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雁屋哲の『美味しんぼ』(2014年)についての批判に巻き込まれてしまい、部分的な発言をあげつらわれてしまった福島大学の荒木田岳は、3.11の時点で福島に在住しており、3.11についてさまざまな発言をしている。それらの中で、もっとも分かりやすく、彼の意見を集約的に語っているのが「大洪水の翌日を生きる」(福島大学原発災害支援フォーラム・東京大学原発災害支援フォーラム『原発災害とアカデミズム 福島大・東大からの問いかけと行動』所収、合同出版、2013年2月)であるといえる。以下、荒木田の語る3.11後の福島の状況についてみてみよう。

まず、荒木田は、「福島第一原発の事故は、当時、多くの人々がそう感じたように、ある時代の終わりを告げる『事件』であった」と述べている(荒木田前掲書p161)。そして、彼が共感をもった人々の発言を引用している。

(3月12日の1号機の爆発音を聞きながら)…「もう、これで終わりだな」と思いました。「ここで、おれは終わりだな」と、だから、今は、その延長戦で、終わったのだけれど、まだ生きているのですよ。(元双葉村長井戸川克隆)

 万一、起こったなら、それはとりもなおさず、「この世の終わり」にほかならなかったはずのーそんな事態が、しかしほんとうに起こってしまった。危惧されたすべての可能性に数倍する絶望的な規模で、いともあっさりと。
 すなわち、いま私たちは「この世の終わり」の後を生きているのだ……(山口泉「『この世の終わり』の後の日本で偽りの希望を拒否して携えるべきもの」、『ミュージック・マガジン』2011年6月号所収、p96)

 取り返しのつかないことが起こってしまった。だからわれわれはこの寓話〔ノアの方舟を指す:筆者注〕を、とりわけ原発事故に重ねて受けとめることになる。この事故は現在も進行しており、われわれは文字どおり現実化した「大洪水」の翌日、来ることが信じられなかった「未来」の翌日を生きている…(西谷修「『大洪水』の翌日を生きる」、ジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』所収、岩波書店、2011年)
(全体は荒木田前掲書p161−162より引用)

そして、彼自身は、このように語っている。

 

こうした感覚が、どれほど共有されているかはよくわからない。つまるところ、「取り返しのつかないこと」かどうかが分水嶺になるのであるが、実際には、リカバリー可能と考えている人が大半であろう。根拠はともかく、「そうでなくては困る」からである。渦中の選手には試合終了のホイッスルが聞こえないという説明もありうるかもしれない。しかし、試合を終えたくない人々には、これほど明らかな『合図』を見過ごすことができる図太さもまた必要だというのが実のところであろう。
(荒木田前掲書p162)

 荒木田は、「相次ぐ原発建屋の爆発を目にし、『これで帰る場所、帰る職場を失った』という絶望的な事実と直面した」という(荒木田前掲書p163)。しかし、彼にとって、その数倍の絶望を与えたのは、政府の事故対応とマスコミの報道であった。政府・マスコミ・福島県などの「事故対応」について、荒木田は次のように指摘している。

 

福島の住民に救いの手がさしのべられなかったのは、政府内部では事故後ごく短時間のうちに「経済的社会的便益や行政上の都合のために住民を被曝させることもやむなし」という決定がなされたからに相違ない。そのことは、とりもなおさず福島問題が政府の手に負えなくなっていることを意味していた。つまり、当時、政府が福島(あるいはその住民)を守るどころか、実際には、福島問題から政府ないし「社会」を守るための「尻尾切り」に必死だったということである。
 ここで確認しておく必要があるのは、東京電力はもちろん、政府も福島県も、おそらくはマスコミも、原子炉がすでにメルトダウンを起こし制御不能に陥っていることや、放射性物質が放出され住民に危険が及んでいる事実を明確に把握していたことである。それは東京電力が公開したテレビ会議の様子を一見しただけでも明らかである。ようするに状況を理解した上で、自覚的に現地住民の被曝を容認したということである。
 筆者がそのことを悟ったのは、原子力安全・保安院が憔悴し動揺を隠せない担当者に代えて、薄ら笑いを浮かべながら他人事のように事態を説明する担当者を登板させたときである。それは、福島で進行中の事故について政府が当事者意識も人間性も欠如させているという事態を、何よりも雄弁に物語っていた。原発事故以前から、人間を大切にしない社会であることに問題を感じていたが、そのことが疑いようもなく明白になった瞬間であった。それは同時に、筆者が「この世の終わり」の翌日を生きている感覚をもった瞬間でもあった。
 政府やマスコミばかりではない。県内の地方自治体も、ほぼ政府の対応を追認するか、あるいはそれに先んじて現地の安全性を強調するようになっていた。
(荒木田前掲書p163−164)

このことについては、特別にまとめなくても、荒木田の文章で十分理解できよう。荒木田は福島市渡利地区に宅地を買っていたが、周知のように、この地区の放射能汚染は深刻であり、住宅建設を断念し、3.11直後は妻子とともに県外避難せざるを得なかった。手元には借金しか残らなかったという。

そして、3月後半には福島でも通常業務が再開され、避難者にも帰還が要請されるようになり、荒木田個人にも及んだ。荒木田は「そこにいれば病気とわかっている場所で暮らせというのか」と感じたが、もちろん、帰還を要請する人々はそのようなことを正面切っては言わず、「この程度の線量なら大丈夫」「全員が病気になるわけではない」という言葉で被曝強要を正当化したという(荒木田前掲書p165)。彼は、妻子を県外避難させたまま、自身は福島で仕事を続けるという生活をせざるをえず、そのことについて、「福島の職場で一緒に被曝したところで自身の社会的責任を果たしたことにはならないとは思いつつも、かといって借金と三人の扶養家族を抱えてほかの方法を見つけることもできなかった。その意味で、筆者もまた哀れむべき『弱者』の一人であった」(荒木田前掲書p175)と回想している。

他方で、福島の地域住民の意識について、荒木田は次のように指摘している。

不幸なのは、住民はこのようなときにも(このようなときだからこそ?)、公務員に普段以上の仕事を期待し、そのことが結果として「みんなで被曝」することにつながったと思われることである。そのためというわけでもないだろうが、行政は避難を要求する『地域からの意見』には耳を貸そうとしない。
(中略)
 他方で、それ(住民が被曝地である福島に留め置かれること…中嶋注)を地元から積極的に受容すべきだという動きもあった。だれしも自らが見捨てられ、あるいは軽んじられ、騙されているという事実を受け入れられないものである。苦境を『自らの選択』として積極的に意味づける機制が働くのもわからなくはない。この場合、復興・希望・決意など、明るく「前向き」なスローガンと結びつく傾向がある。しかし、汚染を受忍して現地に住み続けることは、汚染者の責任と賠償を極小化し、総じて被害見積もりを極小化することにつながる。この場合、他者にも同じ境遇を強要する傾向があるから手に負えない。その意味でも「人権問題」に相違なかった。
(荒木田前掲書p164−166)

他方で、荒木田は、行政の都合により利用されている各分野の「専門家」について、その責任を次のように指摘している。

彼らが難解な術語や数式を用いて事態を説明することは、それを解さぬ「素人」が沈黙を強いられるという効果をもたらした。というより、むしろ人々をこの問題から遠ざけることが目的だということが疑われた。そして、少なくとも、福島県内において住民の多くを萎縮させ、黙らせ、諦めさせることになった点からすれば、それは十分にその目的は達成されたといえる。そして、被曝が日常になれば、やがて考えることをやめてしまう。考えても仕方のないことだからである。
(荒木田前掲書p167)

その上で、荒木田は「しかし、そもそも放射線が細胞と遺伝子を傷つけるメカニズムを考えれば、難解な術語や数式を使うまでもなく『放射線は浴びないに越したことはない』という結論に至るほかない。とすれば、その先に『人々が無用の被曝を避けるにはどうしたらよいか』を考えるというのが自然の成り行きであろう」(荒木田前掲書p167)と主張している。

さらに、荒木田は、福島第一事故以後、作業員の被曝限度を50mSvから250mSvに引き上げ、住民の追加被曝限度を年間20mSvとし、食品暫定規制値を設けるなど、各種安全基準を緩和したことを、「政府が福島問題を『尻尾切り』しようとしてめぐらせた策」(荒木田前掲書p168)と断じている。そして、これらの緩和措置を「○×の答えがないグレーゾーンでリスクと便益を判断する」として正当化した自称「福島の応援団」である福島県放射線リスク管理アドバイザー山下俊一の発言について、「平時ではないのだから『現実的に』考えて安全基準を緩和して対応するしかないこと、住民に『共に』『重荷』を背負うべきであることが主張されている。住民が福島の地に住み続けることは、当然の前提とされており、避難することは『利己的』『過保護』だというのである」(荒木田前掲書p169)と荒木田は概括し、次のように指摘している。

 

しかし、追加被曝年間1ミリシーベルトが「不可能」ないし「非現実的」なのは、福島に住み続けるようとするからであって、それ未満の線量の場所に移住すれば実現不可能ではない。「去るのも、とどまるのも、覚悟が必要」になるのは、政策的な避難を放棄しているためである。自己決定・自己責任を強調しているように見えるが、避難の支援はしない、避難するならご自由に、という部分に強調点がある。
(荒木田前掲書p169)

さらに、荒木田は、山下の発言を「人類史に残るような大事故であったはずの事実が、個人的な感覚や感情の問題に解消」(荒木田前掲書p169)するものとしている。このような発言に加えて、「放射能を正しく理解する」という殺し文句が出てくれば、原理を正しく理解していないから感情的に怖がるのだというイメージが形成されるとしている。そして、荒木田は注で、山下のリスク管理が間違うことがあっても、彼の個人的な責任とされ、政府はどこまでいっても無謬とされるだろうとしている。

荒木田は、この戦略はとりあえず成功しているとしている。彼は、このように言っている。

福島では、一部の人によってではあれ、自発的に「住み続ける権利」が主張され、現地の安全性に疑義を挟むことは「住む者に対する冒涜」だと主張されているからである。同様に、福島の農産物の安全性に疑義を呈することも、「安全だと思って食べている人を侮辱すること」だとされるのである。現地を心配する声が、現地の人々によって諌められ、怨嗟されてきた。自称「福島の応援団」が現地に何をもたらしたかは明らかであろう。
(荒木田前掲書p169−170)

荒木田は、「そうまでして守ろうとした『社会』は、いったいどのようなものだったのであろうか」と自問し、「結論からいえば、自身の快楽や幸福のためには他人の犠牲をも厭わないということがまかり通るような社会であった。とりわけ重視されたのは経済である」(荒木田前掲書p171)と自答している。荒木田によれば、犠牲を受け入れさせることに利用されるのが、山下俊一が主張するような「リスクと便益を判断する」という観念なのだが、これは、結局、地理的にいえば、リスクは現地の人が負担し、便益は域外の、一部の人々が得るという仕組みになっているとしている。さらに、時間的にいえば、廃棄物処理を先送りし、今の快適な生活のため、目の前から問題が消えればそれでいいとする考え方なのだと荒木田は主張している。

荒木田は、「原発事故問題は、原発事故の問題ではない。問われているのは、現在の生活様式であり、生き方そのものである」とし、他人に迷惑をかけても、問題を後世に先送りしても「今ここでの快適な生活」に固執する人々が、その生活を守るために、消極的には思考停止し、積極的にはそれを容認する政党を支持するのだろうと述べている(荒木田前掲書p173)。さらに、荒木田は、問題が大きすぎると直視できなくなるとし、人の手に余るような破滅的な事故・災害は想定外とされ、手に負えない事故は、隠蔽・矮小化され、考慮の枠外にされ、思考停止し、忘却されようとされるのだろうと述べ、「こうして、序曲の幕開け時点においてすでに忘却が政治上の論点になっている。その点に、この世の不幸がある」(荒木田前掲書p174)と言っている。

このような状況に対抗して、荒木田は次のような宣言を発している。

 

しかし、最初の問題に戻っていえば、原発事故が発した「警告」は、時間的・地理的双方の意味で「見えない場所に矛盾を追いやり、今ここでの快適な生活を続けること」が、もはや不可能だということを示す合図だったのではないか…福島第一原発事故は終わらないし、終わりようがないのである。矛盾を押し込むことができる「外部」など、時間的にも空間的にも、もはや存在しないことが明らかになったのである。その規模や汚染の範囲を考えると気が遠くなるし、逃げ出すべき「安全な場所」などどこにも存在しない。それが残念ながら現実である。
 我が亡き後に洪水は来たれーしかし、その洪水は昨日起こってしまっている。結局、脱皮の失敗が命取りになるのは、「大地のライオン」にとっても人間社会にとっても同じかもしれない。
(荒木田前掲書p174)

荒木田は、彼の住んでいる福島の現状を、彼の言う「被曝者」の視点で、赤裸々に描いている。福島の原発建設自体が、彼のいうリスクを現地におしつけ、放射性廃棄物の処理を後世におしつけ、その便益を現在の「快適な生活」を維持し続けようとする一部の人々に与えるものであり、それは、福島の人々に放射線被曝をさせつづけることにつながっている。そのために、「専門家」を使嗾しながら、福島の人々に「放射線」への不安意識を払拭させ、福島に住み続けることを「当然」として意識させようとしている。この戦略は、とりあえず、荒木田は成功しているとしている。そして、2014年に「美味しんぼ」批判に荒木田は巻き込まれたのだが、「現地を心配する声が、現地の人々によって諌められ、怨嗟されてきた」という論理が、皮肉なことに、彼への批判に使われたのであった。短期的には、「現在の快適な生活」に固執する人々は、彼らのいう「福島の正常化」(放射能つきの)に成功しつつあるようにみえる。事実が隠蔽・矮小化され、思考停止され、忘却されていっているのである。そして、福島第一原発にせよ、福島県の放射能対策にせよ、原発再稼働にせよ、「我が亡き後に洪水は来たれ」を、そのまま実行しているように見えるのである。

しかし、荒木田のいうように、福島第一原発事故は「取り返し」のつかないものであった。それは、福島だけのことではない。長期的にいえば、矛盾を押し込むことができる外部は、荒木田のいうように、時間的にも空間的にも存在しない。逃げ出すべき「安全な場所」など、どこにもないのだ。それは、最近開通した常磐道をみていればわかることである。

荒木田が引用している「『この世の終わり』の後」(山口泉)、「『大洪水』の翌日、来ることが信じられなかった『未来』の翌日」(西谷修)という感想は、福島にはいなかった3.11直後の私にも感じられた。そして、2015年の今、福島県民の被曝を前提として、その枠組みの中からでしか未来を展望させない「復興事業」のありかたをみていると、それが「善意」からでているとしても、ある程度県民の生活状況を改善することができたとしても、私には全体として「転倒」したものにみえてしまうのである。まさしく、この世の終わりの後、大洪水の翌日に私たちは生きているのである。

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前回は、2013年9月9日付朝日新聞夕刊から、その紙面中において、2020年東京オリンピック開催決定を心から喜んでいる人は誰なのかをみてみた。基本的には、経済効果を期待する経済界、自分たちの活動の場が広がるアスリート、五輪関連施設が所在もしくは建設予定の地域の人びとなど、何らかの関係者が多く、加えて、1964年東京オリンピックを経験した年代の人びとが紙面で喜びを表明していたといえる。いわば、何らかの意味で(幻想的なものも含めて)利益を感じる人びとと、1964年東京オリンピックへの回顧趣味を感じている人びとによって「喜び」の声が表明され、それらが新聞紙面を埋め尽くすことによって、「祝祭」感が醸成されているのである。

そういう状況は、9月10日付朝日新聞朝刊東京版にもみることができる。ここでは、28〜29面にわたって「五輪へ夢の始まり 7年後待ってるよ」という見出しのもとで巨大な記事が掲載されている。この記事は、基本的には三つに大別できる。

第一に、アスリートや東京都庁など招致委員会側の動向や発言を伝えている。その部分では、招致アンバサダーを勤めたパラリンピック代表(女子陸上車いす)土田和歌子が喜びの声を発言しており、最終プレゼンを勤めた猪瀬都知事や太田・佐藤選手などによる報告会が都庁都民広場で開かれる予定であることが伝えられている。さらに、板橋区役所で、聖火ランナー写真などの展示が行われること、招致ポスターの撤去や手直しが始まったことが報道されている。

第二に、IOC総会のパブリックビューイングや五輪開催決定祝勝会に参加した人びとの喜びの声が多数収録されている。ここでは、一部紹介しておこう。

 「TOKYO」と読み上げられた瞬間、かたずをのんで見守っていた人たちから歓喜があふれた。8日の五輪開催都市決定は、早朝にもかかわらず、多くの人たちが「その時」を共にした。

 ●選手村予定地・晴海
 「やったー」「すげえ」8日午前5時19分。中央区晴海にあるホテルの宴会場では、この瞬間を待ちわびた子どもたち約20人の歓声が飛び交った。
 44ヘクタールの都所有地がある晴海地区では、選手村の建設が決まっている。「地域の子どもも参加できるイベントを」とパブリックビューイングを企画した新井正勝さん(52)は、地元小学校のPTA会長を4年間務めた。「7年後、選手村や街をつくっているのは子どもたち。『晴海っ子』たちには、どうしたら素晴らしい街にできるか考えてもらいたい」と新井さん。
 晴海にある小学校に通っていた古旗笑佳さん(13)は、「7年後はきっと大学生。今からたくさんの国の言葉を勉強して、通訳ボランティアに携わりたい」と希望に胸をふくらませた。
(後略)

その後、墨田(墨田区立総合体育館)、競技会場予定地・江東(豊洲)、品川、都庁前での景況とそこに集まった参加者の声が報じられている。今回のオリンピックは臨海部を中心とすることが報じられているが、この記事でとりあげている多くの場所がそのエリアであることに注目してほしい。品川も羽田空港に近く、町おこしが期待されている。引用部分にあるように、大人たちが町おこしへの期待を語り、子どもたちはより純粋に何らかの意味での参加を表明するという形で記事は書かれている。つまり、まず、東京オリンピックで町おこしが期待できる地域が「心から」喜びを表明し、パブリックビューイング開催などの形でそれを形に示したといえよう。

さて、この東京地方版では、招致委員会側でもなく、開催により直接の受益もない一般の人びとの意見も収録している。まず、「2020年、東京でオリンピックとパラリンピックの開催が決まった。7年後の夏、世界最大のスポーツの祭典を迎える東京はどうなっているだろう。半世紀前の記憶に重ねる人、冷静に見つめる若者…。9日、都内各地で聞いた。」と述べている。その上で、浅草・巣鴨で老人に、秋葉原で若者にインタビューした記事を載せている。

浅草・巣鴨における老人の意見を一部紹介しておこう。

 

浅草・巣鴨のお年寄りは

 世界各地の観光客を相手にする浅草の仲見世通り。世代交代が進み、1964年の東京五輪の記憶が残る人は多くない。
 カメラ店を営む青木じゅんこさん(65)は当時高校1年生。「バレー部に入っていた頃、テレビにかじりついて、『東洋の魔女』のプレーを必死に追ったわ」と笑う。秋田県から上京し、夫の恒久さん(66)と店に立って約40年。「建物も食べ物も町並みもがらっと変わった。次はどんな五輪になるんだろう。今から楽しみです」
(後略)

この後、浅草の1名、巣鴨の2名のインタビューが掲載されているが、基本的には同じである。高度経済成長期の自らの生きざまに重ね合わせて1964年東京五輪を懐古し、2020年東京五輪への期待を語るということになっている。ここまでは、前日の夕刊の状況とそれほどかわらない。招致関係者、五輪開催の受益者たち、過去を懐古する老人たちによって、新聞の多くの部分が埋め尽くされ、「祝勝ムード」が醸成されているのである。やはり、新聞というものは、結局、一部の人びとのイントレストを、「国民」多数のものに転化させる装置であるといえる。

しかし、朝日新聞の紙面でも、秋葉原の若者たちは全く違った反応を示している。その部分を次に掲載する。

 

アキバの若者たちは

 「クールジャパン」と呼ばれる日本のアニメ文化の発信地・秋葉原。アキバの人たちにとって、同人誌即売会「コミックマーケット(コミケ)」の開催地として定着している「東京ビックサイト」(江東区有明)がレスリングなどの会場になるため、「五輪開催時はコミケがビックサイトでできない」とネットで話題になっていた。
 これまで3度コミケに行ったという、さいたま市の男子大学生は「別の場所、できれば関東でやってくれればいいと思う。スポーツ観戦も好きなので東京五輪は楽しみ」と話す。一方、埼玉県八潮市の女子高校生(17)は「五輪はいいけど、コミケはビックサイト、とインプットされてるので残念」と話す。「7年後はいい年だし、想像つかないけど、景気が良くなっていればいいな」
 中には、五輪の開催自体に疑問の声も。「都合のいいときだけ東北を使うなーと」。ピンク色のメード服で着飾ったフリーターのれいさん(21)。「距離が離れているから(東京の放射能レベルは)大丈夫と言いつつ、『東北のため』というのは矛盾しているんじゃないかな」と話す。「お金を使うなら直接、被災地に使って欲しい。東京五輪が決まったと聞いても、うれしい気持ちはない」と冷めていた。

まず、全体的に、秋葉原の若者は、五輪開催自体ではなく、そのためにコミケが開催できなくなるかどうかに一番の関心をもっている。前二者は、たぶん世論調査では「五輪開催支持」に分類されるのだと思うが、関心の中心はコミケ開催にある。現在の自分の関心事が最優先しており、五輪開催自体は副次的問題になっているといえよう。その点、浅草・巣鴨の老人たちの感想と対照をなしている。

そのような心情の中から、ようやく、明示的な五輪開催への批判がうまれてくるのである。最後の一人は、東北から距離が離れているから東京開催は大丈夫だというにもかかわらず「東北のため」を標榜するのは矛盾だとし、お金を使うなら直接被災地に使ってほしいと述べ、東京五輪が決まってもうれしい気持ちはないとしている。このような批判的意見が、秋葉原の若者の多数意見かどうかはわからない。しかし、自分自身の一番望むものがあるからこそ、五輪開催を相対的にみる雰囲気があり、それが、批判的意見が表明される下地になっていたと考えられるのである。

全体でいえば、9月10日付朝日新聞朝刊東京地方版で報道されている2020年東京オリンピック開催決定に対する東京の人びとの反応は、おおむね三つに大別される。

第一は、五輪関連施設建設予定地の地域住民である。彼らは、街おこしへの期待から、五輪開催決定を喜んでおり、地域でパブリックビューイング開催するなど、期待を積極的に形として示したといえる。

第二は、1964年東京オリンピック開催を経験した老人たちである。彼らは、高度経済成長期を生きた自身の生きざまから先のオリンピックを懐古し、その点から、オリンピック開催を期待している。

第三は秋葉原の若者たちである。彼らにとっては、五輪開催自体よりもそれによりコミケ開催がどうなるかということが第一の関心事であり、五輪開催に賛成しているとしても、それは副次的な問題にすぎない。このような、五輪開催に対する相対的な見方を下地にして、五輪開催についての批判的意見が述べられているといえよう。

もちろん、これは朝日新聞の取材であり、世論調査でもないので、この報道が統計的に有意なものとはいえない。取材にしても、サラリーマンが多く通る新橋とか、消費者を主な取材対象とする銀座での街頭取材については報道していない。それでも、なんとなく、この三つの対応は、東京オリンピック開催についての東京の人びとの反応の類型を示しているように思われる。

もともと、私の疑問は、誰が心から東京オリンピック開催決定を喜んでいるのかということであった。前のブログをあわせて考えると、まずは、経済界、アスリート、五輪関連施設所在地・予定地の地域住民など、東京オリンピックによる受益を期待(幻想的であっても)できる人びとであった。さらに、直接的受益は期待できなくても、1964年東京オリンピックを経験した老人たちは、高度経済成長期を生き抜いた自分たちの生きざまを懐古しながら、東京オリンピック開催に期待をよせている。この人びとが、五輪に「夢」を投影し、その開催決定を喜ぶのは当然だ。しかし、私個人は、こういう人びとを直接知らないし、そういう「夢」自体が理解できないのである。

他方、秋葉原の若者たちは、「コミケ」開催に自分の「夢」を感じている。コミケ開催が五輪開催によって支障をうけるかもしれないこと、それが一番問題なのである。例え、五輪開催に賛意を示していたとしても、それは副次的な問題なのである。その中で、やっと批判的意見が出されるようになる。五輪開催自体に批判的かどうかはおくことにしよう。五輪開催という上から与えられた「夢」に共感するよりも、自分たち自身がなしたいことがあるというのが、彼らの考えといえる。もちろん、私は彼らにあったことはない。秋葉原もコミケも日常的には縁がない。といっても、彼らのメンタリティのほうが理解できる。そして、このようなメンテリティは、秋葉原だけでなく、より一般的に広まっているのではなかろうか。ほとんどの人は、「五輪」のみで生きているわけではない。「五輪」以外にも多くの「夢」があるのである。

こうやってみると、新聞をよく読んでみると、それでも、「国民多数」の中に走っているいくつかのひびをみつけることもできるのではなかろうか。それは、今回はとりあげないが、東京五輪開催決定に対する被災地での対応にも現れているのではないかと思う。

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さてはて、是非はともかく、9月7日に2020年東京オリンピック開催が決定された。しかし、驚いたのは、マスコミなどで流される「祝勝」気分と、自分たちの周辺との反応の落差である。私はオリンピックが開催される予定の東京に住んでいるが、直接に接触しても、フェイスブックで間接的に意見交換しても、東京オリンピック開催を喜ぶ人はほとんどいない。私が資料収集をしていた9日の武蔵野市立中央図書館で、全く知らない図書館利用者が「決まってよかったですね。うれしくて」と別の利用者に話しかけていたが、いわゆる「喜びの声」を「生」で聞いたのは、それだけである。

福島などの被災者が「別の国」のようだと言っていたが、東京に住んでいる私も、まるで別の国に住んでいるようにしか思えなかった。その第一の理由は、もちろん、安倍首相その他の福島第一原発事故についての虚偽とすら思える発言があったことである。しかし、それだけではない。東京に住んでいたとしても、2020年東京オリンピック開催によって、私個人の「生」にどのようなメリットがあるか、わからないからでもある。

本当に心から東京オリンピック開催を喜んでいる人たちはどういう人なんだろう。そういった目で、祝祭気分あふれる(とみえる)朝日新聞を読み直してみた。

新聞休刊日があったため、号外をのぞいて朝日新聞本体では第一報となった2013年9月9日付夕刊には、まず度肝をぬかれた。普通の新聞本体をカバーして、全面色刷の東京の俯瞰写真が掲載され、「お帰り五輪。夢の炎、熱く熱く」と見出しがうたれている(なお、下の一部と裏面は、なぜかBMWの広告である)。その中では、第一に1964年東京オリンピックが開催されたことが回顧され、東日本大震災の復興がはたされたとはまだいえないと指摘した後、

 

が、五輪は間違いなく人々の体に勇気を吹き込む。猫背気味に視線を下に落としていた人たちが上を向くのだ。そこには64年に見た「希望」が形を変えて新たに表れるに違いない。お帰り、五輪。僕たちは元気をもらうよ。

と、東京オリンピック開催決定を祝勝している。そこには、64年五輪を回顧し、五輪が「勇気」を吹き込むという言説があることに注目しておきたい。「勇気」というものを「主体性」という言葉で代置するならば、五輪は人びとの「主体性」を構築するものとして把握されているのである。

そして、2面では、「経済界、高い期待 早速セールも」という見出しのもとに、経済界がオリンピック開催に期待を高めている様子を報道している。これは、まあ当たり前のことである。それでも、オリンピック開催を第一に喜んでいるのは、経済効果を期待する経済界であることは記憶にとどめるべきことであろう。

さらに、スポーツを扱う12面で、「アスリート走り出す」という見出しのもとに、柔道女子57キロ級金の松本薫、ゴールボール金の浦田理恵(パラリンピック)、女子マラソンアテネ五輪金メダルの野口みずき、体操男子ロンドン五輪個人総合金メダルの内村航平、競泳男子平泳ぎ金メダリストの北島康介、車いすテニスの国枝慎吾(パラリンピック)の「喜びの声」を伝えている。一例として、松本薫のそれを紹介しておこう。

夢持つ子が増えれば、柔道女子57キロ級金松本薫

 ロンドン五輪柔道女子57キロ級金メダルの松本薫(フォーリーフジャパン)は2020年の東京五輪に「夢」を感じている。
 「今、夢を持てない子どもたちが多くなっていると聞きます。東京に五輪がくることで、夢を持つ子どもが1人でも増えればいい」
 ロンドンで日本選手第1号の金メダルを獲得。1年の充電期間を経て、ロンドンの記憶は薄れてきている。脳裏に残っているのは、選手村の雰囲気。「緊張感と、ついにここまで来たんだ、という喜びが混じっていた。独特の空気感でした」
 激しい戦いぶりとつかみどころのない素顔とのギャップで人気を集めた彼女も小さい時は明確な夢を持てず、悩んでいたという。「ケーキ屋になりたいとかそういうのはあったけど。いつか路頭に迷うんじゃないか、って思ったときもありました」
 そんなモヤモヤを振り払ったのが、中学生のころに抱いた五輪への憧れだった。ロンドンで「やりつくした」との思いも抱いたが、再び「夢の舞台」に立ちたいという欲求を抑えることは出来なかった。
 25歳。「柔道が天職」という彼女が、2020年まで現役でいられるかは分からない。それでも、「東京五輪で、アスリートの夢を日本のみんなと共有で出来れば、本当にすごいと思います」。(野村周平)

経済界の五輪開催への「期待」が経済効果であり、いってしまえば営利獲得の機会拡大であることと比べてみれば、松本の「夢」は、自分以外のものにも向けられており、純粋な気持ちであるといえよう。その点、「感動的な」記事である。しかし、それが、「アスリートの夢」であり、「非アスリートの夢」ではないことに注目しておかねばならない。それをみんなー都民・国民に「共有」させること、これが松本の東京オリンピック開催なのである。松本個人が出る出ないは別にして、彼女が属しているアスリートの世界全体は、東京オリンピック開催によって利益を享受するとはいえる。いわば、アスリートは総体として「受益者」であり、関係当事者なのだ。その他のアスリートたちも、立場は同じである。彼らが2020年オリンピック開催を喜ぶのは当然だが、一般の人びととは立場が違うと指摘しておかねばならない。

さて、社会面である14・15面は二面見開きで「情熱のち聖火 夢舞台再び」という見出しのついた大きな記事が掲載されている。その中で、第一に「半世紀あせぬ思い 聖火台・ブレザー 磨いた技」として、64年東京オリンピックにおいて聖火台製作に関わった鈴木昭重と、バレーボール日本代表(男女)の公式ブレザーを仕立てた藤崎徳男の発言が紹介されている。第二に、「一枚かみたい64年出場組」という見出しのもとに、64年東京オリンピックにおいて日本選手団主将をつとめた元体操選手の小野喬と、64年の東京オリンピックで議論に初出場し、ロンドンオリンピックにも出場した馬術選手の法華津寛の談話を紹介している。この四人は、まずは64年東京オリンピックの関係者であるということが共通している。彼らは、オリンピック関係者であるという点で、現代のアスリートたちの立場と共通している側面をもつ。他方で、1964年の東京オリンピックを回顧するという点で、独自の面をもっているといえる。

この記事ではさらに、『「東京で勝負」 若手決意』という見出しのもとに、10代のアスリートたちの声として、陸上選手桐生祥秀(17歳)と、卓球選手平野義宇(14歳)の談話が掲載されている。ここでは、桐生の分のみあげておこう。

「東京で勝負」 若手決意

 母国での五輪を担う10代の若者は夢を膨らませる。
 「東京にくるのはうれしいけど、五輪に出たことがないので……」。陸上男子100メートルで9秒台をめざす17歳の桐生祥秀選手(京都・洛南高)は少し戸惑いながら話した。
 陸上を始めて1年目の2008年、北京五輪の陸上男子400メートルリレーで日本が銅メダルを獲得するのをテレビで見た。「その時は、ただ日本が速いな、ジャマイカがすごいなっていう程度。まさか自分が世界で戦う選手になるとは」。今年の世界選手権では400メートルリレーで6位に入賞した。
 20年は24歳。「勝負するのは東京。世界で戦える強さを持って、その舞台に立っていると思う」
(後略)

桐生の発言は純真だ。しかし、彼も、ここでは省略した平野も、広い意味でアスリートに属している。いや、2020年東京オリンピックでは、主力選手になっているかもしれない。その意味で、彼らもまた、東京オリンピック開催による受益者であり、利害関係者であることは留意しなくてはいけない事実である。

そして、やっと、14面の片隅において、一般の人とおぼしき人びとの「喜びの声」があげられている。ただ、東京都内の招致イベント会場で取材した記事なので、一般の人というよりも東京オリンピック招致活動参加者の声とするのが適切かもしれない。それでも、今まであげてきた人びとよりは一般の人に近いといえよう。短い記事であるので、ここで紹介しておこう。

「希望見つけた」

「バンザーイ」「やったー」。半世紀ぶりの五輪開催が決まった8日未明、東京都内の招致イベント会場は喜びに沸いた。
 1964年大会の会場となった世田谷区の駒沢オリンピック公園総合運動場の体育館。大画面に映ったIOCのロゲ会長が「トーキョー」と告げると、大歓声が上がり、金色の紙吹雪が舞った。
 東日本大震災の被災地・福島県南相馬市から来た江本節子さん(66)の目には涙。「ようやく夢や希望が見つかった。復興と五輪が両輪で進んでいくのではないか」と喜んだ。
 五輪代表選手らの練習拠点となる味の素ナショナルトレーニングセンター(北区)に近い「板橋イナリ通り商店街」(板橋区)。8日朝、子どもたちが巨大なくす玉を割り、「祝 東京オリンピック」と書かれた幕が現れた。近くの工場経営、下平信彦さん(30)は長男の和彦ちゃん(1)を連れ、くす玉を割れる様子をビデオ撮影した。7年後、小学生になる息子に感動を伝えるためだ。下平さんは「五輪には夢がある。選手が頑張る姿を見て、何かを目指すきっかけにしてほしい」。
 8日朝、東京・新宿の都庁前では、「THANK YOU ありがとう」と感謝の気持ちを人文字で表すイベントも。杉並区の自営業池田輝夫さん(65)は「64年大会は高校を早退してマラソンのアベベを見に行った」と懐かしみ、「今度は8人の孫に見せられる」と喜んだ。

さて、ここでは3人の人が「喜びの声」を語っている。江本と池田は大体同じくらい(65〜66歳)で、1964年オリンピック経験者であることに着目したい。池田は、明確に、1964年オリンピックと重ね合わせて、今回のオリンピックへの期待を述べている。江本は、産經新聞にも同様なことを語っており、なぜ、被災地でこういうことをいうのかと考えていたが、年齢をみて納得した。彼女は、自分でも体験した1964年オリンピックの残像の上に、復興に寄与するオリンピックというイメージを構築しているのだと考えられる。

年齢的にみて、下平は1964年オリンピックを直に体験したことはないだろう。しかし、彼も、オリンピックに完全に無関係かといえば、そうではない。オリンピック関連施設と考えられる味の素ナショナルトレーニングセンターの近くに住んでいるのである。彼自身は、たぶんオリンピック開催から直接的利益を受けることはないだろうが、地縁はあり、広い意味でオリンピックに関わり合いをもつものといえよう。

さて、全体でいえば、2013年9月9日付朝日新聞夕刊で「喜びの声」を表明している人たちの多くは、オリンピック開催に何らかの関わり合いをもつ人たちといえる。「経済効果」を期待する経済界、よりチャンスを広げたいと考えているアスリートたち、1964年のオリンピックに関与した人びと、オリンピック関連施設と「地縁」を有するものなど、それぞれ多様であるが、全く関連のない人たちはあまりいないといえる。

そして、オリンピックに関わらないで「喜びの声」を挙げている二人は、年齢的にみて1964年オリンピックの体験者であると考えられる。同じようなことは、1964年のオリンピック関係者の四人にも共通している。聖火台製作に関与した鈴木昭重は「64年当時と違い、今の日本は成長が止まっている状態。五輪で気持ちが新たになればいい」と述べている。彼らは、1964年を回顧しつつ、2020年のオリンピックに期待をかけるのだ。

このように、本新聞の紙面で2020年東京オリンピック開催への期待を語っている人びとは、受益者を中心とした広い意味での関係者か、1964年東京オリンピックへのノスタルジーを感じている人たちであることが理解されよう。

ただ、昨年、東京オリンピック開催をかかげた猪瀬直樹がかなりの得票率で都知事選に勝利したこと、IOCの調査では東京開催を支持する意見は70%程度はあったと報じられていることをみると、東京開催を「支持」するという人たちはかなり多いのではないかと推測される。しかし、それは、一般的には漠然とした支持であり、明確に言語化して「心から支持する」と主張する人は一般には少ないのではないかと思われる。広い意味での関係者と、1964年の東京オリンピック体験者しか、自分の言葉で東京オリンピックについて語れなかったのではなかろうか。そもそも、オリンピックとはーそのために増税したり、経済危機になったりすることは別としてー、大多数の日本の人びとの「生」には関わらない存在である。ゆえに、普段からオリンピックについて考えている受益者を中心とした広い意味での関係者か、1964年東京オリンピックへのノスタルジーを感じている人たちのみが、ここで発話できたのではなかろうか。

そして、結局のところ、広い意味での関係者の利害と、特定の世代の特殊な意識を、紙面に大きく掲載することによって、「国民意識」を形成し、「主体性」を創出していくことになる。これこそ、国民国家の装置としての新聞の機能なのである。

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