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科学史家であり、現在、政府の「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」委員を勤めている吉岡斉が『新版 原子力の社会史』(2011年、朝日新聞出版)を出版した。吉岡は、本書旧版を1999年に出版している。新版と旧版との最大の違いは、新版においては、2011年の福島第一原発事故に至る過程まで執筆していることである。

ここで、吉岡が本書で提起している原子力開発利用の時代区分をみていこう。吉岡は、次のように原子力開発を時期区分している。

第Ⅰ期  戦時研究から禁止・休眠の時代(1939〜53)
第Ⅱ期  制度化と試行錯誤の時代(1954〜65)
第Ⅲ期 テイクオフと諸問題の噴出の時代(1966〜79)
第Ⅳ期 安定成長と民営化の時代(1980〜94)
第Ⅴ期  事故・事件の続発と開発利用低迷の時代(1995〜2010)
第Ⅵ期 原子力開発利用斜陽化の時代(2011〜)
(本書p29)

第Ⅰ期(1939〜53)は、いうまでもなく、戦時期から占領期にあたる。アメリカなどと同様に、日本においても戦時期には核兵器開発をめざして原子力開発が開始された。しかし、1945年の敗戦により、日本は占領され、原子力開発は基本的に禁止された。1952年に発効したサンフランシスコ講和条約は原子力開発を禁止していなかったが、科学界の大勢は慎重論が強く、しばらく原子力開発は休眠されていた。

第Ⅱ期(1954〜65)は、高度経済成長期の前半にあたる。1954年に改進党の中曽根康弘らによって原子力開発予算が提案され、可決された。このことは、原子力開発開始の契機となった。この時期には、一方で、原子力委員会、科学技術庁、日本原子力研究所、原子燃料公社(後に動力炉・核燃料開発事業団となる)などが設立された。他方で、電力業界ー通産省を中心とした原子力利用の推進体制が形作られた。吉岡は、日本の原子力開発利用体制を「二元体制的国策共同体」とよび、一方の極を高速増殖炉・核燃料再処理工場などを独自技術で開発する科学技術庁グループ、もう一方の極を、アメリカなどの技術導入により商業用原子炉建設などの原子力利用を推進する電力ー通産連合とし、その二つの極の関係で、日本の原子力開発利用体制を分析している。吉岡によると、第Ⅱ期において、このような二元体制が確立したとしている。最初の商業炉である東海第一原発は1960年に建設されたが、営業運転が開始されたのは1966年である。福島第一原発については、この時期の1960年に立地が決定され、1963年に用地買収が始まった。しかし、実際の着工は、次の第Ⅲ期である1967年であり、営業運転は1971年からである。この時期だけでいえば、いまだ実験的な段階にとどまっていたといえる。

第Ⅲ期(1965〜79)は、高度経済成長期の後半から石油ショック以後の景気後退期にあたる。この時期、電力・通産連合は、アメリカの軽水炉技術を導入し、さかんに商業炉建設を進めた。福島第一原発の立地や用地買収は第Ⅱ期から開始されているが、実際の建設や営業運転の開始はこの時期であり、この軽水炉技術の導入によるものである。現存する商業炉はこの時期以降のものであることにも注目されたい。福島第二原発や浪江・小高原発(建設予定)の立地計画も1969年である。この時期は、毎年2機のベースで商業炉は増設を続けられた。他方、科学技術庁グループも、動力炉・核燃料開発事業団を中心に、新型転換炉、高速増殖炉、核燃料再処理などの諸事業を本格的に推進するようになった。

しかし、第Ⅲ期は、さまざまな問題を抱えていた。各地で建設された原発は、故障・事故を続発し、設備利用率が低迷する一方で、反対運動を惹起し、新規立地は困難になっていた。1974年の電源交付金制度創設は、その状況に対処するものであったといえる。他方で、科学技術庁グループが開発していた核燃料サイクル事業は、核兵器拡散防止のためプルトニウムの国際管理を進めようとしていたアメリカとの外交的摩擦を招いた。また、科学技術庁グループの開発していた諸事業を商業的に実用化することについても壁にぶちあたっていた。

第Ⅳ期(1980〜94)は、1990年前後のバブル期を中心とする時代である。第Ⅲ期に噴出した諸問題をとりあえず克服して、原子力開発・利用は、安定成長を続けた。商業炉は毎年1.5基のベースで増設されていった。廃棄物処理なども着手された。科学技術庁グループの諸事業も高速増殖炉を除いて民営化され、電力ー通産連合によって、経済的採算がとれないまま、実用化が企画されるようになった。

しかし、この時期、欧米においては、スリーマイル島原発事故(1979)、チェルノブイリ原発事故(1986)などを契機として、原発建設が停滞状況にはいった時期であった。日本が推進していた高速増殖炉事業についても、欧米諸国は撤退するようになった。吉岡は、この時期を「国際的孤高」と表現している。

第Ⅴ期(1995〜2010)は、ポストバブル期といえる時期である。この時期には、もんじゅ事故(1995)、東海村再処理工場事故(1997)、東海村JCO臨界事故(1999)、美浜原発事故(2004)、柏崎刈谷原発地震被災(2007)など、原発関連の事故が相次ぎ、事故を隠蔽しようとする電力会社の姿勢もあいまって、世論の批判を招いた。原発建設はスローダウンし、設備利用率も落ち込んだ。そして、もんじゅ事故などの責任をとらされる形で科学技術庁が解体され、いわば、電力ー経産(通産省の後身)連合に一元化することになった。他方で、電力の自由化論が提起され、電力会社の独占が脅かされた。電力会社は、国策としての原子力推進を人質にとる形で、電力の自由化を克服しようとしたと吉岡はいう。そして、福島第一原発事故直前において、原発は地球温暖化に対応する経済的でクリーンなエネルギー源という宣伝がなされ、成長戦略として開発途上国などへの原発輸出が推進されようとしていた。

第Ⅵ期(2011〜)は、原子力開発利用の見直しの時期であると吉岡は述べている。福島第一原発事故の直接の影響で、十数基の原発は廃炉せざるをえず、原発開発に偏重したエネルギー対策は見直されざるをえないだろうとしている。特に核燃料サイクル事業の継続は困難になるであろうとしているのである。

この時代区分をみていてまず感じたのは、アメリカの資源・技術導入による軽水炉などの原子力利用と、自前で独自技術を確立しようとする原子力開発の矛盾である。前者が電力ー通産連合、後者が科学技術庁グループで表現されていると思う。戦後日本においては、アメリカへの従属と、日本の主体性の確立がせめぎ合いながらも、混在して存在している。1954年、そもそも、アメリカへの従属姿勢が強い吉田政権に反発し、本格的再軍備を主張した改進党の中曽根らのグループが、ある意味で、新たなアメリカへの従属を意味する原子力開発・利用を主張するということに、まずそのことが表明されていると思う。

さらに、当たり前だが、原子力開発・利用が強く推進された時期は、高度経済成長期・バブル期などの成長を指向した時期に重なっているということである。この時期は、経済成長ー電力需要増大ー新規原発建設というサイクルがまわっていたといえる。反対運動を硬軟ともにおさえこんで、原発建設が進められたといえる。

しかし、1995年以降のポストバブル期には、すでに原発建設は曲がり角であった。原発事故は続出するとともに、低成長により電力需要は伸び悩んだ。また、電力の自由化論が台頭し、原子力発電の優位性は脅かされていた。こうなってみると、福島第一原発事故は、ポストバブル期の原発建設にからんだ問題を今一度表現したものといえる。

以上、とりあえず、私見も多少交えながら、吉岡の時代区分を総体としてみてきた。自分自身としては、より細かく、原子力開発・利用の歴史的経過を今後みていきたい。

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