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大飯原発再稼働の一つの理由が「夏場の電力不足」とされていたことー今や、それも根拠薄弱なのだがーは、周知のことといえる。

しかし、原子力利用が開始された草創期である1956年にも、電力会社の連合体である電気事業連合会は、将来の電力不足を名目とした原発建設を、原子力委員会に陳情した。『科学朝日』1956年7月号には次のような記事が掲載されている。

   

電気事業連合会のお願い
 4月12日電気事業連合会の松根理事と関西電力の一本松常務とは原子力委員会を訪れて、正力、石川、藤岡の3委員に「原子力発電計画に関するお願い」をした。
 それにはまず昭和40年度に数十万kw(後に再び資料が出されて45万kwと発表された)の原子力発電を必要と予想されることをのべ、「われわれは以上を考慮して、これに対処すべき万全の態勢をととのえ、営業用原子力発電の開発と運営に当る所存でありますが、貴委員会において原子力開発利用基本計画の策定ならびにその実施計画の策定に当っては左記の事項を考慮されることを切望致します」として、次のような要望事項をあげている。
A 原子力発電の年次計画として、昭和32年10月までに動力用試験炉を発注。昭和35年10月までに動力用試験炉を完成。昭和36年までに営業用動力炉を発注。昭和38年から40年末までに順次営業用動力炉を完成するものとし、この仕事は電気事業者が行う。
B 動力用試験炉は2台以上。炉の型は適当な型を2種以上、場所は東京、大阪など。容量は電力10000kw以上とする。これらの原子炉は「早期実現のため」輸入すべきである。
C 営業用動力炉は電力10万kw級とし、これは電気事業者が直接やる。初期は輸入する。国産化は原子力委員会で考える。
D 以上の対策の確立を助けるため先進国から適当な技術顧問団を招いてもらいたい。

1965年(昭和40)には電力が不足するので、原発建設を急いでほしいということなのである。

このことをテーマとして推進派の物理学者である伏見康治らによって「座談会 日本の原子力コース」が行われ、その記事が『科学朝日』に掲載されている。伏見は「お伺いしたいのは足りなくなるという推定が妥当なものか相当狂う可能性のあるものなのか…。」と問いかけた。この問いに答えたのが、科学技術庁科学審議官・東京大学教授であり、河川学・土木学を専攻していた安芸皎一である。安芸は、電気需要が年に7〜4%づつ伸びるなどと述べながらも「実をいうとわからない」とした。安芸は「いままではいかにたくさんのエネルギーを早く供給しうるかだったが、いまは安いエネルギーがほしいということなんです」と主張している。具体的には、当時の電力の源の一つであった石炭火力発電所において、今後石炭価格の高騰が見込まれるということが指摘されている。結局は、安価な電力を得たいということだったのである。

電気事業連合会による発電設備予測(1956年)

電気事業連合会による発電設備予測(1956年)

後に、中島篤之助と服部学が「コールダー・ホール型原子力発電所建設の歴史的教訓Ⅱ」(『科学』44巻7号、1974年)で上記のように実績と比較している。1965年の電力は、電事連の予測では水力1435万kw、火力776万8千kw、原子力45万4千kw、総計で2257万2千kwであったが、実績は水力1527万kw、火力2116万2千kw、原子力0kw、総計で3643万2千kwであった。結局、火力発電が予想以上に伸び、原子力発電に依存する必要は、まだなかったのである。

この座談会に出席していた科学者たちは、早期の原発建設には否定的であった。北大教授で物理学者の宮原将平が「俗論」といい、東大教授で化学者であった矢木栄は「原子力がなかったらどうするつもりか」とこの座談会で述べている。伏見は「研究者を無視した恐ろしい高い目標がかかげられて、正直な研究者がその階段を上ろうとして落っこちてしまうという結果になるんです」と懸念していているのである。この座談会に出席していないが、原子力委員であった湯川秀樹も早期の原発建設には否定的であった。この時期は、世界でもソ連のオブニンスク発電所(1954年)くらいしか原子力発電所はなかった(なお、1954年よりアメリカは原子炉を電源とした原子力潜水艦を使用していた)。また、ようやく原子力委員会や日本原子力研究所が創設されたが、まだ、ようやく日本原子力研究所の敷地が決まったばかりで、日本では全く原子炉などはなかったのである。

しかし、原子力委員長であった正力松太郎は、早期の原発建設に積極的であった。そして、コールダーホール型原発を開発していたイギリス側の売り込みを受けた。結局、1965年までに原発を建設することを1956年12月に原子力委員会は決定してしまう。1957年には湯川秀樹が原子力委員を辞任し、1958年にはコールダーホール型原発の導入が決定されたのである。このように、科学者たちの懸念をよそに、電事連の「電力不足」を理由とした原発建設が結果的に実現していくのであった。これが、日本で初めての原発である、東海発電所になっていくのである。

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さて、東海村に研究炉(日本原子力研究所)・商用炉(東海発電所)が設置されたが、それは被ばくのリスクを少しでも回避するために過疎地の沿海部に立地するためであった。しかし、逆に、茨城県や東海村は、この立地により、人口増を含む地域開発を望んでいた。

このことは、日本初の原発である東海発電所が営業運転を始める1966年開始)1960年代においても問題になっていた。そのことが、財界中心に結成された原子力開発・利用推進団体である日本原子力産業会議(現在日本原子力産業協会)が発行した『原子力開発十年史』(1965年)に記述されている。『原子力開発十年史』に依拠しながら、みておこう。

原発が立地している地域の整備については、1959年頃からすでに原子力施設地帯整備法案の策定という形で議論されていた。しかし、周辺地帯の緑地化、建築制限などの規制面と、工場地帯・産業関連施設整備などの促進面が並立し、関係各省の調整が行き詰まってしまったという。つまり、原発立地にもともと内在している二面性が露呈していたのである。

そこで、原子力産業会議は、1961年9月に原子力施設地帯整備特別委員会を設置し、1962年2月に検討した結論を国会などに提出した。原発周辺は土地の買収をすすめて、道路拡張、公園・レクリエーション施設の整備を進め、空地地区指定を含めた土地利用計画を策定、さらに主要道路の整備や市街地開発にともなった新規道路の設置、上下水道や工業用水の整備、放射能安全対策の実施などを求めていた。開発促進するよりも、空地地区指定のように規制面が強いものといえる。

そして、原子力委員会は、1962年9月、原子力施設地帯整備専門部会を設置し、東海村周辺を対象として、原子力施設地帯整備の方針を検討することにした。

その場合、まず想定されたのは、原発事故の際、どれだけの地域が被ばくにさらされるかといことであった。その場合、1957年にメルトダウンを起こして周囲に放射能をまき散らした、イギリスのウィンズケール原発事故の規模を参考にすることになった。その規模の事故で被ばくを受ける範囲を風下側約8km以内、気象条件の良い場合では約2.4km以内とし、安全性を見込んで原発から10km以内を対象とすることになった。

そして、1963年7月に、同専門部会は中間報告を行った。『原子力開発十年史』はその内容を次のようにまとめている。

 

この結果、大部分の市町村については、それぞれの都市計画に従って、人口増加が行われてさしつかえないが、一部地域については、特別の考慮を必要とすることが明らかとなった。すなわち、日立市の南東部については、そこが東海発電所の比較的近傍であること、すでにかなりの人口集中が行われているので、現在でもなんらかの施策が必要である。東海村については将来東海駅付近に人口が増加する見込みなので、それに見合う施策が必要である。勝田市(現在はひたちなか市)についても、将来の人口増加をおさえるともに、なんらかの方策を必要とする。以上のほか原子炉施設から約2km以内の人口増加は望ましくなく、また、2〜3kmの地域の人口が増加する場合には、それに見合う施策が必要であるという結論を出した。(『原子力開発十年史』p333)

具体的には、次の地図をみてほしい。Aが東海発電所である。日立市は東海村の北側、勝田市(現ひたちなか市)は東海村の南側に接している。東海駅などの東海村の主要部は、東海発電所や日本原子力研究所のある沿海部の西側である。つまり、原子力関連施設の周辺での人口増加は「対策」が必要であり、できれば人口増加を抑制すべきであるとしたのである。特に2km以内の人口増加は望ましくないとしているのである。

そして、専門部会では、1963年7月に都市計画小委員会を設置して、東海村周辺の具体的な都市計画のプランを検討することになった。1964年6月に中間報告が行われ、その内容をもとに専門部会は原子力委員会に答申した。『原子力開発十年史』では、その内容を次のように紹介している。

(1) 施設地帯の住民の安全の確保と福祉の増進を前提として、人口や各種施設の配置とその規模の適正化を期しつつ、この地帯の健全な発展を図ることを目標とする。
(2) 具体的には、施設地帯を3段階に分け、原子力施設隣接地区(施設からおおむね2km未満)にはつとめて人口の増加を生じないよう、原子力施設近傍地区(おおむね2km以上6km未満)には、規模の大きい人口集中地区が存在しないようにし、また、その他の周辺地区(おおむね6km以上)には、人口の増加が正常に行われるよう留意する。
(3) したがって、原子力施設地帯の理想像は、白亜の施設を、公園、緑地などのグリーンベルト地帯がとりまき、その周囲には工場その他居住用以外の諸施設は配置され、さらに、その外側には住宅が整備され、また、これらを結ぶ道路、衛生施設などが整備されている。(後略)
(『原子力開発十年史』p.p333-334)

これが、原子力委員会などが描く、原発周辺地域の理想像なのである。事故による被ばくリスクを考慮して、隣接地区には住宅・工場をなるべく置かず、グリーンベルト地帯とする。その外側の近傍地区においても、工場などは設置しても、人口集中地区が存在しないようにする。原発周辺では、人口増加をなるべく抑制することが求められているのである。これは、たぶんに、立地地域の人びとの思いに反していたであろう。

そして、この中間報告では、原発隣接地区では、国や公共団体が、土地の買収などを行い、緑地化・公園化や農業地区化を進展させるべきとした。近傍地区においても、人口集中を抑制するため、都市計画法などで調整するとともに、この地区でも緑地・公園の拡大をはかるべきとしたのである。

結局、この「理想像」がどれだけ現実の原発周辺地域の整備の中で生かされたのか、これは、今後検討していく課題の一つである。ただ、一つ言えることは、1964年5月というほぼ同時期に出された原子炉立地審査指針とほぼ同一の構造をもっていることである。原発に隣接する地域は低人口地帯であり、さらに人口密集地帯から離して原発は設置されなくてはならないという審査指針を、より具体化したものといえよう。

原子力関連施設の周りに緩衝地帯を設けるということは、安全対策としては適切なことである。1999年の東海村JCO臨界事故においても、2011年の福島第一原発事故においても、その必要性は実感されたといえる。その意味で、例えば、漁村の真ん前にある美浜原発などは、危なっかしくみえるのである。

福井県美浜原発(2011年5月25日撮影)

福井県美浜原発(2011年5月25日撮影)

しかし、このように開発が規制されるということを、原発立地自治体の人びとは望んでいたとはいえないだろう。結局、被ばくのリスクを恐れて低人口地帯に設置し、人口増加を抑制するという原発を設置する側の考えと、地域開発を望む原発立地自治体側の考えは相矛盾しているのである。ある意味で、「低開発の開発」とでもいえようか。原発による開発のこのような性格が1974年に創出される電源交付金制度の前提になっているとみることができる。

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昨年、4月、福島第一原発事故で、放射能汚染水を海に流すということが行われた。例えば、韓国の中央日報日本語版は次のように伝えている。

福島第一原発、放射能汚染水1万トンを海に放流
2011年04月05日09時56分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] comment0mixihatena0
東京電力が放射性物質の濃度が法定許容値の100倍に達する汚染水1万1500トンを海に放流することにした。これは放流汚染水より高濃度の汚染水を保存する場所を確保するための措置だ。

東京電力は4日、「福島第一原子力発電所の集中廃棄物処理施設にたまっている汚染水1万トンと5・6号機の地下水保管施設にある1500トンを早ければ5日から放流する計画だ」と明らかにした。同社は「汚染水を放流しても人体には特に問題はない。原発周辺の魚類と海草などを毎日食べても年間放射線量許容値の1ミリシーベルトを下回る0.6ミリシーベルトにしかならない」と説明した。

東京電力はまた、2号機から放出される汚染水を防ぐために水中フェンスを設置することも検討している。2号機取水口付近の電力ケーブル保管施設にたまった汚染水が海に流れ急速に広がることを防ぐためだ。

東京電力は3日、汚染水流出を防ぐためにセメントコンクリートを投じ、吸水性樹脂と新聞紙・おがくずまで動員したが特別な成果を得ることができなかった。これに汚染水が海に流れ込む所周辺の水深5~6メートルの海底にカーテン式のフェンスを設置する場合、ひとまず汚染水の拡散を阻止する効果があると期待している。

東京電力はまず汚染水が流出する通路を確認するために白い粉末を汚染水がたまっている施設に投じた。

一方、文部科学省はこの日、福島第一原発から北西に30キロメートル離れた浪江村でこの11日間に年間許容値の10倍を超える10.34ミリシーベルトが検出されたと発表した。
http://japanese.joins.com/article/830/138830.html

この放流は、韓国その他の周辺諸国に無断で行われ、これら諸国から批判されている。

しかし、このような放射能汚染水の放流は、そもそも沿岸部に原発が立地している日本においては想定されていたことであった。1956年、日本初の研究炉・動力試験炉が設置されることが予定されていた日本原子力研究所の立地について、『原子力委員会月報』第1巻第1号(1956年5月発刊)によると、次のように協議されていた。

原子力研究所の敷地選定について

 昨年11月に発足した財団法人原子力研究所では、原子力研究所の建設をする敷地即ち原子炉の設置場所について土地の選定をするために、土地選定委員会を設けて昨年暮から6回に亘って会合を重ねて本年2月8日に結論を得た。この土地選定委員会の委員は次の諸氏であった。
 委員長 駒形 作次(原子力研究所副理事長)
 委 員 久布白兼致(原子力研究所常任理事)
     内田 俊一(原子力研究所理事、東京工大学長)
     岡野保次郎(原子力研究所理事、三菱重工業代表清算人)
     茅  誠司(原子力研究所理事、東京大学教授)
     木村健二郎(原子力研究所理事、東京大学教授)
     菅 礼之助(原子力研究所理事、電気事業連合会会長)
     田代 茂樹(原子力研究所理事、東洋レーヨン会長)
     中泉 正徳(原子力研究所理事、東京大学教授)
     堀田 正三(原子力研究所理事、住友銀行頭取)
 理 事 和達 清夫(中央気象台長)
     兼子  勝(地質調査所長)
     那須 信治(地震研究所長)
     広瀬孝六郎(東京大学教授)
     竹山謙三郎(建築研究所長)
     松村 孫冶(土木試験所長)
 会合を行った日時は、第1回は昭和30年12月27日、第2回は31年1月6日、第3回は1月13日、第4回は1月21日、第5回は2月4日、第6回は2月8日であった。候補地としては22地区があったが、これらについて土地選定のための要件として次の事項を考慮して選定を行った。すなわち
1.なるべく東京に近いこと。
 研究者が喜んで研究に入り得るということと、研究センターとして東京及びその附近の大学、各研究所との施設の共同使用という点から、東京より2時間以内で到達できるという点を重視する。
2.広さの充分なこと。
 動力試験炉まで含め一応50万坪ていどを目安にする。アメリカなどと異なり、人口稠密な日本ではいわゆるexclusion areaの公式では考えず、狭くとも施設を強化して、これを補備すべきであると考える。
3.国有地、国有林、公有地などが望ましい。
4.用水の十分なること。
 水量、水質が問題となるが、水質の点は技術的に克服できるので、水量の点を重視する。すなわち1万kWていどの炉の冷却水は温度によって多少の相違はあるが、夏期最悪の場合0.3トン/秒を必要とする。ただし、循環使用するので、冷却池を設けれぼ取水量は更に減少することができる。なを化学処理する場合も同ていどの用水が必要である。
5.風向及び風速(地表及び上空)
6.空気中の塵埃
7.雨 量
8.地質及び地勢
 地盤、地質並びに地震の経歴及び土工の難易等が考慮の対象となる。地震の被害は構造物の研究によりこれを防護することが可能である。従って整地の難易及び新しく整地した箇所に重量構造物を建設する場合の沈下等の問題を重視する。
9.断層、地震、洪水の経歴
10.地下水の状況
11.受電の容易、安定な電源が得られること。
12.排水の支障のすくないこと。
13.道路、整地等の附帯工事のすくないこと。
14.周囲の民家、工場等との相関位置
15.農地、森林等との相関位置
 これらのうち、5,6,12,14及び15は汚染に対する考慮であって、最も重視すべき事項であり、化学処理をしたあとこれ監稀釈放流するには大量の水を要し、関東地区ではそうした水量の河川は数えるほどしかなく、その点では外海に面した処が好ましい。たとえば1万kWの原子炉について燃料を100日間使用し、100日間冷却し、これを100日で処理するとし、汚染除去度を105ていどに仮定し、河川の汚染度を10-7μc/ccにするには5トン/秒の河川流量を要するのである。
 その結果、書類上、実地調査上候補地としてあげられたのは神奈川県横須賀の武山地区、茨城県那珂郡東海村の水戸地区、群馬県群馬居郡岩鼻村の岩鼻地区及び群馬県高崎市の高崎地区の4地区に絞られ次のような結論をだした。

 イ案 武山に動力試験用炉までを集中的に設置
 ロ案 水戸に動力試験用炉までを集中的に設置
 ハ案 武山の一部に国産炉までを設置し、水戸に動力試験用炉を分離して設置
 ニ案 岩鼻に国産炉までを設置し、水戸に動力試験用炉を分離して設置
 ホ案 高崎に国産炉まで設置し、水戸に動力試験用炉を分離して設置
 ただし、武山については米軍が使用中でこれが返還の見込みのない場合は不可であり、一部分使用可能の場合でも少なくとも半分ていど使用可能な事が必要である。
 岩鼻については、火薬工場が隣接していることが問題であるから将来この火薬工場の大きな発展は中止せしむることを条件とする。
 高崎については旧射撃場に建物の中心をおくことを想定しているので、その地帯(民有地)の入手が可能であることを要し、かつ附近の民家約20戸及び亜炭鉱山の立退きが必要である。
 水戸は東京からの距離がやや遠いが、大規模の動力炉及び化学処理工場としては好適であるので、今日より確保しておくことが望ましい。
 原子力研究所は以上の緒論を原子力委員会に報告したので、原子力委員会は2月15日臨時委員会を開催して原子炉敷地につき討議した結果、土地選定委員会の意見を尊重して、武山を実験用原子炉敷地の第1候補地と決定し、動力試験用炉は水戸に置くことも同時に決定した。しかし、武山地区は米軍が接収中であるので、その解除が行われなければ実際には敷地にはできないので、調達庁を通じて米軍の意向を打診した。3月5日には米極東軍司令部から「米軍としても極めて重要な基地であるが日本政府から強い要求があるならば2分の1までの返還を考慮することが可能である。ただし、そのかわりとして代替施設を提供することが必要である。」との非公式の口頭による回答があった。代替施設が土地を含むものか建物その他の施設だけであるかを確めるために9日に調速庁と原子力局からハーバート少将を訪問して質問したところ、
1.日本側から正式な具体的要請を正規の手続で行わなければ代替施設の詳細は判明しない。
2.もしも正式に要請を提出すればアメリカ軍は好意的に考慮する。
3.代替地は1エーカー対1エーカーの意味ではない。
という回答に接した。この回答は9日午後の原子力委員会に報告され、討議の結果、ただちに正式の要請をなすべきであり、そのために総理大臣に、「武山を原子炉敷地として原子力委員会で決定した。」旨報告することとなった。この報告を受けた政府は13日の閣議にこの件を諮ったが、船田防衛庁長官から武山は海上自衛隊の要地として3年前から米軍に折衝しており、現在も強い希望がある旨の異議があったので改めてはかることとなり、30日の閣議にはかったが決定せず、4月3日の閣議でも決定されず、4月6日の閣議で、「原子力委員会に再考を求める」との態度を決めた。原子力要員会は同日午後2時から定例委員会を開き、武山を断念して、これに代る候補地として水戸地区を選ぶことを決定したのである。この際の原子力委員会の発表は次のとおりである。
 日本原子力研究所の敷地については、かねて横須賀市武山を候補地として選んできた。しかるに政府としては種々の事情により、候補地選定について本委員会の再考を促された。原子力研究の開始は至急を要し、したがって敷地の決定は遷延を許さないので本委員会は慎重に審議して改めて、茨城県東海村を候補地として選ぶことにした。
 元来原子力研究所は1ヵ所にまとめて設置するのが理想的である。2ヵ所以上に分かれることは研究者の分散、施設の重復、総合研究の困難等の種々の不便がある。しかしながら-方において研究者の便宜ということも忘れてはならない点である。研究開始の初期の段階では、日本原子力研究所員以外の学者の協力を要することも多いので、この点は特に注意を要する。この研究者の便宜の点や、また既存施設の利用可能等の事情に重きをおき、まず実験炉の段階は武山で行うことが適当であると決定したわけである。
 きよう(6日)改めて東海村を選んだが、ここは地域が広く、実験炉から動力試験炉の段階までを1ヵ所で研究し得る利点がある。半面この地は交通が不便で、研究者の立場からは多少の欠点が認められ、また施設の完備にやや日時を要するであろう。これらの欠点を克服するために、できるだけの設備を至急施して研究の促進をはかるよう努力したいと考える。

 なおこのたびの件については、政府が原子力委員会の決定を十分換討の上、改めて本委員会の再考を促されたので、本委員会もこれを了とした次第である。政府は今後も委員会の決定を尊重されることを希望する。
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/ugoki/geppou/V01/N01/19560518V01N01.HTML

要するに、このような経過をへて、日本原子力研究所は現在所在している茨城県東海村に設置が決まり、そして、研究炉第一号と動力試験炉第一号も東海村に設置されることになった。1957年には原子力研究所によって作られた研究炉第一号が臨界に達した。動力試験炉は1963年に臨界に達した。なお、その後、同地で建設された商用炉第一号は、官民合同の日本原子力発電株式会社によって東海発電所として建設され、1966年に営業運転が開始された。商用炉第一号が東海発電所である。

この立地をめぐる協議について、重要な論点となったのは、「汚染に対する考慮」であった。「5.風向及び風速(地表及び上空)」、「6.空気中の塵埃」、「12.排水の支障のすくないこと」、「14.周囲の民家、工場等との相関位置」、「15.農地、森林等との相関位置」の項目がそれにあたる。つまり、まずは、民家・工場・農地・森林など相関関係が重要であった。つまり、周りに住民が居住し生産活動が行われていることが少ないことーつまりは過疎地域であることが条件とされたといえるのだ。しかも、このようにいわれているのである。

これらのうち、5,6,12,14及び15は汚染に対する考慮であって、最も重視すべき事項であり、処理をしたあとこれ監稀釈放流するには大量の水を要し、関東地区ではそうした水量の河川は数えるほどしかなく、その点では外海に面した処が好ましい。たとえば1万kWの原子炉について燃料を100日間使用し、100日間冷却し、これを100日で処理するとし、汚染除去度を105ていどに仮定し、河川の汚染度を10-7μc/ccにするには5トン/秒の河川流量を要するのである。

つまりは、放射能汚染水は、河川水で希釈して、外海に放流されることが想定されていたのである。日本の商用原子炉ー原子力発電所は沿海部に建設されているが、その要因として、このことがあるといえる。

このことは、原子力担当大臣であった正力松太郎も認めていた。正力は、1956年4月24日の参議院商工委員会において、なぜ、武山ではなく東海村に設置されたのかという参議院議員白川一雄の質問に答えて、このように答弁している。

○国務大臣(正力松太郎君) 武山問題についてだいぶん世上を騒がせましてはなはだ相済みませんが、武山についても私ども一番遺憾に思いましたのは、あそこでは実験炉と動力炉とやれないのであります。ですから、従ってあそこでは実験炉だけでやらなくちゃならない。そのあとで動力炉を作るという悪条件があるのでありますが、そういうことでありますからして、最初研究所を作るには政府におきましては専門家の選定を見まして、そうして実験炉と動力炉の両方を置くことをやらしたのであります。ところがなかなか両方置くところは見当らなかった。そのうちに、いやそれよりも一つ動力炉はあとにしてまず研究炉だけを作ろう、それについてはなるたけ学者の研究の便利なところ、そうしますると、立地条件について便利という点は武山にありますけれども、他の点においては水戸の方が、つまり東海がまさっておるのでありますが、ただ学者の便利という点もあったから、それではこれを分離して、そしてこれを武山に持っていこうということになったので、決して初めから武山を最適地としたのじゃありません。最適地というのは学者の交通上便利という点だけであります。これを設けるについてはあそこではどうしても動力炉を設けられないのであります。従って動力炉をあとで設けるとしたら二重の設備が要る。要るけれども学者の人も皆希望するし、それからまたすぐ既存設備でも使えるところがあるからまあまあということになったのであります。ところがそのうちに政府としては閣議に諮りましたところ、武山については防衛上の計画も考えておるがまだ立っていないのだ、一つ委員会の方でもう一ぺん考慮をしてくれぬかということでありました。そこで委員会の方で考慮した結果、もともと武山が最適地ということじゃなかったのです。先ほど申し上げた通り動力炉を別にしなければならぬ、動力炉を別にすれば非常に費用がかかるのです。けれども一時的便利を考えたことですから、そういう事情も参照して、もともと二つの研究炉と動力炉を置くのがほんとうであるからして、それじゃ一つ水戸にしようじゃないかということにしたのであります。もっともこの水戸にする声のおくれた理由は、初めに水戸に指定した場所は進駐軍にとられておったところであります。ところが最近になって、二月ごろになって大蔵省の所有地にいいところがあるということになって、水戸の東海村の声が上ったのはずっとあとなんであります。あとだが、そのときに武山の問題も進んでおるし、距離的に近いことは事実であるから一時的に武山ということにしたのでありますが、幸い政府の方の注意もありまして、原子力委員会全会一致をもって東海村にきめたようなわけでありますので、ところが私どももきまってから現地へ行きまして、私は専門家じゃありませんけれども、われわれども説明を聞いてしろうとながらもなるほどという感じを得たのでありまして、これは私しろうとの説明であるけれども、実は武山につきましてもずいぶん反対論があったのです。それはどういう点かというと、あそこで廃棄物を出す、あの出した廃棄物が逗子方面に流れて、鎌倉沿岸に流れて行きはせぬかと杞憂した人があったのであります。ところが東海村に至っては海岸の汚物が全部沖へ行ってしまうんです。全然その心配がない。そういう非常な有利な点がこれは東海村にあるのであります。それからなおまた御承知の通り、原子力には水が非常に要るのです。そうしますと、武山であると水道よりほかに、それに海水を使うとしても、水道をおもに使わなければならぬ。東海村は幸いにして今敷地のすぐわきに阿漕浦という大きな湖水があります。直径一町、長さが四、五町あります。これが非常に天然のわき水だそうです。これが使っていない。魔の池といってだれも泳ぎもしない。そういうのが近くにあるのです。さらに一面久慈川という川があります。さらに少し離れたところに那珂川という川がありまして、水利の便にあれほどいいところはなかったのでありまして、われわれどもも初めから、初めからというか、中途からしてこれは水戸の方がいいなという議論が起ったのです。そういうような事情であるから、先ほど申し上げました通り、政府の注意と同時に委員会全会一致をもって東海村と決定したのでありまして、世上いろいろな揣摩憶測、流言流説が広がっておりますが、真相はこうでありますから、どうぞ御了承を願います。
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=21222&SAVED_RID=1&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=2&DOC_ID=22057&DPAGE=1&DTOTAL=3&DPOS=3&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&MODE=1&DMY=21571

正力は「これは私しろうとの説明であるけれども、実は武山につきましてもずいぶん反対論があったのです。それはどういう点かというと、あそこで廃棄物を出す、あの出した廃棄物が逗子方面に流れて、鎌倉沿岸に流れて行きはせぬかと杞憂した人があったのであります。ところが東海村に至っては海岸の汚物が全部沖へ行ってしまうんです。全然その心配がない。そういう非常な有利な点がこれは東海村にあるのであります。」といっている。廃棄物は海に流すこと。それは、原子力担当大臣である正力松太郎も認めていたことであった。

高度経済成長期、水俣病などでわかるように、有害な産業廃棄物はほとんど規制されず、海中・大気中に放出されていた。それは、当然のことであり、原発も例外ではなかった。原発が過疎地域の沿海部に立地されていくということについては、そのような含意があったのである。

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さて、このブログの中でも述べてきたが、1960年代、福島県など原発が立地される地域の知事や自治体の首長、地方議員たちは、地域開発を目的に原発の誘致を積極的にはかっていた。彼らからすれば、原発誘致とは地域開発の手段であった。そのような考え方は、現在でも受け継がれているといえる。

しかし、原子力開発・利用を推進した原子力委員会は、原発について、全く違った考えをもっていた。原子力委員会は、1964年5月27日、原子炉立地審査指針を決定した。これは、原子炉が立地する条件を定めたものであり、多少改訂はされたが、現在でも、基本的には、この考えで運用されている。以下に示しておく。

原子炉立地審査指針

この指針は,原子炉安全専門審査会が,陸上に定置する原子炉の設置に先立って行なう安全審査の際,万一の事故に関連して,その立地条件の適否を判断するためのものである。

1.基本的考え方
1.1 原則的立地条件
 原子炉は,どこに設置されるにしても,事故を起さないように設計,建設,運転および保管を行なわなければならないことは当然のことであるが,なお万一の事故に備えて,公衆の安全を確保するためには,原則的に次のような立地条件が必要である。
(1) 大きな事故の誘因となるような事象が過去においてなかったことはもちろんであるが,将来においてもあるとは考えられないこと,また,災害を拡大するような事象も少ないこと。
(2) 原子炉は,その安全防護施設との関連において十分に公衆から離れていること。
(3) 原子炉の敷地は,その周辺も含め,必要に応じ公衆に対して適切な措置を講じうる環境にあること。
1.2 基本的目標
 万一の事故時にも,公衆の安全を確保し,かつ原子力開発の健全な発展をはかることを方針として,この指針によって達成しようとする基本的目標は次の3つである。
 a 敷地周辺の事象,原子炉の特性安全防護施設等を考慮し,技術的見地からみて,最悪の場合には起るかもしれないと考えられる重大な事故(以下「重大事故」という。)の発生を仮定しても,周辺の公衆に放射線障害を与えないこと。
 b さらに,重大事故を超えるような技術的見地からは起るとは考えられない事故(以下「仮想事故」という。)(例えば,重大事故を想定する際には効果を期待した安全防護施設のうちのいくつかが動作しないと仮想し,それに相当する放射性物質の放散を仮想するもの)の発生を仮想しても,周辺の公衆に著しい放射線災害を与えないこと。
 c なお,仮想事故の場合にも,国民遺伝線量に対する影響が十分に小さいこと。

2.立地審査の指針
 立地条件の適否を判断する際には,上記の基本的目標を達成するため,少なくとも次の3条件が満されていることを確認しなければならない。
2.1 原子炉の周囲は,原子炉からある距離の範囲内は非居住区域であること。
 ここにいう「ある距離の範囲」としては,重大事故の場合,もし,その距離だけ離れた地点に人がいつづけるならば,その人に放射線障害を与えるかもしれないと判断される距離までの範囲をとるものとし,「非居住区域」とは,公衆が原則として居住しない区域をいうものとする。
2.2 原子炉からある距離の範囲内であって,非居住区域の外側の地帯は,低人口地帯であること。
 ここにいう「ある距離の範囲」としては,仮想事故の場合,何らの措置も講じなければ,その範囲内にいる公衆に著しい放射線災害を与えるかもしれないと判断される範囲をとるものとし,「低人口地帯」とは,著しい放射線災害を与えないために,適切な措置を講じうる環境にある地帯(例えば,人口密度の低い地帯)をいうものとする。
2.3 原子炉敷地は,人口密集地帯からある距離だけ離れていること。
 ここにいう「ある距離」としては,仮想事故の場合,全身被ばく線量の積算値が,国民遺伝線量の見地から十分受け入れられる程度に小さい値になるような距離をとるものとする。

3.適用範囲
 この指針は,熱出力1万kW以上の原子炉の立地審査に適用するものとし,1万kW未満の場合においては,この指針を参考として立地審査を行なうものとする。
(昭和39年版 『原子力白書』、1965年7月 原子力委員会)
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/hakusho/wp1964/ss1010203.htmより

まず、「大きな事故」になるような事象がない場所に立地するという、いわば当然のことが書かれている。といっても、現在では、浜岡原発のように、それ自身が疑わしい原発もあるのだが…

より、重要なことは、この指針が、放射線被ばくがあるような事故を発生することを想定していることだ。そのため、原子炉は、「公衆」から離れて建設されることが義務づけられている。原子炉周辺には「非居住区域」が設けられることになっている。その外側には、事故の場合、放射線防護の措置をとるために「低人口地帯」がなければならないことになっている。そして、人口密集地帯から原子炉は離れていることになっているのだ。

つまり、原発は、事故を想定して、「公衆」から隔離されなくてはならない。それゆえ、「低人口地帯」に建設されなくてはならないと、原子力委員会は考えていたといえる。

その点で、地域開発に原発誘致の正当性を見出していた知事・首長・議員たちの考えとは、根本的に食い違っていたといえる。原子力委員会の指針を前提とするならば、地域開発の結果、原発周辺の人口が増大することは望ましいことではないはずである。ある意味で、原発立地は、地域開発の論理に逆行しているとすらいえるのである。

今や、このような原発立地の裏面の論理が明白になったのが、現在の福島の状況であるといえる。福島第一原発事故で、周囲の地域は、それこそ「非居住区域」となってしまった。その周囲には、比較的放射線量が高い地域が広がっている。人体への被害だけでなく、農業・工業生産そのものが困難になり、「低人口地帯」になるしかなくなっている。そして、他の生業が困難になったがゆえに、逆に、福島第一原発事故処理他、原発に依存してしか生活ができなくなっているともいえる。

原発を受け入れるということは「低人口地帯」でありつづけるということなのではなかろうか。原発開発が周辺の「低開発」の契機となり、それゆえにさらに原発に依存していくことになる。このようなことは、福島だけではないといえよう。

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