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Posts Tagged ‘中曽根康弘’

7月22日、拙著『戦後史のなかの福島原発 ー開発政策と地域社会』(大月書店、2500円+税)が出版されることになった。大月書店のサイトから、目次と内容紹介をここであげておく。

戦後史のなかの福島原発 これから出る本

目次
第一章 原子力開発の開始と原子力関連施設の大都市圏からの排除
第一節 原子力開発の開始
第二節 日本原子力研究所東海村立地とリスク認識
第三節 「反原発運動」の源流としての関西研究用原子炉設置反対運動
第四節 原子炉立地審査指針の確定

第二章 地域開発としての福島第一原発の建設(一九六〇-一九六七)
第一節 福島県による原発誘致活動
第二節 福島第一原発立地と地域社会
第三節 福島第一原発の建設

第三章 福島県における原発建設反対運動の展開(一九六八-一九七三)
第一節 原発建設予定地における地権者の反対運動
第二節 一般住民による原発建設反対運動
第三節 福島県議会における反対意見の噴出

第四章 電源交付金制度と原発建設システムの確立(一九七四-一九七九)
第一節 電源交付金制度の成立
第二節 原発依存社会の行方
第三節 「日常の風景」を切り裂いた三・一一

内容説明
「平和利用」と「安全」を信じ、町の繁栄を願って立地を決めた地域。他方、放射能汚染を恐れ立地を阻んだ地域。実験炉導入前後から現在まで、地域社会における原発の受容~変容過程をリスクとリターンの交換という視点から描く。

 

http://www.otsukishoten.co.jp/book/b181018.html

 

本書の源流はこのブログにある。このブログに掲載した文章をもとにいくつかの論考を発表し、さらに、それらをまとめ直して本書になった。本書の執筆・校正の過程で、資料・文献を再度照合しており、より正確な記述になったと思う。出版していただいた大月書店と、細部にわたって的確な意見をいただいた担当編集者の角田三佳さんには感謝の念を申し述べておきたい。

また、このブログを読んでいただいたり、ご意見を頂いたりした皆さまの力があってこそ、本書の出版にこぎ着けられたといえる。そのことにも感謝しておきたい。

しかし、本書が出版されても、福島の原発周辺地域の人びとが苦難していることにはかわりがない。さらに、原発再稼働・原発輸出の動きもやむことはない。安倍政権の動きをみていると、「国民を守る」という大義名分のもとに核兵器保有すらしかねないとさえ思う。そういうことを見直す一助に本書がなることを私は祈念する。

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大飯原発再稼働決定、それに対する反対運動、消費増税法案をめぐる国会内の折衝など、いわば、現在、日本の政治は慌ただしくなっている。

この中で、重要な決定が、ひっそりと目立たない形で行われた。2012年6月20日、原子力規制委員会設置法が参院で可決され、成立したが、その付則で、より上位にある原子力基本法が改変されたのだ。しかも、それは、原子力基本法の基本原則である「民主」「自主」「公開」の原子力三原則の部分である。その部分に「わが国の安全保障に資する」という文言が書き加えられたのだ。

そのことを詳細に伝えているのが、東京新聞朝刊6月21日号である。

「原子力の憲法」こっそり変更

2012年6月21日 朝刊

 二十日に成立した原子力規制委員会設置法の付則で、「原子力の憲法」ともいわれる原子力基本法の基本方針が変更された。基本方針の変更は三十四年ぶり。法案は衆院を通過するまで国会のホームページに掲載されておらず、国民の目に触れない形で、ほとんど議論もなく重大な変更が行われていた。 
 設置法案は、民主党と自民、公明両党の修正協議を経て今月十五日、衆院環境委員長名で提出された。
 基本法の変更は、末尾にある付則の一二条に盛り込まれた。原子力の研究や利用を「平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に」とした基本法二条に一項を追加。原子力利用の「安全確保」は「国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として」行うとした。
 追加された「安全保障に資する」の部分は閣議決定された政府の法案にはなかったが、修正協議で自民党が入れるように主張。民主党が受け入れた。各党関係者によると、異論はなかったという。
 修正協議前に衆院に提出された自公案にも同様の表現があり、先月末の本会議で公明の江田康幸議員は「原子炉等規制法には、輸送時の核物質の防護に関する規定がある。核燃料の技術は軍事転用が可能で、(国際原子力機関=IAEAの)保障措置(査察)に関する規定もある。これらはわが国の安全保障にかかわるものなので、究極の目的として(基本法に)明記した」と答弁。あくまでも核防護の観点から追加したと説明している。
 一方、自公案作成の中心となった塩崎恭久衆院議員は「核の技術を持っているという安全保障上の意味はある」と指摘。「日本を守るため、原子力の技術を安全保障からも理解しないといけない。(反対は)見たくないものを見ない人たちの議論だ」と話した。
 日本初のノーベル賞受賞者となった湯川秀樹らが創設した知識人の集まり「世界平和アピール七人委員会」は十九日、「実質的な軍事利用に道を開く可能性を否定できない」「国益を損ない、禍根を残す」とする緊急アピールを発表した。
◆手続きやり直しを
 原子力規制委員会設置法の付則で原子力基本法が変更されたことは、二つの点で大きな問題がある。
 一つは手続きの問題だ。平和主義や「公開・民主・自主」の三原則を定めた基本法二条は、原子力開発の指針となる重要な条項だ。もし正面から改めることになれば、二〇〇六年に教育基本法が改定された時のように、国民の間で議論が起きることは間違いない。
 ましてや福島原発事故の後である。
 ところが、設置法の付則という形で、より上位にある基本法があっさりと変更されてしまった。設置法案の概要や要綱のどこを読んでも、基本法の変更は記されていない。
 法案は衆院通過後の今月十八日の時点でも国会のホームページに掲載されなかった。これでは国民はチェックのしようがない。
 もう一つの問題は、「安全確保」は「安全保障に資する」ことを目的とするという文言を挿入したことだ。
 ここで言う「安全保障」は、定義について明確な説明がなく、核の軍事利用につながる懸念がぬぐえない。
 この日は改正宇宙航空研究開発機構法も成立した。「平和目的」に限定された条項が変更され、防衛利用への参加を可能にした。
 これでは、どさくさに紛れ、政府が核や宇宙の軍事利用を進めようとしていると疑念を持たれるのも当然だ。
 今回のような手法は公正さに欠け、許されるべきではない。政府は付則を早急に撤廃し、手続きをやり直すべきだ。(加古陽治、宮尾幹成)
<原子力基本法> 原子力の研究と開発、利用の基本方針を掲げた法律。中曽根康弘元首相らが中心となって法案を作成し、1955(昭和30)年12月、自民、社会両党の共同提案で成立した。科学者の国会といわれる日本学術会議が主張した「公開・民主・自主」の3原則が盛り込まれている。原子力船むつの放射線漏れ事故(74年)を受け、原子力安全委員会を創設した78年の改正で、基本方針に「安全の確保を旨として」の文言が追加された。

この原子力基本法における原子力三原則とは、日本の原子力開発の黎明期にさかのぼるものである。1954年、いわば科学者たちを出し抜いた形で中曽根康弘ら改進党が原子力研究予算を要求し実現させたが、このことを憂慮した日本学術会議が同年4月23日に「原子力の研究と利用に関し、公開、民主、自主の原則を要求する声明」を可決した。そして、翌1955年、中曽根らが中心として、原子力基本法が議員立法で制定されたが、その第二条に、この原子力三原則が取り入れられた。原子力基本法の最初の部分は、次のようなものである。

第一章 総則
(目的)
第一条  この法律は、原子力の研究、開発及び利用を推進することによつて、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の振興とを図り、もつて人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与することを目的とする。
(基本方針)
第二条  原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。

いわゆる、原子力基本法に規定された原子力三原則とは、原子力の利用を「平和目的」に限定し、そのために「民主・自主・公開」という三原則を守ることを規定したものである。具体的には、原子力技術を軍事転用させないことを眼目とし、そのために、権力的な秘密研究をさせないこと(民主・公開)、さらにアメリカの核兵器戦略に依拠しないこと(自主)としたのである。

このように、原子力三原則は、原子力研究・開発・利用は「平和利用」に限ることを意図したものである。原子力の研究・開発・利用は、軍事利用が先行して行われており、原発のような「平和利用」といえども、軍事利用は可能である。そもそも中曽根らは、本格的な再軍備を主張しており、核兵器配備・開発も視野に入れていたと考えられる。しかしながら、日本は広島・長崎において原爆に被爆しており、特に1954年においては、ビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験で第五福竜丸などが被曝し、原水爆禁止運動が始まっていた。この状況において、原子力開発を開始するためには、「平和利用」を強調するしかなかったであろう。その意味で、第二次世界大戦と冷戦を前提とした、日本における「戦後の初心」の一つといえる。

この原子力三原則が、非民主的な原子力推進に対する一定の歯止めになっていたとはいえるだろう。少なくとも、現在まで、おおっぴらに、非核三原則もあいまって、日本の原子力技術が軍事転用されたことはなかったといえる。そして、この原子力三原則が、各地の原発建設反対運動においても、根拠にされてきた。例えば、1974年5月30日、日本社会党所属の福島県議であり相双地方原発反対同盟議長であった岩本忠夫は、参議院商工委員会によばれ、次のように述べて、当時審議されていた電源三法に反対している。

私は、そのような危険な原子力発電所を、電源開発促進税法などというもので、あめをもって反対住民を押しつける、なだめる、こういう意図的な法案には私は反対であります。いまこそ私は、原子力基本法にある自主、民主、公開という、その平和三原則を守りつつ、原子力発電所の安全性をさらに大きく見直していく必要があるだろうというふうに考えます。

他方、原子力三原則は、両刃の刃でもある。「平和利用」に限るという歯止めがつけられたのだが、そのことは、逆にいえば、「平和利用」における問題点が見過ごされることになった。一番大きな問題は「安全」である。この「安全」は、後述するように、1978年まで原子力基本法において規定されてこなかった。その意味で、原子力開発の黎明期において、それを正当化するイデオロギーの一つとして機能していたとはいえる。

「安全」については、ようやく1978年に原子力基本法が改正され、「安全の確保を旨として」という文言が書き加えられた。この経過については、別個に検討してみたいと考えている。しかし、この「安全」は、原子力安全委員会が設置されるために付け加えられたものだ。原子力安全委員会による「安全」とはいかなるものか。それは福島第一原発事故の経過をみても了解できることであろう。形骸化された「安全」でしかなかったといえる。

第二条
 原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。

他方、日本政府は、暗黙の形であるが、原子力技術をいわゆる「安全保障に資すること」にするよう意図してきた。以前、本ブログで吉岡斉氏の『新版・原子力の社会史』(2011年)の見解を紹介したが、ここでも再度、掲載しておこう。

こうした原子力民事利用の包括的拡大路線への日本の強いコミットメントの背景に、核武装の潜在力を不断に高めたいという関係者の思惑があったことは、明確であると思われる。たとえば1960年代末から70年代前半にかけての時代には、 NPT署名・批准問題をめぐって、日本の国内で反米ナショナリズムが噴出した。NPT条約が核兵器保有国に一方的に有利な不平等条約であり、それにより日本は核武装へのフリーハンドが失われるばかりでなく、原子力民事利用にも重大な制約が課せられる危険性があるという反対論が、大きな影響力を獲得したのである。とくに自由民主党内の一部には、核兵器へのフリーハンドを奪われることに反発を示す意見が少なくなかったという。こうした反対論噴出のおかげで日本のNPT署名は70年2月、国会での批准はじつに6年後の76年6月にずれ込んだのである。(吉岡前掲書p175)

そして、吉岡氏は、「日本は自国の核武装の技術的潜在力を、非常に高い水準にまで高めてきた」(吉岡前掲書p119)と指摘している。例えば、原爆の材料になるプルトニウムを生産し使用する核燃料再処理工場、高速増殖炉もんじゅ、プルサーマル計画などがそれにあたるだろう。これらの経済的にはひきわない諸事業が存続した一つの要因としては、「核武装の技術的潜在力」を保持するという意図があったと考えられる。その意味で、政府内部においては、「原子力の平和利用」について、「安全保障」的意味も含意していたといえる。

このような背景を前提として、今回の原子力基本法における原子力三原則改変をみていこう。まず、どのように、その部分が変わったか。次に示す。「 」の部分が今回改変された部分である。

(目的)
第一条
 この法律は、原子力の研究、開発及び利用(「以下『原子力利用』という」と付け加えられる)を推進することによつて、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の振興とを図り、もつて人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与することを目的とする。
(基本方針)
第二条
 「原子力利用」(「原子力の研究、開発及び利用」を修正)は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。
「2 前項の安全の確保については、確立された国際的な基準を踏まえ、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として、行うものとする。」

一番大きな修正項目は「前項の安全の確保については、確立された国際的な基準を踏まえ、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として、行うものとする。」という項目が入ったことである。いうなれば、「安全確保」をより詳細に定義したといえる。しかし、そこに「我が国の安全保障に資する」という文言が入っていること、それが大きな「改変」項目といえるのである。

この「改変」の経過、そして考えられる「安全保障」の意味については、追々述べていくつもりである。しかし、ここでは、次のことを確認しておこう。原子力三原則は「平和利用」に原子力開発の目的を限定としたものであり、「安全保障」という文言が付け加えられることは、原子力三原則の精神と相反するといえる。例えば、戦争の放棄を規定した日本国憲法第9条に「安全保障」という文言を付け加えるようなものである。原子力三原則は両刃の刃であり、問題点をはらんでいるが、それも含めて、日本国憲法と同様の「戦後の初心」であった。その意味で東京新聞が原子力基本法を「原子力の憲法」と表現していることは、正しい比喩といえる。それが、「原子力規制委員会設置法」の付則という形で、それ自身が国会においても社会においても十分な議論なしで改変されてしまった。まず、このことを「記憶」しておかねばならない。

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日本の原子力開発は、1955年の原子力基本法制定当時から「平和利用」を旗印としていた。そして、政治的には核不拡散NPT条約体制構築に協力していた。他方、核兵器に転用可能なプルトニウム利用も含む原子力利用の包括的拡大に固執してきた。そのために、経済的には引き合わないにもかかわらず、もんじゅが建設され、再処理工場が設置され、軽水炉におけるプルサーマル計画が推進されてきた。吉岡斉氏は『新版 原子力の社会史』(2011年)において、次のように指摘している。

こうした原子力民事利用の包括的拡大路線への日本の強いコミットメントの背景に、核武装の潜在力を不断に高めたいという関係者の思惑があったことは、明確であると思われる。たとえば1960年代末から70年代前半にかけての時代には、 NPT署名・批准問題をめぐって、日本の国内で反米ナショナリズムが噴出した。NPT条約が核兵器保有国に一方的に有利な不平等条約であり、それにより日本は核武装へのフリーハンドが失われるばかりでなく、原子力民事利用にも重大な制約が課せられる危険性があるという反対論が、大きな影響力を獲得したのである。とくに自由民主党内の一部には、核兵器へのフリーハンドを奪われることに反発を示す意見が少なくなかったという。こうした反対論噴出のおかげで日本のNPT署名は70年2月、国会での批准はじつに6年後の76年6月にずれ込んだのである。(吉岡前掲書p175)

さて、原子力予算が初めて付けられた1954年頃は、どうだったのであろうか。本ブログでも述べたが、1954年に初めて原子力予算をつけたのは、当時の与党である自由党の吉田内閣ではない。当時、重光葵が総裁をつとめていた改進党の中曽根康弘らであった。当時、アメリカは日本に対して、MSA(相互安全保障)援助により、経済的・軍事的に日本にてこ入れを行い、アジア地域における米軍配備を一部肩代わりすることを望んでいた。吉田内閣は、漸進的に自衛力を増強することにして、MSAもその意味で受け入れることを方針としていた。一方改進党や、自由党から分かれた鳩山一郎を中心とする鳩山一郎は、MSA援助を受け入れることにより積極的であり、最新鋭兵器を導入して本格的再軍備を行うことを期待していた。ちなみに、日本社会党は当時右派と左派に分かれていたが、どちらも再軍備反対であった。

こういう情勢において、アイゼンハワー大統領の「アトムズ・フォア・ピース」演説(1953年)を受けて、中曽根らが「原子力の平和利用」を主張したことに、吉岡氏は奇異の念を抱いている。

 

もっとも当時、民族主義的な核武装論者とみられていた中曽根が、アメリカの核物質・核技術の移転解禁のニュースを聞いて、ただちにアメリカからの核物質・核技術の導入を決断したというのは、常識的にはややわかりにくいストーリーである。なぜならアメリカ依存の核開発をとることによって、日本の自主的な核武装がかえって困難となる可能性もあったからである。真の核武装論者ならば、開発初期における多大な困難を承知のうえで自主開発をめざすほうが筋が通っている。当時の中曽根の真意がどこにあったかは不明である。(吉岡前掲書p73)

もちろん、中曽根は、当時も今も、この疑問には答えてくれていない。ただ、中曽根の同僚である小山倉之助代議士(宮城二区選出)が、1954年3月4日の衆議院本会議で、原子力予算を含む改進党による予算案組み替えに賛成する演説を行っている。次をみてほしい。

第四は国防計画についてでありますが、政府は、日本の経済力に順応して漸増すると言うばかりであつて、依然消極的態度に出ております。従つて、保安隊は自衛隊と改名いたしましても、依然として日陰者の存在であるということは免れません。国民は自衛隊に対する愛敬の念薄く、かつまた彼らに栄誉を与える態度に出ておりません。従つて、彼らは国民の信頼を受けているということを意識しないのであります。信頼なき、栄誉なき存在は公の存在とはならぬのでありまして、彼らがその責任を自覚せず、従つて、士気の上らないことは当然であると言わなければなりません。ゆえに、国民は、保安隊を腐敗堕落の温床であるかのごとく、むしろその増強に対して恐怖の念を抱く者さえあることを認めなければなりません。国会においてもしばしば論議の中心となつたのであります。
 しかるに、米国は、日本の国防の前線ともいうべき朝鮮からは二箇師団の撤退を断行し、大統領のメツセージにおいては、友邦に対して新兵器の使用法を教える必要があると声明しておるのであります。私、寡聞にして、いまだ新兵器の発達の全貌を知る由もありませんが、近代兵器の発達はまつたく目まぐるしいものでありまして、これが使用には相当進んだ知識が必要であると思います。現在の日本の学問の程度でこれを理解することは容易なことではなく、青少年時代より科学教育が必要であつて、日本の教育に対する画期的変革を余儀なくさせるのではないかと思うのであります。この新兵器の使用にあたつては、りつぱな訓練を積まなくてはならぬと信ずるのでありますが、政府の態度はこの点においてもはなはだ明白を欠いておるのは、まことに遺憾とするところであります。また、MSAの援助に対して、米国の旧式な兵器を貸与されることを避けるがためにも、新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またはこれを使用する能力を持つことが先決問題であると思うのであります。私は、現在の兵器でさえも日本が学ばなければならぬ多くの点があると信じます。
 元来、軍需工業は、科学並びに化学の粋を集めたものでありまして、平和産業に利用する部分も相当あると存じます。第二次世界大戦では、日本の軍人は世界の科学の進歩の程度に盲目であつて、日本人同士が他の日本人よりすぐれておるというばかりで優越感を覚え、驕慢にして他に学ぶの謙虚な精神の欠乏から大敗を招いたことは、われわれの親しく経験したところであります。MSA援助の中にも大いに学ぶところがあり、学ばなければならぬと思います。これはわが国再興の要諦であると信じます。
 わが党は、原子炉製造のために原子力関係の基礎調査研究費として二億三千五百万円、ウラニウム、チタニウム、ゲルマニウムの探鉱費、製錬費として千五百万円を要求し、三派のいれるところとなつたのでありますが、米国の期待する原子力の平和的使用を目ざして、その熱心に推進しておる方針に従つて世界の四十箇国が加盟しておるのでありまして、これは第三次産業革命に備えんとするものでありまするから、この現状にかんがみ、これまで無関係であつた日本として、将来原子力発電に参加する意図をもつて、優秀な若い学者を動員して研究調査せしめ、国家の大計を立てんとする趣旨に出たものであります。(拍手)(国会会議録検索システム)

引用した部分の前半部では、小山は、吉田内閣の打ち出した漸進的な防衛力増強方針を批判し、このままでは自衛隊は日陰者になってしまうとした。さらに、小山は、米軍は朝鮮半島から部隊を一部撤収することを宣言し、その代替として、友邦の国に米軍の新兵器の使用法を教えるとしていると述べた。MSAは、米軍のプレゼンスを日本その他で代替するためのものとして、小山は理解していたのである。しかし、米軍の新兵器はかなりすすんだもので、教育・訓練がされないと導入できないと小山はいっている。小山によれば、そのために、米軍のより旧式な兵器が押し付けられてしまうのではないかとしている。それをさけるためにも「新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またはこれを使用する能力を持つことが先決問題であると思うのであります。」と小山は述べているのである。

この発言は重要である。小山は、MSAによって、アメリカは順次新兵器を供与するとしている。その中には、原子兵器も含まれているのである。しかし、そのためには、原子兵器を含む新兵器について「教育」されてなくてはいけないと小山は主張しているのである。

この後、小山は、軍事技術の平和転用を主張し、その前提で原子力の平和利用の必要性を主張している。この点は、アイゼンハワーの「アトムズ・フォア・ピース」演説の精神に即しているといえるだろう。しかし、他方で、すでに述べてきたように、MSA援助で順次核兵器も供与されると小山は考えーアメリカがこの段階で日本に核兵器を供与するとは思い難いのだがー、そのための「教育」として「原子力の平和利用」があったと考えられないのであろうか。その意味で、当時の中曽根康弘らの改進党の原子力政策はそれなりに首尾一貫していたといえるのである。そのように仮説的に考えられるのである。

もちろん、この方針がそのまま通ったわけではない。前述したように、アメリカが日本に核兵器を供与するとは思いがたい。また、国会でも社会党は左右とも再軍備反対であり、この時期、実際の原子力開発の主体として考えられていた日本学術会議の科学者たちも、原子力技術の軍事転用を忌避していた。その中で、ある意味曲折しながら、日本の原子力開発は開始されたといえよう。

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福島第一原発事故以後、よくいわれることは、日本は広島・長崎に原爆投下されて、原子力の危険性はよくわかっているにもかかわらず、なぜ、原発開発を全面的に押し進めたということである。

このことについては、さまざまな要因が考えられるであろう。日本人といっても、一概には概括できない。原子力予算を1954年にはじめて提起した中曽根康弘らは、保守党の中でも本格的な再軍備を指向したグループ(改進党)だった。一方で、1955年の原子力基本法の制定については、彼らだけでなく、この時点での本格的再軍備を望まなかったといわれている吉田茂に近いグループ(自由党)や、再軍備に反対していた日本社会党の人びとも参画していた。このことについては、また、詳論しなくてはならない。

ただ、総じていえば、これらの人びとに共通して、「原子力の平和利用」へのあこがれがあったといえるだろう。それは、例えば、1954年に成立した原水爆禁止運動においても通底していた。このブログでも前に紹介したが、1954年5月28日に中野区議会において「原子兵器放棄並びに実験禁止その他要請の決議」が提案され、これも全会一致で可決した。提案者近藤正二は、決議の趣旨について、次のように語っている。

(前略)
 今般のビキニにおきますところの伝えまするところの実況と申しますものは、そのビキニ環礁におきますところの爆発点におきましては、地下百七十五フィート半径一マイルの大きな穴を起しまして、そこの噴火口から爆発いたしました所の珊瑚礁の飛沫というものが富士山の三倍の高さまで到達し、それが今日見ますような空から灰が降る、あるいはもらい水であるところの雨水にまでもその放射能によるところの被害というものが感ぜられるわけでございます。
 翻って考えまするに、原子力の破壊力というものは、七年前に比べますると、その力は一千倍の惨害を呈するところにまで至っておりまして、今日の日進月歩の科学の力をもっていたしまするならば今後その猛烈な破壊力の到達するところは、これを戦争目的あるいは破壊的な形において実験するならば、人類は真に破滅に瀕するということは、もはや明瞭な事実でございます。しかるに人類は現在この原子力を持ちましたことによりまして、かつて人類の歴史に見なかったところの光栄ある未来を築き、精神的にもまた物質的にも偉大な繁栄が、この原子力の平和的な利用ということにかかって存在し得るのでありまして、逆な形で今申したごとく、これを破壊目的に使用するならば、人類は破滅に瀕するという、まことに人類の歴史にとって、かつてない重大な危機に立っておると言っていいのであります。
(後略 『中野区史』昭和資料編二 1973年)

核戦争には恐怖を示す一方で、「原子力の平和利用」には多大な期待をもっていたのである。

このような意識は、戦前核兵器を開発していた科学者にもみられた。このブログでもとりあげた武谷三男は、京都帝国大学を卒業し、湯川秀樹、朝永振一郎などと素粒子論を研究していた。戦時期においては、反ファシズムを主張した雑誌『世界文化』『土曜日』などに関係して検挙される一方で、原爆開発研究にも関与していた。そして、戦後においては、民主的科学者として数々の発言を行った。

その武谷は、「原子力を平和につかえば」という文章を『婦人画報』1952年8月号に寄稿している。この文章は、武谷の『戦争と科学』(1958年1月刊)に収録されている(なお、引用は『武谷三男著作集』3、1968年より行った)。

この文章が掲載されたのは、サンフランシスコ講和条約が1952年4月に発効した直後のことであった。GHQは日本における原子力研究を禁止していたが、講和条約においては原子力研究を禁止しておらず、講和条約発効後は、原子力研究・開発は可能になった。その時点で、武谷は、「原子力の平和利用」を主張したのである。中曽根らの原子力予算提起よりも2年近く前のことである。

武谷は、まず、核戦争の脅威と悲惨を、このように述べている。

 

原子力という名が、われわれ日本人にあたえる感じは、決してよいものではない。広島、長崎の無残な記憶がますます心のいたみを強くしているのに、ふたたび日本をもっとすさまじい原子攻撃の標的にしようという計画がおしすすめられている。そのような計画は権力と正義の宣伝によって行われるので、国民の多数がこれはいけないと気がついたときには、手おくれになるかも知れない。
 キュリー夫人、ジュリオ=キュリー夫人、マイトナー女史、このような平和主義的母性の名をもって象徴される原子力が、このような、人類の破滅をも考えさせるものにどうしてなったのだろうか。原子力は悲惨を生むためにしか役立たないのだろうか。
 初期の原子爆弾の1発だけで高性能火薬2万トンのエネルギーをもっている。今日研究が進められている水素爆弾1発で関東地方全域に被害をおよぼすことができる。(『戦争と科学』p129)

この武谷の考えを図像化したものが、次の図の左側部分である。キュリー夫人らの原子物理学の発展が原子工場をへて、原水爆投下につながっていくことがここで描かれている。図の中には「水素爆弾一発で関東地方全滅」というキャプションも挿入されている。

武谷三男『戦争と化学』p,p130-131

武谷三男『戦争と化学』p,p130-131

しかし、ここで、武谷は、次のように主張する。

 

このような大きなエネルギーを、人類の破滅のためにではなく、人類の幸福のために使えないのだろうか。そうだ! 原子力はほんとは人類の幸福のために追求され、また人類の将来の幸福を約束している それを現実化するためには、戦争をほっする人々に権力を与えないだけで十分なのだ。(『戦争と科学』p129)

武谷は、原子力は本来人類の幸福のために使うものであると、ここで提起したのである。武谷は、地上の自然力、水力も風力も、石炭も石油もすべてみなもとは太陽の光であり、その根源が原子力であることを研究者は解き明かしたとした。「そして、間もなく、地球上で原子の奥ふかくひそむ巨大なエネルギーを解放することに成功したのであった」(『戦争と科学』p134)と述べている。このことを示しているのが、先の図の右側部分である。たぶん、上の方に描かれているのが太陽である。それは、石油、水力、石炭などのエネルギーの源泉なのだ。さらに、もう一度左側部分にもどれば、この太陽の光は、原水爆とも通底していることになろう。

その上で、武谷は、原爆製造をしているアメリカの原子炉では、100万キロワットの電力に相当する熱を冷却水を通じて捨てている、このような原子炉を使った発電所が10基あれば、当時の日本の発電総量(700万キロワット)は凌駕することになる、ウラニウム40トンで日本の1年間の電力をまかなうことができる、飛行機で運べる程度の燃料しか要しないので、全世界どこでも発電所が建設可能になると述べている。

その上で、下図に示すような、「原子力の平和利用」がもたらす、「明るい未来」を提示した。

武谷三男『戦争と化学』p.p132-133

武谷三男『戦争と化学』p.p132-133

武谷は、次のように述べている。

 

だから原子力が利用されるようになると北極や南極のような寒い地方、絶海の孤島、砂漠などが開発され、そういう地方にも大規模な産業が行なわれ、大都市を作ることができるようになる。また、ロケットで地球外にとび出すこともできるようになろう。全く太陽に相当したものを人間が手に入れたのだから当然だろう。(『戦争と科学』p.p134-135)

今や、なにかめまいのしそうなほど、楽天的な未来予想図である。これらについては、先の図の中に、ロケットや原子力による砂漠開発として描かれている。

そして、日本についても、武谷は、このように主張している。

 

日本なども電力危機は完全に解消されるだろう。そして電力をもっと自由に家庭に使用することができる。今日の日本の一般家庭では電灯とラジオ位にしか使われていないが、台所の電化はもちろん、煖房、冷房、洗濯、掃除もすべて電力で行われることになるだろう(『戦争と科学』p135)

このような家庭電化は、原発だけのことではないが、実現している。さらに、次のような電力の農業利用を主張している。これも戦後日本で実現したことであった。これは、先の図の中にも出ている。

 

農業にも電力がふんだんに使われると、これまでできにくかったことができる。大規模な温室、太陽灯を使って、いつでも新鮮な野菜や果物ができるだろう。また、砂漠や水のない地方にも、地下水を深い所からどんどん汲みだして、農業を行なうことができるだろう(『戦争と科学』p135)

武谷にとっては、放射性廃棄物も有効利用されるべきものなのである。次のようにいっている。

 

原子力の副産物として、大量にそしていろいろな種類の放射性元素が得られる。これも軍事的には恐るべき放射線戦争に使おうと考えられている。しかし、平和的に使うならばいろいろな化学変化の研究や医学に使われる。例えば、植物が行なっている同化作用もこれを使って大分明らかになった。しまいに澱粉の人工合成ができるようになるかも知れない。
 また人体の新陳代謝の機構も放射性元素で明らかにされつつある。きっと近い中に肥った人がやせたり、やせる人が肥ることも自由になるだろう。また皮膚が美しくするような化粧法も実現するだろう。(『戦争と科学』p.p135-136)

もちろん、その後の放射線医療などには放射線元素などが使われているのだが…。先の図の「アトミック整形医院」などはそれにあたるだろう。

基本的に、原子力のリスクは軍事利用のものとし、「平和利用」については、放射性廃棄物までプラスのものとしてみているのである。その上で、将来の近代化の願望を実現するものとして、「原子力の平和利用」をとらえているのである。

武谷は、このような近代化を実現する「原子力の平和利用」は、被爆国日本の権利であると、『改造』1952年11月号に掲載した「日本の原子力研究の方向」(『武谷三男著作集』2、1968年、p471より引用)で提言している。

 

日本人は、原子爆弾を自らの身にうけた世界が唯一の被害者であるから、少くとも原子力に関する限り、最も強力な発言の資格がある。原爆で殺された人びとの霊のためにも、日本人の手で原子力の研究を進め、しかも、人を殺す原子力研究は一切日本人の手で絶対に行なわない。そして平和的な原子力の研究は日本人は最もこれを行う権利をもっており、そのためには諸外国はあらゆる援助をなすべき義務がある。
 ウランについても、諸外国は、日本の平和的研究のために必要な量を無条件に入手の便宜を計る義務がある。
 日本で行う原子力研究の一切は公表すべきである。また日本で行う原子力研究には、外国の秘密の知識は一切教わらない。また外国と秘密な関係は一切結ばない。日本の原子力研究所(なお、この時点では日本原子力研究所は設置されていない)のいかなる場所にも、如何なる人の出入も拒否しない。また研究のためいかなる人がそこで研究することを申込んでも拒否しない。

武谷は、被爆国日本であるからこそ、原子力の平和利用をすすめる権利があるとしている。そして、それは、軍事目的で行うアメリカなどの研究から秘密情報を得ることなく自主的に進めるべきであり、研究自体公表すべきものとした。さらに、どのような人が日本の研究所に立ち入っても拒否しないとしている。これらの原則は、軍事利用に転用せず平和利用に日本の原子力開発は限定しなくてはならないというところからたてられているといえよう。この提言は、最終的に、「公開」「民主」「自主」からなる原子力三原則という形でまとめられた、1954年の日本学術会議声明の源流となった。そして、この原子力三原則は、1955年に策定された原子力基本法にも取り入れられたのである。

さて、もう一度、武谷の議論に立ち返ってみよう。一方で「原子力の平和利用」への大きな願望があり、他方で被爆国としての核兵器・核戦争への忌避観が、この武谷の議論の二つの柱であったといえる。そして、この段階での武谷の議論は、原子力のリスクをもっぱら軍事利用に即してとらえ、平和利用においてはリスクをほぼ無視しているといえるのである。

武谷自身は、このブログでも多少ふれたように、1950年代後半には原子力のリスクを認識し、原子力開発のあり方を強く批判していくようになる。その意味で、武谷について、ここで批判するつもりはない。ただ、一つ、言いたいことは、この時点での武谷の議論は、武谷個人のものというよりも、この当時の日本社会の原子力に関する意識構造をある意味ではクリアにみせているのではないかということである。被爆国であるがゆえに、核兵器としての軍事利用には強く反対しつつ、その反対物として平和利用を称揚し、被爆国の権利としてしまう。そして、「原子力の平和利用」においてもさけることができないリスクを無視する。これは、武谷に限定できることではなかった。そして、このような意識が、日本の原子力開発・利用の根底に流れているのではなかろうか。そのような思いにかられるのである。

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科学史家であり、現在、政府の「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」委員を勤めている吉岡斉が『新版 原子力の社会史』(2011年、朝日新聞出版)を出版した。吉岡は、本書旧版を1999年に出版している。新版と旧版との最大の違いは、新版においては、2011年の福島第一原発事故に至る過程まで執筆していることである。

ここで、吉岡が本書で提起している原子力開発利用の時代区分をみていこう。吉岡は、次のように原子力開発を時期区分している。

第Ⅰ期  戦時研究から禁止・休眠の時代(1939〜53)
第Ⅱ期  制度化と試行錯誤の時代(1954〜65)
第Ⅲ期 テイクオフと諸問題の噴出の時代(1966〜79)
第Ⅳ期 安定成長と民営化の時代(1980〜94)
第Ⅴ期  事故・事件の続発と開発利用低迷の時代(1995〜2010)
第Ⅵ期 原子力開発利用斜陽化の時代(2011〜)
(本書p29)

第Ⅰ期(1939〜53)は、いうまでもなく、戦時期から占領期にあたる。アメリカなどと同様に、日本においても戦時期には核兵器開発をめざして原子力開発が開始された。しかし、1945年の敗戦により、日本は占領され、原子力開発は基本的に禁止された。1952年に発効したサンフランシスコ講和条約は原子力開発を禁止していなかったが、科学界の大勢は慎重論が強く、しばらく原子力開発は休眠されていた。

第Ⅱ期(1954〜65)は、高度経済成長期の前半にあたる。1954年に改進党の中曽根康弘らによって原子力開発予算が提案され、可決された。このことは、原子力開発開始の契機となった。この時期には、一方で、原子力委員会、科学技術庁、日本原子力研究所、原子燃料公社(後に動力炉・核燃料開発事業団となる)などが設立された。他方で、電力業界ー通産省を中心とした原子力利用の推進体制が形作られた。吉岡は、日本の原子力開発利用体制を「二元体制的国策共同体」とよび、一方の極を高速増殖炉・核燃料再処理工場などを独自技術で開発する科学技術庁グループ、もう一方の極を、アメリカなどの技術導入により商業用原子炉建設などの原子力利用を推進する電力ー通産連合とし、その二つの極の関係で、日本の原子力開発利用体制を分析している。吉岡によると、第Ⅱ期において、このような二元体制が確立したとしている。最初の商業炉である東海第一原発は1960年に建設されたが、営業運転が開始されたのは1966年である。福島第一原発については、この時期の1960年に立地が決定され、1963年に用地買収が始まった。しかし、実際の着工は、次の第Ⅲ期である1967年であり、営業運転は1971年からである。この時期だけでいえば、いまだ実験的な段階にとどまっていたといえる。

第Ⅲ期(1965〜79)は、高度経済成長期の後半から石油ショック以後の景気後退期にあたる。この時期、電力・通産連合は、アメリカの軽水炉技術を導入し、さかんに商業炉建設を進めた。福島第一原発の立地や用地買収は第Ⅱ期から開始されているが、実際の建設や営業運転の開始はこの時期であり、この軽水炉技術の導入によるものである。現存する商業炉はこの時期以降のものであることにも注目されたい。福島第二原発や浪江・小高原発(建設予定)の立地計画も1969年である。この時期は、毎年2機のベースで商業炉は増設を続けられた。他方、科学技術庁グループも、動力炉・核燃料開発事業団を中心に、新型転換炉、高速増殖炉、核燃料再処理などの諸事業を本格的に推進するようになった。

しかし、第Ⅲ期は、さまざまな問題を抱えていた。各地で建設された原発は、故障・事故を続発し、設備利用率が低迷する一方で、反対運動を惹起し、新規立地は困難になっていた。1974年の電源交付金制度創設は、その状況に対処するものであったといえる。他方で、科学技術庁グループが開発していた核燃料サイクル事業は、核兵器拡散防止のためプルトニウムの国際管理を進めようとしていたアメリカとの外交的摩擦を招いた。また、科学技術庁グループの開発していた諸事業を商業的に実用化することについても壁にぶちあたっていた。

第Ⅳ期(1980〜94)は、1990年前後のバブル期を中心とする時代である。第Ⅲ期に噴出した諸問題をとりあえず克服して、原子力開発・利用は、安定成長を続けた。商業炉は毎年1.5基のベースで増設されていった。廃棄物処理なども着手された。科学技術庁グループの諸事業も高速増殖炉を除いて民営化され、電力ー通産連合によって、経済的採算がとれないまま、実用化が企画されるようになった。

しかし、この時期、欧米においては、スリーマイル島原発事故(1979)、チェルノブイリ原発事故(1986)などを契機として、原発建設が停滞状況にはいった時期であった。日本が推進していた高速増殖炉事業についても、欧米諸国は撤退するようになった。吉岡は、この時期を「国際的孤高」と表現している。

第Ⅴ期(1995〜2010)は、ポストバブル期といえる時期である。この時期には、もんじゅ事故(1995)、東海村再処理工場事故(1997)、東海村JCO臨界事故(1999)、美浜原発事故(2004)、柏崎刈谷原発地震被災(2007)など、原発関連の事故が相次ぎ、事故を隠蔽しようとする電力会社の姿勢もあいまって、世論の批判を招いた。原発建設はスローダウンし、設備利用率も落ち込んだ。そして、もんじゅ事故などの責任をとらされる形で科学技術庁が解体され、いわば、電力ー経産(通産省の後身)連合に一元化することになった。他方で、電力の自由化論が提起され、電力会社の独占が脅かされた。電力会社は、国策としての原子力推進を人質にとる形で、電力の自由化を克服しようとしたと吉岡はいう。そして、福島第一原発事故直前において、原発は地球温暖化に対応する経済的でクリーンなエネルギー源という宣伝がなされ、成長戦略として開発途上国などへの原発輸出が推進されようとしていた。

第Ⅵ期(2011〜)は、原子力開発利用の見直しの時期であると吉岡は述べている。福島第一原発事故の直接の影響で、十数基の原発は廃炉せざるをえず、原発開発に偏重したエネルギー対策は見直されざるをえないだろうとしている。特に核燃料サイクル事業の継続は困難になるであろうとしているのである。

この時代区分をみていてまず感じたのは、アメリカの資源・技術導入による軽水炉などの原子力利用と、自前で独自技術を確立しようとする原子力開発の矛盾である。前者が電力ー通産連合、後者が科学技術庁グループで表現されていると思う。戦後日本においては、アメリカへの従属と、日本の主体性の確立がせめぎ合いながらも、混在して存在している。1954年、そもそも、アメリカへの従属姿勢が強い吉田政権に反発し、本格的再軍備を主張した改進党の中曽根らのグループが、ある意味で、新たなアメリカへの従属を意味する原子力開発・利用を主張するということに、まずそのことが表明されていると思う。

さらに、当たり前だが、原子力開発・利用が強く推進された時期は、高度経済成長期・バブル期などの成長を指向した時期に重なっているということである。この時期は、経済成長ー電力需要増大ー新規原発建設というサイクルがまわっていたといえる。反対運動を硬軟ともにおさえこんで、原発建設が進められたといえる。

しかし、1995年以降のポストバブル期には、すでに原発建設は曲がり角であった。原発事故は続出するとともに、低成長により電力需要は伸び悩んだ。また、電力の自由化論が台頭し、原子力発電の優位性は脅かされていた。こうなってみると、福島第一原発事故は、ポストバブル期の原発建設にからんだ問題を今一度表現したものといえる。

以上、とりあえず、私見も多少交えながら、吉岡の時代区分を総体としてみてきた。自分自身としては、より細かく、原子力開発・利用の歴史的経過を今後みていきたい。

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さて、よく原発立地自治体において、原発存続の必要性について、雇用確保や地域経済振興の観点から主張されることがある。例えば、このブログで紹介した開沼博さんの『フクシマ論ー原子力ムラはなぜ生まれたのか』(2011年)には、原発が立地している地域の人びとの声をこのように紹介している。

「中越沖地震で新潟の原発とまったときは、みんな仕事探す人がこっちさ(福島に)来て、こっちの人も仕事なくなってみんな困ったんだから。早く動かしてもらわないと困るって。」
「そりゃー原発で働けるのが一番だ。地元の高校で一番優秀な子から東電とか上のほうの会社に就職できるんだから。」
そこにあるのは、外から見ている限り決してつかみきれない原発を半世紀近くにわたって抱擁し続けてきた「幸福感」だった。

こういうことが実際にないとはいわない。原発立地自治体の多くは過疎地域にあり、原発も相対的には大きな雇用先となっていることはいえる。また、原発が立地することによって固定資産税収入が増額され、それぞれの自治体財政が豊かになったことは否定できない。

しかし、原発が立地することにより発生する地域経済発展は、立地自治体がそれのみで満足できるものであったのだろうか。それならば、なぜ、原発立地自治体に巨額な電源三法交付金が支給されているのであろうか。

1950年代から1960年代中葉にかけて、福島県知事や県議たちは、原発立地を契機とした双葉郡の地域開発構想を福島県議会で物語っていた。しかし、実際に原発が建設され稼働するようになった1960年代末から1970年代中葉にかけては、福島第二原発や小高・浪江原発建設反対運動が地元でも展開され、今まで沈黙していた日本社会党の県議たちもしきりに原発建設反対を県議会で表明するようになった。このような原発反対の世論形成がなぜ行われたのかは、今検討している最中である。さまざまな要因があると思うが、一つに原発建設により地域経済が目に見えて発展していかなかったということもあげられるであろう。

このように、1960年代末から1970年代中葉にかけて、いろいろな意味で原発建設反対運動が各地に展開されるようになった。そのような原発建設反対運動への政府の対応として創出されたのが、1974年に制定された電源三法交付金制度なのである。

電源三法とは、電源開発促進税法、旧電源開発促進対策特別会計法(現在は特別会計に関する法律に一括されている)、発電用施設周辺地域整備法の三法をさす。この三法は、田中角栄政権期の1974年6月6日に成立した。実際には、ほぼ1年前の7月に政府より提案されていたが、継続審議となり、翌年の国会で成立したのである。

電源三法のしくみを簡単にいえば、電力料金に上乗せして電源開発促進税を徴収し、電源開発促進対策特別会計に繰り入れ、その資金を火力発電所以外の原子力発電所、水力発電所、地熱発電所が立地する自治体に対し、主に公共用施設建設を目的に交付するというものである(現在はやや使用目的が拡大しているが)。

この電源三法交付金制度制定のねらいにつき、主管である中曽根康弘通産相ーまたしても、中曽根が原子力行政に関わるのだーは、1973年7月11日の衆議院商工委員会で、得々と語っている。具体的には発電用施設周辺地域整備法案の提案理由であるが、電源三法交付金制度全体について語っているといえるであろう。

○中曽根国務大臣 発電用施設周辺地域整備法案につきまして、その提案理由及び要旨を御説明申し上げます。
 わが国の電力需要は、国民生活の向上と国民経済の発展に伴い、今後とも毎年一〇%程度の伸びが予想されています。
 他方、ここ数年電力会社が発電所の立地を計画しても、地元の同意が得られないため、国の電源開発計画に組み入れることのできないものが増加しており、また、これに組み入れた後においても地元住民の反対にあって建設に着工できない例も多々生ずるに至っております。このままの状態が続けば、数年後には電力不足がきわめて深刻な問題となることが懸念されるところであります。
 このような住民の反対の根底には、一つには環境保全の問題があることは御承知のとおりであり、発電所設置による公害を防止し環境を保全するため、今後とも最大限の努力を払うことは言うまでもないところでありますが、立地難のもう一つの理由として、発電所等の立地による雇用機会の増加等による地元の振興に対する寄与が他産業に比べて少ないということが大きな問題としてあげられようと存じます。事実、発電所等の立地が予定されている地点の地方公共団体は、住民福祉の向上に資する各種の公共用施設の整備事業の推進声強く要望しております。
 本法案は、このような状況を踏まえて、発電所等の立地を円滑化し、電気の安定供給の確保に資するため、発電所等の周辺地域において住民福祉の向上に必要な公共用施設の整備事業を推進するための措置を講じようとするものであります。
 次に本法案の概要について御説明いたします。
 第一は、国は、火力発電施設、原子力発電施設等の発電用施設の設置が確実である地点のうち、その設置の円滑化をはかる上で、公共用施設を整備することが必要であると認められる地点を指定し、公示することとしていることであります。これについては、当該地点が工業再配置促進法の移転促進地域をはじめ一定要件に該当する地域に属するときは指定しないこととしております。
 第二は、この指定された地点の属する都道府直の知事は、当該地点が属する市町村の区域とこわに隣接する市町村の区域において行なおうとする道路、港湾、漁港、水道、都市公園等の公共用施設の整備計画を作成し、国の承認を求めることにしております。この計画には、公共用施設の整備に関する事業の概要と経費の概算について定めるもので、他の法律の規定による地域の整備等に関する計画との調和及び地域の環境の保全について適切な配慮が払われるようにしております。
 第三は、整備計画に基づく事業の実施に要する経費の一部を発電用施設を設置する者に負担させることができることとしております。これは、発電用施設を設置する者が地域社会に対する協力という観点から行なうもので、整備計画に基づくを設置する者と協議して、地方公共団体の負担する金額の一部を負担させることができることとしています。なお、国は、この経費の負担について関係者の申し出があればあっせんに当たることししています。
 第四は、国が承認した整備計画に基づいて地方公共団体が実施する事業のうち、特定の施設の整備事業については通常の補助率を特別に引き上げて適用することとする等事業の円滑な実施をはかることとしています。この特定の施設は、道路、港湾、漁港、水道及び都市公園のうちから政令で定めることとなっておりますが、たとえば市町村道路は、通常三分の二とされているのを四分の三に、漁港は十分の五を十分の六に引き上げることができることにしております。このほか、国は地方債の起債について配慮する等財政上、金融上の援助措置を講ずることといたしております。
 以上が、この法律案の提案理由及びその要旨であります。
 何とぞ慎重御審議の上、御賛同くださいますようお願い申し上げます。
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=3240&SAVED_RID=2&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=4&DOC_ID=14868&DPAGE=2&DTOTAL=51&DPOS=39&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&MODE=1&DMY=4824

当時、石油ショックのさなかで、石油を使う火力発電所から、原子力発電所などへの転換がさけばれていた。この法律の正当性はその点に求められていた。しかし、中曽根は、より露骨に、反対運動に対処するために必要であると言い切っているのである。

その上で、中曽根は、これもまた露骨に、「立地難のもう一つの理由として、発電所等の立地による雇用機会の増加等による地元の振興に対する寄与が他産業に比べて少ないということが大きな問題としてあげられようと存じます。事実、発電所等の立地が予定されている地点の地方公共団体は、住民福祉の向上に資する各種の公共用施設の整備事業の推進声強く要望しております。」と断言している。発電所建設は思ったほど地元の発展に寄与していないことは、政府の主管者である通産相中曽根康弘ですら認めているのである。そのために、地元自治体から要望を受けているとしているのである。

その上で、中曽根は「本法案は、このような状況を踏まえて、発電所等の立地を円滑化し、電気の安定供給の確保に資するため、発電所等の周辺地域において住民福祉の向上に必要な公共用施設の整備事業を推進するための措置を講じようとするものであります。」と述べているのである。

1954年にはじめて原子力開発予算を予算につけた時、中曽根の仲間たちは「札束で学者の顔をひっぱたく」などといったものだ。この1974年の電源三法交付金制度は、まさに住民の顔を札束でひっぱたくものであるといえる。そして、いえることは、国家ですら、原発建設が地域経済振興に十分寄与するものとみていなかったことである。

なお、原発立地自治体は多くは税収が見込めない過疎地域にあり、なんらかの助成が必要であった(もちろん今も必要である)ことは否定しない。しかし、原発に反対する住民を抑圧し、結局は原発に依存するしかない自治体運営を強いるような電源三法交付金制度は問題であるといわざるをえない。

他方、このような電源三法交付金制度は、結局のところ、補助金などにより公共投資を行うことを優先してきた、日本の地方統治の一例であるとも思える。より大きな文脈の中で、検討していく必要があろう。

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1954年の第五福竜丸事件がもたらした原子力への恐怖は、当時の資料をみていると、現在の風評被害を思いおこすものがある。かつて、私は、本ブログで、このように書いた。

……第五福竜丸事件は、マグロ漁船が被曝し(なお、被曝した漁船は第五福竜丸だけではない)、被曝したマグロ(水爆マグロ・原爆マグロとよばれた)が市場に流通し、さらに水爆実験により多くの放射性物質がまきちらされたため、より身近に放射線への恐怖をうむことになった。そして、今日と同様、水産物(被曝とは無関係なものも含めて)は買い控えられた。https://tokyopastpresent.wordpress.com/2011/06/19/%E3%80%8C%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%88%A9%E7%94%A8%E3%80%8D%E3%82%92%E8%82%AF%E5%AE%9A%E3%81%97%E3%81%A6%E5%87%BA%E7%99%BA%E3%81%97%E3%81%9F%E5%8E%9F%E6%B0%B4%E7%88%86/

第五福竜丸事件の直後は、多くの水産物が買い控えられた。ニュース映像などをみていると、「原爆マグロ」にガイガーカウンターをあてている姿を発見できる。それをみていると、複雑な気持ちになる。なぜ、あのとき、食品の放射能汚染対策を検討しなかったのかと。

もちろん、何も起きなかったわけではない。第五福竜丸事件は、日本における原水爆禁止運動の発火点となった。本ブログで、このように私は書いた。

また、広島・長崎の原爆投下も思い起こされ、原爆・水爆などの核兵器を禁止しようとする原水爆禁止運動が展開した。 この原水爆禁止運動は、保守層も含めた多様な人々に当初賛成されていた。例えば、1954年4月1日には、衆議院本会議で、当時の自由党幹事長であった佐藤栄作によって「原子力の国際管理に関する決議」が提案され、全会一致で可決された。「全会一致」といえば、あの中曽根康弘も賛成したことになる。決議は下記のようなものである。 「本院は、原子力の国際管理とその平和利用並びに原子兵器の使用禁止の実現を促進し、さらに原子兵器の実験による被害防止を確保するため国際連合がただちに有効適切な措置をとることを要請する」(丸浜江里子『原水禁署名運動の誕生―東京・杉並の住民パワーと水脈』、2011年より引用)。 参議院でも4月5日に「原子力国際管理並びに原子兵器禁止に関する決議」が提案され、全会一致で可決された。

ここで、この衆議院の「原子力の国際管理に関する決議」をみておこう。もちろん、主眼が原子兵器の使用禁止とその実験による被害の防止にあることはあきらかだ。しかし、本ブログでも強調していたように、この決議では「原子力の平和利用」が促進されていたことにもなるのである。つまりは、原子力兵器の使用禁止と原子力の平和利用促進ということが、この決議では中心になっていたのである。

このような不思議な意識は、中曽根康弘みたいな保守系政治家がイニシアチブを握っていた衆議院だからおこったことではない。今、みている1954年当時の資料にはたびたびでていることである。ここでは、以前、このブログで紹介した中野区議会の例をだしておこう。1954年5月28日に、中野区議会において「原子兵器放棄並びに実験禁止その他要請の決議」が提案され、これも全会一致で可決した。提案者近藤正二は、決議の趣旨について、次のように語っている。

(前略)  今般のビキニにおきますところの伝えまするところの実況と申しますものは、そのビキニ環礁におきますところの爆発点におきましては、地下百七十五フィート半径一マイルの大きな穴を起しまして、そこの噴火口から爆発いたしました所の珊瑚礁の飛沫というものが富士山の三倍の高さまで到達し、それが今日見ますような空から灰が降る、あるいはもらい水であるところの雨水にまでもその放射能によるところの被害というものが感ぜられるわけでございます。  翻って考えまするに、原子力の破壊力というものは、七年前に比べますると、その力は一千倍の惨害を呈するところにまで至っておりまして、今日の日進月歩の科学の力をもっていたしまするならば今後その猛烈な破壊力の到達するところは、これを戦争目的あるいは破壊的な形において実験するならば、人類は真に破滅に瀕するということは、もはや明瞭な事実でございます。しかるに人類は現在この原子力を持ちましたことによりまして、かつて人類の歴史に見なかったところの光栄ある未来を築き、精神的にもまた物質的にも偉大な繁栄が、この原子力の平和的な利用ということにかかって存在し得るのでありまして、逆な形で今申したごとく、これを破壊目的に使用するならば、人類は破滅に瀕するという、まことに人類の歴史にとって、かつてない重大な危機に立っておると言っていいのであります。 (後略 『中野区史』昭和資料編二 1973年)

前もいったが、近藤正二は、当時無所属であったが、後に社会党に入っている。その意味で、彼は保守層ということもできないのだ。原子力の平和利用に対するある種の幻想がそこにあるといえる。原子力に対する恐怖と幻想がここにないまぜになっているのだ。

このような意識をもっていたのは、区会議員たちだけではない。前回紹介したように、当時『中野新報』というローカル紙が、アンケートを実施した。アンケートに答えて大和住宅共同組合理事長渡辺潜は、次のように語っている。

一、水爆実験に対する非難の声、今後実験中止を要求する声は世界的に起こって来た。日本は被害体験者だけに憤りや恐怖心の入り交じった混乱した気持は一番激しいのは当然である。
一、水爆実験の結果は原子力の前には戦争は不可能になったという事を実証したと思ふそこで
(一)原子力の超国家機関による管理、(二)原子力の平和利用(既に各国によって進められつつある。例えば発電所の建設、医学的な応用等無限にその分野は開拓されつつある。新しい産業革命は原子力によってもたらされるであろう)について世界的な運動が必要である。広島や長崎又ビキニなどで被害を受けた最初のそして最大の犠牲者を出した日本こそは堂々と世界の与論を喚起しなければならないと思う。原子力の国外に立っている、まことにあわれな政治の姿ではあるが又それならばこそすぐれた政治家の奮起を待望してやまないのである。

原子力兵器への恐怖と原子力の平和利用への幻想が、ここでもないまぜになっている。

前のブログでは、とりあえず「科学信仰」ということに、このような意識をもつ原因をもとめた。それは間違っていないとは思うが、それだけなのだろうか。そういった思いが、その時も禁じえなかった。

その後、必要があって、雨宮昭一さんの『占領と改革』(2008年、岩波新書)を読んだ。本書は、雨宮さんの年来の主張である、戦後体制の源流を戦時体制にもとめるという主張が、非常にわかりやすく語られていた。

その中で、1950年代の政治状況を、雨宮さんはこのように総括している。

 

しかし、それ(講和直後日本の大規模な再軍備が阻止されたこと)は日本の戦後体制にとって大きな意味をもった。まず大規模な再軍備による経済の軍事化をおこなわなかったがゆえに、その後、民需中心の経済が展開され、憲法改正を阻止することにもなった。
 また経済問題では、共産党を含めたほとんどの政党が経済自立など生産の近代化、効率化を主張したことにも注目しておきたい(日本社会党本部「完全雇用を目標とする経済自立四ヶ年計画(第四次修正案)」、日本共産党中央委員会『日本共産党綱領集』)。こうして改憲が不可能になり、五五年共産党が武装蜂起を放棄するなどして憲法秩序に参入したこともあって、法体制としての日本国憲法体制がつくられ、経済においても民需産業中心の体制ができていった。国際体制としては前述のように、戦勝国体制としてのポツダム体制のうえにやがて戦争責任と植民地責任に「寛大」な片面講和によって日米安保体制が形成されていく。
 安保体制を認めるのか否定するのか、改憲か護憲かをめぐって政治における五五年体制が形成される。そこでは、守られた憲法第九条が戦争責任の免責とかかわっており、戦争責任問題や社会主義・資本主義とは異なって福祉国家へつながる協同主義などが冷戦体制の中で封印された。

それこそ、戦後形成された五五年体制は「安保体制を認めるのか否定するのか、改憲か護憲かをめぐって」対立するものであった。しかし、それをこえて「民需中心」とするということに、主要な政治勢力は反対していなかったことに注目しなくてはならない。そして、結果的に、本格的再軍備は、少なくともこの時点では阻止された。つまりは、民需中心の体制に転換していったのである。

その意味で、1954年当時、多くの人々が、核兵器に反対しつつ、「原子力の平和利用」に多大な幻想をもったということは、このような民需中心への体制転換を象徴することではなかったのかと思うのである。

しかし、一方で、これは、原子力の「軍事利用」を「平和利用」におきかえただけにも思えるのである。結局、「平和利用」ということで、原子力のもっている危険性には目をふさいだのではなかろうか。核兵器だけが危険なのではない。それにもかかわらず、「平和利用」という名目がつくことによって「原子力」を認めてしまうーいや、さらなる発展を期待してしまうのである。

五五年体制は民需中心の体制といったが、それこそ、経済発展それ自体を「国策」として最大限推進する体制である。そして、このことには、財界だけでなく、官僚・政党・マスコミも異議はなかったであろう。「原子力の平和利用」はーとりあえず核兵器と違ってー経済発展の中で把握されている。そして、たぶん、今でも「原子力の平和利用」を否定することは「国策」としての経済発展を否定するというように、財界・官僚・政党・マスコミは意識していると考えられる。「原発」の擁護は、単に東電の顔色をうかがってのことではない。むしろ、それこそ五五年体制以来の「国策」としての「経済発展」に支障がないようにすることのほうが強く意識されているのではないかと、仮説的には考えるのである。

このように「国策」を第一義的に考えることーそれこそ、戦前から引き継いだ体質のように思えるのである。

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