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Posts Tagged ‘北栄造’

さて、1960年末に関西研究用原子炉が大阪府熊取町に建設されることが決まり、福井県の誘致活動は挫折したのだが、その1年以上後の1962年2月27日、福井県知事北栄造は福井県の2月議会(当初予算案が審議される)の所信表明演説のなかで、次のように述べた。

(前略)現況を見ますと、まず各位並びに県内外有識者の御協力のもとに策定されました県総合開発計画もいよいよ第二年度目を迎え、活気と躍動に満ちた県政諸般の総合施策も逐次軌道にのり、着々その成果を収めつつあります。
 たとえば置県以来の大事業たる奥越電源開発は、電発、北電の共同開発計画も決定し、着々その緒につきつつあるのでありますが、さらに本県の大動脈たる北陸線の複線電化、国道八号線を初め主要道路、港湾の整備充実、観光事業の一大躍進、大小工場特に呉羽紡績工場の誘致、さらには将来の県勢のきめ手となる原子力第二発電所誘致にも明るい見通しにある等、本県勢一大躍進の態勢は飛躍的に整備されつつあるのであります(後略)。
(『第百四回定例福井県議会会議録』p12)

つまり、ここで、北栄造は「原子力第二発電所誘致にも明るい見通しにある」ともらしたのである。

この「明るい見通し」について、具体的な内容が明らかになったのは、3月2日であった。この日、西山光治県議は自由民主党を代表して質問し、最後に次のように問いかけた。

(前略)最後に原子力発電所誘致についてでありますが、知事は予算案の説明にあたり、原子力第二発電所誘致にも明るい見通しがあると述べておられますが、単なる希望的観測であるか、具体的な見通しのもとに立って説明されたのか存じませんが、原子力発電所が実現いたしますとすれば、本県政躍進の一大拠点となると申しても、あえて過言ではないと信ずる次第でありますが、これに対し現在いかなる段階にあるか、将来の見通し等についても、あわせて具体的にお伺いいたします。
(『第百四回定例福井県議会会議録』p38)

西山の質問に対して、北は次のように答弁し、その段階における原発誘致の状況を説明した。

 

最後に原子力の問題でございますが、実は本日午前十一時半に新聞記者に発表いたしたのでございますが、それの要旨は、地元の御熱意、川西町の御熱意に応えまして、県といたしましては予算の関係、その他がございまして急速に行きませんので、これまた開発公社において五十万坪の土地を確保して、そしてボーリングを始める。これは三日か四日に向こうから人が来ていただきまして、どの土地を五十万坪ほしいか簡単に申しますと、そこをボーリングを五、六ヵ所いたす手はずになっておるということを実は発表いたしたのでございます。私の率直な考えを申しますと、それほどにまず有望ではあるまいか、それは地元なり県なりが、それだけの熱意を示して資料を持っていきますならば、会社が動いてくれまいか、政府が動いてくれまいかということでございます。三木長官にも、この前議長さんと、電発の委員長さんと三人で参りまして、いろいろと懇請を申し上げました。福井を最も有望な候補地にしょうという言明もいただいておるのでございます。現在がそういうことで、これは一ヵ月か一ヵ月半ぐらいボーリングにかかると思いますが、単なる誘致運動だけでは、これはできませんので、気象の条件、地質の条件、これらも会社ですでに調査済みであるように考えられます。そのボーリングをいたしまして、中の地盤がどうであるかということがわかりますれば、私おのずから、全国の一番かどうか知りませんが、一、二、三番目ぐらいの中には入る、そうして皆さんの御協力なり国会議員の御協力をいただいて、そして政治的にも動いていきますならば、ここにきまること、まあ困難のうちにも非常に明るい見通しも持っております。これは最初二十五万キロか三十万キロの発電をいたすようでございますが、五十万坪と申しますと、またまたこれを三つか四つやるぐらいの余裕が残っておるはずでございます。もしもきまりますれば、東海村の二倍の計画を第一次に行なうらしいのでございますが、何といたしましても地盤がわかりませんし、私も自信をもって交渉ができないのでございますので、自信を持ってできますように、早急に、よその県でまだ手の打たない先にさようにいたしたいのでございます。こうしたことは、原子力会社にも意思は伝えておるのでございまして、確かきょう午後二時に会社の方面におきましても、私が申し上げた程度の発表を中央で行なっておるように打ち合わせ済みでございます。そうした私は明るい見通しにあると思うのでございまして、議会の特別の御協力を賜わりたいことをお願い申し上げる次第でございます。
(『第百四回定例福井県議会会議録』pp51−52)

要するに、福井県の嶺北地方にある坂井郡川西町(現福井市)において、福井県開発公社が50万坪(約165万㎡)の予定地を確保し、日本原子力発電株式会社が東海村の次に建設する原発の候補地としてボーリング調査を開始することになり、当日記者発表したというのである。この北の発言で「地元の御熱意」「川西町の御熱意」を強調していることに注目しておきたい。そもそも原発敷地の適不適は原発事業者しかわからないものである。このブログでも述べているように、1960年、すでに北知事は北陸電力が坂井郡における原発建設を打診していることをもらしている。また、この地は同年の関西研究用原子炉建設の候補地であった。たぶんに、北電や日本原電などの原発事業者にとって、坂井郡川西町は原発候補地としてすでにリストアップされていたことであろう。川西町などが原電などと無関係に自主的な形で原発候補地として名乗りをあげることなどできようはずもない。

それなのに、なぜ、北知事は「地元の熱意」を強調するのだろうか。北は「地元なり県なりが、それだけの熱意を示して資料を持っていきますならば、会社が動いてくれまいか、政府が動いてくれまいか」と語り、自身と県議会議長さらに電源開発特別委員長の3人で所轄の三木武夫科学技術庁長官に陳情して「福井を最も有望な候補地」とする言質をとったことを紹介している。中央の会社や国を動かすには「地元の熱意」が必要という論理がそこにはある。この後、福井県議会をはじめ誘致自治体の議会では「原発誘致決議」がなされるが、それは「地元の熱意」を示すものなのである。すでに、関西各地で行なわれた関西研究用原子炉反対運動をみるように、「原子力」は一方において「忌避」されるものでもあったのだが、関西各地で忌避されていた「原発」を「地元の熱意」ーつまり主体性をもって迎えなくてはならないとされたのである。

そして、裏面においては、他県との競争意識が存在している。北は「早急に、よその県でまだ手の打たない先にさようにいたしたいのでございます」と語り、他県より先んじることを重要視しているのである。

このように、「政治的」な駆け引きがみられた反面、原発自体については、その危険性も含めて十分理解しているとはいえない。北は「これは最初二十五万キロか三十万キロの発電をいたすようでございますが、五十万坪と申しますと、またまたこれを三つか四つやるぐらいの余裕が残っておるはずでございます」と言っている。そもそも、原子炉の場合、爆発その他を予想して立ち入り制限区域を原子炉の出力に応じて広くとる必要があり、それが原発の敷地面積なのである。50万坪というのは出力1万キロワットという研究用原子炉が建設されることになっていた東海村の日本原子力研究所の予定敷地面積と同じである。この50万坪という敷地面積自体、アメリカの基準の約20%という過小なものであった。1万キロワットの原子炉でも過小な50万坪という面積しかない敷地に、その20〜30倍の出力の原子炉を建設し、さらに同じ敷地に複数の原子炉を建て増しするということを北栄造は希望しているのである。政治的な「駆け引き」ではそれなりに知恵を働かしているといえるのだが、原子力それ自体が何であるか、そこには知恵を働かせようとはしていないのである。

このように、1962年2月の福井県議会で、原発誘致方針が公表された。しかし、福井県の場合、福島県と比較すると、第一候補地にさしたる反対もなくすんなりと原発が建設されたわけではない。今後、その過程をみていこう。

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本ブログでは、前回、1957年の福井県原子力懇談会の発足についてふれた。その2年後の1959年の統一地方選で、羽根盛一にかわって北栄造が福井県知事に就任した。さらにその1年後の1960年3月9日の福井県議会で、自由民主党所属福井県議会議員松田守一は、福井県原子力懇談会について、次のように発言した。

次は第二点として原子核エネルギーの問題でございます。原子力は平和産業にのみ利用されるべきは世界的世論であり、また当然落ち着くべき姿であらねばならんと考えるものであります。(「その通り」と呼ぶ者あり)。コバルト60は臨床医学にまた繊維産業工業にと利用され、アイソトープはまた農業において非常に幅広く利用されまして、その効用は増大し、範囲は研究とともに拡大して産業に一大変革をもたらさんとしつつあり、原子力研究の立ちおくれは産業界における敗北を暗示するものであるといってもあえて言い過ぎではないと思うのでございます。わが国におきましても各府県は競ってアイソトープ実験室の設置に着手しているそうでございまして、わずかに静岡県と本県のみが未着手でございますが、静岡県ではすでにその動きがあり、ひとり本県のみが取り残されておるというように思うものでございます。本県におきましては御承知のように昭和三十二年四月に原子力懇談会なるものが羽根知事を会長として発足したのでございますが、その規約において、目的及び事業として「本会は福井県下における原子核エネルギーの利用に関する県民の知識を向上せしめ、かつその利用の促進をはかることを目的とする」とうたい、事業として六項目を掲げておりますが、その構成会員は主として民間会社であり、あるいは民間人であり、その予算たるや三十数万に過ぎないのでございまして、県費は内わずかに年頭五万円を支出しているありさまで、発足以来すでに三カ年を経過しているにもかかわらず、わずかな専門書を抱えておるのみで、いまだ見るべき何らの具体策もなく、年々いたずらに貴重なる歳費を空費している現状ではなかろうかと思われるのでございます。富山県では二千万円の予算をもって農業試験場長を管理人として昭和三十三年八月にアイソトープ照射室と実験室が完成しているのでございます。本県においてはこれが取り扱いの国家試験の資格者が一人もおらず、また一人の原子核に対する専門学者もおらないという哀れな現状でございます。知事は原子力懇談会なるものが羽根知事の遺産として気が進まなかったのか、あるいは御就任以来寧日なく、そのいとまなくして今日に至ったかはあえて問わんとするところではございませんが、原子力研究に対する世界的趨勢にいつまでも目を覆っておるということを許されない現状であるということはすでに今日御認識のことと思うのでございます。知事は本県における原子力研究の展開をどう計画しておられるかお聞かせ願いたいのでございます。
 次にこれは私の一私見でございますが、窮迫せる県財政の現状において知事がもし大がかりな計画は困難であるとお考えになりますならば、京都大学の原子核研究所を福井県に誘致されるのも適切な方法の一つではなかろうかと思うのでございます。御承知のように京都大学は最初四条畷に研究所の建設を計画したようでございますが、人家の密集地帯でもあり、反対されて宙に迷っておるようでございます。本県において調査すれば適地があるのではなかろうかと思われるのでございます。福井大学に今年度より応用物理学科が新設されるそうでまことに御同慶にたえないところでございますが、科学万能の時代に即応すべく福井大学を総合大学たらせるべく強力に働きかける必要があろうかと思うのでございます。この運動と京都大学の研究室とを抱き合わせて、もし実現をみますならば国費でもって研究所が本県にでき上がり、福井大学生も研究に参加することができまして、将来福井県下に多数の専門技術者の確保が約束され、原子力事業の成果は期して待つべきものがあろうかと考えられるのでございます。御参考までに愚見を申し上げたわけでございますが、これに対する知事の率直なる御批判を承りたいのでございます。(『第93回福井県議会会議録』p218−220)

松田はまず原子力は「平和産業」のみにに利用されるべきことは世界的世論であるとした上で、コバルト60などの放射性アイソトープの臨床医学、繊維産業工学、農業への利用についてふれ、「産業に一大変革をもたらさんとしつつあり、原子力研究の立ちおくれは産業界における敗北を暗示する」と述べている。そして、富山県などの他県ではアイソトープ実験室が建設されているが、福井県では福井県原子力懇談会が設置されているものの、具体的な事業は始まっていないとしている。羽根知事の遺産として忌避しているのではないかと懸念を示しつつ、松田は「原子力研究に対する世界的趨勢にいつまでも目を覆っておるということを許されない現状であるということはすでに今日御認識のことと思うのでございます。知事は本県における原子力研究の展開をどう計画しておられるかお聞かせ願いたいのでございます」と北栄造知事に問いかけた。

さらに松田は、より具体的に京都大学の「原子核研究所」を福井県に誘致することを提案した。この京都大学の「原子核研究所」とは、より一般的には「関西研究用原子炉」として知られているもので、東海村の日本原子力研究所に次いで1956年に原子力委員会が設置を決めたものである。ただ、この関西研究用原子炉については、京都府宇治市・大阪府高槻市・大阪府交野町・大阪府四條畷町と候補地があがるたびに反対運動にさらされ、誘致が頓挫していた。松田は、それを福井県にもってこようとしているのである。彼によれば、京都大学の「原子核研究所」を福井県に誘致できれば、福井大学の応用物理学科も共同利用でき、福井大学の総合大学としての発展もみこめるとしているのである。

このような松田の質問に対して、北栄造知事は次のように答弁している。

原子核、いわゆる新エネルギーの問題でございます。原子力懇談会は私来まして二回ほど開催いたしたのでございますが、仰せのように中央より学者等も来ていただいておりませんし、ここにそういう権威者もおられませんので、暗中模索の状態でございますので、これにつきまして、私見として京大の原子核研究所を持ってきたらどうか、また原子力関係をもう少し他県のように何か考えておるかというようなことをいろいろお話がございましたが、北電が坂井郡地方、それから関西配電が今のところ若狭でございますが、まだこれはいろいろ話を聞いとる程度でございます。十分な折衝はいたしておりませんけれども、原子力発電所というような構想を考え調査中でございまして、これはまあ私もこの発電所がどういうことになるかわかりませんけれども、これら関西なりと連絡いたしまして、こうした進んだエネルギーのいわゆる調査と申しますか、一つの土台になりまするような施設を持って参りたい。今申し上げますように、これに対する地元がどういう要望、反対がありますかどうかわかりません。もう少し検討いたしまして今仰せられるようにもう少し勉強いたさなきゃならんと考えておる次第でございますが、いろいろこういう点につきまして御指導をいただきたい、かように考えておる次第でございます。
 福井大学を総合大学にする、応用物理学科ができますので、これは非常に現在の学長も相当な権威者でございます。いろいろ総合大学にするための、農業科でございますか、こういうこともいろいろ議題にはのぼっておったのでございますが、将来国の財源もこの大学に来ることになりますれば、県といたしましても大学を一層総合的規模にしなければならんあ、かように思っておる次第でございます。(『第93回福井県議会会議録』p225)

この答弁は興味深い。北栄造は、原子力発電所の建設計画の打診があったことをもらしている。具体的には、北陸電力の坂井地方への原発建設計画と、関西電力の若狭地方への原発建設計画があるとしているのである。しかしながら、北知事は、この段階では慎重で「これに対する地元がどういう要望、反対がありますかどうかわかりません」としており、もう少し検討しなくてはならないとしているのである。そして、関西研究用原子炉誘致については、松田の意見としてうかがっておくという姿勢をこの答弁ではとっている。

この議論が示すように、1960年3月9日の時点で、福井県においては、一方でアイソトープ実験室の設置など自前で原子力研究開発を行おうという意欲もありながらも、外部の原子力施設を誘致しようという気運が高まっていたのである。その場合、この時点では、二つの対象があった。その一つは、松田守一が提起した、関西研究用原子炉であった。しかし、すでに、北知事のところには、電力会社側から原発建設計画が打診されていたのである。

1960年3月の時点で、まず行われたのは、関西研究用原子炉の誘致活動であった。このブログで以前論じたが、福井県原子力懇談会は3月15日に関西研究用原子炉誘致に乗り出すことを決定した。そして、その候補となったのが、若狭地方の上中町と坂井地方の川西町であった。たぶん、すでに、北栄造知事のもとで検討されていた原発建設計画の候補地が、関西研究用原子炉建設の候補地となったのであろう。その意味で、1960年の原子力施設誘致運動の開始は、その後の原発誘致に直結していたといえよう。

*なお、その後の関西研究用原子炉の誘致活動自体は、本ブログの下記の記事を参考にしてほしい。

https://tokyopastpresent.wordpress.com/2012/10/21/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E7%9C%8C%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E9%96%A2%E8%A5%BF%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%94%A8%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%82%89%E8%AA%98%E8%87%B4%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%83%BC%E9%96%A2%E8%A5%BF%E9%9B%BB/

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さて、福井県の原発立地地域の現状は随時ふれていくとして、本ブログでは、福井県の原子力開発のはじまりから検討していくことにしたい。

周知のように、戦後日本における原子力開発開始の契機となったのは、1954年3月に中曽根康弘らの改進党所属の代議士たちが提起した、原子力研究開発費を修正予算案に盛り込んだことであった。翌1955年には原子力基本法や濃縮ウラン提供などを定めた日米原子力協定が定められ、さらに1956年には茨城県東海村に日本原子力研究所が設置され、日本初の研究用原子炉が建設されることが決まった。

福井県で、原子力開発の端緒となったのは、1957年4月17日の福井県原子力懇談会の発足であった。福井新聞朝刊1957年4月18日付の下記の記事をみてほしい。

県原子力懇談会発足 全国では五番目 会長羽根氏 副会長酒井、重松氏

本年一月から設立準備を進めていた原子力懇話会は十七日午後一時半から福井市農業会館で創立総会を開き発足した。同懇談会は全国五番目に発足したもので、しかも一府県が単独で原子力懇談会を結成したのは本県がはじめて。

同創立総会には羽根(盛一)知事をはじめ、今沢(東)県会議長、滝波(清)福染興業社長、前田(栄雄)福井経済同友会代表幹事、藤井(善男)県経済調査協会理事長ら発起人および奥村(伊三郎)酒伊繊維原子力研究会事務局長ら懇談会設立準備委員、県内主要会社や病院、各試験場、県会議員ら約五十名が出席。藤田県経済部長を仮議長に選んで大瀬県衛生研究所長が経過報告を行い規約審議を行ったあと、会長に羽根知事、副会長に酒井正二(酒伊繊維社長)重松倉彦(福井大学長)両氏を満場一致で選任。このあと事業計画と予算案(総額五〇万円)審議し原案通り可決し、羽根会長から幹事、顧問、参与など四十四名を委嘱して午後二時半閉会した。

閉会後本邦初公開のイギリス原子力映画「コールダーホールの原子炉」と「原子力の業績」およびU・S・I提供の映画「原子力の恵み」を観賞して散会した。

会長に就任した羽根知事は「原子力の平和利用問題は今後の産業発展のため大いに研究しなくてはならない。とくに本県にあっては繊維産業、農業、土木、水産、医学などを発展させるため懇談会を通じ県民の知識向上に努力し受入態勢を確立したい」と語った。

なお事業計画の内容は①原子力平和利用に関する県民の啓発指導=講演会、映写会、座談会などを開催する、②原子力平和利用に関する情報集めとその通知=中央における原子力関係会議などには代表を派遣して利用の現状と将来に関する情報を常につかみ、また会員には情報その他の資料を配付する、③原子力ライブラリーの設置=県立図書館に原子力関係図書、資料のライブラリーを設置し、これの集中管理と県民の利用をはかる、④原子力平和利用に関する研究会の開催=県下各業種別にグループを作り研究を活発するとともに連絡情報の機関とする。

以上のようになっている。
(後略)
(福井新聞朝刊1957年4月18日、なお一部の人名を補った)

福井新聞の報道によると、一府県で原子力懇談会を結成したのは初めてということである。前述したように、ようやく前年の1956年に日本原子力研究所の建設がはじまったくらいであり、福井県としてはかなり早期から原子力研究開発に期待をもっていたことがわかる。そして、肩書きからみる限り、当時の福井県の政・官・財・学界の人びとが多数参加しているのである。

ただ、この記事を読んでいても、「繊維産業、農業、土木、水産、医学などを発展させる」とはされているが、原子力発電などエネルギー源としての原子力には言及されていないことに注意されたい。はっきりとはわからないがアイソトープが出す放射線の利用などを想定していたように思われるのである。特に、当時の福井県の基幹産業であった繊維業への利用が第一にあげられている。たぶん、原子力利用としては、原発のような外在的なものではなく、自らが担ってきている繊維業・農業などの地域産業の内在的発展に寄与するものとしてイメージされているといえよう。

そしてまた、この原子力懇談会の活動が、原子力利用の啓蒙・宣伝、原子力関係情報・資料の収集・管理、原子力利用研究会の開催などに限られていたことも注目しなくてはならない。この記事を読んでいても、コールダー・ホール原子炉などを扱った原子力の宣伝映画をみているのである。いまだ、原子力施設の誘致などの政治的な活動は想定されていなかったといえよう。

この福井県原子力懇話会は、1959年に県知事が羽根盛一から北栄造に交代して、一時活動が衰退したといわれている。だが、1960年に、北栄造知事のもとで関西研究用原子炉誘致活動に乗り出していくことになる。

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1960年代、福島原発建設と同時期に、福井においても原発建設が進められていた。福井が公式に原発建設の候補地となったのは1962年で、初めは福井県嶺北地方の坂井郡川西町(現福井市)の三里浜地区が候補になったが、岩盤が脆弱なために放棄され、嶺南地方の敦賀半島に所在する、敦賀市浦底地区と美浜町丹生地区が原発建設の候補地となった。結局、前者に日本原子力発電株式会社敦賀発電所、後者に関西電力美浜発電所が建設され、双方とも1号機は1970年に営業運転が開始されている。この二つの原発は、福井県への原発集中立地のさきがけとなり、敦賀原発自体が二つ、美浜原発自体が三つの原子炉を有するとともに、近接して実験炉のふげん(廃炉作業中)、もんじゅが建設されることになった。さらに、若狭地方には、それぞれ四つの原子炉を有する高浜原発と大飯原発が建設され、福島を凌駕する日本最多の原発集中立地がなされることになった。

福井の場合、福島と違って、1960年代初めから、原発建設に対する懸念が強かった。福井県の労働組合やそれを基盤とする社会党・共産党の県議・市議たちは、原子力の平和利用ということは認めつつ、具体的な原発建設についてはさまざまな懸念の声をあげていた。また、地元においても、美浜町丹生などでは比較的反対する声が強かった。

他方、思いもかけない方面で懸念の声があがっていた。懸念の意を表明したのは、昭和天皇である。このことを報道した福井新聞朝刊1966年10月14日付の記事をここであげておこう。

原電、西谷災害など 北知事、陛下にご説明

町村北海道知事ら十二道府県知事は、十三日午前十時半から、皇居で天皇陛下に各県の情勢などを説明した。これは数年前から恒例の行事になっているもので、陛下を中心に丸く輪になってすわった各知事が、五分間ずつ各地の現状と最近のおおきなできごとを話した。陛下は北海道、東北地方などの冷害や台風被害などにつき質問されていた。
正午からは陛下とともに仮宮殿の別室で昼食をとった。
北知事の話 電源開発と昨年秋の集中豪雨禍で離村する西谷村の現状について申しあげた。電源開発計画は、九頭竜川上流に四十三年六月を目標に三十二万二千キロの水力発電が完成するほか、原子力発電は現在敦賀半島で六十七万キロの開発が進んでおり、このほかの計画も合わせると数年後には百二十万キロ以上の発電能力を持つ全国屈指の電力供給県になるとご説明した。陛下からは非常によい計画だが、これによって地盤変動などの心配はないかとのご質問があったが、じゅうぶん考慮しており大じょうぶですとお答えした。
また昨年九月の集中豪雨で大きな被害を出した西谷村について、防災ダム建設などもあって全村離村する計画をお話ししたが、これについてはご下問はなかったが、ご心配の様子がうかがえた。
(福井新聞朝刊1966年10月14日付)

「北知事」とされているのは、原発誘致を積極的にすすめた当時の北栄造福井県知事のことである。かいつまんでいうと、北知事は、当時の福井県で進められていた水力発電所と原発建設を中心とする電源開発について説明したのだが、その際、昭和天皇から「非常によい計画だが、これによって地盤変動などの心配はないか」と質問され、北知事は「じゅうぶん考慮しており大じょうぶです」と答えたということなのである。

ここで、昭和天皇は、福井県の電源開発について「地盤変動などの心配はないか」と懸念を表明している。あげられている文章からでは、水力発電を含めた電源開発全体についてなのか、原発に特化したものなのか判然としないのだが、「地盤変動」をあげていることから原発のことなのだろうと推測できる。

このように考えてみると、原発開発の創設期である1960年代において、昭和天皇は、原発について「地盤変動」ー具体的には地震などを想定できるのだがーを「心配」していたとみることができよう。

原発が建設される地元の人びとや、さらに昭和天皇ですら表明していた原発に対する「懸念」に、国も県も電力会社も正面から答えることはなかった。結果的に福井県の原発はいまだ大事故を起していない。しかし、それは、「地盤変動」が原因でおきた福島第一原発事故をみて理解できるように、「たまたま」のことでしかないのである。

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