Feeds:
投稿
コメント

Posts Tagged ‘人間’

最近、必要があって、環境関係の書籍を乱読している。その中で、最も感銘深かったのは、原著が1962年に出版されたレイチェル・カーソンの『沈黙の春』(青木簗一訳、新潮社、2001年)であった。レイチェル・カーソンは、本書執筆中に癌を発病し、1964年に亡くなっているので、事実上彼女の遺著でもある。

『沈黙の春』の内容について、ごく簡単にまとめれば、第二次世界大戦後において顕著となった、DDTなどをはじめとした殺虫剤・除草剤などの農薬を飛行機などを利用して大規模に散布することについて、それは、ターゲットとなった害虫や雑草だけでなく、無関係な昆虫・魚類・哺乳類・鳥類・魚類・甲殻類や一般の植物をも「みな殺し」にして生態系を破壊するものであり、その影響は人間の身体にも及ぶのであって、他方で、ターゲットとなった害虫や雑草を根絶することはできないと指摘しているものである。よく、『沈黙の春』について農薬全面禁止など「反科学技術的」な主張をしたものといわれることがあるが、カーソン自身が「害虫などたいしたことはない、昆虫防除の必要などない、と言うつもりはない。私がむしろ言いたいのは、コントロールは、現実から遊離してはならない、ということ。そして、昆虫といっしょに私たちも滅んでしまうような、そんな愚かなことはやめよーこう私は言いたいのだ。」(本書p26)、「化学合成殺虫剤の使用は厳禁だ、などと言うつもりはない。毒のある、生物学的に悪影響を及ぼす化学薬品を、だれそれかまわずやたら使わせているのはよくない、と言いたいのだ。」(本書p30)というように、殺虫剤一般の使用を禁止してはいない。彼女は、農薬散布よりも効果ある方法として、害虫に寄生・捕食する生物の導入や、放射線・化学薬品その他で不妊化した昆虫を放つことなどを提唱しているが、それらもまた科学技術の産物である。

このように、彼女の主張は「科学」的なものである。ただ、一方で、倫理的なものでもある。彼女は、マメコガネ根絶のために行われたアメリカ・イリノイ州などでの農薬散布について叙述し、次のように言っている

 

イリノイ州東部のスプレーのような出来事は、自然科学だけではなく、また道徳の問題を提起している。文明国といわれながら、生命ある、自然に向って残忍な戦いをいどむ。でも自分自身はきずつかずにすむだろうか。文明国と呼ばれる権利を失わずにすむだろうか。
 イリノイ州で使った殺虫剤は、相手かまわずみな殺しにする。ある一種類だけを殺したいと思っても、不可能なのである。だが、なぜまたこうした殺虫剤を使うのかといえば、よくきくから、劇薬だからなのである。これにふれる生物は、ことごとく中毒してしまう。飼猫、牛、野原のウサギ、空高くまいあがり、さえずるハマヒバリ、などみんな。でも、いったいこの動物のうちどれが私たちに害をあたえるというのだろうか。むしろ、こうした動物たちがいればこそ、私たちの生活は豊かになる。だが、人間がかれらにむくいるものは死だ。苦しみぬかせたあげく、殺す。…生命あるものをこんなにひどい目にあわす行為を黙認しておきながら、人間として胸の張れるものはどこにいるのであろう?(本書pp120-121)

本書では、それぞれの農薬、そして、それらが大規模に散布された結果としての生態系の破壊、さらには、散布された農薬が人間の身体を害し、遺伝的な影響を与えていくことが科学的に叙述されている。そして、その科学を前提にして、このような問題を放置していてよいのだろうかという、倫理的な課題が提起されている。多くの生物は、結果まで考えて生きているわけではない。人間は、ある種の結果を想定して行為することによって生きている。自らの営為による生態系の破壊、人類の破滅が科学的に想定された場合、それを避けるということは、人間の倫理的な責任ということができよう。その意味で、本書は、一般化するならば、科学を追求した結果として人間の倫理的な問題が問われていくことを示した書といえるのである。

広告

Read Full Post »

よく、3.11後の福島の地域社会において「分断」があるとされている。この「分断」とは、どのようなものだろうか。基本的に考えれば、①東日本大震災の復興方針をめぐる対立、②福島第一原発事故における責任の所在、③放射能汚染の影響、この三つの要因によって「分断」が生じていると考えられる。

①の東日本大震災の復興方針をめぐる対立ということは、福島県だけでみられる問題ではない。深刻な地震・津波などの自然災害に見舞われた、岩手・宮城・福島3県を中心とする被災地全体でみられることである。大きくいえば、国・県・大企業などが企図している国家的・資本主義的な「復興」と、被災地住民の自生的・共同的な「復興」が相克しているとみることができるが、そればかりではなく、住民同士でも階級・地域・職種・ジェンダー・年齢によって「分断」されていると考えられよう。そして、例えば、宮城県女川町の漁港一本化問題や同県気仙沼市の巨大防潮堤建設問題のように、「分断」が顕在化してくるといえる。

このような「分断」も、また深刻な問題を惹起している。ただ、これらの問題は、多くは自然災害への人間社会の対応に端を発していることに注目しなくてはならない。東日本大震災における地震・津波などの自然災害は、人間社会の開発によって惹起された面を否定すべきではないが、基本的に、自然現象そのものである。通常の意味で、法的・社会的に責任を追及されるべき主体は存在していない。とりあえずは、自然災害に「人間」の側が対処しなくてはならないという論理は、「分断」されているといわれている国・県・大企業と住民、もしくは住民同士の中でも共有しているといえる。よく、「東日本大震災からの復興」が叫ばれているが、それは、おおむね、自然災害への人間社会の対応という論理で語られている。これは、大は安倍政権などの政府の「復興」方針から、歴史学界で広く取り組まれている「被災歴史資料レスキュー」などまで共通している。そして、そのような論理によって、福島県も含めて「復興」のスキームが形成され、資金・資材・人員が投入されている。そこにあるのは、「自然」と対峙した「人間」という認識枠組みなのだ。

もちろん、福島県でも、深刻な地震・津波被害からの「復興」をめぐる方針の対立をめぐって「分断」されている面はあるだろう。しかし、福島において特徴的なことは、②福島第一原発事故における責任の所在、③放射能汚染の影響、という後二者の要因があるということである。②の問題からみていこう。福島第一原発事故は、東日本大震災の地震・津波によって惹起されたものではあるけれど、そもそもこのような巨大な被害を与える原子力発電所をなぜ建設したか、そしてなぜ福島の地に集中立地したのか、津波災害などへの防護は万全であったのか、事故自体への対応や住民対策は適切であったのかなど、「人間社会」が責任を問われる問題である。天災ではなく人災なのだ。

そして、「人間社会」において、この人災において最も責任を負うべき主体は、国策として原発推進をすすめた国と、実際にその建設や運営に携わった東京電力である。これは、単に、国や東電のそれぞれの担当者の個人だけが担うべきではなく、国や東電というシステム全体が担うべき責任である。地震・津波などの自然災害において、全体としては責任をおうべき主体は存在しないといえる。しかし、福島第一原発事故では、責任をおうべき主体がいるのである。その点が、福島第一原発事故の特徴的な点の一つである。

ゆえに、福島県の場合、被災者の意味が違ってくる。福島第一原発事故の被災者の人的・物的被害は、国と東電の業務によってもたらされた損害である。その被害への損害賠償がなされなくてはならない。例えば、強制的に避難させられた被災者たちに国有化された東電が支払っている資金は、国と東電の業務によって生じた損害に対する賠償金であって、救援金や復興資金ではない。

それでありながらも、国や東電についての刑事責任の追及がなされず、福島第一原発事故の原因解明も十分はたされていない。また、国や東電の損害賠償も限定的であり、福島第一原発事故によって生じた多くの人びとの損害を十分補償しえるものになっていない。さらに、東日本大震災からの復興というスローガンのもとに、人災である福島第一原発事故が天災である東日本大震災全体への対応と混同され、責任主体がいるということすらあいまいにされている。

強制的に避難させられた人びとだけでなく、福島県(放射能汚染の及んだ他県も含めて)の人びとは、多大な損害をこうむった。例えば、強制的に避難させられた人びとだけではなく、福島県内にいて福島第一原発事故により被曝したり、被曝の影響をおそれて家族が離散したり、勤務先がなくなって失業したりするなどということも起こっている。このようなことの第一義的責任は国と東電にある。しかし、そのような損害については、ある程度補償されたとしても限定的でしかないのである。

このような中で、強制的に避難させられるがゆえに、ある程度の補償(これも十分とは思えないが)を得ている人びとと、被害をこうむったにもかかわらず、十分な補償を得ていないというと感じている人びととの間に「分断」が生じてくる。しかし、この「分断」は、国や東電が福島第一原発事故に対する責任をあいまいにしていることから発生しているといえるのである。

さて、次に、③の放射能汚染への影響ということについて考えてみよう。これもまた、福島に特徴的に示されている問題である。居住にせよ、農業・水産業の再開にせよ、全ての問題において、福島では放射能汚染の問題を考慮せざるをえない。この問題についていかに行動するかということに対しては、二つの方向性がある。一つの方向性は、放射能汚染を考慮し、放射線被曝を少しでも避けようとすることである。究極的には、高線量地域から移住するということになるが、高線量地域で生産された食品をなるべく食べない(これは、福島だけには限らないが)、高線量地域にはなるべく立ち入らないというような行動が具体的には考えられる。

他方で、放射能汚染の影響を「相対化」して、多少の高線量地域でも「帰還」してコミュニティを再建し、農業・水産業を再開させ、それらの地域で作られた食品も口にし、さらには観光客をよびこもうという方向性も存在する。というか、この方向性にしたがって、国・東電・福島県が福島第一原発事故対策をすすめているのである。もちろん、線量の高低で区域をわけ、さらには除染をし、食品の放射能検査を実施するなど、放射能汚染に対してなにも対応していないとはいえない。といっても、福島の広大な土地をすべて除染することなどできず、かなりの範囲が今なお除染基準(1時間あたり0.23μSv、年間1mSv)以上の空間線量のままだ。にもかかわらず、国の方針としては、除染基準の20倍の年間20mSvの線量地域まで帰還をすすめようというのである。

この二つの方向性も、「分断」の原因になっているといえよう。被災地に住民を帰還させ、コミュニティを再建させ、生業を復活させるというのは、自然災害ならば当然の対応である。この過程を「復興」といってよいだろう。しかし、自然の産物ではない放射能で汚染された地において、このような「復興」は自明なことではないのだ。

一つ、農地の復活という点で考えてみよう。東日本大震災における津波被害で、宮城県・岩手県の農地は海水につかり、塩害をうけた。この塩害を受けた農地に対し、土の入れ替えや淡水を流し込むことなどにより復活をはかることは、どれほどのコストがかかるかは別にして、方向性としては問題にはならない。塩は自然のものであり、海などに流しても問題ではないのだ。他方、放射性物質で汚染された農地の場合は、そもそも農地の除染だけで放射能を除去できるかということ、さらに除染により放射性廃棄物と化した土壌をどうするのかという問題が生じてくる。さらに、そのような土地で生産された農産物を商品として売ることがどこまで可能かということもある。このように、多くの面で問題をはらんでいるのである。

放射能汚染、これも人のもたらしたものであり、当然ながら「人災」である。そして、これは自然の循環にまかせてはならない。それは、すでに水俣病が示していたことであった。にもかかわらず、福島第一原発事故からの「復興」は自然災害のように扱われ、放射能汚染の面が軽視される。それがゆえに、放射能汚染を重大に考えている人びととの間に分断をうんでいるのである。

そして、ここにもまた、「人間の責任」ということが背景にあるといえる。放射能は人間が生み出したものであり、それに対処することも人間の責任である。その責任に目を背けたまま進もうとすること、それが分断の原因になっているといえる。

②と③の要因は、いずれにせよ、福島第一原発事故の「人災」としての性格から生じている。どちらも、本来、「人間社会」内部で担うべき責任があいまいにされ、それゆえに、福島県民内部に深刻な「分断」がもたらされるようになったといえるだろう。この「分断」を克服するのは容易なことではない。ただ、その第一歩は、福島第一原発事故は「天災」ではなく「人災」であり、「人間社会」内部において責任追及されるべき問題であることを認めることであると考えられるのである。

Read Full Post »

歴史研究者北条勝貴氏は、『環境と心性の文化史 下 環境と心性の葛藤』(北条・増尾伸一郎・工藤健一編、勉誠出版、2003年)の総説「自然と人間のあいだでー〈実践〉概念による二項対立図式の克服ー」において、人間の営為の原因を自然環境にもとめる環境決定論・自然主義論と、環境を改変してゆく人間の能力を重視する主体主義・人間主義論との二項対立を批判しつつ、人間の実践を関係項とした自然/文化という根源的関係項として捉えることを提起した。例えば、北条氏は次のように述べている。

廣松渉氏は、マルクス思想のなかに曖昧な状態で残されていた根源的関係態としての認識法を的確に切り取り、自然環境と人間主体との産業による相互規定態=〈環境的ー人間主体〉生態系として整理している。物理的な自然環境だけでなく、社会環境から象徴環境までを視野に入れた整理・補完は見事というほかない。しかし、通時的・共時的な〈環境的ー人間主体〉生態系と定義しなおされた歴史の変化が、労働手段の進化による歴史の構造的編制・段階的視点の変化と説明されるとき、そこには、技術による人間の自然からの解放は歴史外的(超越論的)な必然であるとの進歩史観が見え隠れしてはいないだろうか。二項対立を統一体として捉える弁証法的思考図式には、各テーゼを実体化してしまう危険性が伴う。自然/人間という二実体の関係ではなく、両項を成立せしむる根源的関係態へと回帰させることが、二項対立を克服するヒントを内在しているのではなかろうか。
 根源的関係態に置かれた自然/文化の媒介項となる心性は、環境に対する認知と行動、すなわち実践を通じて生成・変化する。この実践こそが、環境と心性の葛藤する具体的なフィールドー現象としての根源的関係態なのである。(本書p2)

その上で、北条氏は次のように指摘している。

生命圏平等主義を唱えるエコロジーの深層にも、持続型社会・循環型社会をキーワードとする、人間社会の保全を第一目的に据える意識が横たわっている。…結果として我々は、〈地球に優しい〉という欺瞞に満ちたスローガンを掲げながら、生かさぬように殺さぬように自然環境からの搾取を続けることになる」(本書p.p20-21)

この文章はほぼ10年前に書かれたものだが、3.11以後の2013年の今日、これを読んでみると、その卓見に驚かされる。この10年、思い直してみれば、「地球に優しい」とされてCO2を排出する火力発電から原子力発電への転化が進められてきた。「地球に優しい」という発想は、一見、人間に対する「環境決定論」の立場にたつようにみえる。そして、そのように提唱者たちもそう考えていたのだろう。しかし、それは、結局のところ、「自然」に対する人間の支配を絶対化するものでしかない。北条氏がいうように、それは、「自然」と「文化」の双方を実体化をさせているといえよう。

現実にはどのようなことが起きていたのだろうか。北条氏にならって考えるならば、原子力発電もまた、自然/文化が人間の実践を媒介として相互に関係する「根源的関係態」の中で成立していたといえる。ただ、原子力発電は、原子炉の中の放射性物質という、いわば人間の作り上げた第二の自然とでもいうべきものを制御して行われるものであった。その意味で、いわゆる工場と同じである。そのような場は、本来、人間の手によって制御されることが前提となって成立しているはずであったといえる。

この人間の実践は、原発建設や管理に従事する労働者たちや、原発立地を受け入れた地域住民によって行われている。このような労働者や地域住民の営為がなければ、放射性物質という「自然」を制御して行われる原子力発電は成り立たない。そして、また「環境決定論」的なCO2削減至上主義も成り立たないことになる。

さて、原発についての人間の実践が、国家/資本の支配関係によって成り立っていることも指摘しておかねばならない。国家/資本は、自然に働きかける実践の担い手である人間を支配することで、自然をも支配するということになる。他方で、そのような形で「自然」を支配した国家/資本は、そのことで人間に対する支配を再度強めていくことになろう。こういうことは、マルクス主義のイロハであり、私がとりたてて書くようなことではないが、とりあえず確認しておこう。

3.11は、自然は人間の手で完全に制御しえるという錯覚を打ち砕いたといえる。それは、例えば、東日本大震災の津波被害全体にもいえることである。東北各地で巨大な堤防が作られていたが、実際の津波はそれをこえた。

原発についてより深刻なことは、東日本大震災によって、原子炉という人間の作り上げた第二の自然というべきものを制御する術を失ってしまったということである。そして、それは、スリーマイル島事故やチェルノブイリ事故と違って、ヒューマンエラーではなく、東日本大震災による地震・津波が引き起こしたということである。人間は、自らの作り出した第二の自然すら、自らの意思で制御できない。もちろん、地震や津波による被害は、工場や火力発電所などでもおこることである。現に、東北各地の火力発電所や工場も東日本大震災によって被災した。しかし、それらと根本的に違うのは、地震や津波は契機にすぎず、原子炉の中の放射性物質の反応によって「自然に」炉心溶融が引き起こされたということである。放射性物質を臨界状態にする現在の地球ではありえない(なお、20億年前の地球には天然原子炉が存在したといわれている)第二の自然を人はつくりあげたが、それを制御することできなかったのである。

いわば、原子炉や放射性物質という人間の作り上げた無機質の第二の自然ですら、自然/文化が人間の実践を媒介として相互に関係する「根源的関係態」の中で成立していることがあきらかになったといえる。

これは、一方で、放射性物質などにたいする人間の支配などというものの不確実性を如実にしめしたものということができる。他方で、そのような人間の実践自体への国家/資本の支配をゆるがすことになったといえる。そのことからいえば、3.11直後、福島第一原発の各原子炉がほとんど制御不能の状態に陥っており、的確な情報提供が無用の被曝を防ぐ上で必要であったにもかかわらず、政府の発表が情報隠蔽と過少評価に終始したのも当然であろう。まず、国家/資本は、人間の支配を維持することに固執したのであるといえる。しかしながら、完全に隠蔽しえるものではない。1960年の安保闘争以来最大の社会運動といわれる反原発運動が惹起されたのである。これもまた、自然/文化が人間の実践を媒介として相互に関係する「根源的関係態」として把握して理解すべきことであろう。

Read Full Post »