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さて、今回も、韓国・聖公会大学日本学科教授権赫泰氏のインタビュー記事である「現代日本の『右傾化』と『平和主義』について」(京都大学新聞2013年4月16日号、5月16日号掲載)を紹介していくことにしたい。前回は、権氏の日本の平和主義批判を中心にみてきたが、今回は権氏の日本の反原発運動批判を中心にみていくことにする。

反原発運動の状況については、京都大学新聞のインタビュアーがかなり主導的に議論を引き出そうとしている。まず、インタビュアーは、このように問いかけた。

ー日本国内では震災・原発事故という全社会的な危機があった。その後、反原発運動を中心に社会運動が盛り上がってもいる。しかしそれがそれが新しいかたちでの国家主義、たんなる戦後社会礼賛になる危険性も極めて一部からであるが指摘されています(※16)。ここで指摘されている日本左派の「変質」について韓国では知られているのでしょうか。(京都大学新聞2013年5月16日号)

単に、「反原発運動をどう思いますか」と訊ねたのではない。「反原発運動における左派の変質について韓国では知られているのでしょうか」と質問したのである。そして、京都大学新聞では、わざわざ(※16)の注記で、官邸前デモは、労働組合や市民運動の団体旗の持ち込みや「脱原発以外の事柄」についてアピールが禁止されている一方で、脱原発で一致するならば右翼団体も受け入れており、日の丸の持ち込みも許容されていることを付記している。

この質問に対し、権氏は、韓国では自分しかそういうことは言っていないと述べた。そして、韓国では、自国の反原発運動を進めるために、日本の反原発運動を過大評価している傾向があるとしつつ、権氏は「韓国の反原発運動やっている連中は、日本で起っている情報を、僕に言わせればすごくウソついている」(京都大学新聞2013年5月16日号)と指摘する。

権氏は、日本の反原発運動の問題点を三つあげている。第一は、反原発運動で人が集まり、世論調査では原発反対が多数をしめるにもかかわらず、選挙では原発支持派がおおむね当選するという問題である。第二は、日本社会では「被害者(被爆者)としての選民意識」があり、それが日本の「平和主義」を根拠づけてきたとする問題である。これは、前回紹介した権氏の日本の平和主義への批判に通底しているといえる。

第三には、京都大学新聞のインタビュアーが指摘していた、「日本左派」の「変質」の問題である。権氏は、このように言っている。

 

最近反原発デモを見ていて感じるのは、それはそれとして良いのだけれど、右の人も大分入っているじゃないですか。西部邁なんかもいるし。つまりあらゆるこれまでの争点の上に、反原発が乗っかっているという。そうすると、百歩譲って反原発に成功してもね、全ての政治的争点というのは解決しないわけですよ。
 デモする社会になって反原発成し遂げても、歴史的問題、憲法問題それはどこに行くか分らなくなっちゃう。しかもエネルギーが全部そこに吸収されちゃいますので。それで僕は常に、反原発が今の観点で捉えるならば、当然そこには朝鮮高校無償化の問題なりね、そういうのも全部含めてやらなきゃなんないんだって。そこに「変な奴等」が入ってくるのなら排除しなければならないんだって言っているわけ。なんか反原発主義一本(※17)でやっていくとこれはどうなるか怖い。(京都大学新聞2013年5月16日号)

権氏は、日本の反原発運動は、シングルイッシューであるがゆえに、その他の政治的争点を無視していると述べている。本来は、朝鮮高校無償化の問題なども含めて反原発運動は取り組むベきとしている。そして、そこに「変な奴等」が入ってくるならば、排除しなくてはならないと権氏は主張している。その点からいえば、シングルイッシューであるがゆえに右翼も入っている反原発運動は「警戒対象」でしかないのである。

そして、ここで、インタビュアーは「在日特権を許さない市民の会」へのカウンターの問題を提起し、権氏は次のように答えている。

ー今のお話をお聞きして、反原発のみならず「在特会」に反対する社会運動での「左右連帯」を想起しました。この場合も、在特会が主張しているような根本の問題は解決されないどころか温存されてしまう。

 ショックだったよ。日の丸が出てきたりねえ。
 それで反原発を勝ち取ったらまだ「マシ」なんだけれども。
 そういう感じはありますね。しかもね、原発運動というのは、基本的にエコロジーですから一歩間違っちゃうと、生態主義、天皇主義とくっつく可能性がすごく高いね。ロジックとして。そもそも気をつけなくてはいけない。つまり「天皇様から譲り受けたこれだけ綺麗な国土を、西洋白人どもが持ってきた原発によって汚れちゃたまんない」という、実際そういう内容がありますから。しかも日本人共同主義みたいになっちゃって…。
 見ていてね、まあ原発無くなってくれればいいのだけれど、ただ見ていて良いのかな?という心配。であらゆる政治的争点は全部どっか吹っ飛んじゃって。(京都大学新聞2013年5月16日号)

結局、シングルイッシューの名の下に政治的争点を無視して右翼と日の丸を許容した反原発運動は、生態主義・天皇主義に結びつく可能性が高いとし、すでに日本人共同主義になっている指摘しているのである。

権氏の反原発運動についての批判を、とりあえず、権氏の論理にそって紹介してみた。まず、第一に指摘しなくてはならないのだが、権氏の反原発運動に対する情報は、かなり歪曲された形で受容されているのではなかろうかということである。例えば、官邸前抗議行動において、日の丸持ち込みが許容されているのは事実だが、日の丸だけが認められたわけではない。実際、抗議行動に出てみると、日の丸よりも数多く、赤旗、赤黒旗、ゲバラ旗、レインボーフラッグなどが掲げられているのである。主催者の首都圏反原発連合が下記のようなコードによって官邸前抗議行動における政党・組合などの旗をもってくることを歓迎しない姿勢を示しているが、そこには、前記のような旗は含まれていないのである。

(1) 原発問題と直接関連しない文言を掲示することはお控えください。下ろしていただくよう、スタッフがお願いする場合があります。「直接関連しない」とは、その文言だけを見たときに、一般に原発問題と認識されないものを言います。

(2) 市民団体その他で、団体の名称そのものが特定の政治的テーマに関する主張となっている場合も(1)に準じます。

(3) その他の団体名の旗や幟については現場で下ろしていただくことはしませんが、首都圏反原発連合はそれらの幟旗を歓迎しません。所属よりも主張を!ということを強く提案します。
http://coalitionagainstnukes.jp/?p=789

首都圏反原発連合の一員である野間易通は『金曜官邸前抗議』(2012年)の中で、「首都圏反原発連合は日の丸やこれらの旗を『特定の政治的テーマに関する旗や幟』と見なしていなかった。こうしたシンボルに関しては、特定の解釈を押し付けるべきではないと考えていた」(p172)と述べている。

といっても、このような認識は、韓国の権氏だけではない。私も時々そのような質問を受ける。直接反原発デモに行かない人たちの間で、そのような認識がひろまっているのかもしれない。京都大学新聞のインタビュアーも、そのような認識にたっているといえよう。

ただ、たぶん、このように言っても、権氏は納得しないであろう。結局、シングルイッシューで、脱原発一本で、他の政治的争点を無視して、右翼を(つまり日の丸を)受け入れること自体が問題だと答えるだろう。前回のブログで述べたように、権氏の議論は徹底的に原則主義にたつべきとするものであり、「現実主義的対応」すべてが警戒すべきものなのである。それは、慰安婦の問題でもそうであり、自衛隊・在日米軍の問題でもそうであり、この反原発運動でもそうなのである。

ある意味で、確かにすべての問題は関わっている。しかし、それぞれの社会運動はそれぞれの活動対象がある。例えば、朝鮮高校無償化を求める運動において、「反原発」に対する意見があわないといって排除することはできないだろう。それぞれの社会運動はそれぞれの活動対象をもっており、その中で戦略をたてているのだ。シングルイッシューもその戦略の一つである。最小限共有できることで、多くの人びとを運動に参加させていくということなのである。私たちは、自分たちの狭い価値観だけで生きていくことはできない。多様な人びととつながりあうことによってより豊かに生きていけるのである。

しかし、それは、それぞれの社会運動に参加する人びとがそれぞれシングルイッシューしかもっていないということではない。反原発運動に参加する人びとは、それとは別の在特会デモに対するカウンターにも参加するし、生活保護制度改悪の集会にも出席し、沖縄へのオスプレイ配備への抗議行動にも加わる。もちろん、それぞれの人により、関与の度は違うだろう。ただ、全く関心がないということはない。それぞれの個によって支えられているネットワークがあり、それを基盤にして、それぞれの社会運動が成り立っているのである。

さて、もう少し権氏の議論をみていこう。権氏は、インタビュアーの「日本社会内部においては思想の「左右」が溶け合い反戦や反差別についての実質的な対立軸が失われている、そして実質的に韓国なり中国が日本の政権に対する野党勢力の役割を果しているように感じました」という質問に対し、次のように答えている。

だから、国内の政党なりがしっかりやってくれないと、攻撃の対象が全部韓国・中国人になっちゃうわけ。日本の左翼政党がだらしないんで全部が日本人と韓国人・中国人の人種対立みたいになっちゃうわけ…「平和と民主主義」のもとでつくられた戦後日本社会の資産はどこにあるのか。最近ね、僕は日本に対する視点がこれまでずっと批判的だったんだけれど、それでも最近見ていると、僕の予想以上に速くダメになってきたんで悲しいですよ、本当に。怖いし。軍事化、民主主義の後退、生活水準の低下、日本で生活している人が不幸になることじゃないですか、結局。韓国も似たような状況になりつつあるけれど。(京都大学新聞2013年5月16日号)

こうやってみてくると、権氏は「国内の政党」「左翼政党」の復権を求めているということになる。それならば、ある意味では多くの政治的争点を運動が包含すべきだと主張している意図も理解できる。彼にとっては、多くの政治的争点に対しての態度を共有する政党を基盤とした政治運動が中心となるべきと考えているのであろう。確かに、シングルイッシューでしかない反原発運動において、多様な争点をもつ「政治」への関与が課題であることは事実なのだ。しかし、とはいっても、それこそ、自立した個によるネットワークに基づいた形で、従来の「左翼政党」とは違った形の政党が必要とされているのである。そして、その際、それぞれの社会運動、それぞれの個の自立性を認めていくこともまた課題なのであるといえよう。

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さて、今回は、韓国・聖公会大学日本学科教授権赫泰氏のインタビュー記事である「現代日本の『右傾化』と『平和主義』について」(京都大学新聞2013年4月16日号、5月16日号掲載)を紹介しておきたい。権氏は、ある歴史の学会で報告される予定であったが、病気のため報告できなくなった。ただ、すでに報告要旨などはあり、また、主催者側が権氏の議論を自己の責任で紹介するレジュメが配布された。報告要旨やレジュメには、日本の平和主義や反原発運動についてのかなり激しい批判が語られていた。ただ、本人不在で要旨・レジュメ類でその意図をつかむことは難しい。このレジュメ類の中で、部分的に京都大学新聞に掲載された「現代日本の『右傾化』と『平和主義』について」というかなり長いインタビュー記事が部分的に紹介されていた。後日、このインタビュー記事全体を入手した。そこで、このインタビュー記事をもとに、権氏の日本の平和主義や反原発運動についての批判の意味することを検討していきたい。なお、今回は、日本の平和主義についての権氏の見解を中心にみていくことにしたい。

まず、権氏は、韓国では日本を軍国主義というイメージでとらえることが多く、日本の平和主義について、韓国での認識は低かったと指摘している。その上で、近年の日本が右傾化しているということに対しては、

左か右かはそんなに大事な問題ではない…ただ、要するに一言でいえば平和憲法とそのもとで設けられている自衛隊それから在日米軍の問題、これをどうみるかということだと思うんですね、それに尽きる。(京都大学新聞2013年4月16日号)

と述べている。これは、ある意味で、原則主義の立場に立っているといえる。平和主義というのであれば、自衛隊が存在し、在日米軍の核の傘の下にあること、どう向き合うべきなのかをまず考えるべきということになるだろう。

その意味で、権氏は、鋭く、日本の「平和主義」の欺瞞性を鋭く批判する。

で、左派は反対反対反対と言い続けていつの間にか、国旗国歌法が制定される。で、それを呑みこまざるを得ない。憲法にしても同じこと、自衛隊にしても同じことという。その繰り返しがずっと起っている。
 要するに、日本戦後社会、平和主義といった場合、「平和主義」という言葉表現そのものが、一種のいってみれば過剰表現だった。過剰表現というのは「いいすぎ」。どういうことかというと、その言い過ぎの表現があるがために、現実性の麻酔効果があったと思う。つまり、現実では麻酔効果があったと思う。つまり、現実では全く「平和主義」が機能していないのに、あたかも言葉が先行してしまうということ…いや、ただね、だからといって憲法改正がいいのかなんてそんなことはなくて、それでも「歯止め」の役割はあるじゃないですか。だから、憲法をどう、できるだけ良い働き、というか、つまり最小限の防波堤の役割を、憲法に期待せざるを得ない状況、というのは逆にいうとすごく情けないですよね。(京都大学新聞2013年4月16日号)

結局、「平和主義」は現実を麻酔させるものでしかなかったとし、憲法は確かに歯止めにはなっているが、それを憲法に期待することは情けないことではないかと主張しているのである。

権氏にとっては、いわゆる「右傾化」の中心人物たちではなく、むしろ、「現実的な対応」をしようとした人びとたちこそ、より警戒すべきとしている。慰安婦問題が提起されるのは、韓国の民主化があったからとしながら、それに対して、村山談話など日本国家の「謝罪」を構想していった和田春樹などの営為については「謝罪というのはコストがかからない、分りやすくいえばすごい安上がりなんです」と批判し、「これは和田春樹さんの謝罪に基づいて日韓関係に決着をつけようとした、いわゆる現実路線というのは破綻したと思う。」(京都大学新聞2013年4月16日号)と総括している。権氏は、次のように指摘している。

「靖国なんてダサいしそんなところ行かない」「もう悪かった」「ただ憲法は改正します」。どうですか?そういう発想は。僕はそれが一番怖いですよ…日本の保守政権が「現実」路線を取ると思いませんか?(京都大学新聞2013年4月16日号)

そして、権氏は、現実路線をとる可能性が高かったのは民主党政権であったと思うが、結局、民主党ですら「左翼的」といわれてつぶれてしまったと述べている。

そして、権氏は、韓国におけるナショナリズムの問題は、それが批判されるべき問題ではあるが、独島問題などは、韓国ナショナリズムの問題ではあるが、植民地主義の問題でもあるとしている。権氏は、次のように述べている。

基本的にナショナリズムと植民地主義の結合というかたちで捉えるべきじゃないのかな。ナショナリズムを批判すれば何でも解決できると思い込んでいることもちょっとおかしい。特に上野千鶴子さんの台頭後はそんな感じになってきているから。(京都大学新聞2013年4月16日号)

さらに、権氏は、日本においても韓国においても、地域としてのアジア全体の中でとらえようとする思想的営為にかけていると論じている。そして、権氏は、次のように述べている。

…例えば東アジアで生活している人たちが、国別ではなく地域的なレベルで何らかのかたちで平和的秩序を造らないと、一国のレベルで民主主義を成し遂げても、それは不安定であり、あるいは何らかのかたちで周りの人間に被害を与えるという問題意識がすごく大事ですよね。それがなければ、アジア的枠組みでとらえる必要がなくなっちゃう。(京都大学新聞2013年5月16日号)

このように、権氏の日本の平和主義理解は、徹底的に原則主義の上にたっている。その意味で「護憲論」も、自衛隊や在日米軍の問題を無視している限り、平和主義の「麻酔」の中にあると彼は考えているといえよう。つまり、日本の「平和主義」は現実を隠蔽するイデオロギーでしかないのである。そして、権氏の警戒対象は、右傾化の中心人物ではなく、歴史認識と外交問題を切り離し、日本の植民地主義責任などは認めつつ、憲法改正はしようとする「現実的」対応を構想する人びとなのである。真の平和主義ならば自衛隊保有や在日米軍を問題にしなてはならないという原則主義を堅持し、その視点から日本の「平和主義」をイデオロギーとして批判し、現実主義に警戒するということが、権氏の議論の中心にあるといえよう。

権氏のような議論は、確かに、原則を無視して安易な「現実主義」に走ることについての的確な批判であり、その意味で、こういう議論は必要であるといえる。しかし、逆にいえば、どのような具体的な営為が今可能なのかということを提起していないといえる。例えば、確かに平和憲法は「歯止め」でしかないのであるが、それでも、その存在は意義があり、平和憲法を正当性原理とした九条の会のような運動が展開もしている。また、村山談話などが不十分であるだけでなく、国家権力の戦略を含んでいることも事実といえるが、これもまた、このような村山談話も一つの歯止めになっているのだろうと思う。いわば、さまざまな勢力、多様な思想のせめぎ合いの中で、現実の政治や運動は動いているといえよう。その中で、どのような営為が可能なのかということも重視すべきことではないかと考える。

このような権氏の思想的特色は、反原発運動の批判のなかでより鮮明に現れてくる。次回以降、権氏の反原発運動批判を検討していきたい。

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