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前回、東京大学法学部教授長谷部恭男が、どのような理由で特定秘密保護法案に賛成しているかを紹介した。ここでは、長谷部の『憲法とは何か』(岩波新書、2006年)を手がかりにして、そのようなさん賛成論の背景にある憲法観をみていきたい。

まず、この本を一読すると、多くの人は自民党などの改憲論を批判したものとして受け取ることと思われる。実際、確かに明示的に憲法を改正することについてこの本では批判している。そのため、なぜ、改憲を志向すると考えられる安倍政権によって推進されていた特定秘密保護法案に長谷部が賛成したのかと疑問を持った方もおられると思われる。ただ、今回では、長谷部の改憲論批判は別の機会にまわすこととし、とりあえず、この本で長谷部が展開している憲法論を私なりに理解していきたい。

長谷部にとって、立憲主義とは、互いに相違し矛盾しあう多様な価値観を信奉しあう人たち同士の対立をおさえ、多様な価値観を認めて共存する社会を作り上げる仕組みとして、まず認識されている。そのためには、まず、社会を私的領域と公的領域に分離しなくてはならないのである。その上で、私的領域においては、人びとがそれぞれの価値観に基づいて、自由に生きることが保障されるべきだと考えている。

さて、問題は公的領域である。公的領域においては、特定の価値観・世界観が独占して、対立する価値観を駆逐するようなことをさけなくてならない。そのことについて、長谷部は、ハーバーマスの「公共性」概念を批判しながら、このように言っている。

筆者は討議が公共の利益について適切な解決を示すには、論議の幅自体が限定されることが必要であるとの立場をとっている。逆にいうと、社会全体の利益に関わる討議と決定が行われるべき場(国・地方の議会や上級裁判所の審理の場が典型であろう)以外の社会生活上の表現活動では、そうした内容上の制約なく、表現の自由が確保されるべきである。(本書p77)

長谷部によれば、マス・メディアの報道の自由、批判の自由は、一般の表現の自由と違って「生まれながらにして」保障されるものではない。政治的プロセスがよりよく果されるために保障されているとしている。その意味で、報道の自由というものは、長谷部によれば、公的領域に属しているといえる。それゆえ「論議の幅自体が限定される」ことも、長谷部の発想からいえばありうることであろう。

もちろん、長谷部の考えから離れていうならば、公的領域も、本来、国民主権を前提とするならば、その決定プロセスに対する関与が保障されるべきであり、その意味で情報も最大限保障されるべきということもいえるだろう。しかし、そういう考えは、長谷部のものではない。長谷部にとって、現状の議会制民主主義が前述の立憲主義を成立させる上で最善のものである。そして、この議会制民主主義の対抗物として、ファシズムと共産主義をあげている。この二つは、両者とも、議会における討議を通じて公益をはかることを否定し、「反論の余地を許さない公開の場における大衆の喝采を通じた治者と被治者の自同性を目指す」(本書p46)とし、さらに、そのことを通じて国民の同一性・均質性が達成されるとしている。そして、この二つの体制について「直接的な民主主義を実現しうる体制」とするシュミットの見解を紹介している。しかし、長谷部にとって、「直接的な民主主義」によって国民の同一性・均質性が強制され、国民の多様性が破壊されることが、立憲主義の破産を意味するといえる。その意味で、「直接的な民主主義」は、長谷部にとって、制限されなくてはならないものといえる。

このような憲法論が、特定秘密保護法案への長谷部の賛成意見の背景にあったといえる。彼にとって、公的領域における論議の幅は制限すべきものであった。それには、議会制民主主義が最適であり、ファシズムにせよ、共産主義にせよ、これらの「直接的な民主主義」は、立憲主義の原則から排除されるべきものであった。特定秘密保護法案反対論の背景には、情報を最大限公開して、主権者である国民についても、政治的プロセスに参加させるべきという考えがあるといえるが、長谷部は、全く、そう考えないのである。報道の自由、批判の自由は、表現の自由などとは別の次元に属すものであり、公的領域での政治プロセスをよりよく機能させるものなのである。長谷部が特定秘密保護法案に賛成した背景として、以上のようなことが指摘できよう。

長谷部の議論を読みながら思ったことだが、長谷部の中には、「民衆」への恐れと蔑視があるといえる。彼にとって、「直接的な民主主義」とは、ファシズムか共産主義という「全体主義」をめざすものでしかない。長谷部にとって、「多様な価値観」で共生することを保障するものは「議会制民主主義」でしかない。民衆の政治参加は、結局「喝采」にとどまってしまうのである。特定秘密保護法案については、法の内容も、制定経過も、民意無視としかいえないのであるが、そのような民意による政治への介入は抑制しなくてはならないとする長谷部にとっては、あれでも「正常」なのであろう。

他方、公的領域と私的領域を分けるという長谷部の議論についても、問題をはらんでいる。私的領域における自由の獲得も、公的領域での議論と当然ながら関連していたといえる。現状の私的領域での自由も、公的領域における戦い(イギリス革命、アメリカ革命、フランス革命、自由民権運動など)によって得られたものである。例えば、表現の自由は、別に私的領域の中でのみ問題にされていたわけではない。公的領域における報道・批判の中でむしろ成長していったものといえる。そして、現状でも、報道の自由と表現の自由は相関連しているのである。

そして、私的個人の問題も、公的領域に無関係ではない。例えば、生活保護にしても、年金にしても、介護保険にしても、その当事者個人にとっては死活問題である。ブルジョワ民主主義の黎明期のイデオロギーである「公私」の問題は、もちろん、現状においても重大な問題であるが、単純に公私分離を固定して考えるべきことではないといえる。

ただ、逆にいえば、新自由主義の時代に適合的な議論ともいえる。長谷部は、フィリップ・ハビットの見解を紹介して、このように述べている。

 

国家の置かれた状況の変化は、国家目標にも影響すると考えるのが自然であろう。ハビットは、国民総動員の必要性から解放された冷戦後の国家は、すべての国民の福祉の平等な向上を目指す福祉国家であることを止め、国民に可能な限り多くの機会と選択肢を保障しようとする市場国家(market state)へと変貌すると予測している。そうした国家は、社会活動の規制からも、福祉政策の場からも撤退をはじめ、個人への広範な機会と選択肢の保障と引換えに、結果に対する責任をも個人に引き渡すことになる。(本書p56)

福祉国家の時代では、私的個人の生存も公的領域ではかるべきとされていたといえる。まさに、新自由主義における福祉政策や社会活動への規制の撤廃は、私的個人の生存を公的領域ではかろうとする営為を否定するもので、公的領域と私的領域をより切り離すことになろう。こうなってみると、立憲主義の前提として長谷部が考えている「公私分離」は、新自由主義によって達成すべき目標ともいえるだろう。このように、長谷部の「特定秘密保護法案」への賛成意見の背景には、多くの重大な問題があるのである。

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昨日(2013年5月26日)、歴史学研究会という歴史関係の学会の大会が東京の一橋大学で開催された。この大会の現代史部会は、「対抗運動の可能性ー保守時代の構想と展開」という全体テーマで行われた。その中で、西田慎氏が「70年代西ドイツにおけるオルタナティブ勢力の形成ー緑の党を例に」という報告を行っていた。非常に興味深いので、ここで紹介しておこう。なお、この報告については、今年の秋にだされる歴史学研究会の機関誌『歴史学研究』に掲載される予定になっている。また、西田慎氏には『ドイツ・エコロジー政党の誕生ー「六八年運動」から緑の党へ』(昭和堂、2009年)、「反原発運動から緑の党へーハンブルグを例に」(若尾祐司・本田宏編『反核から脱原発へードイツとヨーロッパ諸国の選択』、昭和堂、2012年)という研究がある。前者は未見だが、後者は興味深く読んだ。

さて、西田氏の「70年代西ドイツにおけるオルタナティブ勢力の形成ー緑の党を例に」の紹介に戻りたい。まず、西田氏は「西ドイツにおけるオルタナティブ運動や政治的オルタナティブ勢力(緑の党やオルタナティブ・リスト等)の形成過程を通して、日本との違いを考えていきたい」(当日配布のレジュメより。なお、レジュメからの引用は出典を略す)と報告の課題を提起した。

西田氏によれば、緑の党などのオルタナティブ勢力の源流は西ドイツの68年運動=「議会外反対派」(APO)であるとされる。この「議会外反対派」の運動目標は、当時のキージンガー大連立政権(キージンガー首相が元ナチ党員)への反対、大学の民主化要求、ナチスの過去追及、ベトナム戦争への反対、非常事態法制定への反対であった。この議会外反対派は1970年頃に解体に向かい、政治的には、①私生活に退却、②社会民主党に入党して体制の中から改革実現をめざす、③テロ組織を結成して暴力革命をめざす(赤軍派など)、④新左翼諸集団を結成して革命をめざす(教条主義的新左翼Kグループなど)の四つの方向に分裂していった。

他方、西ドイツの68年運動は、社会変革の戦略と、自己変革の過程(「日常の政治化」、対抗文化)がわかちがたく結びついていたが、APOの解体以降、両者は分離していった。そして自己変革の過程の流れから75年以降オルタナティブ運動が生まれてきたと西田氏は述べた。

このオルタナティブ運動について、西田氏は「70年代に発生した、対抗文化を展開する運動。現体制を否定するだけでなく、それを越えてオルタナティブな社会、文化を対置しようとした」と定義した。オルタナティブ運動の具体的なものとして、西田氏はコンミューン(ブルジョワ家族の否定)、居住共同体(シェアハウス)、空き家占拠、田舎コンミューン(都市からの逃避)、オルタナティブ経営体、オルタナティブ・メディアをあげている。西田氏は、特にオルタナティブメディアの代表例として、日刊のターツ紙をあげ、「オルタナティブ運動や社会の周辺集団、女性運動、エコロジー運動、平和運動等のための代弁者としての立場を確立」したと述べた。

そして、反原発運動の展開を契機に、政治的オルタナティブ運動が生まれて来ると西田氏は主張している。そのきっかけが1973年のヴィールにおける反原発闘争であり、この闘争では、反対デモだけでなく、建設予定地の占拠も行った。そして、この反原発闘争に、運動への行き詰まりに直面していた新左翼のKグループが参加していった。

反原発闘争の展開は、他方で、独自に環境「政党」(「緑のリスト」)等を組織し、地方自治体選挙に挑戦する動きにつながっていくことになる。なお、「リスト」とは候補者名簿のことである。1977年にはニーダーザクセン州の一部自治体で議員が選出された。1979年には、ブレーメン市議会(州議会と同等)において、「緑のリスト」が初めて議席を獲得した。また、同年には、「それ(既成政党)以外の政治的結社・緑の党」という形で欧州議会選挙に参加し、予想外の善戦で、巨額の選挙補助金を獲得した。そして、この選挙補助金を前提に、全国政党「緑の党」が1980年に結党されたのである。

なお、このような「緑のリスト」などの運動は農村地域のエコロジー派が主導するもので、新左翼諸集団との間で亀裂を生むこともあったという。その中で、主に北ドイツの大都市で、環境保護だけにあきたらない新左翼グループが「多色のリスト」(緑と赤という意味)「オルタナティブ・リスト」を結成していった。西田氏は、事例としてハンブルグと西ベルリンをあげた。これらの「多色のリスト」「オルタナティブ・リスト」は、一時期緑の党と併存したが、最終的には、緑の党と合流することになっていったと西田氏は述べた。

西田氏は、このようなオルタナティブ勢力の特徴、意義、そして限界などについても述べたが、ここでは省略しておきたい。ただ、このような、西ドイツにおけるオルタナティブ勢力の形成過程をみて、いくつか感じたことを述べておきたい。

まず、緑の党などの源流が1968年の運動であるということが印象づけられた。日本において、1968年の運動は、全共闘運動に加わったという猪瀬直樹などのように、サブカルの出現を除いて、体制に包摂されたという傾向が強いといえる。西ドイツの場合、やはり政治的には挫折したといえるのだが、「70年代に発生した、対抗文化を展開する運動。現体制を否定するだけでなく、それを越えてオルタナティブな社会、文化を対置しようとした」オルタナティブ運動へとつながっていったことが違うといえる。そして、このオルタナティブ運動を前提として、政治的オルタナティブ運動が展開していったといえよう。いわば、単に、現体制を否定するだけでなく、「オルタナティブな社会、文化を対置する」ということがやはり必要なのだといえる。

他方で、いわゆるエコロジー派である「緑」と、新左翼的な「赤」との間の亀裂は、そう簡単に埋められなかったことも印象に強く残った。西田氏は、一時期西ベルリンの緑の党支部がネオナチの浸透作戦を受け右翼化したことがあったと述べている。エコロジー派は農村が中心で、一部に保守層が含まれているといえよう。対局には、共産主義(といっても中国共産主義の影響が強いのであるが)的な新左翼が存在していたのである。この両者の亀裂をうめることは、そう簡単ではなかった。

結局のところ、新左翼の影響の強い大都市では、「多色のリスト」「オルタナティブ・リスト」という形で議員候補者名簿を共有するという形で、議席獲得がはかられていくことになる。このようなことは、日本においても一つの課題になるのではないかと思うのである。

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