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Posts Tagged ‘北条勝貴’

歴史研究者北条勝貴氏は、『環境と心性の文化史 下 環境と心性の葛藤』(北条・増尾伸一郎・工藤健一編、勉誠出版、2003年)の総説「自然と人間のあいだでー〈実践〉概念による二項対立図式の克服ー」において、人間の営為の原因を自然環境にもとめる環境決定論・自然主義論と、環境を改変してゆく人間の能力を重視する主体主義・人間主義論との二項対立を批判しつつ、人間の実践を関係項とした自然/文化という根源的関係項として捉えることを提起した。例えば、北条氏は次のように述べている。

廣松渉氏は、マルクス思想のなかに曖昧な状態で残されていた根源的関係態としての認識法を的確に切り取り、自然環境と人間主体との産業による相互規定態=〈環境的ー人間主体〉生態系として整理している。物理的な自然環境だけでなく、社会環境から象徴環境までを視野に入れた整理・補完は見事というほかない。しかし、通時的・共時的な〈環境的ー人間主体〉生態系と定義しなおされた歴史の変化が、労働手段の進化による歴史の構造的編制・段階的視点の変化と説明されるとき、そこには、技術による人間の自然からの解放は歴史外的(超越論的)な必然であるとの進歩史観が見え隠れしてはいないだろうか。二項対立を統一体として捉える弁証法的思考図式には、各テーゼを実体化してしまう危険性が伴う。自然/人間という二実体の関係ではなく、両項を成立せしむる根源的関係態へと回帰させることが、二項対立を克服するヒントを内在しているのではなかろうか。
 根源的関係態に置かれた自然/文化の媒介項となる心性は、環境に対する認知と行動、すなわち実践を通じて生成・変化する。この実践こそが、環境と心性の葛藤する具体的なフィールドー現象としての根源的関係態なのである。(本書p2)

その上で、北条氏は次のように指摘している。

生命圏平等主義を唱えるエコロジーの深層にも、持続型社会・循環型社会をキーワードとする、人間社会の保全を第一目的に据える意識が横たわっている。…結果として我々は、〈地球に優しい〉という欺瞞に満ちたスローガンを掲げながら、生かさぬように殺さぬように自然環境からの搾取を続けることになる」(本書p.p20-21)

この文章はほぼ10年前に書かれたものだが、3.11以後の2013年の今日、これを読んでみると、その卓見に驚かされる。この10年、思い直してみれば、「地球に優しい」とされてCO2を排出する火力発電から原子力発電への転化が進められてきた。「地球に優しい」という発想は、一見、人間に対する「環境決定論」の立場にたつようにみえる。そして、そのように提唱者たちもそう考えていたのだろう。しかし、それは、結局のところ、「自然」に対する人間の支配を絶対化するものでしかない。北条氏がいうように、それは、「自然」と「文化」の双方を実体化をさせているといえよう。

現実にはどのようなことが起きていたのだろうか。北条氏にならって考えるならば、原子力発電もまた、自然/文化が人間の実践を媒介として相互に関係する「根源的関係態」の中で成立していたといえる。ただ、原子力発電は、原子炉の中の放射性物質という、いわば人間の作り上げた第二の自然とでもいうべきものを制御して行われるものであった。その意味で、いわゆる工場と同じである。そのような場は、本来、人間の手によって制御されることが前提となって成立しているはずであったといえる。

この人間の実践は、原発建設や管理に従事する労働者たちや、原発立地を受け入れた地域住民によって行われている。このような労働者や地域住民の営為がなければ、放射性物質という「自然」を制御して行われる原子力発電は成り立たない。そして、また「環境決定論」的なCO2削減至上主義も成り立たないことになる。

さて、原発についての人間の実践が、国家/資本の支配関係によって成り立っていることも指摘しておかねばならない。国家/資本は、自然に働きかける実践の担い手である人間を支配することで、自然をも支配するということになる。他方で、そのような形で「自然」を支配した国家/資本は、そのことで人間に対する支配を再度強めていくことになろう。こういうことは、マルクス主義のイロハであり、私がとりたてて書くようなことではないが、とりあえず確認しておこう。

3.11は、自然は人間の手で完全に制御しえるという錯覚を打ち砕いたといえる。それは、例えば、東日本大震災の津波被害全体にもいえることである。東北各地で巨大な堤防が作られていたが、実際の津波はそれをこえた。

原発についてより深刻なことは、東日本大震災によって、原子炉という人間の作り上げた第二の自然というべきものを制御する術を失ってしまったということである。そして、それは、スリーマイル島事故やチェルノブイリ事故と違って、ヒューマンエラーではなく、東日本大震災による地震・津波が引き起こしたということである。人間は、自らの作り出した第二の自然すら、自らの意思で制御できない。もちろん、地震や津波による被害は、工場や火力発電所などでもおこることである。現に、東北各地の火力発電所や工場も東日本大震災によって被災した。しかし、それらと根本的に違うのは、地震や津波は契機にすぎず、原子炉の中の放射性物質の反応によって「自然に」炉心溶融が引き起こされたということである。放射性物質を臨界状態にする現在の地球ではありえない(なお、20億年前の地球には天然原子炉が存在したといわれている)第二の自然を人はつくりあげたが、それを制御することできなかったのである。

いわば、原子炉や放射性物質という人間の作り上げた無機質の第二の自然ですら、自然/文化が人間の実践を媒介として相互に関係する「根源的関係態」の中で成立していることがあきらかになったといえる。

これは、一方で、放射性物質などにたいする人間の支配などというものの不確実性を如実にしめしたものということができる。他方で、そのような人間の実践自体への国家/資本の支配をゆるがすことになったといえる。そのことからいえば、3.11直後、福島第一原発の各原子炉がほとんど制御不能の状態に陥っており、的確な情報提供が無用の被曝を防ぐ上で必要であったにもかかわらず、政府の発表が情報隠蔽と過少評価に終始したのも当然であろう。まず、国家/資本は、人間の支配を維持することに固執したのであるといえる。しかしながら、完全に隠蔽しえるものではない。1960年の安保闘争以来最大の社会運動といわれる反原発運動が惹起されたのである。これもまた、自然/文化が人間の実践を媒介として相互に関係する「根源的関係態」として把握して理解すべきことであろう。

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