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Posts Tagged ‘リベラル’

現在、安倍政権によって、集団的自衛権を核とする安全保障法制制定が着々と進められている。それに対し、元自民党の有力者など保守派の人びとも含めて、広い範囲でデモや抗議活動が国会前はじめ、全国津々浦々で行なわれている。8月30日には、国会前で12万人が抗議活動に参加し、全国では30万人が運動に参加したといわれている。

他方、保守派も含めて安保法制反対運動に集め、多数派を形成することへの懸念も表明されている。例えば、優秀な在日朝鮮人史研究者である鄭栄恒は、【朴露子-鄭栄桓 教授対談】「過去に囚われるのをやめようという『韓日和解論』、中国と対立を呼ぶリスク」の中で、このように発言している。

鄭「日本の歴史修正主義を見る時は二つの対象を見なければならない。一つは、韓国でも批判する45年前の歴史修正主義だ。もう一つは、日本の敗戦後の歴史修正主義だ。 (日本の戦後の歴史と関連して)90年代までの日本のリベラルや進歩は、日本の歴代政権が平和憲法を正しく守らないと主張してきた。日本を真の平和国家にするための批判とみることができる。しかし今の進歩勢力は、戦後日本の歴史そのものを美化し、平和国家を安倍政権が破壊しているとのスタイルで批判する。新自由主義の影響のせいか、高度成長期の日本を破壊するなと装飾した批判もする。つまり、80年代以前の自民党政権に対する評価を大きく変えている。これらリベラルの主張に対して保守も同意する。だから安倍政権との対立は激しくなっているように見えるが、日本の進歩と保守がほぼ同じ戦後史の歴史像を持っていることが分かる。もちろん日本の安倍晋三首相の修正主義的な歴史認識や植民地支配を内心では肯定しようとする態度に対する批判も必要だが、日本戦後史の修正が行われているという点についても批判的な介入が必要だ。」
http://east-asian-peace.hatenablog.com/entry/2015/09/03/061508

確かに表面的に見れば、そういう指摘も可能なのかもしれない。安保法制反対運動のスローガンの一つは「安倍晋三から日本を守れ」である。鄭栄恒は「日本の進歩と保守がほぼ同じ戦後史の歴史像を持っていることが分かる」としている。しかし、本当に、鄭栄恒のような見方だけでよいのだろうか。

周知のように、現在の安保法制反対運動を主導しているグループの一つに”Students Emergency Action for Liberal Democracy s”(自由と民主主義のための学生緊急行動 略称SEALDs)がある。このSEALDsの関西での組織であるSEALDs KANSAIの一員である大澤茉実は「SEALDsの周辺から 保守性のなかの革新性」という文章を『現代思想』10月臨時増刊号「総特集 安保法制を問う」によせている。大澤は次のように言っている。

いま、運動に参加する若者たちが共有する内的衝動に、原発事故による価値観の転換(既存の権威の失墜と社会運動の必要性・可能性の再発見)に加え、今日より明日はよくならない停滞の時代を生きるためのサバイバル的人生観があると感じている。だから、若者が運動に参加するとき、基本的な目標は「これ以上状況を悪化させるな」となるし、それは保守性を帯びることになる。私は、その表面的な部分に抵抗感を持っていたわけだが、運動に飛び込んで、その保守性のなかには、同時に私たちの世代が持つ革新性が編み込まれていると感じるようになった。
 経済成長が続き、「パイ」の総体が大きくなっていく時代には、権威主義的な組織のなかでがむしゃらに働くことが個人にとっても社会にとっても豊かさを実現する道であったのかもしれない。しかし、停滞の時代にあっては既存の組織は現状維持を図るために往々にして個人を犠牲にする。若い世代にとって、これからの人生を一つの組織(とりわけ企業)に依存して生きることは現実的でないし、また望ましい選択肢でもなくなっている。そのなかで、私たちは、いまある「パイ」の活用や分配のあり方に敏感になっている。つまり、将来的に「パイ」が大きくなるという希望的観測を理由に、周辺的な立場の者への分配が後回しになることに拒否感を持つのだ。そういった、日常レベルでの知恵や実践が「日常を守りたい」という保守性の内部に脈打っている。具体的には、先述した「個人の集まり」としての組織のあり方である。かつてなら大きな権威によって無下にされたであろう「わたし」たちも、政治的発言権を手に入れはじめた。それが、個人も社会も豊かにするのだと、肌感覚で知っているのである。
 経済の停滞が形成した私たちのサバイバル的な人生観は、なによりもまず日々を生き抜くことを至上命題とする。そのため、表面的には若者は保守的で政治に無関心に映るかもしれないが、現実にはさまざまな試行錯誤を経験しながら激烈な「政治」を生きている。
 そのことが、民主的で柔軟な組織をつくるための創意工夫につながる。そしてそれは、与えられた現実のなかでより賢く生きるために私たちが持ちはじめた強かな革新性なのだ。その実感があるからこそ、私は運動に一片の希望を抱く。

大澤は、まず、権威が失墜し社会運動の必要性・可能性が再発見されていった原発事故による価値観の転換をあげている。そのうえで、経済成長が続き「パイ」の総体が大きくなっていき、権威主義的な組織のなかで自己実現がはかれた時代と、経済が停滞し、権威主義的な組織のなかで依拠して生きることは非現実的かつ無意味で、既存の「パイ」の活用や分配に敏感になった自分たちの時代を画然とわけている。そして、「今日より明日はよくならない停滞の時代を生きるためのサバイバル的人生観があると感じている。だから、若者が運動に参加するとき、基本的な目標は「これ以上状況を悪化させるな」となるし、それは保守性を帯びることになる。」と主張しているのだ。その中で形成された「民主的で柔軟な組織をつくるための創意工夫」を、大澤は「与えられた現実のなかでより賢く生きるために私たちが持ちはじめた強かな革新性なのだ」としているのである。

ここには、むしろ、ある意味で原発事故による価値観の転換を契機にした、戦後日本社会から断絶されてしまったという現代社会に対する歴史意識があるといえる。そして、現在の、「今日より明日はよくならない停滞の時代」への憤懣と、「これ以上状況を悪化させるな」という危機感が表出されているのである。つまりは、「現在」をどう認識し、どのように行動していくかが課題なのである。

そして、最早、高度経済成長の時代ではある意味で生存を保障していた、企業などの権威主義的な組織に依拠して生活するということは意味をなさないものとして認識され、それとは別の、オルタナティブな組織をつくっていくことが目指されている。そういうことを前提に「安倍晋三から日本を守れ」というスローガンを聞いた時、その「日本」が少なくとも戦後「日本」そのままなのだろうかと考えるのである。

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