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Posts Tagged ‘上中町’

本ブログでは、前回、1957年の福井県原子力懇談会の発足についてふれた。その2年後の1959年の統一地方選で、羽根盛一にかわって北栄造が福井県知事に就任した。さらにその1年後の1960年3月9日の福井県議会で、自由民主党所属福井県議会議員松田守一は、福井県原子力懇談会について、次のように発言した。

次は第二点として原子核エネルギーの問題でございます。原子力は平和産業にのみ利用されるべきは世界的世論であり、また当然落ち着くべき姿であらねばならんと考えるものであります。(「その通り」と呼ぶ者あり)。コバルト60は臨床医学にまた繊維産業工業にと利用され、アイソトープはまた農業において非常に幅広く利用されまして、その効用は増大し、範囲は研究とともに拡大して産業に一大変革をもたらさんとしつつあり、原子力研究の立ちおくれは産業界における敗北を暗示するものであるといってもあえて言い過ぎではないと思うのでございます。わが国におきましても各府県は競ってアイソトープ実験室の設置に着手しているそうでございまして、わずかに静岡県と本県のみが未着手でございますが、静岡県ではすでにその動きがあり、ひとり本県のみが取り残されておるというように思うものでございます。本県におきましては御承知のように昭和三十二年四月に原子力懇談会なるものが羽根知事を会長として発足したのでございますが、その規約において、目的及び事業として「本会は福井県下における原子核エネルギーの利用に関する県民の知識を向上せしめ、かつその利用の促進をはかることを目的とする」とうたい、事業として六項目を掲げておりますが、その構成会員は主として民間会社であり、あるいは民間人であり、その予算たるや三十数万に過ぎないのでございまして、県費は内わずかに年頭五万円を支出しているありさまで、発足以来すでに三カ年を経過しているにもかかわらず、わずかな専門書を抱えておるのみで、いまだ見るべき何らの具体策もなく、年々いたずらに貴重なる歳費を空費している現状ではなかろうかと思われるのでございます。富山県では二千万円の予算をもって農業試験場長を管理人として昭和三十三年八月にアイソトープ照射室と実験室が完成しているのでございます。本県においてはこれが取り扱いの国家試験の資格者が一人もおらず、また一人の原子核に対する専門学者もおらないという哀れな現状でございます。知事は原子力懇談会なるものが羽根知事の遺産として気が進まなかったのか、あるいは御就任以来寧日なく、そのいとまなくして今日に至ったかはあえて問わんとするところではございませんが、原子力研究に対する世界的趨勢にいつまでも目を覆っておるということを許されない現状であるということはすでに今日御認識のことと思うのでございます。知事は本県における原子力研究の展開をどう計画しておられるかお聞かせ願いたいのでございます。
 次にこれは私の一私見でございますが、窮迫せる県財政の現状において知事がもし大がかりな計画は困難であるとお考えになりますならば、京都大学の原子核研究所を福井県に誘致されるのも適切な方法の一つではなかろうかと思うのでございます。御承知のように京都大学は最初四条畷に研究所の建設を計画したようでございますが、人家の密集地帯でもあり、反対されて宙に迷っておるようでございます。本県において調査すれば適地があるのではなかろうかと思われるのでございます。福井大学に今年度より応用物理学科が新設されるそうでまことに御同慶にたえないところでございますが、科学万能の時代に即応すべく福井大学を総合大学たらせるべく強力に働きかける必要があろうかと思うのでございます。この運動と京都大学の研究室とを抱き合わせて、もし実現をみますならば国費でもって研究所が本県にでき上がり、福井大学生も研究に参加することができまして、将来福井県下に多数の専門技術者の確保が約束され、原子力事業の成果は期して待つべきものがあろうかと考えられるのでございます。御参考までに愚見を申し上げたわけでございますが、これに対する知事の率直なる御批判を承りたいのでございます。(『第93回福井県議会会議録』p218−220)

松田はまず原子力は「平和産業」のみにに利用されるべきことは世界的世論であるとした上で、コバルト60などの放射性アイソトープの臨床医学、繊維産業工学、農業への利用についてふれ、「産業に一大変革をもたらさんとしつつあり、原子力研究の立ちおくれは産業界における敗北を暗示する」と述べている。そして、富山県などの他県ではアイソトープ実験室が建設されているが、福井県では福井県原子力懇談会が設置されているものの、具体的な事業は始まっていないとしている。羽根知事の遺産として忌避しているのではないかと懸念を示しつつ、松田は「原子力研究に対する世界的趨勢にいつまでも目を覆っておるということを許されない現状であるということはすでに今日御認識のことと思うのでございます。知事は本県における原子力研究の展開をどう計画しておられるかお聞かせ願いたいのでございます」と北栄造知事に問いかけた。

さらに松田は、より具体的に京都大学の「原子核研究所」を福井県に誘致することを提案した。この京都大学の「原子核研究所」とは、より一般的には「関西研究用原子炉」として知られているもので、東海村の日本原子力研究所に次いで1956年に原子力委員会が設置を決めたものである。ただ、この関西研究用原子炉については、京都府宇治市・大阪府高槻市・大阪府交野町・大阪府四條畷町と候補地があがるたびに反対運動にさらされ、誘致が頓挫していた。松田は、それを福井県にもってこようとしているのである。彼によれば、京都大学の「原子核研究所」を福井県に誘致できれば、福井大学の応用物理学科も共同利用でき、福井大学の総合大学としての発展もみこめるとしているのである。

このような松田の質問に対して、北栄造知事は次のように答弁している。

原子核、いわゆる新エネルギーの問題でございます。原子力懇談会は私来まして二回ほど開催いたしたのでございますが、仰せのように中央より学者等も来ていただいておりませんし、ここにそういう権威者もおられませんので、暗中模索の状態でございますので、これにつきまして、私見として京大の原子核研究所を持ってきたらどうか、また原子力関係をもう少し他県のように何か考えておるかというようなことをいろいろお話がございましたが、北電が坂井郡地方、それから関西配電が今のところ若狭でございますが、まだこれはいろいろ話を聞いとる程度でございます。十分な折衝はいたしておりませんけれども、原子力発電所というような構想を考え調査中でございまして、これはまあ私もこの発電所がどういうことになるかわかりませんけれども、これら関西なりと連絡いたしまして、こうした進んだエネルギーのいわゆる調査と申しますか、一つの土台になりまするような施設を持って参りたい。今申し上げますように、これに対する地元がどういう要望、反対がありますかどうかわかりません。もう少し検討いたしまして今仰せられるようにもう少し勉強いたさなきゃならんと考えておる次第でございますが、いろいろこういう点につきまして御指導をいただきたい、かように考えておる次第でございます。
 福井大学を総合大学にする、応用物理学科ができますので、これは非常に現在の学長も相当な権威者でございます。いろいろ総合大学にするための、農業科でございますか、こういうこともいろいろ議題にはのぼっておったのでございますが、将来国の財源もこの大学に来ることになりますれば、県といたしましても大学を一層総合的規模にしなければならんあ、かように思っておる次第でございます。(『第93回福井県議会会議録』p225)

この答弁は興味深い。北栄造は、原子力発電所の建設計画の打診があったことをもらしている。具体的には、北陸電力の坂井地方への原発建設計画と、関西電力の若狭地方への原発建設計画があるとしているのである。しかしながら、北知事は、この段階では慎重で「これに対する地元がどういう要望、反対がありますかどうかわかりません」としており、もう少し検討しなくてはならないとしているのである。そして、関西研究用原子炉誘致については、松田の意見としてうかがっておくという姿勢をこの答弁ではとっている。

この議論が示すように、1960年3月9日の時点で、福井県においては、一方でアイソトープ実験室の設置など自前で原子力研究開発を行おうという意欲もありながらも、外部の原子力施設を誘致しようという気運が高まっていたのである。その場合、この時点では、二つの対象があった。その一つは、松田守一が提起した、関西研究用原子炉であった。しかし、すでに、北知事のところには、電力会社側から原発建設計画が打診されていたのである。

1960年3月の時点で、まず行われたのは、関西研究用原子炉の誘致活動であった。このブログで以前論じたが、福井県原子力懇談会は3月15日に関西研究用原子炉誘致に乗り出すことを決定した。そして、その候補となったのが、若狭地方の上中町と坂井地方の川西町であった。たぶん、すでに、北栄造知事のもとで検討されていた原発建設計画の候補地が、関西研究用原子炉建設の候補地となったのであろう。その意味で、1960年の原子力施設誘致運動の開始は、その後の原発誘致に直結していたといえよう。

*なお、その後の関西研究用原子炉の誘致活動自体は、本ブログの下記の記事を参考にしてほしい。

https://tokyopastpresent.wordpress.com/2012/10/21/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E7%9C%8C%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E9%96%A2%E8%A5%BF%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%94%A8%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%82%89%E8%AA%98%E8%87%B4%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%83%BC%E9%96%A2%E8%A5%BF%E9%9B%BB/

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関西研究用原子炉交野町設置案が挫折し、その後も立地に苦労している状況の下、福井県が研究用原子炉設置に乗り出すことになった。以前、本ブログでこの問題にふれたが、あまり十分に検討したとはいえない。ここで、もう一度、この過程をみておこう。

  • 関西研究用原子炉四条畷町設置案の帰趨
  • その前に、交野町設置案挫折後の関西研究用原子炉設置問題の帰趨をみていこう。交野町設置案挫折後、その南にある大阪府四条畷町に設置する案が浮上した。広重徹『戦後日本の科学運動』や門上登史夫『実録原子炉物語』を参考として、この経緯を追ってみることにする。1959年12月7日の大阪府原子力平和利用協議会において、四条畷町を原子炉設置候補地にすることが正式に決定された。そして協議会会長の田中副知事が京大・阪大両学長を伴い、四条畷町及隣接の大東市に協力を申し入れた。そして、12日には四条畷町で説明会が開かれ、その際は中曽根科学技術庁長官や阪大・京大総長も出席したが、表立った反対はなかった。しかし、12月15日には住民が設置反対を叫んで四条畷町役場におしかけ、翌16日には四条畷町議会全員協議会が開かれ、町議会議員全員が大阪府原子力平和利用協議会に反対陳情に行くことが決められ、17日には町議会議員全員が住民200人とともに府庁に赴いた。この日、大阪府庁への陳情後、四条畷町議会が開催され、設置反対が決議された。20日には大東市で説明会が開かれたが、激しい野次で混乱し、流会となった。27日には四条畷町で関西原子炉設置反対期成同盟の決起大会が開かれ、デモ行進が行われた。

    ただ、四条畷町・大東市とも、反対派ばかりではなく賛成派もいて、地域内で対立しあう状態となった。しかし、1960年3月23日にも大東市議会は四条畷町設置案を白紙に戻せとする決議を行い、翌24日には、四条畷町の反対規制同盟400人が府庁に陳情に行くという状態であり、反対意見は根強く主張されていた。そして、四条畷町では、反対意見を表明しなかった町長が6月にリコールされることになったのである。
     

  • 福井県における関西研究用原子炉誘致運動の開始
  •  
    このように、宇治・高槻・交野・四条畷などへの関西研究用原子炉設置案が住民の反対運動で挫折していった中で、関西圏外の福井県より、関西研究用原子炉設置を誘致しようという動きがみられるようになった。美浜町の『美浜町行政史』(1970年)によると、福井県では1957年に「原子力の開発及び平和利用を目的とした福井県原子力懇談会」(会長福井県知事)が設立され、誘致活動を開始したとされている。1957年は、関西研究用原子炉建設計画が具体化した時期であり、かなり早期から、誘致活動に乗り出したといえる。

    そして、1960年には、関西地域における設置が難航していた関西研究用原子炉を福井県に誘致する運動が惹起された。福井新聞朝刊1960年3月16日号には、次のような記事が載せられている。

    研究用原子炉 ぜひ本県へ 県原子力懇が運動 北知事にも協力要請

    県原子力懇談会は十五日福井市人絹会館で幹事会を開き、研究用原子炉を福井県へ誘致するための運動を起こすことを決め、県の方針としてこれを打ち出すよう同日北知事へ申し入れた。

     “立候補せば有力”

    土地の買収でいま問題になっている関西研究用原子炉の建設見通しが行き詰まってきたので、県原子力懇談会ではこの際思い切って福井県へ誘致してはとかねてから準備をすすめていた。実情調査のため京都大学にある関西研究用原子炉設置準備委員会へ派遣した小野寺福井大学助教授(懇談会幹事)の調査結果がこのほどまとまったので、それを検討したうえで誘致運動を起こすことにしたもの。
    小野寺助教授が関西炉設置準備委員の藤本、丹羽両京大教授、川合同大学事務官らにあって聞いたところによると、大阪府下では候補地がなく、最近では淡路島へでもという情勢にあるようで、福井県が候補地として名乗りをあげればかなり有力になるだろうとのこと。さらに放射能の危険度は極めて低く、炉が設置されると産業、観光、教育面でのプラスが大きい点などが明らかにされた。
    具体的な誘致運動については県と原子力懇談会が話し合って決めてゆくが、一部革新勢力、民主団体などの反対も予想されるので、運動するに当っては県民各層の意見を十分聞いたうえで行なうことを申し合わせた。
     中西原子力懇談会副会長の話 知事へ申し入れたところさっそく実情を調べて努力すると約束した。候補地については県内に二、三ヵ所あるが、十分調べて決めたい。これからの産業も文化も原子力をおいて考えられないからぜひ本県へ誘致したいと思っている。
     小野寺福大助教授の話 八月になると政府が出す土地買収収用の補助金千五百万円が失効するので、それまでに決めなければならないわけだ。土地の広さは三十三万平方メートル(十万坪)あれば十分で、よく水の出る井戸一本、それに下流に飲料用の水源地のないことが条件だった。放射能による川水や海水の汚染はほとんど考えられず、そういった心配はないと私は確信している。

    このように、前述の福井県原子力懇談会が中心となって、関西研究用原子炉を福井県に誘致しようという運動が惹起されたのである。特に、この中で、国立大学である福井大学の教員が積極的な役割を演じ、河川や海における放射能汚染はほとんど考えられないと主張していることは注目される。

  • 第一候補地であった福井県上中町(嶺南)
  • そして、福井県遠敷郡上中町長(現若狭町)が、関西研究用原子炉誘致を当時の中曽根康弘科学技術庁長官に、原発誘致を陳情した。そのことを詳細に伝えている福井新聞朝刊1960年3月18日号の記事をここで紹介しておく。

    研究用原子炉 上中町(膳部)に誘致を 玉井町長がすでに政府と折衝 全町あげて促進 中曽根長官も熱意示す

    玉井上中町長はさきに上京して首相官邸で中曽根科学技術庁長官に会い、研究用原子炉を同町新道地区膳部に誘致する話し合いを行なった。科学技術庁ではいま関西に研究用原子炉の設置を計画、大阪、京都府下に候補地を選定している。しかし各地区で土地買収がうまくゆかず最終候補地である大阪府北河内郡四条畷は地元民の反対にあい難航をきわめている。最近では淡路島九州方面に土地を求めて誘致する気配もみえている。このような情勢から上中町では関西に地の利を得た膳部を選定、中曽根長官に申し入れたもの。

    膳部は上中町中心部から約五キロの地点で滋賀県と県境にあり、国道二十七号線と同京都ー小浜線との中間にはさまれている。ともに約二時間で京都、敦賀に出ることができる。候補地は四方を山で囲まれた盆地で清水がわき出ている。昔は若狭藩主酒井侯の隠し田といわれ、総面積五十万平方メートル、研究用原子炉敷設の条件といわれる、三十二万平方メートルの平たん地、水利の二点では申し分なく、しかも関西に近いという地理的条件にも合致している。中曽根長官は膳部の建設に非常な熱意を示したといわれ、四条畷に建設が不可能な場合、本格的な調査を行うことを伝えた。すでに上中町会でも誘致を了承、また地元膳部では署名で玉井町長あてに誘致促進方を陳情する動きも出ており、今のところ全町あげての熱意を示している。なお同町長は中曽根長官と会見後東海村の原子力研究所の立地条件を視察した。

    玉井町長の話 中曽根長官は関西原子力研究所を九州に誘致しなければならないと心配していたところなので大変喜んでくれた。条件としては申し分ないといっていた。今後は県原子力懇談会と同調してぜひ誘致を実現したい。

    この上中町というところは、いわゆる「嶺南」地域にあった。沿海部というよりも、小浜市より南側の山間部に所在していた。この記事の中で、すでに中曽根康弘科学技術庁長官(当時)に陳情していること、先進地の東海村を視察していることに注目しておきたい。

  • 二番手で手をあげた福井県川西町(嶺北)
  • さらに、福井新聞朝刊3月19日号に、次の記事が掲載された。この記事では、福井県坂井郡川西町(現福井市)も関西研究用原子炉誘致に立候補したこと、そして、福井県の原子力誘致機関である福井県原子力懇談会では、川西町も含め、複数の地点を候補地として、関西研究用原子炉誘致をはかっていこうとする意向があったことが報道されている。

    原子炉の誘致運動 川西町も名乗りあげる

    鷹巣か三里浜に 北会長(県原子力懇談会)に申し入れ

    関西研究用原子炉を誘致しようと上中町では積極的に運動を起こしているが、川西町でも同町鷹巣地区か三里浜砂丘地に誘致するよう働きかけてくれと、十八日同町の小林助役が非公式に県原子力懇談会長の北知事へ申し入れた。

    県懇談会 現地調査始む

    一方北会長は最近県内へ原子炉を誘致しようとする運動が起こっているので、十七日長谷川福井大学長と会い、学術上の意見を聞いた。この結果「たとえ誘致しても付近の人畜に与える危険はない」との見解を得たので同懇談会では県内候補地の現地調査にとりかかった。川西町の候補地へは十八日、県原子力懇談会事務局の係員が山田町長、長谷川産業課長らの案内で下検分し、資料を持ち帰った。

    同候補地は海岸沿いの鷹巣地区糸崎台地区、石橋、白方の三ヵ所。糸崎では糸崎山付近を中心に約三十二万平方メートルの敷地があげられる。海岸線まで約五百メートル離れており、糸崎山から流れる水を十分使用できる。付近には松蔭、蓑浦、糸崎、和布の四区があるが原子炉の中心から三百メートル以上も離れているのでまず危険性がないといわれる。一方三里浜海岸の白方、石橋は必要な水源地確保問題に難色があり糸崎よりは条件が悪い。同町では今後、地元との土地買収に力を入れるが、地元ではいまところ深い関心を示していない。山田同町長は「今後地元との話し合いを進め、ぜひ同町に原子炉を誘致したい。半農半漁地帯なので、設置されれば、地元の繁栄はもちろん本県の文化向上にも大いに役立つので、県に近く正式に陳情書を提出して本格的な誘致運動をしたい」といっている。
    このほか候補地として北潟湖の近くの国有地(芦原ゴルフ場付近)もあげられているので、懇談会では政府や原子炉を建設する京都大の意向を聞いて、もし本県に設置してもよいということになれば、県、県会、有識者などの代表で用地選定委員会をつくりたいようである。

    この川西町は、いわゆる福井県の「嶺北」地方にあたっている。福井市の北西で、沿海部であった。この記事の中でも、福井大学長が危険性がないと明言している。しかし、原子炉の中心から300m以上人家が離れているから危険性がないとしているが、これは、交野町設置案でも推進側が主張した意見である。そして、交野町周辺の住民は1kmも離れていないことを設置反対の理由としていたのである。

    上中町については、『福井県史』通史編6(1996年)で「上中町は住民の合意が得られず誘致運動は進展しなかった」(同書716頁)と述べられている。しかし、福井新聞朝刊3月26日号では、川西町における最有力候補地の糸崎地区の周辺の、松蔭、蓑、糸崎、和布の四区長が建設に同意したことを伝えており、川西町では住民の合意は得られたのである。

  • 原子炉設置反対の声
  • しかし、福島県などとは異なって、福井県では原子炉設置に反対する主張がみられた。福井新聞朝刊1960年3月18日号では「県会で原子爐誘致を追及」という見出しで、17日の福井県議会の総務委員会で社会党の斎藤敬一県議が原子炉誘致方針を追及したことが報道されている。この記事では「斎藤氏の主張によれば『どこの県でも受け入れないものをなぜ県が積極的に誘致しようとするのか』というもの。なお社会党議員団ではもしこの誘致運動が具体化されれば、全組織を動員するといっている。」と述べている。福井県の社会党は、誘致に反対であったといえる。

    4月には、福井県レベルの総評系労働組合のセンターであった福井県労働組合評議会(福井県労評)も、原子炉誘致に反対の姿勢をとった。福井新聞朝刊1960年4月5日号には、次のような記事が掲載されている。
     
     

    誘致には反対 県労評、態度を決める 関西原子炉

    県労評は四日福井市の労働会館で執行委員会を開き、研究用の関西原子炉を県内に誘致する問題について協議した結果「いまの段階では自主、民主、公開の三原則が守られない恐れがある」などの理由から誘致には反対の線を打ち出し近く県にこの旨を申し入れることを決めた。
    研究用原子炉の誘致についてはすでに上中町と川西町が名乗りをあげているので、県労評としては何らかの態度をとるよう考えて、総評の大阪地評などと連絡をとって検討していた。
    この結果①研究の成果が軍事的に利用される恐れがある②上中、川西いずれの場合にも近くの川や海が放射能で汚染される恐れがある③誘致は全県民的な問題なのに、誘致運動は議会や理事会などが勝手に進めているなど自主、民主、公開という原子力研究の三原則をおかしているというもの。
    県労評では、こんご強い誘致運動が行なわれる場合は、関西の民主団体とも連絡して全県的な誘致反対運動を始める考えでいる。

    このように、福井県では、社会党・福井県労評などにおいて、関西研究原子炉設置反対の主張がみられた。この前提には、京都府・大阪府の各地で行われた関西研究用原子炉設置反対の住民運動の影響があったと思われる。

  • 福井県における関西研究用原子炉誘致活動の歴史的意味
  • 結局、関西研究用原子炉は、1960年末に大阪府熊取町に建設が決定され、福井県に研究用原子炉が建設されることはなかった。しかし、その後も福井県により原子力施設誘致の運動は継続され、1962年、日本原子力発電株式会社は、東海村に建設されている東海原発の次の商用炉建設の候補地を福井県川西町として調査を行った。川西町は原発建設の前提となる堅固な地盤が存在しないため候補地から外されたが、日本原電は福井県内で調査を続け、敦賀半島の二地点を候補地とすることになった。この二つが、いまの原電敦賀原発と、関西電力美浜原発となった。つまり、関西研究用原子炉誘致運動は、それ自体としては挫折したが、その後、福井県嶺南地方で集中的に原発建設が行われる契機となったのである。

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    さて、ここから、大飯原発を含む福井県の原子力施設群がどのようにしてできあがっていたかをみていくことにしよう。美浜町の『美浜町行政史』(1970年)によると、福井県では1957年に「原子力の開発及び平和利用を目的とした福井県原子力懇談会(会長福井県知事)を設立し、誘致活動を開始したとされている。1957年は、関西研究用原子炉建設計画が具体化した時期であり、かなり早期から、誘致活動に乗り出したといえる。

    そして、実際の誘致対象も、関西研究用原子炉であった。関西研究用原子炉は、京都府宇治市、大阪府高槻市、大阪府交野町、大阪府四條畷町などが次々と候補にあがったが、そのたびに住民の反対運動にあって建設計画が挫折していた。そこで、福井県遠敷郡上中町長(現若狭町)が、1960年3月に関西研究用原子炉誘致を当時の中曽根康弘科学技術庁長官に、原発誘致を陳情した。そのことを詳細に伝えている福井新聞朝刊1960年3月18日号の記事をここで紹介しておく。

    研究用原子炉 上中町(膳部)に誘致を 玉井町長がすでに政府と折衝 全町あげて促進 中曽根長官も熱意示す

    玉井上中町長はさきに上京して首相官邸で中曽根科学技術庁長官に会い、研究用原子炉を同町新道地区膳部に誘致する話し合いを行なった。科学技術庁ではいま関西に研究用原子炉の設置を計画、大阪、京都府下に候補地を選定している。しかし各地区で土地買収がうまくゆかず最終候補地である大阪府北河内郡四条畷は地元民の反対にあい難航をきわめている。最近では淡路島九州方面に土地を求めて誘致する気配もみえている。このような情勢から上中町では関西に地の利を得た膳部を選定、中曽根長官に申し入れたもの。

    膳部は上中町中心部から約五キロの地点で滋賀県と県境にあり、国道二十七号線と同京都ー小浜線との中間にはさまれている。ともに約二時間で京都、敦賀に出ることができる。候補地は四方を山で囲まれた盆地で清水がわき出ている。昔は若狭藩主酒井侯の隠し田といわれ、総面積五十万平方メートル、研究用原子炉敷設の条件といわれる、三十二万平方メートルの平たん地、水利の二点では申し分なく、しかも関西に近いという地理的条件にも合致している。中曽根長官は膳部の建設に非常な熱意を示したといわれ、四条畷に建設が不可能な場合、本格的な調査を行うことを伝えた。すでに上中町会でも誘致を了承、また地元膳部では署名で玉井町長あてに誘致促進方を陳情する動きも出ており、今のところ全町あげての熱意を示している。なお同町長は中曽根長官と会見後東海村の原子力研究所の立地条件を視察した。

    玉井町長の話 中曽根長官は関西原子力研究所を九州に誘致しなければならないと心配していたところなので大変喜んでくれた。条件としては申し分ないといっていた。今後は県原子力懇談会と同調してぜひ誘致を実現したい。

    この上中町膳部というところはどういうところか。現在上中町は若狭町となり、膳部という地名も見当たらない。ただ、新聞に掲載された図を参考にしてみると、次のようなところらしい。

    この地図の中に「安賀里局」というところがあるが、大体、その東側らしい。現在若狭ゴルフ場や嶺南牧場という施設があるところではないかと思われる。そうなると、丘の上ということになる。他方、交通手段としては、小浜線と若狭街道がある。小浜からみれば東方であり、県境近くの山間部である。しかし、この地は、京都に塩鯖を運んだ若狭街道が通っており、往古は小浜よりも京都に近い地として意識されていたようだ。研究用原子炉については、研究者が多く居住する大都市近郊がベターであるという認識があり、それにも合致していると考えられる。

    しかし、『福井県史』通史編6(1996年)によると「上中町は住民の合意が得られず誘致運動は進展しなかった」とされている。他方、この上中町の誘致方針と競争するように、福井県北部の坂井郡川西町(現福井市)が関西研究用原子炉誘致の名乗りをあげた。そして、川西町の誘致運動が、福井県初の商業炉ー原発の誘致運動へと継続していく。これらのことは、次回以降のブログで紹介したい。

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