Feeds:
投稿
コメント

Posts Tagged ‘リスク’

昨2014年5月頃に起きた、雁屋哲の『美味しんぼ』(『週刊ビッグコミックスピリッツ』、小学館)に対するバッシングは、安倍政権の閣僚たち、福島県庁、福島県下の各自治体、、福島大学、「科学者」、マスコミ、インターネットなどによる、異端者を摘発する「魔女狩り」の様相を帯びた。雁屋は、「私はこの国の神聖なタブーを破った極悪人扱いを受けたのです。この国の神聖なタブーとは『原発事故は終息した。福島は今や人が住んでも安全だし、福島産の食べ物はどれを食べても安全だ、という国家的な認識に逆らっていけない』というものです。『福島に行って鼻血を出した』などと漫画に書いた私は、その神聖なタブーを破ったというわけです」(雁屋哲『美味しんぼ「鼻血問題」に答える』、遊幻舎、2015年、p14)と回想している。

それでは、『美味しんぼ』へのバッシングにおいて「タブー」とされたものは、実際にはどのようなものであったのだろうか。福島県が5月7日に出した、『週刊ビッグコミックスピリッツ』編集部からの取材依頼に応じて出した、次の文章が、『美味しんぼ』バッシングでタブーとされたものについて集約的に語っていると思う。長文であるが、まず、紹介しておきたい。

「週刊ビッグコミックスピリッツ」4月28日及び5月12日発売号における「美味しんぼ」について

平成26年5月7日
福 島 県

 福島県においては、東日本大震災により地震や津波の被害に遭われた方々、東京電力福島第一原子力発電所事故により避難されている方々など、県内外において、今なお多くの県民が避難生活を余儀なくされている状況にあります。

 原発事故による県民の健康面への影響に関しては、国、市町村、医療関係機関、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)等の国際機関との連携の下、全ての県民を対象とした県民健康調査、甲状腺検査やホールボディカウンター等により、放射性物質による健康面への影響を早期発見する検査体制を徹底しており、これまでにこれらの検査の実施を通して、原発事故により放出された放射性物質に起因する直接的な健康被害が確認された例はありません。

 また、原発事故に伴い、本県の農林水産物は出荷停止等の措置がなされ、生産現場においては経済的損失やブランドイメージの低下など多大な損害を受け、さらには風評による販売価格の低迷が続いておりましたが、これまで国、県、市町村、生産団体、学術機関等が連携・協力しながら、農地等の除染、放射性物質の農産物等への吸収抑制対策の取組、米の全量全袋検査を始めとする県産農林水産物の徹底した検査の実施などにより、現在は国が定める基準値内の安全・安心な農林水産物のみが市場に出荷されております。

 併せて、本県は国や市町村等と連携し、県内外の消費者等を対象としたリスクコミュニケーションなどの正しい理解の向上に取り組むとともに、出荷される農林水産物についても、安全性がしっかりと確保されていることから、本県への風評も和らぐなど市場関係者や消費者の理解が進んでまいりました。

 このように、県のみならず、県民や関係団体の皆様が一丸となって復興に向かう最中、国内外に多数の読者を有し、社会的影響力の大きい「週刊ビッグコミックスピリッツ」4月28日及び5月12日発売号の「美味しんぼ」において、放射線の影響により鼻血が出るといった表現、また、「除染をしても汚染は取れない」「福島はもう住めない、安全には暮らせない」など、作中に登場する特定の個人の見解があたかも福島の現状そのものであるような印象を読者に与えかねない表現があり大変危惧しております。

 これらの表現は、福島県民そして本県を応援いただいている国内外の方々の心情を全く顧みず、殊更に深く傷つけるものであり、また、回復途上にある本県の農林水産業や観光業など各産業分野へ深刻な経済的損失を与えかねず、さらには国民及び世界に対しても本県への不安感を増長させるものであり、総じて本県への風評を助長するものとして断固容認できるものでなく、極めて遺憾であります。

 「週刊ビッグコミックスピリッツ」4月28日及び5月12日発売号の「美味しんぼ」において表現されている主な内容について本県の見解をお示しします。まず、登場人物が放射線の影響により鼻血が出るとありますが、高線量の被ばくがあった場合、血小板減少により、日常的に刺激を受けやすい歯茎や腸管からの出血や皮下出血とともに鼻血が起こりますが、県内外に避難されている方も含め一般住民は、このような急性放射線症が出るような被ばくはしておりません。また、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)の報告書(4 月 2 日公表)においても、今回の事故による被ばくは、こうした影響が現れる線量からははるかに低いとされております。

 また、「除染をしても汚染は取れない」との表現がありますが、本県では、安全・安心な暮らしを取り戻すため、国、市町村、県が連携して、除染の推進による環境回復に最優先で取り組んでおります。その結果、平成23年8月末から平成25年8月末までの2年間で除染を実施した施設等において、除染や物理的減衰などにより、60%以上の着実な空間線量率の低減が見られています。除染の進捗やインフラの整備などにより、避難区域の一部解除もなされています。

 さらに、「福島を広域に除染して人が住めるようにするなんてできない」との表現がありますが、世界保健機構(WHO)の公表では「被ばく線量が最も高かった地域の外側では、福島県においても、がんの罹患のリスクの増加は小さく、がん発生の自然のばらつきを越える発生は予測されない」としており、また、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)の報告書においても、福島第一原発事故の放射線被ばくによる急性の健康影響はなく、また一般住民や大多数の原発従事者において、将来にも被ばくによる健康影響の増加は予想されない、との影響評価が示されています。
 
 「美味しんぼ」及び株式会社小学館が出版する出版物に関して、本県の見解を含めて、国、市町村、生産者団体、放射線医学を専門とする医療機関や大学等高等教育機関、国連を始めとする国際的な科学機関などから、科学的知見や多様な意見・見解を、丁寧かつ綿密に取材・調査された上で、偏らない客観的な事実を基にした表現とされますよう、強く申し入れます。
http://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/63423.pdfより。なお、『週刊ビッグコミックスピリッツ』第25号の「『美味しんぼ』福島の真実編に寄せられたご批判とご意見」という欄に同文が掲載されている。

福島県の言い分として、まず原発事故により放出された放射性物質による直接的な健康被害はないことを強調している。その上で、福島の農林水産物は、出荷停止や「風評被害」などにより多大な損害を受けてきたが、農地の除染、農産物への放射性物質吸収の抑制、放射性物質検査などにより、国の基準内の農林水産物しか市場に出さないことになっており、「風評」も和らいできているとした。このように、福島県庁・県民・関係団体が一丸になって復興に向かう中、『美味しんぼ』が放射能の影響により鼻血が出ると表現したり、「除染をしても汚染は取れない」「福島はもう住めない、安全に暮らせない」などと作中で特定の人物(実際には、元双葉村長井戸川克隆や、福島大学准教授荒木田岳なのだが)が見解を述べたりすることは、福島の現状そのものであると読者に誤解させ、福島県民や福島を応援している人々の心情を傷つけ、福島県の農林水産業や観光業に経済的損失をあたえかねず、福島県への不安感や「風評被害」を助長するものであるとしている。

その上で、福島県は具体的に反論している。まずは、鼻血なども含む急性放射線症が起きる高線量の被曝はなかったとしている。次に、除染や物理的減衰により60%以上の線量を低減できるとしている。そして、福島を広域に除染して住めるようにするのは不可能という見解には、福島第一原発事故において、もっとも高線量の地域を除けば、がん罹患のリスク増加は小さく、被曝による健康影響の増加は予想されないとしている。

福島県としてまず強調しているのは、県民には直接的な健康被害がないということである。つまりは、放射線によるリスクはないと想定している。それを前提に、出荷停止や「風評被害」で打撃を受けた農林水産業の回復を妨げ、復興に一丸となっている県民その他の心情を傷つけるものとして、『美味しんぼ』を批判している。いわば、放射能による健康面のリスクはないとして、農林水産業の復興こそ福島県の復興であるとし、それにがんばっている県民その他の心情を傷つけるものだとしているのである。

福島県民に直接的な健康被害が及んでいないという福島県の主張は、いろいろと問題を含んでいる。まず、急性放射線症が出るような被曝線量ではないという論理は、福島県だけでなく、「科学者」を自認する人びとが『美味しんぼ』を批判する際によく出てくる。前述した『週刊ビッグコミックスピリッツ』第25号の「『美味しんぼ』福島の真実編に寄せられたご批判とご意見」に、『美味しんぼ』を批判する科学者として、安斎育郎と野口邦和が出ているが、この2人とも、そういう意見である。ここでは省略するが、マスコミに出てくる「科学者」の意見も多くはそうである。しかし、『美味しんぼ』自体をみていると、いわゆる急性放射線症として鼻血が出てくるという説明はしていない。その上で、井戸川克隆や雁屋哲自身も体験した「鼻血」の原因を検討しているのである。低線量被曝の影響はよくわかっていない。それゆえ、よく引き合いに出される「高線量」のことを持ち出しても『美味しんぼ』への批判にはならない。それは、私だって知っている「常識」にすぎない。ただ、『美味しんぼ』へのバッシングといえば、最も知られているのが、あの程度の線量では急性放射線症は発症しないから、放射線の影響によって鼻血が出るとすることは非科学的だということであろう。重要なことは、急性障害以外は放射線障害ではなく、それほどの線量で福島県民は被曝していないとすれば、ほとんどの福島第一原発事故による県民の健康へのリスクは無化されるということである。

他方、除染についての県の見解は、それ自体が矛盾をはらんでいる。除染すればある程度の効果はあるだろうが、山林なども含んで広域に除染することは不可能で、結局はまた周囲から汚染物質が流れ込む。どうしても、除染しても、除染基準をクリアできない地域が出てくる。であるがゆえに、福島県では、県外の20倍の年間20mSvまで基準が緩和され、強制的に避難させられた人びとをそのような土地に帰還させるという政策がとられている。そこで、福島第一原発事故程度では健康に大いなる支障をきたす被曝は起きなかったという言説が主張される。しかし、それならば、なぜ、福島県内外で広範囲に除染をしなければならないのだろうか。そして、除染が効果があったとはどういう意味なのだろうか。

結局、健康被害がないのだから、年間20mSvでもいいじゃないか、除染目標の達成などどうでもいいではないかということになる。これは、もちろん、福島県民への差別待遇にほかならないが、これが、とりあえず機能するのは、健康被害が顕在化していないということが条件になる。急性放射線症になるほどの被曝はないのだから、急性放射線症のみを放射線障害とするならば、その条件はクリアされよう。しかし、急性放射線症が発症しない程度の低線量でも健康に影響があれば、一般の除染基準年間1mSv以上の土地に県民を居住させるということの問題性がクローズアップされる。被曝による児童甲状腺がん発症を福島県が認めないのも、そういう理由に基づいている。

そして、また、「鼻血」にもどってくる。甲状腺がんに比べれば、「鼻血」は小さな問題である。しかし、そんな問題でも、年間20mSvまでの低線量被曝を県民に強いている福島県にとっては、その政策の正当性を揺るがす問題なのである。そして、これは、なるべく、補償金を圧縮したい東電と国についても大問題なのである。低線量被曝を強いられる地に住民を早期に帰還させることで補償金を打ち切ることができなくなるばかりか、健康被害についても補償金が必要となるのである。

福島県・国・東電としては、福島第一原発事故の影響による県民の健康リスクの増大は一切認めない。ゆえに「甲状腺がん」も「鼻血」も認めない。そのようなリスクの「無化」の上で、福島県が行っているのが「風評被害」の払拭を中心とする農林水産業の振興である。農林水産業が復興すれば、福島県民の復興となるとしている。しかし、農林水産業に従事している県民自体の健康リスクが顕在化すれば、それ自体の正当性が失われることになるだろう。「鼻血問題」は『美味しんぼ』全体からすれば部分的な問題に過ぎないが、県にとっては重大な問題である。そして、彼らからすれば、「タブー」なのである。

そして、鼻血がタブーにされる一方で、雁屋哲が『美味しんぼ』において最終的に主張しようとしたことは、バッシングの中で看過された。雁屋哲は5月19日に発売された『週刊ビッグコミックスピリッツ』第25号に掲載された『美味しんぼ』において、登場人物の海原雄山に次のように語らせている。

私は一人の人間として、福島の人たちに、危ないところから逃げる勇気をもってほしいと言いたいのだ。
特に、子供たちの行く末を考えてほしい。
福島の復興は、土地の復興ではなく、人間の復興だと思うからだ。

前述した「『美味しんぼ』福島の真実編に寄せられたご批判とご意見」において、小出裕章は次のように述べている。

何より放射線管理区域にしなければならない場所から避難をさせず、住まわせ続けているというのは、そこに住む人々を小さな子どもを含めて棄てるに等しく、犯罪行為です。

結局のところ、『美味しんぼ』の主張は、一般人の放射線基準以上に汚染されている地域に住民が住み続けているということにいかに対処するかということなのであるが、このバッシングのなかでは、だれもそのことに触れようとしなかった。朝日新聞は比較的『美味しんぼ』に同情的であったが、同紙もそのことに触れようとはしなかった。この放置は、違法行為であり、小出の言葉を借りれば犯罪行為なのだが、そのことを誰もまともに議論しようとはしなかった。その中で、『美味しんぼ』は5月19日発売号から休載され、バッシングは終息していった。

放射線基準を守るということは、法的・社会・倫理的問題である。科学的・経験的に「放射線被害」が現在出ていない(将来的に出ないかどうかは全く保証されず、もし何か発症しても、それは放射線の影響ではないとされるだろう)から基準を守る必要がないというならば、そもそも基準設定は必要ない。そして「除染」も必要ないだろう。科学的言辞を駆使することは、法的・社会的・倫理的問題を解決することにはならない。『美味しんぼ』をバッシングする側がかかえていたのは、法的・社会的・倫理的問題として、一般人の放射線限度をこえた地域に住んでいる住民たちにいかに対処するかということであったのだが、それはバッシング側自体が触れることに自ら禁じざるを得なかった「タブー」であったといえよう。

Read Full Post »

昨2014年に出版した拙著『戦後史のなかの福島原発ー開発政策と地域社会』(大月書店)において、私は「原発建設におけるリスクとリターンの問題に着目する」とし、次のように述べた。

「原子力の平和利用」が日本社会で開始された一九五四年は、ビキニ環礁において第五福竜丸が被曝し、原水爆禁止運動が始められた年でもある。「原子力の平和利用」の裏側にある放射能汚染のリスクは、政府においても社会においても、ある程度は認識されていた。この放射能汚染のリスクは大都市周辺で原発が建設されない要因となった。そのようなリスクのある原発立地を福島が認めていくのは、ある種のリターンと交換された結果であった。リスク認識もリターンの内実も時代によって変遷していくが、リスクとリターンが交換されるという関係は、福島原発の全ての過程で共通していた。そして、福島以外の原発立地社会においても共通して認められるものである。このリスクとリターンのバーターという関係は、原発建設全体の過程を貫いていた。
 三・一一は、原発が建設される地域においては、生存の基盤となる地域社会全体に対するリスクと、地域生活を営むうえでの雇用・補助金などのリターンとの交換は、いかに不等価のものであったかということを明らかにしたといえる。この視点をもつことによってはじめて、原発が建設されていった過程が理解できると思われる。さらにいえば、このことを理解することが、原発依存社会からの脱却の第一歩になると私は考えている。

概略すると、福島原発建設において、放射能汚染というリスクがあることは認識されていたが、原発が立地している地域社会においては、雇用・補助金や開発期待などのリターンと交換することによって、よりよい生存を確保できるという論理によって正当化されていったと、私は考えたのである。

3.11は、顕在化した放射能汚染のリスクは非常に過大であり、リターンによってよりよい生存をめざした地域社会そのものの存続を揺るがすことになったといえる。これは、悲劇そのものである。しかし、私は、かすかな希望として、「このことを理解することが、原発依存社会からの脱却の第一歩になると私は考えている」と書いた。

しかし、現状の福島は、この希望とは裏腹なものになった。確かに、福島県民たちは、全体として、県内での原発の稼働を認めなくなった。福島第一原発では、稼働可能な5・6号機も廃炉され、福島第二原発の再稼働も認めたくないという意見のほうが多い。東北電力の浪江・小高原発の建設計画も中止された。

しかし、その反面で、新たな形で、「放射能汚染」というリスクと、地域社会における生存をめざすリターンとの交換が再開されている。

その一例として、雁屋哲の『美味しんぼー福島の真実』(小学館)でとりあげられたエピソードをみてみよう。『美味しんぼ』では福島県民において鼻血が出ているということをとりあげた叙述が非科学的で風評被害を助長していると国・県などが率先して非難したが、鼻血問題は全く部分的な問題に過ぎない。雁屋哲は、登場人物の海原雄山の口をかりて「低線量の放射線は』安全性が保証できない。国と東電は福島の人たちを安全な場所に移す義務がある。私は一人の人間として、福島の人たちに、国と東電の補償のもとで危ない所から逃げる勇気をもってほしいと言いたいのだ。特に、子供たちの行く末を考えてほしい。福島の復興は、土地の復興ではなく、人間の復興だと思うからだ」(『美味しんぼ』第111巻、小学館、2014年)と述べている。低線量であっても、放射能で汚染されている地域で人々が住みつづけているという状況を告発するというのが、雁屋の意図なのである。

その中で、次のようなエピソードが紹介されている。漫画の『美味しんぼ』でも取り上げられているが、たぶん取材ノートに依拠し、より事態を正確に伝えていると思われる雁屋哲『美味しんぼ「鼻血問題」に答える』(遊幻舎、2015年)からみておこう(以下の引用は同書から行う)。

2012年は、福島県内において、いまだ放射線量が下がらないまま、試験的に米作りが各地でなされていた。二本松市の「ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会」においても、いまだ0.72μSv/hの空間線量であり「作付け制限区域」になっていたが、セシウムを吸着するゼオライト、植物のセシウム吸収を抑制するカリウムを入れ、深く耕し、とれた米は全量検査することを条件として、米の作付けが認められた。結果的に、収穫した米のほとんどは検出限界の1kgあたり11bq以下で、一ヵ所(福島市内)のみ36bqという結果となった。いずれにせよ、1kgあたり100bqという基準以下ではあったのである。

この結果について、雁屋が、協議会事務局長の武藤正敏に、「結果は嬉しかった」と聞くと、武藤は「いやあ、嬉しいですよ、だって食べられるんですもの」と笑顔で答えた。

しかし、雁屋が土壌がセシウムを吸着したとしても、土壌にはセシウムがあるのだから、生産者には影響があるのではないかと質問すると、武藤の表情は厳しくなり、次のように述べた。

「土壌からも、四方からも放射能を浴びますよね。人間が田んぼに立てば、それだけの放射能を浴びるわけで、長靴を履こうが、マスクをしようが、カッパを着ようが、そんなものは通すんだ。我々はそういう状況におかれているので、決して安全ではない。食べなければいいとか、長い時間そこで作業しなければいい、ということではない。現場にあるんですよ!
 だから長靴履いて田んぼに入るときは、非常に恐怖感がありますよ。(中略)危機感は持っているが、自己防衛としてできるのは長靴やマスクや帽子をかぶる程度。だって、土地に触らないと農業ができないんです」

放射能で汚染された地域では、放射能汚染のない米作りをしても、いやそういう場で米作りをすること自体が農民の被曝を招くことになっているのだ。そして、米作りをしていた農民たちは、そのことに恐怖を感じているのである。放射能汚染のリスクは、福島第一原発事故以前と比べて、顕在化し、より一般化し、生々しいものとして二本松の農民たちは認識しているのである。

それでも、雁屋たちが二本松の線量は高いのになぜ避難しないのかと聞くと、武藤は次のように答えた。
 

「ははは! だって、国が安全だって、ただちに影響ないっていうから。やはり、農家と都市部では考え方が違うと思う。農家は、先祖伝来の田畑、井戸、蔵も家も、地域のコミュニティもある。よそに逃げても、今のような暮らしができるのか、生活の保障ができるのかといったらわからない。一時避難的に電化製品も与えられ、ある程度の生活もできるが、それでいいのかと。ここで食べて暮らして、地域のコミュニティが守られるならここのほうがいいでしょう、という意識が強い。調査すれば作物にも出てこないし、空間線量は高いが、外部からの影響は何パーセントもない、といわれているのですから」

放射能汚染については、とりあえず国の「安全だって、ただちに影響ないっていう」ことをとりあえず信じざるをえないのである。それも、別に「安全」であるという確証があってのことではない。「よそに逃げても、今のような暮らしができるのか、生活の保障ができるのかといったらわからない…ここで食べて暮らして、地域のコミュニティが守られるならここのほうがいいでしょう」ということ、つまりは「地域社会における生存」が確保できるというリターンが得られるということでしかない。つまりは、原発建設時と同様に、「放射能汚染」というリスクと、「地域社会における生存」を確保するためのリターンが、福島の地では交換されているのである。そして、その上で、再び、「安全神話」が信奉されるのである。

福島第一原発事故以前、放射能汚染は顕在化していない。そして、立地した地域社会では、単なる生存ではなく、原発のリスクを受け入れてリターンを獲得することによって、幻想をともないながら、より豊かな生存を確保できると認識していただろう。

しかし、現状の福島は、全く違っている。前述したように、放射能汚染のリスクは顕在化し、そのことが、二本松においても、将来の生存を脅かすものとして認識されるようになった。結局、リスクを受け入れて可能となる「生存」は、単なる「生存」でしかなく、それすらも将来的には不透明なのだ。例えば、武藤は、地域社会での生存を確保するためには、国の安全宣言を受け入れるしかないと前述したように述べていたが、だんだん、そのことに対する懸念を表明していく。

「我々は三十年で死ぬからいいかもしんないけど、これから生まれてくる子供がこの土地で暮らすことになれば、その危険性が尾を引いていくので、その解消を早くしないとダメ。土の測定をして、きちんと下げる努力をしていかないとダメなのだ。
 そういう教育を誰かがしないとならないが、県も行政もいわない。いえば、農地から離れなさいということになる。
 こんな空間線量の高いところに長くいるべきではないと思う。せめて子供だけでも、年に二回ぐらいは安全なところに避難させないとならない。チェルノブイリでさえ、子供を避難させたのに、福島県は子供を避難させなかったんですよ。避難させるとパニックになるとか避難する場所がないとか、それは言い訳だ」

 まとめていえば、拙著で原発誘致につきリスクとリターンの交換があったと論じたが、ここで、その構造が再現されているといえる。放射能汚染というリスクが「地域社会における生存」のためのリターンと交換されている。そして、リスクはより顕在化し、そのリスクのために、リターンは本当に利益になるのか疑わしい。このように、不安は顕在化しているのに、「安全」を信じるしか生きていけないと意識されているのだ。結果的には、3.11を通じて、「リスクとリターンの交換」という構造は、変わらなかったといえるのである。

Read Full Post »

私は、昨年度(2012年度)の歴史学研究会大会特設部会において「原発災害に対する不安・批判の鎮静化と地方利益ー電源交付金制度の創設」という報告を行い、その冒頭で、次のような主張を行った。

 

本報告の目的は単純である。ひと言でいえば、原発災害に対する、原発が立地する地域社会でのリスク意識をいかに鎮静化してきたということについて、リターンとしての「地方利益」の問題から検討し、そのことが災害リスクを一層拡大していくシステムを確立していったことについて、歴史的段階をふまえて考察することを目的としている。(『歴史学研究』第898号、2012年10月、p177)

この報告では、1974年の電源交付金制度の成立過程を中心に検討したが、翻ってみると、日本の原子力開発のすべての過程で、このようなリスクとリターンのバーターはみられた。日本の原子力開発が始まった1954年は、ビキニ環礁における水爆実験によって第五福竜丸などが被曝した年でもあった。この第五福竜丸の被曝は、広島・長崎における原爆投下の記憶を有していた日本の人びとに放射能汚染の恐怖を再認識させたものであり、核兵器の廃絶を求める原水禁運動の出発点となった。しかし、このように、原子力におけるリスクを意識していたにもかかわらず、原水禁運動に携わっている人びとですら、原子力の「平和利用」によって、リターンー利益を得ることを期待していたのである。

といっても、原子炉事故によって生じる放射能への恐怖というリスク認識は払拭しがたいものであった。結局のところ、1950〜1960年代の政府も、原子炉事故によって多くの人びとが被曝し、生産活動に多大な支障をあたえる危険性がある大都市圏に原発のような大容量の原子炉を置くことを忌避し、人口の少ない過疎地に原発を立地することを志向した。いわば、原発のリスクは公言されなくても、意識されていた。

原発を受け入れた福島県においても、原発による放射能汚染のリスクは全く意識されていなかったわけではない。しかし、地域開発というリターンを期待して、原発を受け入れたのである。さらに、1970年代になり、原発建設反対運動が立地地域で盛んに展開されると、それを鎮静化するために、電源交付金制度を1974年に創設したのである。その後も、度重なる原発事故によってリスクが強く意識されることはあったが、安全策をとってリスクを軽減しようという試みよりも、原発によるリターンを過大に意識させることで乗り切ろうとしていたのである。

今、安倍政権が行っている、アベノミクスという名において経済成長政策を行い、その中に原発の積極的再稼働を位置づけるという営みは、日本全国の人びとを相手に、リスクとリターンのバーターを行おうとするものにほかならない。安倍政権の与党である自民党の現在の参議院選挙の公約における経済の項目をみてみよう。まず、経済の項目における冒頭の「総論」にあたる部分をみてみよう。

さあ、経済を取り戻そう。

「瑞穂の国」の資本主義は、開かれた市場における自由な競争と長期的な国内投資によりダイナミックな経済活動を創出するとともに、勤勉を尊び、道義を守ることです。
頑張る方々に、広く成長の果実が行き渡る経済を実現します。

日本経済の新しい姿
●「再生の10年」へ。自民党は、「縮小均衡の分配政策」から「成長による富の創出」への転換をお約束しました。安倍政権発足後、速やかに大胆に政策方針を転換し、日本は再起動しました。
●まずは、アベノミクスの「3 本の矢」を一体的に推進するとともに、「経済再生と財政健全化の両立」に向けた取組みを通じて、デフレからの早期脱却とともに、持続的成長への道筋を確かなものにします。
●「世界で一番企業が活動しやすい国」「民間の活力と個人の能力が、常に最大限に発揮される社会」を実現します。絶え間なくイノベーションが起き、日本列島の隅々まで活発な経済活動が行き渡り、雇用と所得が増え、一人ひとりが景気回復を実感でき、共に日本の未来に大きな希望を抱ける日まで、強力に迅速に改革を進めます。
●国際リスクなど内外の環境変動に強い新しい経済モデルを確立します。「産業投資立国」と「貿易立国」の双発型エンジンが互いに相乗効果を発揮する「ハイブリッド型経済立国」を目指しています。
●今後10年間の平均で、名目GDP成長率3%程度、実質GDP成長率2%程度の成長実現を目指します。

ここで、「アベノミクス」自体の詳細は省くが、安倍政権は「成長による富の創出」をめざすとし、名目GDP成長率年3%、実質GDP成長率年2%を「公約」としている。そして、「世界で一番企業が活動しやすい国」とすることを実現することを目的とするとしている。

続いて、資源・エネルギーのところをみておこう。

資源・エネルギー大国への挑戦

●資源小国(輸入国)から資源大国(資源・エネルギー技術を活かしたシステム等の輸出国)へ転換させ、地球規模での安全・安心なエネルギー供給体制の普及拡大に貢献します。
●わが国のエネルギー安全保障上、資源・エネルギーの多様で多角的な供給構造を確立します。
今後3年間、再生可能エネルギーの最大限の導入促進を行います。
また、海洋産業を育成し、自国経済水域内の天然ガス、メタンハイドレート、レアアース泥等の探査・技術開発・利用の促進を集中的に行い、さらに、北米のシェールガス等の新規輸入等により調達コストを低減させます。
●省エネ・再エネ・蓄電池・燃料電池等を活かした分散型エネルギーシステムの普及拡大を図るとともに、世界最高水準のスマート・コミュニティや原子力技術等のインフラ輸出の支援体制を強化します。2020 年に約 26 兆円(現状8兆円)の内外のエネルギー関連市場を獲得することを目指します。
●これまでのエネルギー政策をゼロベースで見直し、「電力システム改革」(広域系統運用の拡大・小売参入の全面自由化・発送電分離)を断行します。
●原子力発電所の安全性については、原子力規制委員会の専門的判断に委ねます。
その上で、国が責任を持って、安全と判断された原発の再稼働については、地元自治体の理解が得られるよう最大限の努力をいたします。
●次世代への責任を果たすべく、高レベル放射性廃棄物の「大幅な有害期間の短縮・毒性の低減化」の研究開発を加速させます。
●次世代自動車については、2030 年までに、新車販売に占める割合を5割から7割とすることを目指し、研究開発支援や効率的なインフラ整備等を進めます。
●国際宇宙ステーション「きぼう」における宇宙太陽光発電システムの実証計画を策定します。

まず、最初のところで、資源・エネルギー技術の輸出大国になるとし、その後で、原発輸出を主張している。もちろん、再生可能エネルギー開発や、メタンハイドレート・シェールガスなどの新たなエネルギー資源の利用、電力システム改革にも言及している。しかし、原発再稼働については、「原子力発電所の安全性については、原子力規制委員会の専門的判断に委ねます。その上で、国が責任を持って、安全と判断された原発の再稼働については、地元自治体の理解が得られるよう最大限の努力をいたします。」と、「安全と判断された」原発の再稼働について、地元自治体を積極的に説得していると述べているのである。

現在、世論調査では、大体のところ、半数程度が原発再稼働に反対している。原発再稼働に賛成している割合は少ない。ここでは、共同通信のネット配信記事(7月17日付)をあげておこう。

共同通信社は13、14両日、参院選での有権者の動向を探るために全国電話世論調査(第4回トレンド調査)を実施した。政府が「安全性は確認された」とした原発の再稼働について、反対が50・6%、賛成40・0%だった。比例代表の投票先政党の1位は自民党で前回調査の29・8%に比べ30・6%とほぼ横ばいだった。安倍内閣の支持率は前回の64・2%に対し65・3%で堅調に推移した。
 原発再稼働への反対が半数を超えたことで、原発政策が参院選終盤の論争の焦点となりそうだ。積極姿勢の安倍政権はあらためて慎重な判断が迫られることになる。
http://www.47news.jp/47topics/e/243507.php

このように、安倍政権は、有権者の多くが支持しない政策を実施しようとしているのだが、それでも、世論調査によると、有権者の多くが安倍政権を支持しているとしている。毎日新聞が7月14日にネット配信した記事をみておこう。

毎日世論調査:参院比例投票先、自民減少37%
毎日新聞 2013年07月14日 20時04分(最終更新 07月15日 02時41分)

 21日投開票の参院選を控え、毎日新聞は13、14の両日、全国世論調査を実施した。参院比例代表の投票先を聞いたところ、自民党が37%とトップで、公明党、日本維新の会、みんなの党が各8%で続いた。自民党の「1強」状態が続くが、自民は6月の前回調査と比べ8ポイント減少した。安倍内閣の支持率は55%で、前回から5ポイント減。ただ参院での自公過半数を望む声は前回に続いて半数を超えた。

 ◇安倍内閣支持率は55%
 参院の比例投票先は、自公の与党で45%(前回は51%)となった。維新の会は前回(5%)から3ポイント増加し、橋下徹共同代表の慰安婦発言による落ち込みがやや回復した。民主党は7%、共産党は4%。前回同様、男女ともすべての年齢層で、自民党を投票先として挙げた人がもっとも多かった。

 また、内閣支持率は55%で発足時(2012年12月)の52%に近づいた。3月調査(70%)▽4月(66%)▽5月(66%)▽6月(60%)で、2回連続の下落は内閣発足以来初めて。

 安倍内閣の高支持率を支える「アベノミクス」は期待先行の側面がある。首相の経済政策によって景気回復が期待できると思うかを聞いたところ「期待できる」は50%で、「期待できない」の41%を上回った。ただ、期待できるとした人の割合は3月調査(65%)▽4月(60%)▽5月(59%)▽6月(55%)と減少傾向。さらに「生活する上で、景気がよくなっていると実感しているか」と尋ねたところ「実感していない」は78%にのぼり、「実感している」の16%を大きく上回った。

 安倍内閣の支持層では「景気回復が期待できる」が82%を占めたのに対し、不支持層では「期待できない」が88%にのぼった。また景気回復を「実感していない」とした人は安倍内閣の支持層では68%なのに対し、不支持層では96%にのぼった。

 景気回復への期待感は内閣支持率と強い相関関係があり、内閣支持率下落はアベノミクスへの期待がややはがれ落ちていることを示しているとみられる。

 一方で自公の与党が参院で過半数の議席を獲得した方がいいと思うかを尋ねたところ、「思う」と答えた人は52%(前回は57%)で、「思わない」の39%(同37%)を大きく上回った。【鈴木美穂】
http://senkyo.mainichi.jp/news/20130715k0000m010047000c.html

毎日新聞によると、やや下がりながらではあるが、内閣支持率は55%あることになっている。そして、その大きな要因が、アベノミクスに対する期待であり、これも約50%の人が期待できるとしているのである。景気回復について、実感がないという人が78%もいるにもかかわらずである。結局、経済成長というリターンへの「期待」が内閣支持率をおしあげているのである。

毎日新聞の記事が書いているように、今回の参院選においては、安倍政権の与党である自由民主党・公明党が優位であるといえる。そして、参院選後において、安倍政権は、これまで以上に原発再稼働に積極的になっていくと考えられる。そうなった場合、究極のところ、原発に対するリスク認識が、経済成長というリターンによってバーターされるということになろう。もちろん、こうなることは望ましい未来ではない。こうならないように努力している人たちも多くいる。その上で、結局、安倍政権が参院選で勝利するということは、そういう意味があるということをここでは指摘しているのである。

しかし、これでは、あまりに悲観的なので、もう少し、希望のあることを述べておこう。安倍政権がなりふりかまわずに、「経済成長」を旗印にしているが、それは、結局のところ、「世界で一番企業が活動しやすい国」をめざすことにすぎない。企業が一番活動しやすいことと、人びとが暮らしやすいことが相反することが、アベノミクスの進行の中で、より鮮明になってくると思われる。今後、「企業が一番活動しやすい」という「経済成長」を至上の価値として信奉することから脱却することが、いろんな課題ー脱原発、生活保障、自国産業保護などーを解決することの前提にあるということ、このことがより一般的に理解されてくると思うのである。つまり、「経済成長」という「リターン」自体が「無意味」なものであることがしだいに認識されてくると私は考えている。それは、引用した毎日新聞のネット記事の内閣支持率の相対的低下ということにも徴候は現れていると思う。

Read Full Post »

さて、開沼博氏の見解については、折にふれて言及してきた。しかし、あまり、端的に原子力の危険性について彼自身が述べているものは少ない。ここで検討してみる、『クーリエ・ジャポンの現場から』という同誌編集部のブログに掲載された「2012 .04.22 開沼博さんが質問に答えてくれました(前編)」の中で述べている、科学技術の危険性についての文章は、数少ない例といえる。

これは、いくつかの質問に、開沼博氏が回答を行うというスタイルで書かれたものである。そのうち、二番目の質問は、

…ただ、原発もそうだと思うのですが、ITにしても科学が人に牙をむくまでは人間にとって非常に便利なものだと思います。危険性を恐れて、その便利さを放棄するのもナンセンスだと思うのです。…便利さとリスクとのバランスについて、どのような姿勢で臨めばいいと思われますか。

というものであった。科学技術のリスクと利便さはどのように考えていけばよいのかという質問といえる。

この質問に対し、開沼氏は、次のように答えている。

ご指摘の通り「リスクがあるから放棄する」という短絡思考はナンセンス。「今でもふぐ毒で死傷者が出ているから、ふぐを食べること自体を禁止すればいい」と同様、無茶な話です。少しでも利便性がある以上、仮に、ある技術を全廃しようとしても、その実現可能性は極めて低い。

ここでは明示はされていないが、原発も含んでいるであろう科学技術のリスクをふぐ毒にたとえ、その放棄を「短絡思考」としてナンセンスであるとし、利便性がある以上は科学技術を全廃することは難しいとしているのである。

開沼氏が、原発を含んだ科学技術のリスクを「ふぐ毒」にたとえたのは、いろんな意味でふさわしくないといえる。まず、第一にいえるのは、ふぐ毒による死傷者はもちろんふぐを食べた当事者に限られるであろう。しかし、原発からの放射能、工場などから排出される有害物質、残留農薬、そして地球温暖化を惹起する二酸化炭素など、科学技術によるリスクは、狭義の意味の当事者を超え、ある意味では、地球全体の規模に及んでいる。

このことは、福島第一原発事故がよく示しているといえよう。福島第一原発事故による放射能汚染は、立地している地域社会だけでなく、福島県を中心とした東日本、そして地球規模に及んでいる。1986年のチェルノブイリ事故以後、開沼博氏自身も言及しているドイツの社会学者ウルリヒ・ベックは「『他者』の終焉」(『危険社会』)とよんでいる。排除しえない原子力の危険においては「現代における保護区や人間同士の間の区別を一切解消」されてしまうのである。そして、周縁に隔離したはずの原発も、その事故においては、「中央」にも被害を与えることになる。ゆえに、信条・階層・地域をこえて、脱原発運動が惹起されるのである。

科学技術のリスクをふぐ毒の比喩で考える開沼氏の意識は、このように広範におよぶリスクを「個別的な」ものとしてのみ把握しているといえよう。開沼氏にとっては、美味なふぐを味わうことによって想定されうるリスクは、ふぐ毒によって食べた人が死傷することなのである。そして、この認識は、原発の設置によるリスクを、リターンのある立地された自治体の内部の問題として考えようとする開沼氏の志向につながっていくように思われる。自治体の住民からみてもこのような事態が本末転倒であることはいうまでもない。しかし、科学技術とそれによる産業開発のリスクは、それによって特別な恩恵を蒙ることのない人びとにも及ぶのだ。例えば、飯館村はどうなのだろうか。つまり、もはや、福島原発の立地自治体だけに限定できる問題ではないのである。

一方、ふぐ毒は、調理方法で対処可能なものである。適切な調理方法で処理されているふぐは、一般的に中毒を起こすことはない。その意味で、ふぐ毒のリスクは、人の手で対処することができる。ゆえに、「ふぐを食べることは禁止されない」のである。

原発事故はどうであろうか。原発が人の手で作り出され、人の手で運転されている。しかし、メルトダウンなどの過酷事故が起きると、少なくとも短期的には制御不能になってしまう。福島第一原発事故において、人の手による調整がまったく意味がなかったとはいわないが、少なくとも、メルトダウンや爆発などによる放射性物質の外部環境への拡散を防ぐことはできなかった。

そして、さらに問題になることは、福島第一原発事故の直接の契機は、地震や津波などの「天災」であったことである。チェルノブイリ事故の場合、その直接の原因は人的ミスであったといわれている。しかし、福島第一原発事故の場合は、人的ミスですらなく、まさしく「天災」なのである。その意味でも、人の手に及ばない側面を有している。

もちろん、すべての科学技術が制御不可能などではない。残留農薬や工場などからの有害物質の放出などは、ある程度は人の手で制御可能である。リスクがある科学技術がなぜ廃止されないかといえば、別にリターンがあるからだけではない。リスク自体が人の手によってある程度その低減をはかりうるからなのだ。

その意味で、現在のところ、原発のリスクは制御可能にはなってはいないといえる。地震や津波が多い日本においては、世界のどの地域よりも、原発のリスクは大きいのである。

その意味で、開沼氏が科学技術によるリスク一般をふぐ毒にたとえたことは、科学技術のリスクを制御可能で低減しえるものとしてみていることを意味しているといえよう。そして、それには、原発も含んでいるのだろう。原発のリスクを人の手で制御して、その低減をはかりうるならば、原発からのリターンと等価交換可能になると、開沼氏は考えていると思われる。

もちろん、開沼氏は、科学技術については、彼なりに考えている。次の文章をみてほしい。

しかし、それでも科学技術との関わりかたを慎重にしなければならないのは事実です。

いかなる姿勢が必要か。科学的な道具は道具として「崇拝」しないことです。…これを「呪物崇拝」と言いますが、「呪物崇拝」は未開社会・前近代社会のみに特異な現象なのかというと、そうではない。近代社会においても、人間のコントロール下にある「ただの道具」が、いつの間にか神の如く人間をコントロールし、また人間がその魔力に惹かれて、ものとの関係が逆転する現象は、たとえば経済だと貨幣、政治だとイデオロギー等々において見られます。

科学においても、ある技術が「崇拝」、信仰の対象物かのような扱いをうける現象がしばしば見られます。震災以後の、現下の状況において「安全神話」とか、そのネガとして「けがれ」と言った「宗教的な」言葉が使われることにも象徴的です。

彼によれば、科学は道具であり、それを崇拝しないことが重要だとしてしている。最後の「科学においても、ある技術が「崇拝」、信仰の対象物かのような扱いをうける現象がしばしば見られます。震災以後の、現下の状況において「安全神話」とか、そのネガとして「けがれ」と言った「宗教的な」言葉が使われることにも象徴的です。」というところは重要である。「震災以降」と限定し、「安全神話」「けがれ」という二項対立を提示していることに注目しておきたい。一般的に「安全神話」といえば、震災以前の、原発の安全性を保障する言説をさしていることが多いのだが、ここでは、震災以降の「風評被害」「福島差別」などをさしているように思えるのだ。ただ、この文章は曖昧で、どちらでもよめるともいえる。

そして、最後に、このように述べて回答を終えている。

道具は道具であるとして割り切る。「崇拝」し始めてはいないか、常に疑う。さもなくば、ウルリッヒ・ベックが言うようなリスクが、私たちに襲い掛かってきます。

どのようなことを開沼氏が主張してもかまわない。しかし、ここで、ベックの主張をひいてくるのは適切さを欠いていると思う。別に、ベックは、「科学技術の呪物崇拝化によるリスクの招来」など論じてはいない。ベックのいう科学技術によって生じたリスクは、未来形で「襲い掛かってくる」ものなのではない。少なくとも、1986年のチェルノブイリ事故以降、私たちみなに襲い掛かってきているものなのである。そして、それは、3.11以降、私たちの眼前に提示されているのである。

すでに、ベックが、地球全体に及ぶ科学技術のリスクにおいては、すべての人びとは当事者であり、「他者」など存在しないとしていることを述べた。これは、開沼氏の議論の対局に属するものである。さらにベックは、このように指摘する。

 

近代が発展するにつれ富の社会的生産と並行して危険が社会的に生産されるようになる。貧困社会においては富の分配問題とそれをめぐる争いが存在した。危険社会ではこれに加えて次のような問題とそれをめぐる争いが発生する。つまり科学技術が危険を造り出してしまうという危険の生産の問題、そのような危険に該当するのかは何かという危険の定義の問題、そしてこの危険がどのように分配されているかという危険の分配の問題である。(『危険社会』)

ベックは、「危険」ーリスクの問題を正面に見据えて論を展開しようとしている。それは、ベックにとっては、すでに存在するものなのである。その意味で、開沼氏のリスク認識とは違ったものといえるのである。

開沼氏の書いていることが、すべて不適切だとは思わない。ある意味で、原発建設を積極的に受け入れざるをえなかった立地自治体住民の意識を内在的に描き出しているといえる。しかし、やはり、3.11以後の、福島第一原発事故のリスクー危険を正面から見据えていくことが課題であると思う。少なくとも「ふぐ毒」にたとえるようなものではない。そして、それは、原発からのリターンを強調する、野田首相、経団連、官僚、立地自治体首長たち全員の課題なのである。

参考
http://courrier.jp/blog/?p=10959

Read Full Post »

さて、再度、ウルリヒ・ベックの『危険社会』についての紹介を続けよう。本書においては、環境破壊における科学批判の部分が、非常によく分析されているといえる。このことは前回までに紹介してきたが、ここでもまず、みていこう。ベックは、危険ーリスクについて、このように指摘している。

近代化に伴う危険は、科学の合理性の抵抗を押し切って意識されるようになってきた。この危険意識に人々を導いたのは、科学が明らかに犯してきた数々の危険についての誤り、見込み違い、過小評価である。危険が意識されるようになった歴史あるいは社会による危険の認知の歴史は、そのまま科学の神秘性を剥奪する歴史である。(本書p92)

その上で、ベックは、このように述べている。

危険を生産しておきながら、それを正しく認識できない大きな理由は、科学技術の合理性が「経済しか見ない単眼構造」にあるからである。この目は生産向上に視線を向けている。同時に、構造的に見て危険には盲目なのである。経済的に見合うかどうかという可能性については、明確な予測が試みられ、よりよい案が追求され、試験が行われ、徹底的に各種の技術的検討が行われる。ところが危険については、いつも暗中模索の状態で「予期しない」危険や「全く予期し得ない」危険が出現して初めて、心底怯え、仰天するのである。(本書p94)

これは、まさに福島第一原発事故の経過でこの1年間いやというほど見せつけられてきたことである。地震や津波、また全電源喪失などの「危険」は科学者・技術者の間ではないものにされ、根本的な安全対策がとられることがなかった。これは、何も日本だけのことではないことに注目しておきたい。

そして、大気中の汚染物資による気管支ぜんそくに罹患した児童の親たちの戦いをについて述べておく。親たちは、自分の子どもたちの病気の原因について、さまざまな主張を行うのであるが、「科学的に証明されない限り」問題にもされないことを認識するのである。

危険を否認する科学者たちの対応について、ベックは、次のように論じている。

 

科学者たちは自分たちの仕事に「質」を大事にし理論と方法の水準を尊重して、転職経歴と生活の糧を確保しようとする。まさにここから、危険と取り組む際の科学者に独特な非論理性が生まれる。関連性不明を主張することは、科学者にふさわしいし、また一般的に見て誉められるべきことであろう。しかし、危険と取り組む場合にこのような態度をとることは、被害者にはまさに正反対の態度と映るのである。この態度は危険を大きくするばかりだからである…科学性を厳密に言えば言うほど、危険だと判定されて科学の対象となる危険はほんのわずかになってしまう。そして結果的にこの科学は暗に危険増大の許可証を与えることになる。強いて言うならば、科学的分析の「純粋性」にこだわることは、大気、食品、土壌、さらに食物、動物、人間の汚染につながる。つまり、科学性を厳密にすることで、生命の危険は容認され、あるいは助長される。厳密な科学性と危険とは密かな連帯関係にあるのである。(本書p97)

そして、このような科学者たちの姿勢から生み出されてくる「許容値」について、ベックは「科学者はわからないということが絶対にないので…危険と取り組む際、自分たちもまたわからないのだ、ということを表す主要な言葉は『許容値』という言葉である」(本書p101)と説明している。そして、ベック自身は、次のように許容値を定義している。

 

許容値とはつまり大気、水、食品の中にあることを「許容される」有害かつ有毒な残留物の値である。これは危険の分配にとって重要な意味をもつ。それはちょうど富の不公平な分配にとって能力主義の原理が許され公に認められる。汚染を制限する者は、結局汚染に対して許可を与えたことになる。これは現在許可されたものは、例えどんなに有害であったとしても社会的に下された定義では「無害」ということを意味する。なるほど許容値によっては最悪の事態は避けられるかもしれない。しかし、これは自然と人間を少しなら汚染してもいい、という「お墨つき」ともなる。(本書p101)

この許容値という問題は、倫理上の問題を惹起する。

この倫理では、人間は互いに毒物を与えてはならないといのは自明の理であった。もっと正確に、毒物は絶対に与えてはならない、とすべきであったかもしれない。なぜなら許容値規定によって、皮肉にも悪名高いそして議論の多い「少し」であれば、毒は許されることになったのである。したがって、この「規定」は汚染防止にはつながらない。むしろ汚染がどこまで許されるかを問題にしているのである。明らかなことであるが、汚染は容認されるというのが、この規定のよって立つ根拠である。今や文明社会には有毒物質や有害物資があふれているが、その文明の退却路が許容値である。この許容値という概念は、汚染があってはならないという当然の要求を、ユートピアの発想だといって拒んでいるのである。(本書p102)

さらに、ベックは、次のように主張している。

「許容値規定」の根底にあるのは、技術官僚が下した非常にうさん臭い危険な誤った推論である。すなわち、(まだ)把握されていないもの、あるいは把握不可能なものには毒性がない、という推論である。また別の言い方をすれば、疑わしきは罰せずで、毒性の有無がわからない場合には、毒の方をして人間の危険な手から守ってやってくれ、ということである。(本書p104)

このような、ウルリヒ・ベックの主張は、放射線に対する「科学的」な見解のもつ問題点を的確に指摘している。空間における低線量被ばく、食品に含まれる微量の放射性物質の有害性については、いまだ定説がなく、放射性ヨウ素と甲状腺がんとの関係など以外では、立証されたと言いがたい状況である。そこから、許容値が一人歩きするようになる。立証されていないだけなのに、空間線量、食品中の放射性物質含有量、廃棄物(がれき・焼却灰・下水汚泥など)が、許容量以下ならば許されてしまう。そして、このような許容量を設定する科学者と、政府・企業・自治体とが密やかに結びついてしまうことになる。

これは、単に科学者が「御用学者」ということからのみ発生するのではない。科学的に立証できなければ因果関係を認めないという態度からも発生している。例えば、広瀬隆批判を行った野口邦和は、共産党系の日本科学者会議所属であり、主観的には政府・企業と結びついていたわけではない。読んでいる限りは、広瀬隆の論理展開に内在する「非科学性」が問題なのである。しかし、広瀬の主張が、一部根拠にかける部分があったとしても、全体を「ウソ」とまでは断じることはできないであろう。広瀬隆は、チェルノブイリ事故後甲状腺がんなどが多発すると「推測」しているのだが、それはその通りであった。現時点で立証できないとしても、リスクがなくなるわけではないのだ。そのように自問することが科学には求められているといえよう。

結局、科学者にせよ、政府にせよ、企業にせよ、自治体にせよ、まさに「人間は互いに毒を与えてはいけない」という倫理の上にたつべきである。許容値はせいぜい目安にすぎない。立証の問題とは別に「毒」は可能な限りゼロに近づけていくべきだと思う。

Read Full Post »

ドイツの社会学者ウルリヒ・ベックは、チェルノブイリ事故直後の1986年5月、『危険社会ー新しい近代への道』(法政大学出版局、1998年、原著は1986年)の中でこのように言っている。

このように、原子力時代の危険が有する原動力は境界を消滅させる。それは、汚染の程度にも、またその汚染の影響がどのようなものかということとも関係ない。むしろその逆である。原子力時代の危険は全面的かつ致命的なものである。いわば、あらゆる関係者が必ず死刑執行台へと送りこまれるのである。原子力汚染の危険性を告白することは、地域、国家、あるいは大陸の全域において逃げ道が断たれたという告白に他ならない。こうした危険のもつ宿命的特質は衝撃的である。(本書p.p1-2)

ベックは、放射性物質を含む有毒物質による汚染が当局の基準からみても進行したとしても、当局は呼吸したり飲食したりすることを禁止できないし、大陸全体を封鎖することはできないと指摘する。ベックは、このようなことを「『他者』の終焉」と表現する。ベックは「この危険の有する影響力は、現代における保護区や人間同士の間の区別を一切解消してしまう」(本書p1)と述べている。

ベックは、いわば「貧困」によって、放射性物質を含む有毒物質などによる近代化によって作り出された危険を蒙る程度が変わってくることは認めている。ベックは、住居、職種、飲食物、教育を選択する余地のない下層階級のほうが、より危険を蒙るであろうと指摘している。しかし、ベックは、このように述べている。

…一目瞭然なのは、誰もが吸っている空気の中の有毒成分の前では、階層を隔てていた障壁など霧散してしまうという事実である。このような状況下で実際に効果があるのは、食わざる、飲まざる、吸わざるだけだろう…近代化に伴う危険性の拡大によって、自然、健康、食生活などが脅かされることで、社会的な格差や区別は相対的なものになる。このことから、さらに、さまざまな結論が導き出される。とはいえ、客観的に見て、危険は、それが及ぶ範囲内で平等に作用し、その影響を受ける人々が平等化する。危険のもつ新しいタイプの政治的な力は、まさにここにある。(本書p51)

このような関係は、国際的な規模でも生じているとベックはいう。ベックは、まず、このように指摘している。

危険な産業は労働力の安価な国々へ疎開している。これは単なる偶然の成り行きではない。極度の貧困と極度の危険との間には構造的な「引力」が働いているのである。…このことは、働き口のない地方の人々が、職場を生み出す「新しい」テクノロジーに対して、「かなり許容度が高い」ことを証明している。(本書p59)

しかし、ベックは、このように主張している。

貧困の場合と異なって、危険がもたらす悲惨さは、第三世界のみならず豊かな諸国にも波及する。危険の増大は世界と小さくし、世界をして危険を共有する一つの社会に変えてしまう。ブーメラン効果が富める国々にも影響を及ぼすのである。これらの先進工業国は、危険性の高い工業を発展途上国に移転させることで危険を遠ざけたが、一方食料品をこれらの諸国から安く輸入している。輸出された農薬は、果物、カカオ豆、飼料、紅茶などに含まれて、輸出した先進工業国へ戻ってくる。ここに見られるように周辺諸国の貧しく悲惨な地域が、豊かな工場地帯の入り口まで押し寄せてきているのである。(本書p.p65-66)

ベックは、このような、いわば、階級・地域をこえた近代化によって生じた危険の共有は、最終的には「世界社会というユートピア」に行き着くことを必要とすると論じている。

…危険社会の発展の原動力は多くの境界を無にするものである。そして同時に底辺民主主義的なものでもある。このようなスケールの大きさから人類は皆同一の文明の危機に曝されるのである。
 この限りで、危険社会には対立やコンセンサスの新しい源泉があると見ることができる。危険社会の課題は、困窮の克服にあるのではなく、危険の克服に置かれる。…危険社会では客観的にみて「危険が共有されている」ので、最終的には世界社会というカテゴリーでしか危険状況に対処しえない。文明自体に潜在する危険が近代化の過程で増大することによって、世界社会というユートピアが一段と現実的になっている。少なくとも、そのようなユートピアを実現することが急を要する事態となっている。(本書p.p71-72)

本書全体は、チェルノブイリ事故前に書かれたものであるが、まるで、福島第一原発事故後の状況を予言しているかのようにみえる。福島第一原発事故の最も大きな被害は、原発が立地している福島県浜通りが蒙ったといえる。そして、原発事故後の対応により大量の被ばくを蒙らなくてはならないのは、原発労働者たちである。しかし、被害者は、地元地域だけではない。直接原発とは関わらない飯館村なども避難を余儀なくされた。そして、また、福島市や郡山市などの福島県中通りも放射性物質による多大な汚染を蒙った。そればかりではなく、首都圏などにも放射性物質の汚染は及んだ。さらに、食品などについては、日本全体から日本製品が輸出される世界各地域に汚染は及んでいる。加えて、福島第一原発事故において放射性物質は大気中・海中にも放出され、少なくとも東アジアもしくは環太平洋地域が汚染されたといえる。

つまりは、福島第一原発事故は、福島もしくは日本一国の問題ではない。この問題においては、「他者」はおらず、すべてが「当事者」であるといえるのである。例えば、2011年の脱原発デモがさかんに行われる契機となったのは、首都東京の人びとの運動であるといえるのであるが、それは、このようなことを背景にしているといえる。

といっても、いまだに、福島第一原発事故について、私たちは「分断状況」にある。このことを、まず、ベックの「危険」=リスクという概念を使って、今後検討していきたいと考えている。

Read Full Post »