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Posts Tagged ‘前原誠司’

最近、朝日新聞で「エダノミクスvsマエハラノミクス」という連載記事(1月8~10日付朝刊)を読んだ。民主党の前原誠司政調会長と枝野幸男経産相の政策を対比的に論じたものである。

枝野の政策についても論じなくてはならないが、ここでは、より露骨に財界に近い政策を唱えていると思われる前原の政策を中心に検討しておこう。朝日新聞は、まず、前原の経済成長論について、このように紹介している。

国内市場は縮んでもアジアは成長する。原発や新幹線を海外に売り込めば成長は可能だー
 「良い製品を日本で作って海外に売ることで、雇用が生まれ、地域経済が活性化する。世界は成長を続ける」。前原は1日付の後援会会報でに書き込んだ。いま一度坂を駆け上がろうという前原は(司馬遼太郎の『坂の上の雲』からの連想)、各種世論調査で首相候補のトップに立つ(朝日新聞1月8日付朝刊)

好い製品を輸出すれば雇用が生まれる、そのためには原発も輸出すべである、そして、今後も経済成長を続けようというのが、前原の議論の中核にあるといえよう。

これに対し、朝日新聞は、次のようなコメントを付している。

 

だが、成長路線の放棄を唱え、枝野と勉強会を重ねてきた埼玉大学大学院客員教授の水野和夫(内閣審議官)は「企業が潤っても高騰するエネルギーの確保や株式の配当に回り、国内の雇用にはつながりにくい」という。
(中略)
 前原も説得力に乏しい。日本一国でどんな成長戦略を描いても、世界経済の状況次第でその戦略は簡単に崩れてしまう。インフラ輸出も超円高の逆風は避けられない。過去の自民党政権の成長戦略との違いもはっきりしない。(朝日新聞1月8日付朝刊)

前原が、彼の成長戦略の中で目玉として位置付けているのは、原発である。朝日新聞は、このように紹介している。

 前原にとって原発はグローバル市場に打って出る「目玉」だ。インドやベトナムなど新興国の需要は原発事故後も旺盛で、前原は「日本の技術への信頼は揺らいでいない。輸出はしっかりやるべきだ」と明言する。
 大和総研の試算では、定期検査に入る原発がすべて再稼働しなければ経済は滞り、実質国内総生産(GDP)が10年間平均で年14兆円(全体の2.5%)減る。前原は昨年末の講演で「日本が原発を再稼働できるのか世界のマーケットが見ている」と訴えた。「原油や天然ガスに過度に頼れば、産出国に足元を見られる」と主張する。(朝日新聞1月10日付朝刊)

これに対して、朝日新聞は「脱原発の国内世論は強まっている。『成長より安全』を願う人々を説得できなkれば成長戦略の柱とはなりえない」(朝日新聞1月10日付朝刊)と批判している。

この記事を一読して感じたことは、原発輸出などにより個々の大企業の成長をはかるという前原の戦略は、本当に「雇用」につながるのかということである。そしてそれが、全体の「成長」に本当に結果するのかということである。確かに、生産拠点が国内に事実上限られていた高度経済成長期においては、企業の発展は、国内の雇用をうみ、全体の発展につながっていったといえる。しかし、現在では、個々の企業が収益をえても、より低賃金の労働力を得られる海外に生産拠点を移しており、国内の雇用にはつながらない。国内での雇用は、まさに管理労働(そのために、イニシエーションとしての「就活」が一般化される)と補助的な非正規雇用に限定されていく。企業の収益をまったく度外視せよとはいわないが、、それを制御していくことも必要なのではなかろうか。

ある意味で、前原の政策は、高度経済成長期の時代状況を考慮しない、時代錯誤なものだと感じざるをえない。石原慎太郎東京都知事の「東京オリンピック構想」とそれほど変わらないだろう。

結局、事故を起こしてしまえば、経済的被害だけでも天文学的数字になってしまうのが原発である。福島原発事故の被害は、いったいどれほどのものとして見積もられているのか。補償は、除染は…。たぶん、昨年は、多くの俳優や歌手や学者が来日をとりやめたと思うが、そのようなものまで換算して被害額は試算されているのか。

現存秩序の枠内で、それこそ「交渉」して、より有利な地位を得ようとしてきたのが、3,11以前の日本社会であった。それは、前原のように、依然として根強く日本社会にはびこっている。個別の企業の利益や、所詮官僚機構の利益にすぎない「国益」、また所属しているマスコミや大学の利益-これらはもちろん、個々の成員のためのものではないが、それに依存していきれば共存共栄として有利に生きられるーそれこそ、高度経済成長期の「悪しき幻想」ともいえる。前原は、自分の成功体験を全国民に強制しようとしているのだ。そして、このような人物をもちあげているということが、日本社会の問題なのだ。

福島第一原発事故は、そんな幻想を揺るがした。政府や東電は、「姿勢」というものではなく、「能力」の問題として、この事故に対処しえない。どれだけ、事故においてまき散らされた放射性物質がまき散らされ、どれほどの健康被害が起きるか、まだ予測がつかない。また、いくら除染に努力するといっても、限界がある。除染を進めれば進めるほど、汚染された廃棄物が増大する。例えば、住宅地・学校などは除染できたとしても、広大な農地・山林・海洋すべてを除染はできない。福島県浜通りは、原発だけが産業ではない。農業・山林業・水産業も存在していた。それをすべて回復することが、現時点で可能なのだろうか。原発立地自治体は、確かに原発と「共存共栄」だったのかもしれない。しかし、それは、もはやない。

福島第一原発事故は、日本において、企業や国家などがつくりあげてきた現存秩序と「共存共栄」できるという幻想に疑念をもつ契機となったと思う。

今、福島第一原発事故というだけでなく、企業や国家と「共存共栄」するということについて、疑念が広まっている。しかも、それは、世界的に。「われわれは99%」だというのは、ニューヨークでの叫びなのだ。

その点からいえば、前原の議論は、時代錯誤で私の考えるような常識からみて違和感を感じざるをえないものにしかみえないのだ。それが、この記事を読んだ全体の感想である。

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