当時30代の男性作業員が白血病を発症したことについて、厚生労働省は被ばくしたことによる労災と認定し、20日、本人に通知しました。4年前の原発事故に関連してがんの発症で労災が認められたのは初めてです。
労災が認められたのは、平成23年11月からおととし12月までの間に1年半にわたって各地の原子力発電所で働き、福島第一原発の事故の収束作業などにあたった当時30代後半の男性作業員です。
厚生労働省によりますと男性は、福島第一原発を最後に作業員をやめたあと、白血病を発症したため労災を申請したということです。白血病の労災の認定基準は、年間5ミリシーベルト以上被ばくし、1年を超えてから発症した場合と定められていて、厚生労働省の専門家による検討会で被ばくとの因果関係を分析してきました。その結果、男性はこれまでに合わせて19.8ミリシーベルト被ばくし、特に、福島第一原発での線量が15.7ミリシーベルトと最も高く、原発での作業が原因で発症した可能性が否定できないとして労災と認定し、20日、本人に通知しました。
厚生労働省によりますと、原発作業員のがんの発症ではこれまでに13件の労災が認められていますが、4年前の原発事故に関連して労災が認められたのはこれが初めてです。
労災申請 今後増える可能性
厚生労働省によりますと、福島第一原発の事故後、被ばくによる労災は今回の件以外に10件が申請されていて、このうち7件では労災は認められませんでしたが、3件は調査が続いています。福島第一原発で事故からこれまでに働いていた作業員は延べおよそ4万5000人で、年間5ミリシーベルト以上の被ばくをした人は2万1000人余りに上っていて、今後、労災の申請が増える可能性もあります。
専門家「今後も被ばく量に注意」
今回の労災認定についてチェルノブイリ原発の事故の際、被ばくの影響を調査した長崎大学の長瀧重信名誉教授は「労災の認定基準は、労働者を保護するために僅かでも被ばくをすれば、それに応じてリスクが上がるという考え方に基づいて定められていて、今回のケースは年間5ミリシーベルト以上という基準に当てはまったので認定されたのだと思う。福島第一原発での被ばく量は15.7ミリシーベルトとそれほど高くはないので、福島での被ばくが白血病の発症につながった可能性はこれまでのデータからみると低いと考えられるが、今後も、作業員の被ばく量については、十分注意していく必要がある」と話しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151020/k10010276091000.html

この記事によると、白血病の労災認定基準は、年間5ミリシーベルト以上被曝し、それから1年以上経過して発症した場合とされているが、この作業員の場合、2011年11月から2013年12月の間で各地の原発で作業に従事して19.8ミリシーベルト被曝し、そのうち福島第一原発での作業で15.7ミリシーベルト被曝したということで、労災認定されたということである。この経過からみると、より線量が高かったと思われる事故直後の作業には携わっていない。報道でも指摘されているが、福島第一原発事故処理に携わり年間5ミリシーベルト以上被曝した作業員は2万1000人以上にのぼる。福島第一原発関連で被曝による労災認定申請は11件だされ、7件が未認定、3件が調査中で、本件が認められたということだが、放射線従事者の通常時の年間線量限度は50ミリシーベルト、5年間での限度は100ミリシーベルトで、かなり多くの労働者が年間5ミリシーベルト以上の被曝をしているのである。

この報道をみて再認識させられたことは、年間5ミリシーベルト以上被曝するということは、それを原因にした白血病の発症を覚悟しなくてはならないということである。もちろん、皆が白血病を発症することではなく、統計的にいえば白血病発症のリスクが高まるということなのだろうが、白血病を発症した個人にとっては死に直結しかねないリスクなのである。

それにもかかわらず、原発労働者は、年間50ミリシーベルト、5年間で100ミリシーベルトという、被曝によって白血病発症が認められる年間5ミリシーベルトよりかなり高い被曝線量を受忍しなくてはならない。今回認められたケースでも、総計20ミリシーベルト弱であり、それらの限度からみれば、必ずしも限度近くとはいえない線量である。これは、たぶん、3.11以前からのことであるが、原発労働者は白血病を覚悟しなくてはならない放射線量の中で働かされていたのだ。原発労働者は被曝労働者なのである。そして、汚染水処理や廃炉作業などの福島第一原発事故処理は、そういった被曝労働者を増やすことになっている。

また、現在までに福島の各地域で除染事業が進められてきたが、従事する労働者たちにおいても、年間5ミリシーベルト以上の被曝する場合もあるだろうと予想されている。

さらに、現在、福島第一原発事故にともなう避難区域のなかで、放射線量年間20ミリシーベルト以下の避難指示解除準備区域では、除染をある程度進め、インフラを整備した上で、避難指示が解除され、住民の帰還が促されている。そして、政府は、この避難指示解除準備区域と、年間20〜50ミリシーベルトの放射線量があった居住制限区域に対する避難指示を2017年までに解除する方針を打ち出している。これらの地域の放射線量は、自然的な減衰と、それなりの除染で、いくばくか下がっているだろうと思われる。しかし、このまま解除され、住民の帰還が促進されれば、年間5ミリシーベルト以上の被曝を余儀なくされる人々が少なからず出て来るだろう。

白血病の労災認定が認められた労働者が福島第一原発で働いていた時期は、事故直後の混乱した状態の時ではない。汚染水や廃炉などの福島第一原発事故処理、福島県各地で行われた除染事業、復興の名のもとに避難指示を解除して住民の帰還を促す政策展開、これらは、白血病などの発症リスクをこえた放射線量が照射された被曝者をやみくもに増やしているようにしかみえないのである。

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もう旧聞になるが、2015年8月11日、九州電力の川内原発が再稼働した。同日、菅義偉官房長官は次のようにコメントしている。

川内原発再稼働、菅官房長官「判断するのは事業者」
 
[東京 11日 ロイター] –
は11日の記者会見で、九州電力(9508.T)の川内原発1号機(鹿児島県薩摩川内市)について「再稼働を判断するのは事業者であり、政府は万が一事故が起きた場合に先頭に立って対応する責任がある」と述べた。川内1号は同日午前10時半に原子炉が再稼働した。

菅長官は、国際原子力機関(IAEA)の基本原則に「安全の一義的責任は許認可取得者にある」と明記されていると指摘。政府は、原子力規制委員会が新規制基準に適合すると認めた場合に、原発の再稼働を進めることを閣議決定していることから、災害の際には国が迅速に対応する責任があると語った。

その上で、「再稼働にあたっては地元の理解が得られるよう丁寧に取り組んでいくことが極めて重要」との見方を示した。http://jp.reuters.com/article/2015/08/11/suga-sendai-nuclear-idJPKCN0QG08U20150811

それ以来、伊方原発他、日本各地の原発再稼働への動きがさかんに報道されている。つい最近は、安倍改造内閣で新規に復興担当大臣となった福井県選出衆議院議員である高木毅が、10月7日の就任記者会見で東北の被災地にある女川原発と福島第二原発を再稼働させることもありうると話している。

「被災地原発 基準適合なら再稼働」 就任会見で高木復興相

2015年10月8日 朝刊(東京新聞)

 高木毅復興相(衆院福井2区)は七日夜の首相官邸での就任記者会見で、東日本大震災で被災した東北三県にある東京電力福島第二原発(福島県楢葉町、富岡町)と東北電力女川原発(宮城県女川町)を再稼働させる可能性について「原子力規制委員会が世界で最も厳しい水準の新規制基準に適合すると認めたもののみ、再稼働を進めるのが政府の一貫した方針で、私もそうした考えだ」と述べた。被災地以外の原発と同様に新規制基準を満たせば、再稼働することもあり得るとの考えを示した。
 安倍政権が進める原発再稼働路線を踏まえた発言。福島第一原発事故で大きな被害を出し、現在も多くの避難者がいる福島などの復興を担う閣僚の発言に対し被災地の住民や野党から批判が出る可能性がある。
 高木氏は原発が数多く立地する福井県選出。自民党では原発の早期再稼働を求める議連の事務局長も務めてきた。
 高木氏は会見で「私の地元は、原発とともに生きてきたといって過言ではない地域。非常に残念な福島の事故が起きてしまったことは、本当に重く受け止めなければならない」とも述べた。
 再稼働の手続きは、女川原発1~3号機のうち2号機のみ規制委の審査中。福島県議会は原発事故後の二〇一一年、福島第二原発の廃炉を求める請願を採択している。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201510/CK2015100802000127.html

これらの報道を見聞きするにつけ、政府側は原子力規制委員会の規制基準に適合するから再稼働を認めるというばかりで、なぜ再稼働が必要なのかということはほとんど言っていないという印象を受ける。菅官房長官にいたっては「再稼働を判断するのは事業者」と言い切っている。しかし、「政府は万が一事故が起きた場合に先頭に立って対応する責任がある」といっている。事故が起きたとき、責任をとるのは、事業者でなくて、政府なのだ。全く割に合わない。

野田政権が2012年に大飯原発の再稼働を決めたときは、電力不足により国民生活・国民経済に支障を来すためと、偽善的ではあったが、とにかく理由を述べて、人々の合意を得ようとしていた。安倍政権における再稼働については、原子力規制委員会により「安全」の保証が得られたというばかりで、人々の合意を得ようとは全くしていないのだ。今でも、半数程度が再稼働に反対という民意が各世論調査で示されているにもかかわらず、だ。

原発再稼働についての問題は重大事故時の安全性の確保だけではない。放射性廃棄物はどう処理するのか、老朽原発はどうするのか、平常の運転時でもまぬがれない労働者の被曝についてどのように対処するのか、いろいろな問題がある。そして、そもそも、汚染水、賠償、除染、避難、廃炉など、福島第一原発事故の処理はどうなっているのだろう。「政府は万が一事故が起きた場合に先頭に立って対応する責任がある」と口ではいうが、実際はこの通りだ。

そういうことすべてに、偽善的な言い訳すらしないのだ。安保法制制定過程でみられた、対話による合意獲得の努力を一切しない安倍政権の姿勢が、再稼働問題でも顕在化しているのである。

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さて、前回は、『現代思想』10月臨時増刊号「総特集 安保法制を問う」に掲載されたSEALDs KANSAIの一員である大澤茉実の「SEALDsの周辺から 保守性のなかの革新性」という文章を引用して、SEALDsのような若い世代の人びとにおいては、一見「保守的」にみえる態度のなかに、現代社会が戦後日本社会と断絶しているという歴史認識があるのではないかと論じた。前回のブログでも述べたが、大澤は「原発事故による価値観の転換(既存の権威の失墜と社会運動の必要性・可能性の再発見)」としており、3.11が一つの分岐点であったと述べている。

この『現代思想』には、東京で活動しているSEALDsのメンバーの一人である芝田万奈が「絶望の国で闘う」という文章をよせている。彼女は冒頭から、3.11について、次のように述べている。

 

 テレビの画面からは伝わってこなかった震災の現実がそこにあった。2011年の夏、当時高校三年生だった私が母親の実家である宮城県の東松島を訪れた際に目の当たりにしたのは、何もかも破壊された人々の生活そのものだった。他人ごとじゃない。親戚の赤ちゃんが亡くなったことを私はフィクションとしか受け入れることができなかった。あまりにも残酷すぎる事実を前に、私は人生を、以前のように何も考えずに送ることができなくなった。生きることの意味を考えるたびに自分を見失い、過ぎ去っていく厖大な時間と情報を私は焦点の合わない目で見つめていた。

彼女は、翌2011年夏、福島県南相馬市小高を訪れた。小高の空気はとても穏やかだったそうだが、そこに所在した中華料理店は内外ともに壊れたまま放置されて「意地悪そうな表情の猫」しかおらず、それでも外の花壇は手入れをされていたそうである。
彼女は、

この断片的な記憶の中では、大通りの情景に色褪せたセピアのフィルターがかかっている。これがゴーストタウンということか、と改めて絶句した。これを期に3・11は人災であったということをようやく理解し、原発の本を読んだり、勉強をするようになった

と記している。

この原発・福島の勉強と平行して国際関係学を彼女は勉強していたが、「世の中に対しての失望が大きくなるばかりであった」。アメリカで教育を受けていたこともあって、アメリカが世界中を「民主化」すべく繰り広げている政策とアメリカ国内に存在する矛盾が「民主主義」という言葉によって美化されていることに大きな違和感を覚えたという。

そして、このように記している。

 

 大学二年になって、原発にともなう社会の矛盾によって生じるしわ寄せが母親や子どもにくると知った。3・11をテーマに福島から避難したお母さんたちの研究を始めた。その過程で、自分にもいつか子どもを産む日が来るのかと思うと何度も恐怖感に襲われた。子どもは大好きなのに、やはり社会を見ると、子どもを安心して育てられるとは思えなかったし、その社会を自分では変えることができないという無力感も自分の中で大きくなった。

  * * *

 この頃には政治家はもちろん、大人も、政府も、「復興」や「民主主義」という言葉に対してでさえ嫌悪感を持つようになった。自分の力ではどうしようもない何か、それが私にとっての「社会」のイメージである。原発の実態で露わになった、無力感と恐怖感と絶望と怒りを生み出してきた「社会」。東北に行けばせっせと防潮堤の工事が進んでいるし、沖縄の辺野古ではオスプレイを仰いで座り込みを続ける人々がいる。

この状況の中で、反原発運動などの社会運動は「希望」であったと彼女は述べている。

 

 金曜官邸前の抗議の存在や震災後原発ゼロが続いてきた事実は、日本社会における私にとっての希望であった。市民が起こした社会運動が本当に変化を呼ぶということが証明されたのは、震災後に起きたポジティブな出来事の一つだと思う。そして2013年の秋、私はSEALDsの前進(ママ)団体であるSASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)に出会い、今ではコアメンバーとして活動している。震災後の社会運動の上にあるSEALDsは、私の四年間の怒りと絶望をポジティブに変換する役割を果していると思う。

そして、2015年8月11日に川内原発が再稼働したことについて、「未だにこの事実は受け入れられないし、再び無力感に苛まされ、何もできなかったのだろうかと絶望はする」としながら、「だが、SEALDsの活動を通して気付いたことは、時には現状を嘆きながらも、希望を自ら作り出していくしかないということである」と述べている。

最後に、彼女は次のように語っている。

 

 けれど、この数ヶ月で感じたことは、自らが変える力となることで未来は切り拓かれていくということだ。あの日、震災はこの国から光を奪った。真っ暗なこの国の路上で私は闘うことを選んだ。特別なことじゃない。私はただ、当たり前のことをしているだけ。

3.11ー震災と原発事故の衝撃を契機とした日本社会への怒り、それを変えることのできない自分自身の無力感、その絶望のなかで、社会運動が社会を変えていく可能性に気付いたことが「希望」であり、「震災後に起きたポジティブな出来事」であると彼女は言っている。その上で自らが変える力になることで未来は切り拓かれていくと主張している。

たぶん、3.11直後、彼女らにとどまらず、日本社会の多くの人がそう考えていただろう。とはいえ、「昨日と同じ明日」を取り戻すなどという幻想のなかで、そういう思いはあいまいにされてきた。芝田は、現状に対するより真摯で透徹した「絶望」の中で、社会運動の可能性・必要性を意識しつづけ、「真っ暗なこの国の路上で私は闘うことを選んだ」のである。

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