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Posts Tagged ‘南相馬市’

前回のブログでは、5月8日に私が常磐道を使って福島県浜通りを北上しようとしたが、常磐道が片道一車線、対面通行で、以前よりも交通量が増え、横風にもあったため、いわき市最北のいわき四倉インターチェンジで常磐道を下りたことを紹介した。この時点で、私は迷った。常磐道でも帰還困難区域を通過せざるをえないのだが、一般道国道6号線は福島第一原発の前を通過しており、より高線量の地点があると予想せざるをえない。

実際、後から調べたことだが、国道6号線は常磐道より多くの被曝を強いられることになっているようだ。「物流ニッポン」というサイトの2015年7月13日付の記事では、次のように説明されている。

内閣府の原子力災害対策本部原子力被災者支援チームが6月24日に公表した資料によると、避難指示区域通過による被ばく線量は、国道6号で放射線量が最も多い区間(42.5キロ)を時速40キロで通過した場合が「1.2マイクロシーベルト」。これは、胸部X線集団健診の被ばく線量60マイクロシーベルトの50分の1程度だ。また、常磐道・広野インターチェンジ(IC)―南相馬IC(49.1キロ)を時速70キロで通過した際の被ばく線量は0.37マイクロシーベルトで、X線健診の160分の1に当たる――としている。
http://logistics.jp/media/2015/07/13/251

今、考えてみると、常磐道でもそれなりの被曝を覚悟しなくてはならないが、その3倍以上の被曝になっていたようである。沿道のモニタリングでも、常磐道では最大毎時4μSv程度だが、国道6号線沿いには毎時12μSvの地点もあるようだ。福島第一原発により近い国道6号線では、より被曝を覚悟しなくてはならないのである。

とはいえ、多分、公開されている限り、一度は福島第一原発前を通りたいと考えてもいた。そこで、四倉から国道6号線を使って、浜通りを北上することにした。

とはいえ、四倉から楢葉町までの区間は避難指示が解除されている。事故後、行ったこともある。事故後に行かなかったところは、富岡町から浪江町の区間だ。大雑把に言えば、富岡町中心部は居住制限区域(年間20〜50mSv)、富岡町北部ー大熊町ー双葉町が帰還困難区域(年間50mSv以上)、浪江町(海岸部)以北が避難指示解除準備区域(年間20mSv以下)となっている。とにかく、行ってみることにした。

このあたりは、山地と海に挟まれ、山地からは小河川が流れ、小河川に沿って平坦地があって田畑や小さな街並みが所在し、それぞれの小河川流域を区切るように岡があって、そこに林地が広がっているという地形だ。その地形にはもちろん変化はない。国道6号線沿いに所在する林地は新緑となっており、そこここで、藤の花が満開となっていた。見た目だけでは、「美しい自然」なのである。

国道6号線における帰還困難区域の通行は、放射線を多少でも遮蔽できる自動車でしか許されない。自動二輪や徒歩は通行禁止となっていた。そこで、帰還困難区域の境界は、車道は開放されているが、警官もしくは警備員が警戒していた。たぶん、自動二輪や歩行者を追い返すことが任務なのだろう。

帰還困難区域に入ってみると、津波に遭わなかったところでは、意外と町並みはかたづいている感じがした。地震で壊れていたような家屋は撤去されたようであり、残っていた家も青いビニールシートなどで屋根が補修されていた。ただ、国道6号線の沿いにある全ての家の前にはバリケードが築かれていた。また、国道6号線と交差する道路の多くは封鎖され、そこも警官もしくは警備員で警備されていた。

当たり前だが、警官・警備員以外に人はいない。富岡町(北部)・大熊町・双葉町の街並みに住民はいない。新緑の林に囲まれた、それらの街には人は住んでいないのである。

もちろん、線量の高低などは体感できるわけはない。ただ、ところどころに線量を表示する電光掲示板があった。表示されている線量は、最高毎時3μSV台だったかと記憶している。ただ、「ここは帰還困難区域(高線量区域を含む)」や「この先帰還困難区域につき通行止」という立看がそこここにあった。

この帰還困難区域内には、福島第一原発入口もある。しかし、それも封鎖されている交差点の一つにすぎない。

この帰還困難区域の通行に大きな支障はなかった。しかし、車の外に出ることが許されない地域である。信号以外で車を一時停止する気にもならず、写真撮影もしなかった。とにかく、早く通過したいと願うばかりであった。

ようやく、双葉町をぬけ、浪江町に入った。浪江町の海岸部は比較的線量が低く、避難指示解除準備区域となっている。しかし、そこも、それなりに家屋は補修されているものの、住民はほとんどいなかった。

住民をみかけたのは、浪江町をぬけて南相馬市小高に入ってからであった。そして、北上し、南相馬市の中心部である原町に入ると、それなりの賑わいをみることができた。そこから、飯舘村をぬけて、福島市にむかい、帰京の途についた。

帰還困難区域の印象を一言でいうことは難しい。「高線量」の危険とは目に見えないものであり、直接的には常磐道の対面通行のほうが危険に感じてしまう。帰還困難区域の「自然」の美しさが目をひき、「危険」を感じさせなくしている面もある。

しかし、放射線量の高さは、この地に人が自由に出入りしたり、住むことを許さない。たぶん、除染家屋の補修、地震・津波被災の後片付け、避難住民の荷物の運び出し、福島第一原発の廃炉作業など、それぞれの用務で立ち入っている人々はいるだろう。でも、一般には、短時間であっても、車などの遮蔽物から外に出ることは許されていない。

結局、立ち入ること禁止する警官・警備員をのぞけば、街並みだけしか残っていない。そこにいたはずの人々は、立ち退いたままなのだ。帰還を強く望む国・県すら、この地への早期帰還は想定していない。帰還困難区域のありようは、東日本大震災と福島第一原発事故の一つの結果ともいえよう。

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さて、福島県の放射線について、今度は南相馬市についてみてみよう。南相馬市の環境放射線量は、南相馬合同庁舎で計測されている。 googleマップによると、原ノ町駅の北東側に所在している。福島民報2012年4月25日号によると、4月24日の放射線量は0.35マイクロシーベルト/時間程度で、より遠い位置にある福島市の半分程度である。

しかし、福島民報で報道されている4月24日の放射線量をみていると、各地点でバラバラである。最も低い雫浄化センターでは0.13、最も高い鉄山ダムでは4.91である。そして、最近警戒区域が解除された小高区は南相馬市一般と同程度であり、小高中学校で0.33である。

福島民報2012年4月25日号

福島民報2012年4月25日号

雫浄化センターは、南相馬市の海岸にある。総じて海岸部は放射線量が低いといわれている。

鉄山ダムは、小高区の山間部にあり、浪江町との境界に近い。山間部が比較的放射線量が高いことも一般的にいわれている。

さて、私自身が4月24日に南相馬市でみた事例をみておこう。原ノ町駅前(西側)に南相馬市立中央図書館があり、そこの軒下に固定式の計測器がある。その放射線量は0.353マイクロシーベルトであった。一般的な南相馬市の放射線量である。

南相馬市立中央図書館(2012年4月24日撮影)

南相馬市立中央図書館(2012年4月24日撮影)

ところが、この図書館の北側に隣接している小公園では、0.187マイクロシーベルトであった。写真の後方に写っている建物が市立中央図書館であり、その軒下に図書館の測定器がある。20メートルも離れていないだろう。図書館の半分である。図書館の測定器では、屋根などの雨がかかるのに対し、小公園は吹きさらしであることが違っているのかもしれない。

原ノ町駅前の小公園(2012年4月24日撮影)

原ノ町駅前の小公園(2012年4月24日撮影)

さて、南相馬市の中心市街地原町の南側に福島県営東ヶ丘公園があり、そこに野馬追の里南相馬市立図書館が所在している。その前の測定器では、0.647であった。市立中央図書館の倍近くになる。それほど遠くないのに、かなり違うのである。海岸からの距離もそれほど変わらないはずである。丘陵地で木々の多い場所だからかもしれない。

野馬追の里南相馬市立博物館(2012年4月24日撮影)

野馬追の里南相馬市立博物館(2012年4月24日撮影)

南相馬市の人に聞くと、公の場所に置かれる測定器の放射線量は、除染が行き届いていて比較的低いという。それでも、これほどの違いがある。すべての場所が除染できるわけもなく、除染しても、周囲の状況によって違いが出てくる。これは、より大きい領域である福島県や東日本全域でもそうであろう。

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2012年4月24日から25日にかけて、南相馬市を訪れた。南相馬市では、最近、20km圏内であった小高区が警戒区域指定を解除され、一般人も立ち入ることができるようになっていた。小高とはどのようなところか。Googleマップで位置を確認しておこう。南相馬市の南部であり、海岸線にそったところである。


東日本大震災の被害状況は、それぞれ違う。相馬市松川浦や仙台市周辺では、広大な農地が津波におそわれ、流木、ごみ、自動車、漁船、漁網などが一面に散乱し、すべてが泥に使っている状況が印象的であった。

石巻市や気仙沼市では、それなりに大きな港湾都市が津波に襲われ、市街地・埠頭・工場などが広範囲に破壊されたことをまざまざと見せつけられた。

いわき市久が浜では、津波によって起こされた火災が、それこそ空襲後のように、周囲を黒こげにしていた。

女川や牡鹿半島の漁村では、小規模な漁村がそれこそねこぎにされ、津波の及んだ範囲では、何も残っていなかったことが印象づけられた。喪失感は最も大きかった。

小高は、これらとも違う。はっきりわからないのだが、国道6号線周辺まで津波が襲来した模様である。たぶん、6号線からとったと思われる、南相馬市(これだけでは小高かどうかはわからない)の津波映像が残されている。津波が海岸線に到達した時に津波が爆発したように盛り上がり、海岸線の家や自動車を飲み込んでいく。かなり海岸線から離れた国道6号線に津波は到達し、自動車が流されていく。

国道6号線ぞいには、津波で流された自動車、窓などが破壊された家屋、浸水した形跡のある農地が広がっていた。

小高に残された津波跡(2012年4月25日撮影)

小高に残された津波跡(2012年4月25日撮影)

それよりも内陸側の家屋においては、津波よりも地震動による被災が目立った。小高の高台にあり、相馬氏の城館跡である小高神社では、鳥居・記念碑・石灯籠などの石像物が地震によって壊れていた。小高神社においては、復旧の手が入ったようで、大工などが作業していた。

小高神社(2012年4月25日撮影)

小高神社(2012年4月25日撮影)

国道6号線の海側に入ってみると、そこにはみたことがない風景が広がっていた。広大な農地であったはずのところが、すべて水没していたのだ。そこには、鷺や鵜が多数生息していた。この写真でも小さく鷺が写っている。

水没した小高の農地(2012年4月25日撮影)

水没した小高の農地(2012年4月25日撮影)

道路は、水の中を走っていた。撮影した25日は霧で、撮影にはよくなかった。特に、水面上の霧は濃い。道路の先行きはみえなかった。

水の中を走る道路(2012年4月25日撮影)

水の中を走る道路(2012年4月25日撮影)

まるで、海辺にあるようにみえるが…。家の向こうにあるのは、本来は農地であったところである。まるで、アニメ『千と千尋の神隠し』に出てくるような光景である。

水に浸かった集落(2012年4月25日撮影)

水に浸かった集落(2012年4月25日撮影)

むしろ、海岸線のほうが水没していなかった。たぶん、この場所は過去砂嘴にあたるのだろう。しかし、津波の襲撃を受けて、家屋は基礎しか残されていなかった。霧の中に瓦礫の小山が点々とあった。まるで家の墓標のようにみえる。

津波で壊滅した集落跡(2012年4月25日撮影)

津波で壊滅した集落跡(2012年4月25日撮影)

Googleマップの航空写真をみて、全体状況をみておこう。ここは小高の南部で、宮田川という川の流域である。本来は農地であったところに、緑色のところが広がっている。このことごとくが水面である。

福島県は二級河川宮田川水系河川整備計画(http://www.pref.fukushima.jp/kasen/kikaku/seibihousin/miyatakeikaku.pdf)を2005年に出している。それによると、1908年測量の地図では、この地域に井田川浦という広大な水面が広がっている。

「ふくしまの歴史と文化の回廊集」というサイトでは、このように説明されている。1919〜1929年にこの地域は干拓され、農地となった。しかし、この干拓農地のほとんどの部分がもとの「浦」にもどってしまったといえる。もちろん、これは、津波の被害というだけではない。東日本大震災による地盤沈下の影響でもある。

井田川浦干拓地
井田川浦干拓は小高区での大事業であり、相馬郡石神村太田秋之助らによって大正8年(1919)に立案、同10年に工事が着工され、9年後の昭和4年(1929)春に排水開田に成功した。(赤線部分)
■所在地:南相馬市小高区浦尻地内
http://www.pref.fukushima.jp/bunka/kairou/si/49minamisouma.html

2011年12月1日、朝日新聞は次のような記事をネット配信している。それによると、この「浦」の水深は3mに達するところもあるという。

倒壊そのまま 警戒区域の南相馬・小高区に入る

 浦に戻ってしまったような干拓地、潰れたままの民家……。桜井勝延・南相馬市長の視察に同行し、東京電力福島第一原発から20キロ圏の警戒区域にある同市小高区に入った。立ち入り禁止のため地震と津波に遭った当時のまま時が止まったかのようだ。なのに、放射線量は原町区の市役所周辺とほとんど変わらない。
 バスは国道6号から離れ、海岸線へ向かった。見渡す限り茶色の世界が広がる。枯れた雑草の平原だ。水田の基盤整備が完成寸前だったという。
 最初にバスを降りたのは塚原地区。119世帯のうち約50世帯が流失・全壊し、16人が津波で亡くなった。海岸近くに、高さ18メートルほどの松がポツンと立っていた。津波はそれを超えて襲ってきたという。
 道路の海側に、アスファルトが板状のまま転がっている。100メートル以上にわたって壊れた防潮堤は、海側に倒れている。引き波の強さを物語る。
 かろうじて残る海岸に沿った道路を南下する。途中の白鳥の飛来地には、一羽も見当たらない。同行した市職員は「今年は稲作をしなかった。落ち穂がないから来なかったのかな」。
 水がたまった井田川地区が見えてきた。原発まで約11キロで、今回の視察では最も原発に近いが、放射線量は毎時0・18マイクロシーベルト。市役所前(同0・29マイクロシーベルト)より低い。東西約2キロ、南北約1キロにわたって水がたまっている。大正終わりから昭和初めにかけて干拓し農地と集落ができた。それがまったく元の浦に戻っている。深いところで水深3メートルはあるという。
 桜井市長は「住宅は移転するしかないだろう。そう簡単に復旧が進まないことは、ここに来てもらえばすぐ分かる。放射線量は低いのだから、早く作業を始めさせてほしい。そうしないと、住民が『もう戻れない』と思ってしまう」。
 バスは小高区中心部へ。津波被害を免れたが、震災後もほとんど手つかずだ。塀が倒れたままになっていたり、窓ガラスがすっかり割れていたり。JR小高駅通りに差し掛かると、2階建ての洋品店の1階がグシャリと潰れていた。
 仲町で下車した。豪壮な屋根が1階を押しつぶした黒壁の建物が見えた。明治終わりごろにできた蔵造り民家だという。3軒おいた先の民家も壊滅的に崩れている。傾いて隣家に寄りかかっている商店も数多い。
 帰りの車中、隣に座った市職員の言葉が印象的だった。「火災が心配。泥棒は家の中の物を持って行くが、火事は家そのものを持っていくから」。彼の自宅も警戒区域内にある。(佐々木達也)=2011年12月1日朝刊
http://digital.asahi.com/articles/TKY201203290358.html

「滄海(そうかい)変じて桑田(そうでん)となる」となるということわざがあるが、その逆に「桑田(そうでん)変じて滄海(そうかい)なる」となってしまったといえよう。これほど苛烈な印象を与える被災地はなかったと思う。

近辺には「浦尻貝塚」(小高区浦尻字南台地内)という縄文時代の遺跡がある。この貝塚は高台にあり、津波の直撃は避けられた模様である。この写真で、青いシートで保護されているところが発掘現場であろう。貝塚とは、所詮ごみ捨て場であり、たぶん、集落自体は高台にあって、その斜面に設けられたのではないかと思われる。その麓に現在の民家があり、その前の農地がことごとく水没したのである。

浦尻貝塚(2012年4月25日撮影

浦尻貝塚(2012年4月25日撮影

ある郷土史研究者は、「南相馬市小高区の縄文時代 (津波で縄文の海に戻った)」とブログ「相馬郷土史研究」で表現している。

今回の津波の驚きは縄文時代の海の状態を再現したことである。一番驚いたのは八沢浦だった。あれだけ満々と水をたたえた入江になっているのに驚嘆した。それだけ凄い津波だったのである。六号線も津波は越えてきた。井田川(浦)は大正時代に開拓されたとなると遅い。丸木船など残っているからここでの漁労生活はずっとつづけられていた。ともかく浜通りは松川浦しか入江がないと浦がないと思っているけどいかに浦が多いか入江が多い場所だったか知るべきである。太平洋の東北でもこの浦伝いに航行すれば船も使える。外海は無理にしてもこれだけ浦があるということは浦伝いに遠くまで行けることになる。瀬戸内海はそうだったが太平洋でも浦が多かったのである。日本は浦だらけだった。そこが牡蠣の養殖の場になり今日につづいている。その浦が今回の津波にのまれた。海に接して集落を形成した所は壊滅した。それは弥生時代から始まった青松白砂の光景はそもそも海だったところを開拓してできたものでありその海だったところは松をなぎ倒して再現された。田や米作りの文明を破壊したのである。液状化で苦しんだところももともと海だったり沼だったりした軟弱な地盤だった。これも自然条件に見合わない作り方でそうなった。人間は自然条件に逆らい生活圏を拡大した。それが大津波で破壊されたのである。原子力発電だって自然に逆らうものでありそれが自然の力で破壊された。

自然はやはり何か人間に対して復讐するということがありうるのか?そういう大きな自然の力を感じたのが今回の津波だった。
http://musubu2.sblo.jp/article/45596335.html

小高を視察した平野復興相は、小高排水機場なども含めたインフラ整備を急ぐことを21日に表明した。小高排水機場は、この水没した農地の排水を担ってきたところである。しかし、排水機場復旧程度で、広大な農地の復旧が可能になるのか。そんな気持ちになった。

東日本大震災:視察の平野復興相「小高のインフラ整備を急ぎたい」 /福島
毎日新聞 2012年04月24日 地方版

 平野達男復興相が21日、浪江町と南相馬市小高区の被災状況を視察した。
 今週初めに警戒区域が解除された小高区について、平野復興相は「上下水道など生活インフラ整備を急ぎたい。どれぐらいの方が帰ってこられるか、把握をお願いしたい」。桜井勝延市長は「住民が住めるようになるまでに、最低でも1年や2年はかかる。意向調査をして、戻れるように環境作りを急ぎたい」と応じた。
 平野復興相は、JR常磐線小高駅に近い小高浄化センターと沿岸部の小高排水機場2件に足を運んだ。浄化センターは海岸から約2・5キロ。4000人分の下水処理能力があったが、津波と地震で損傷した。排水機場は集落とともに津波にのまれ、周囲の水田は水没したままだ。市の工程表では、両施設は13〜14年度に復旧の見通し。【高橋秀郎】
http://mainichi.jp/area/fukushima/news/20120422ddlk07040110000c.html

南相馬市が2011年9月に作成した「緊急時避難準備区域解除に係る復旧計画」によると、次のように農地などが被害を受けている。これは、南相馬市全域であり、小高だけではなく、北側の原町区、鹿島区の農地も含んでいる。浸水した農地は総計で2722ヘクタールに及んでいる。単独の市町村では、これほど広い面積が浸水したところはないようである。まさに、大自然の脅威を実感した。これほど、人の無力さを感じたところはない。

・浸水した農地 対象面積 2,722 ヘクタール
・除染すべき農地 対象面積 8,400 ヘクタール
・除染すべき森林 対象面積 21,947 ヘクタール
http://www.city.minamisoma.lg.jp/mpsdata/web/5220/fukkyuukeikaku.pdf

しかし、後段の数字をみてほしい。8400ヘクタールという、浸水農地の約3倍の農地が除染すべきとされている。さらに森林を加えれば、約11倍の農地・森林が除染すべき土地としてされているのである。これは南相馬市だけの数字だ。南相馬市は、比較的放射線量が低いとされている。それでも、津波被災をはるかに凌駕する広大な土地が原発災害で被災しているのである。

農地を「浦」にもどし、縄文時代の環境を再現してしまった津波。しかし、その被災地をはるかに凌駕する広大な土地を被災させた原発災害。そもそも、これほどの大自然の脅威に人の手が容易に打ち克つわけはない。しかも、人の手で作られた原発が、大自然の脅威よりも深刻な形で、私たちの生存を脅かしているのである。

東日本大震災による大自然の脅威と、それを凌駕する広大な土地を被災させた原発災害。2011年の脅威をもっとも体現しているのが、この南相馬市小高だと思う。想像を絶する脅威と、想像すら許されない脅威に直面した地が、小高なのである。

最後に、小高・浪江の境界付近にある、検問所をしめしておこう。この向こうに福島第一原発がある。

立ち入り制限の検問所(2012年4月24日撮影)

立ち入り制限の検問所(2012年4月24日撮影)

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2012年2月25日、東京にて「原子力発電所を問う民衆法廷」第一回公判が行われた。この民衆法廷とは、いうまでもなく「民衆」(市民社会といったほうがよいだろう)が独自に設置したもので、起源は、バートランド・ラッセルやサルトルを中心としてヴェトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を裁いた、1967年の「国際戦争犯罪法廷」にさかのぼる。この民衆法廷は、菅元首相らや東電(会社と役員)、班目春樹原子力安全委員会委員長らの刑事責任を問う形で行われたのだが、それ自体の目的としては、次の言葉に要約できるだろう。

本法廷の基本的性格として何よりも強調しなければならないのは、民衆法廷としては当然のことであるが、福島第一原発事故によって被災した福島県をはじめとする被害者の視点である。日本政府や東京電力が置き去りにして顧みようとしない被害者の声に耳を傾けることを基本に据えることなしに民衆法廷は存立しえない。被害者の視点で物を考えるとはどのような営みを指すのかを、権威や権力の高みからではなく、人類史上初の原発水素爆発の映像に震撼し、恐怖を味わった世界の民衆とともに考え、ここから来るべき思想を紡ぎだしていくことが本法廷に課された任務である。同様に、世界各地のウラン採掘現場で、核兵器製造工場と核実験場で、原発立地で、そして使用済核燃料貯蔵地各地で、人間の尊厳を賭けて闘っている人々の声に耳を傾け、思いを共有することが、本法廷の出発点でなければならない。(「原子力発電所を問う民衆法廷・決定第1号」)

まさしく、この目的に基づき、福島県から7名もの原発事故被害者が申し立てを行った。一応、氏名だけは紹介しておこう。

村田弘(南相馬市小高区より避難)
増子理香(三春町より避難)
亀屋雪子(双葉町より避難)
武藤類子(三春町居住)
設楽俊司(福島市居住)
大河原多津子(田村市居住)
佐々木慶子

ここでは、警戒区域内の福島県南相馬市小高区飯崎に居住し、農業を営んでいた村田弘の申し立てをみてみよう。村田は、3月12日の福島第一原発第1号機水素爆発に伴う政府の避難指示により、13日、30キロ圏内の南相馬市原町区の石神中学校に避難し、その後南相馬市の勧告に従い、栃木県那須町をへて19日に長女の住む川崎市に避難した。村田は、次のように事態を概括している。

 

私の住んでいた南相馬市小高区を含む20キロ圏内の2市7町村では直ちに主要道路に検問所が設けられ、立ち入りを制限されました。さらに4月22日には災害対策基本法に基づく「警戒区域」に指定され、2万8千世帯7万7千人余の住民が強制的に排除され、着の身着のままで全国各地で避難生活を送ることを余儀なくされました。
 あの日から、あと2週間で1年の月日が経とうとしています。
 政府は昨年12月16日、野田首相が原発の「収束状態」宣言をし、1月には放射性物質汚染特別措置法に基づき、年間被ばく線量20ミリシーベルトを境に「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」に、50ミリシーベルト以上の地域は「帰還困難区域」に分断して処理をするという方針を発表しました。
 しかし、被害の実態は放置されたままです。だれがその全容を把握しているのでしょうか。原因の解明も遅々として進んでいません。この大惨事を招いた責任の所在については、法治国家としての当然の追求の動きすらありません。これは、いったい、どうしたことでしょう。
 私は、普通の人々が望む正義が守られ、貫かれ、普通の人が普通に生きられる社会の実現を願い、私の体験をもとに、以下、3つの点について申し述べさせていただきます。

 そして、まず、村田は、福島第一原発事故が多くの人命を奪ったことをとりあげている。避難中、多くの老人たちが死に追いやられた。また、自死もあるのだが、村田は「自死に追いやられた人々の数も実情も、ほとんどが闇の中です」と述べている。さらに、福島県の「浜通り」では、地震と津波で1800人を超える人々が犠牲になったのだが、原発事故で救助と捜索が1ヶ月近くも放置されたことを村田は指摘している。

村田は、一昨年同期(3月1日〜12月31日)より津波や地震の死者を差し引いても7千人ほど福島県では死者が増えている、福島県でも3400人が原子力災害や大震災でなくなったとしているのだが、政府や東電は因果関係を認めず、原発災害による一般の死者はゼロとしていると指摘した。その上で、村田は、このように述べている。

…全電源喪失を「想定不適当」という普通の人には理解しがたい言葉を使ってまで、原発の稼働を許してきたこと、これ一つだけとっても「因果関係」は明白ではないでしょうか。
 人を死なせたことを、普通の人は「人殺し」と言います。「人殺し」は重大な罪です。しかも、数千人です。「犯人」が突き止められず、罰せられないことが、許されるでしょうか。
 肉親が、友人が、知人が亡くなれば、多くの人々が集まって故人を偲び、弔います。放射能に追われる中で、死者の最後の尊厳すら守れなかった数千、数万の人々の無念の思いを、闇に葬らせてはなりません。

続いて、村田は、福島第一原発事故は、「かけがえのない自然を破壊し、多くの人々の過去と未来を奪った」と訴える。村田は、このように述べる。

 

福島県には約15万ヘクタールの田畑があり、耕地面積では全国7位の農業県です。コメが4割を占めますが、モモ、ナシ、サクランボなどの果樹の有数の産地であり、太平洋岸にはサンマ、カツオなどの豊富な漁場が広がり、奥羽、阿武隈山地では畜産が営まれ、きのこもたくさん採れます。そこに広島原爆の20個分にも当たる放射能が飛散し、降り注いだというのです。
 警戒区域と計画的避難区域の田畑は、東京23区の半分近い面積があります。ここではコメも野菜も作付けが禁止され、草ぼうぼうのまま2度目の春を迎えます。福島県の8万戸の農家の人々は、鈴木博之(福島県の放射能汚染を訴えたコメ農家)さんと同じ思いを胸深くしまいこんでいるのです。
 私の家から海岸へ車で20分余の浦尻というところに、国指定の縄文時代の貝塚があります。約5千700年前から3千年間も続いた遺跡です。ここからは、カツオやカレイ、スズキ、ウナギやフナの骨が出土しています。5千年以上も続いてきたこれらの海の幸、川の幸と人間の関係も断ち切られたのです。
 林や森の中、草原で、もはや深呼吸もできない。落ち葉は「毒のかたまり」、川も海も放射能の集積する「穢れた所」。生命の源である「緑」が「毒」に変えられてしまったのです。マスクと線量計が離せない子どもや孫たちの将来……これが私たち前にある現実なのです。

この申し立ての最後に、村田は次のように訴えている。

 

最後に、この法廷の皆さんへのお願いです。
 ひと言で申し上げれば、普通の人が普通に考える、当たり前の正義を守ってほしいということです。
① 少なくとも数十万の人々の日常を決定的に壊したこと
② 少なくとも数千人の命を奪ったこと
③ 人の生きていく基盤である土と水と生きものと人との関係を決定的に破壊したこと
④ 以上のことが当然に起きることを知りながら、「安全」というひと言で人々をだまし続けてきたこと
⑤ 「国策」という衣を着せれば許されるとして、非人道極まる原子力政策を続けてきたこと
これを裁いていただきたい、ということです。

「私たちは日本国民なのですか」と双葉町の町長が言った、と伝えられました。「帰還困難区域」という名をかぶせられて故郷を追われ、放射能汚染物の「中間貯蔵地」という棄民政策の受入れを強要された場でのことです。この痛恨の言葉を思い起こしていただきたい。

 第二次世界大戦で、「平和と人道に対する罪」という考え方が生まれたように、「人間と自然の尊厳を破壊する罪」という新たな概念をつくってでも、この前代未聞の罪を裁いていただきたい。

 そうでなければ、私たちは死者と共に、夜な夜な藁人形に針を打ち続けるしかないのです。

村田は、ときどき、涙ぐみながら、この申し立てを行った。他の申立人も同様であった。福島第一原発事故により、最も大きな被害を受けた人びとの声として、これらの申し立ては貴重であるといえよう。なにをさておいても、彼らの声に耳を傾けなくてはならない。なお、村田は『世界』別冊に手記をよせているので、村田の主張をより知りたい方はそちらを参照してほしい。

そして、村田の申し立ては、私たちの心を揺さぶる。民衆法廷で、菅元首相や東電などは、「人の健康に関わる公害犯罪の処罰に関する法律」や刑法の業務上過失致死傷で告発されている。これほどの人災について裁く根拠法が、これだけのものしかないのである。村田のいう通り、ニュルンベルク裁判のように、あらたな法概念を提示する必要があるのではないか。そして、それを現実の法律として立法化していくようなことも考えうるのではなかろうか。今、この申し立てを回想してみて、そのように思った。

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昨日(2012年1月16日)、NHKの「クローズアップ現代」において「子どもが語る大震災(1) 高校生が伝える福島」という番組を視聴した。まずは、内容についての紹介分を紹介しておこう。

東日本大震災で被災した状況を自ら記録し続けている高校生たちがいる。福島県立原町高校放送部の生徒たちだ。原町高校は福島第一原発から30キロ圏内の南相馬市にあり、震災直後から学校は閉鎖。5月に2か所の「サテライト校」に分かれ授業は再開したが、転校を余儀なくされた生徒も全校の半数に及ぶ。放送部の2年生7人は震災と原発事故に翻弄される自分や家族の姿を記録。ドキュメンタリー作品にまとめ、6月のNHK杯放送コンテストで発表した。今も、刻々と変化する暮らしや学校生活を記録し続けている。作品作りのために互いの本心をぶつけあい、困難を乗り越え、心の成長も見せる生徒たち。彼らの姿を通じて「見過ごされてきた等身大の被災地の姿」「子供たち自身が記録し伝える意味」を探る。
(中略)
出演者
江川 紹子さん(ジャーナリスト)
http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3141

この番組のサイトで、原町高校放送部ーつまり高校生が実際に撮影・編集された映像「原発30km圏内からの報告」と「原町高校紹介2011」が紹介されている。この二つの映像、特に前者は、NHKの番組よりも興味深いものだった。「原発30km圏内からの報告」は、NHK杯全国高校放送コンテストでテレビドキュメント部門制作奨励賞となったものである(http://www.haramachi-h.fks.ed.jp/bukatudo/bukatudo.htm)。NHKが、この映像を知ったのは、たぶん、この経緯からのであろう。
 

「原発30km圏内からの報告」は、このようなナレーションから開始されている。

5月9日、原発30km圏内にあるわが原町高校のサテライト校での授業が始まった。
http://www9.nhk.or.jp/gendai/material/img/movie/video_480.html?flv=Genpatu_kurogen_001.flv&autostart=1

このナレーションは男子生徒が行っているが、とにかく淡々として、感情を交えず、事実経過を伝えていくことに徹している。震災・原発報道で、よくセンセーショナルな口ぶりで伝える職業的アナウンサーがいたが、それとは正反対である。しかし、このような感情を押し殺したアナウンスは、逆に、事態の深刻さ、その底にうごめく恐怖を伝えているといえる。

そして、それから、映像は、3.11に遡って、原町高校にどのような運命がふりかかったのかを回想していく。ナレーションでは「東日本大震災2日目、日曜日から混乱が始まった。」と語り、20km圏内が強制避難地域になり、30km圏内が屋内退避という「どうしたらよいのかはっきりわからない地域」に指定されてしまったと述べる。

学校は閉鎖され、そのこと自体がテレビでしか発表されなかった。情報はテレビでしか入手できない状況になった。放送部員たちもばらばらになっていく。30km圏内の原町地区の農家出身の部員は、すぐもどってくるつもりで避難した。50kmは原発から離れている部員の生活には大きな変化はなかった。一方、まさに20km圏内の浪江町に住んでいた二人の部員については「最悪」だと語られている。そして、「おじいちゃんやお父さんなどの上の世代の人たちは、大丈夫だ、爆発なんかしないといっていたけれど、そんなことなかったね」と語る回想などが挿入されている。

結局、しばらく学校は閉鎖された。先生や生徒も学校にこれない状態になった。常に情報不足の状態であったようである。そして、5月に、ようやく、「30km」外の相馬高校と福島西高校にサテライト(仮校舎)を設置して、そこで授業を行うことになった。

それは、高校が二つに分断されたことを意味する。南相馬市などから避難しなかったり、また近隣に避難した高校生たちは、北隣の相馬高校(確か相双サテライトといったと思う)で授業を受けることになった。他方、原発20km圏内に住んでいて、福島などの福島県中通りに避難した高校生たちは、福島西サテライトで授業を受けることになった。特に、飯館村に住んでいる生徒は、計画的避難区域に編入されてしまったため、自身も避難することになってしまったのである。

「原発30km圏内からの報告」の終局部には、このような高校生の分断を前提にして、次のようなフレーズがある。

原発は私たちをばらばらにした。原発はなくなればいいと思った。でも

しかし、このナレーションで「でも」と発言した直後、この発言を覆い隠すように、原町高校の教師が、このように諭している。

東電に直接関連のない会社や個人経営の商店でも、東電関連の人たちがお買いものをするわけですから、東電と全く縁がないということはなかなか難しいかもしれませんね。

これは、たぶん、原町高校放送部が、「両論併記」という形ではあるが、原発問題に対する主張としてみることができる。これは、別に、原町高校の生徒だけの問題ではない。日本のいや世界の課題ということができる。

しかし、NHKの「クローズアップ現代」では、この部分をカットしている。この高校生の映像を紹介したNHKの努力は了とする。NHKがなければ、この高校生たちの映像に接することはできなかった。しかし、このことは黙視しがたい。情報隠蔽である。高校生たちに、「自分の意見は公共番組では伝えるべきものではない」と教え諭しているようなものではなかろうか。

もちろん、「クローズアップ現代」自身の取材を総否定するつもりはない。10月になり、相双サテライトから原町高校に生徒たちが移り、他方で福島西サテライトは今年度限りで廃止することなった。「クローズアップ現代」では、互いの状況がかわり、今後の身の振り方に迷う高校生たちの葛藤を繊細に描いている。そして、「スタッフの部屋」というブログでは、このように語られている。

プレビュー(試写)をのぞいてきました。

取材VTRは高校生の日常のリアルが伝わってくるものでした。
もちろん、原町高校を離れてサテライト校での授業をうけることになってしまう生徒や、
学校を離れていく生徒、
今後の不安など、厳しい状況はいくつも出てきます。
ただ、それでも、高校生らしさを失わないというか、
VTRを見ながら、
自分の高校時代を思い出してしまうような感じもいくつも出てきます。

先にご紹介した原町高校のホームページには、
校内の放射線の線量まで記載されています。
生徒はきっと、不安も心配もいろいろとあって、
「震災さえなければ…、原発事故さえなければ…」という思いは本当に強いと思います。
それでも、原町高校放送部のメンバーは今後も”みずから記録”することを続けていくそうです。
わたしたちマスコミによる”記録”では決して見えない、
“リアルな部分”に、すこしホッとするというか、
がんばってほしいと感じたプレビューでした。
http://www.nhk.or.jp/gendai-blog/100/106364.html

つまりは、「震災さえなければ…、原発事故さえなければ…」(なお、この発言は、原町高校放送部の顧問の教師によるもの)という気持ちを全くわかっていなかったわけではないのである。しかしながら、NHKは、放送では、「原発はなくなればいい」という発言をカットし「高校生の人間ドラマ」という面を強調したのである。

インターネットにて、この放送をみた人たちの声を検索してみた。評価する人たちがいる一方、「高校生たちは放射線問題にふれていない」と批判する人もいた。ただ、これは、高校生たちのせいではない。NHKの責任であることを、ここでは主張しておこう。

それにしても、こんな番組まで、歴史学の王道である「史料批判」をしないとはみられないということに、正直驚いている。メディアの「透明性」とは、今はないらしい。もちろん、こんな番組が作成され、そのソースまで公開されているのであるから、NHKでも良心的な人びとはいるのだろう。しかし、高校生の、今や当たり前の主張ーしかも両論併記という形で彼ら自身が公平性を担保しようとしているーまで封殺することが当たり前と思っている人たちが、NHKの主流なのであろう。

こういう、高校生たちの取り組みに感心したことを、このブログでは伝えたかった。今もその思いは強くある。しかし、情報操作・情報隠蔽は、こんな番組までおよび、史料批判をしないと感動もできない状態になっていることに、私の心は沈んでいる。

*なお、原町高校放送部の映像はNHKの「クローズアップ現代」のサイトからみることができる。他方、NHKが製作した「子どもが語る大震災(1) 高校生が伝える福島」という番組は、NHKオンデマンドで視聴が可能である。有料だが105円なので、できたら、両方の映像比較してみてほしい。

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東日本大震災においては、津波に襲われた各地の被害状況をリアルタイムに記録した動画が数多く残されており、youtubeなどの動画サイトにアップされていいる。本ブログでも、津波被災の状況を示すものとしていくつか引用している。

しかし、このように、リアルタイムの動画が数多く残され、社会に流通するということは、非常に新しいことである。

まず、考えてほしい。基本的に、何か事件が起きているとき、それにまきこまれている当事者は、記録機材ーそれこそカメラ程度でもー持ち歩いていないのが普通である。基本的に、動画ないし写真などは、今までは、メディア関係者が事件の行われている場に赴き、そこで撮影され、テレビ・新聞・雑誌などのメディアを通じて発信され、最終的には記録されるというものであったといえる。その意味で、短時間で終わってしまう津波などの「現場」がリアルタイムで撮影されることは、たまたま、撮影機材をもったメディア関係者もしくは学術関係者がその「現場」にいたという「偶然」がなければ、ありえないことであったといえる。

東日本大震災の起きた今日、あまりにも一般的になっているのでほとんど指摘されていないのだが、このような状況は大きく変わったといえる。現在、多くの人が携帯電話を持ち歩いている。日雇派遣の際、求人のためのアイテムとなっているなど、たぶん、携帯電話は人びとの生活において必須なものになっているといえる。この携帯電話は、単に電話機能だけでなく、写真・動画撮影のカメラ機能をもつものが普通である。そして、メール機能やインターネット接続機能がついている。つまり、携帯電話をもつということは、出来事を撮影するカメラをもつということであり、さらに、撮影した動画・写真などをインターネットを通じて発信できるということなのである。

通常は、このような機能は、比較的他愛のないことに使われている。例えば、「今日、どこに行った」とか「夕食でステーキを食べた」とかなど、それぞれの個人が体験したことを伝え合っているにすぎない。しかし、日常時でも、「当事者が経験しつつあることを当事者自身の視点で記録し発信する」ということが行われている。

東日本大震災において、多くの動画が残されているのだが、大部分は携帯電話によるものではないかと推察している。もちろん、なにがしかデジタルカメラ・デジタルビデオによるものもあると思うが、津波より避難している人びとの多くが、わざわざデジタルカメラ・デジタルビデオなどを持参しているとは思えない。多くは携帯電話で撮影されたものであろう。津波をリアルタイムに記録している動画をみると大抵は避難している当事者たちによって撮影されたものである。事件を体験している当事者自身が、当事者の視点でリアルタイムで動画・写真を記録したということは、類を見ないことである。

携帯電話で撮影された動画・写真は、メールによって転送されることができ、youtubeなどの動画サイトに投稿できる。すべての動画を直後にアップしたとは限らないが、それこそ、リアルタイムに出来事を伝える速報性を、携帯電話で撮影された動画・写真は可能性としては有しているといえる。当事者自身が体験ししている出来事を、当事者自身の視点で、情報伝達するーこれは、例えば速報性を有するとされていたテレビもできなかったことである。

その例として、たまたまyoutubeで発見した動画をみておこう。南相馬市における津波被災を写したこの動画は、2011年3月11日、たぶんFNN(フジテレビ)のニュースで流されたものである。テレビで流しているのだが、テレビ局や通信社で撮影した動画ではない。福島テレビを介して「視聴者」から提供されたものである。この「視聴者」とはだれか。この動画の後の方の電話インタビューでわかるのだが、南相馬市に襲来した津波から避難した「当事者」なのである。

テレビ局もしくは通信社が「当事者」たちを撮影し、それをマスメディアとして情報発信しているのではない。当事者自身が当事者の体験しつつある「出来事」を記録し、情報発信しているのである。そして、テレビ局は、そのような「当事者」たちに依拠して、ようやく「速報性」を確保しているのである。

このことをせんじつめていくと、かなり大きな変化が起こっているということができる。メディアは、出来事の「当事者」たちを「客体」として記録・撮影し、そして、「主体」として情報発信していた。しかし、東日本大震災では、当事者たちが記録し、情報発信している。それに依拠しなければ、メディアは情報発信できないのである。その意味で、メディアと「当事者」たちの間の位相が大きく転換しているといえるだろう。

そして、メディアを介さず、「当事者」たちがyoutubeなどのサイトに投稿することも多い。実は、資料的には、ネット掲載の動画のほうが、価値が高いといえる。テレビ局などで流されている動画は、結局のところステロタイプな「津波像」を表現するように編集されることが多く、津波のすごさは強調されるが、一体全体、どういうところで具体的にはどのような状況で津波がきたのかがわからなくなっていることが多い。早い話、石巻でも気仙沼でも、似たような動画が流されている。しかし、ネット掲載の動画は、それぞれの当事者にいた場に即して記録されており、具体的な状況がわかるのである。

そのような意味で、東日本大震災で、多くの津波の動画が残されたということは、多いというばかりではなく、携帯電話とネットを介して、当事者とメディアの関係が変わったことを意味しているのである。それは、もちろん、東日本大震災だけに限られない。つい最近、リビアのカダフィ大佐を殺害した動画が流された。わざわざ戦闘現場にカメラ(従軍記者は別だが)をもってくるものがいるとは思えない。もちろん、断定はできないが、携帯電話での撮影ではなかろうか。いずれにしても、あの動画は、プロのカメラマンが撮影したものとは思われない。「当事者」が自ら体験していることを記録して情報発信し、それに依拠してメディアが報道するという時代が到来したということができよう。

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福島第一原発事故が地域社会に与える影響は、どのような重さをもって受け止められているのか。福島第一原発事故の影響は、一時的なものと認識されているのか。それとも、かなり永続的なものなのか。現在、福島第一原発事故のために、根こぎにされた地域社会は、近い将来再建できるのか。それとも、かなり長い間、立ち入ることすら難しいのか。福島第一原発事故の地元住民を含め、このように、二様にわかれているのが現況であるといえる。

例えば、2011年9月5日付の朝日新聞朝刊の投書欄には、次のような記事が記載されている。

帰れるという期待抱かせるな

無職 石井優
(山梨県甲斐市 64)
 福島県富岡町にある自宅は警戒区域とされ、自宅に立ち入ることができない。先月菅直人首相(当時)が福島県に出向き、警戒区域は長期間帰宅困難に、また汚染物質の中間貯蔵施設を県内に造りたいと佐藤雄平知事らに告げた。
 2千坪の私の敷地には畑、果樹園、山林、深井戸があり、草は背丈まで伸び、もはや汚染どころではなかろう。
 そこで提案したい。一つは、警戒区域では地主の希望を聞いて、土地家屋の買い取りか借り上げを進める。二つは、福島第一原発の周辺に汚染物質を貯蔵することだ。
 私もこんなことを認めたくない。千葉県で教員生活を送り、定年退職し3年前に引っ越してきた。町への愛着心も強い。でも、もうだめだ。ことここに及んで、国が「帰れる」という期待を抱かせることがごまかしのような気がしてきたのだ。
 汚染物質も他の県で受け入れてくれるところはすぐ見つからないだろう。私は、原発に反対の立場だが、原発の作業員の安全を確保しながら近隣で貯蔵し、最終処分先を見つけるしかないと思う。

この投書者は、警戒区域にある富岡町から、かなり離れた山梨県甲斐市に避難していると思われる。現在のところ、有効な除染は難しく、さらに汚染物質の受け入れ先もないとして、現時点で警戒区域内への帰郷を断念し、警戒区域内の土地・家屋の買い上げ、借り上げをすすめ、福島第一原発の周辺に汚染物質の貯蔵所を設けることを提案していることが、この投書の趣旨である。この発言は、8月27日、菅首相が福島で表明した「一部地域『長期間戻れない』」「汚染土壌『県内に中間貯蔵』」(2011年8月28日付朝日新聞朝刊)という方針におおむねそったものといえよう。その際、投書者は「ことここに及んで、国が「帰れる」という期待を抱かせることがごまかしのような気がしてきたのだ」と述べている。

この投書に反論する投書が、くしくも3月11日からちょうど半年後の、2011年9月11日付朝日新聞朝刊の投書欄に掲載された。

「もうだめだ」とは思わない

無職 村田弘
(横浜市旭区 68)
 国は警戒区域に帰れるという期待を抱かせるな、という投書(5日)を読み、悔し涙がこぼれました。被災者にここまで言わせるのかと。
 投書者は福島県富岡町から避難、草に覆われた自宅を見て「もうだめだ」と思ったそうです。そして①国による土地家屋の買い上げか借り上げ②福島第一原発周辺での汚染物質貯蔵を提案しています。
 私も定年退職後、原発から16キロの同県南相馬市小高区に移り、「百姓見習い」をして8年になります。6月末避難先から一時帰宅した時、胸までの雑草に覆われ、鳥の鳴き声の絶えた農園を前に立ちすくみました。でも、私は「もうだめだ」とは思いません。
 二つの提案には断じて同調できません。菅政権の最後に発表された「年間推計積算放射線量」「土壌汚染地図」や、菅直人前首相の「長期帰宅困難」発言には「棄民政策」のにおいを感じます。
 怖い数字を並べて絶望感を誘うのではなく、きめの細かな汚染調査と科学技術の粋を結集した除染、納得のいく汚染物質処理計画を立てることが先でしょう。警戒区域約7万8千人の大半が帰郷を諦め、美しい故郷を「核のごみ捨て場」にすることを許すとはとても思えません。

この投書は、菅首相の打ち出した方針に反発しつつ、徹底的な除染と、汚染物質の県外移転を主張し、なるべく早期に「帰郷」させることを求めたものである。菅首相の方針に反発した福島県知事他各自治体の首長たちの発言と同様なものといえよう。

除染すれば、福島第一原発周辺の住民は帰郷できるのか。いや、除染すら難しいのか。そして、除染しても、その結果生じる汚染した土壌、瓦礫、植物などは、どこに捨てるのか。県外か、福島第一原発周辺に留め置くのか。

この二つの投書で示したように、地元住民も二つに分かれているといえよう。そして、その先には、重い問いがある。現時点では、福島第一原発周辺における地域社会の再建は諦めるべきか。いや、むしろ、除染などを徹底して、少しでも早期に「帰郷」できるように努力すべきなのか。そもそも、そのような「努力」すら可能なのか。逆に「努力」もしないで「希望」を放棄してよいのだろうか。

この時、ちょうど、福島第一原発周辺の自治体を「死のまち」と発言したことを契機にした、鉢呂吉雄経済産業大臣の辞任劇(9月10日辞任)が永田町で演じられていた。この辞任劇の背景には、このような福島第一原発事故の今後の影響をめぐる、見解の対立があったといえよう。

付記:パソコン修理中のため、多少更新が遅れることがあることをここで記しておきたい。

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