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東京都練馬区大泉町1-6に清水山憩いの森というところがある。ここは、白子川という小さな川に面した傾斜地であり、クヌギ・コナラ・イヌシデ・エゴノキなどの落葉樹の雑木林が保存されている。その林床には多くの野草が自生し、特にカタクリが約30万株も群生している。このカタクリ群生地の環境が歴史的にどのような経過をたどって保護されてきたのかということをみていくことで、私たちは歴史を通じて未来を展望していくことにしたい。

清水山憩いの森の景況

まず、3月下旬の同地の景況を紹介しておこう。まず、全体は、下記の写真のようなところである。傾斜地上に雑木林が生えている。

清水山憩いの森の雑木林(2014年3月31日撮影)

清水山憩いの森の雑木林(2014年3月31日撮影)

この雑木林の中には湧水がある。この湧水は、東京の名湧水57選にも選ばれた。また、地名の「清水山」も、この湧水から名付けられたのであろう。

清水山憩いの森の湧水(2014年3月31日撮影)

清水山憩いの森の湧水(2014年3月31日撮影)

そして、雑木林は白子川に面している。訪れた日は、川岸のサクラが満開であった。

白子川(2014年3月31日撮影)

白子川(2014年3月31日撮影)

前述したように、この林床にカタクリが群生している。この写真ではたまたま、白い花のキクザキイチゲも写っている。この雑木林のすべての部分というわけではないが、かなり広い範囲でカタクリが咲いている。これでも五分咲きということである。

林床のカタクリとキクザキイチゲ(2014年3月31日撮影)

林床のカタクリとキクザキイチゲ(2014年3月31日撮影)

カタクリの花のアップの写真をあげておこう。カタクリは暖かな晴天の朝に開花し、夕方には閉じてしまう。曇天や雨天には開花しない。花びらの中の模様は、ハチなどに蜜の在処を知らせているそうである。

カタクリ(2014年3月31日撮影)

カタクリ(2014年3月31日撮影)

革新都政によるカタクリ群生地保護の開始

続いて、カタクリ群生地がなぜ保護されるにいたったかをみていこう。練馬区発行のパンフレット『清水山憩いの森 カタクリ』では、この地について次のように説明している。

 

憩いの森は、武蔵野の面影をとどめる樹木を残そうと、練馬区が土地所有者から樹林を借り受け、区民に開放しているものです。清水山憩いの森は昭和51年3月に憩いの森の第1号として指定されました。そのきっかけとなったのがカタクリの自生地が確認されたことでした。
 昭和49年6月、区民の方から、白子川流域の斜面林にカタクリが自生しているという情報が練馬区に寄せられ、翌年3月にカタクリがたくさん残っていることが確認されました。この貴重な自然を永く保存するため、この樹林は昭和51年に「清水山憩いの森」として整備され、その後練馬区で管理しています。
 また、その後、区内各地の雑木林・屋敷林などが「憩いの森」として整備され保全されています。

要約すれば、1974年(昭和49)に区民からカタクリが自生しているという情報が寄せられ、翌年確認し、1976年(昭和51)に憩いの森として指定したということである。私有地を区が借り上げて管理しているということになっている。

まず、このカタクリ群生地が保護されることが決定した時期に着目したい。この時期は、美濃部亮吉が東京都知事に就任していた時期である(1967〜1979年)。1950〜1960年代の高度経済成長期、公害や乱開発などの社会問題は激化していた。東京などの大都市周辺では、田畑や山林はスプロール的に住宅地や工場に乱開発され、河川や空気は著しく汚染されていた。このような状況を前提にして誕生した美濃部革新都政は、同時期に多く出現したその他の革新自治体と同様に、環境問題にも積極的に取り組んだ。また、この当時の練馬区長田畑健介は、もともと東京都職員であり、1973年に美濃部知事によって練馬区長に選任された人で、1974年に区長公選制となって翌1975年に区長選が行われた際には、社会党、共産党、民社党、公明党の4党の推薦、支持を受け、自民党推薦の無所属候補を破って公選区長となり、1986年まで勤めた。この時期においては、広い意味で革新陣営の側にいた人といえよう。このような、革新自治体の気運を前提として、カタクリ群生地の環境保護がなされるようになったといえよう。

*田畑健介については、Wikipediaの記述とともに、次のサイトにある、井田正道「1987年練馬区長選挙」(『明治大学大学院紀要 政治経済学篇』 25、1988年)の抄録を参考にした。
http://altmetrics.ceek.jp/article/jtitle/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2%E7%B4%80%E8%A6%81%20%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6%E7%AF%87

その後の保護状況については、たまたま毎日新聞朝刊1986年8月24日付の連載記事「がんばれ生きもの36」に植物写真家安原修次が「練馬に自生 ”女王”カタクリ」という文章を寄せ、次のように伝えている。

 

しかし、住宅地に囲まれた都内で毎年カタクリの花が見られるのは、保存するために努力する人がいるからだ。ここは民有地だが、昭和五十年に無償で借り上げた練馬区が管理しており、二月から五月まで常時二人の臨時職員が現地に派遣されている。そのひとり七十五歳の郷土史家、森田和好さん(七五)はもう十一年間もカタクリを守っている。参観者がサクから入って写真を撮ったり掘り採ろうとすると、
「そこに入ってはだめ」と、だれかれかまわず大声でどなりつける。でも見に来た人へは親切に接し、カタクリについて丁寧に説明してくれる。また周りの住民によって「カタクリを保存する会」(沢開茂宣会長)という団体も作られ、花の時期は夜中も交代で巡視しているそうである。

現在は、「清水山憩いの森を管理する区民ボランティアを中心に、カタクリ群生を守り育てるなどさらに見事なものにつくりあげていく」(練馬区サイト)と、ボランティアが中心として管理しているようである。私が行った時は、管理するための小屋が設置され、「カタクリガイド」といわれる人が二、三人いて、参観者に説明などを行っていた。すでにあげた写真をみればわかるように、林床では笹などの背の高い下草は除去され、カタクリなどの低い野草に日の光りがあたるようになっている。また、説明パネルによると、定期的に高木類を交代して伐採し、雑木林の更新がはかられているということである。革新都政の時代に始まったカタクリ群生地の環境保護が、今の時代にも受け継がれているのである。

「即身入仏」が行われた「聖なる土地」としての清水山

清水山憩いの森には、もう一つの顔がある。伝説によれば、禅海法師という僧侶がこの地で即身入仏したとされている。次の2つの写真は、禅海法師の入定塚とその説明パネルである。

禅海法師の入定塚(2014年3月31日撮影)

禅海法師の入定塚(2014年3月31日撮影)

禅海法師の入定塚説明パネル(2014年3月31日撮影)

禅海法師の入定塚説明パネル(2014年3月31日撮影)

説明パネルの内容を紹介しておこう。

   

禅海法師の入定塚
 別荘橋の南側、清水山憩いの森一帯は旧小榑村の飛び地で、東の稲荷山までの北斜面はカタクリの群生地と湧水地帯であった。
 毎年3月下旬から四月上旬を中心にたくさんの可憐なカタクリの花が咲き乱れ、区内外から訪れる見学者も多い。
 この一隅に小さな祠がある。明暦三年(一六五七)八月、禅海という一人の僧が洞窟の中で、念仏の鐘の音が消えた時が今生の別れであると言い残して入定したという伝説の行人塚である。供養の碑が一基建っている。
                      (「練馬の伝説)所収」)。

  禅海法師と入定塚
 明暦年間、村の樋沼家に旅装を解いた禅海法師は、背負仏の薬師如来像を開帳して村人の信仰を集めた。約一年を過ぎた後、即身入仏という一大悲願を達成の為、清水ほとりの洞窟で入定、成仏された禅海法師を村人は、ねんごろに葬りその冥福を祈った。自らが用意した墓石と後に淀橋柏木施主 栗原ぎん(昭和七年十二月八日と刻された)花立石が据えられている。因みに禅海法師の過去帳は大泉の教学院に保存されているという。

 禅海法師が見守ってくれていたお陰で今年も又、たくさんの早春の妖精たちの美しい花が見られると感謝しています。カタクリ はかな草たちよ。
                            合掌

即身入仏とは、仏教の修行の一環として、僧侶が土中の穴などに入って瞑想状態のまま絶命しミイラ化することをさしている。この説明パネルでは、ここで即身入仏した禅海法師が見守っているからカタクリなどが見られると述べているのである。

これは、あまりにも、文学的もしくは宗教的すぎる表現と思われるかもしれない。私も最初、そう考えた。しかし、ある意味では一理あるとも思うようになった。

なぜならば、ここが禅海法師の即身入仏した地として伝承される(そのことの真偽は問わない)ことで、この地の「聖性」が強められ、結果的に開発を抑止する一因になったのではないかと考えられるからである。

まず、たぶん、この清水山は、東京57選にも数えられる湧水があることで、もともと「聖なる土地」だったのではなかろうか。柳田国男監修・民俗学研究所編『民俗学辞典』(東京堂、1951年)の「泉」の項目においては、次のようにいわれている。

清い泉のかたわらには例外なしに、神の社または仏堂が建っている。水の恩徳を仰ぐことの深かった素朴な住民は、泉の出現を神仏の御利益に結びつけて考えようとした。霊泉発見の功績を弘法台紙に帰する伝説は国の隅々に行き渡っている〔弘法清水〕。

つまり、民俗では、そもそも泉ー湧水の出現自体が神仏に関連したものとして認識されているのである。特に、弘法大師=空海に結び付けられていることが多々みられる。そして、ここの引用にある「弘法清水」について、『民俗学辞典』は、次のように指摘している。

旅の高僧に対して親切にもてなした結果、望ましいところに湧泉を得、逆に不親切にしたもののところの泉がとめられてしまったという類型の伝説をいう。ほとんど全国的にみられ、その旅僧は大体弘法大師というように伝えられている。

『民俗学辞典』では、「弘法清水」伝説の類型を紹介しながら、「弘法清水」の泉は神聖なもので日常の使用を忌むこと、とめられてしまった場合は掘り返すと罰があたると伝えてその地がタブー視されることも付記している。つまり、「弘法清水」の地は、タブー視される「聖なる土地」になるということになる。

さて、今度は、即身入仏についてみておこう。弘法大師ー空海は、死去の際、即身仏になったと伝承されている。そうなると、禅海法師の即身入仏は、弘法大師のそれを模倣し、その生き方を再現しようとした行為としても認識されていたと考えられる。この清水山の地は、もともと「泉」として「聖なる土地」であったと考えられる(もしかすると、すでに「弘法清水」の伝説もあったかもしれない)。この地で禅海法師が即身入仏したと伝承されることは、ある意味で弘法大師の修行をこの地で再現したことになるだろう。そして、この地にも「弘法大師」の聖性が付加されていくことになったと思われる。

弘法大師の聖性をもった「弘法清水」の地は、日常的使用が避けられたり、掘り返すこともできないタブーの地であったりするような「聖なる土地」なのである。この地が、近世から現代にかけて、どのような変遷をたどったか、今は不明である。ただ、仮説的にいえば、「泉」があること、そして弘法大師の修行を再現した「即身入仏」がなされたと伝承されることによって、この地は「聖なる土地」となり、開発がタブー視され、その結果、開発されずにカタクリが群生する雑木林が残されたとみることができるのではなかろうか。その意味で、この地で即身入仏したとされている禅海法師が見守ることで、カタクリなどの花が咲いているということは一ついえると思うのである。

おわりに
さて、ここでまとめておこう。カタクリが群生する環境が保護される前提には、前近代において「泉」であり「即身入仏」が行われた「聖なる土地」として地域住民に認識されることが必要であったといえる。そのように「聖なる土地」として認識されることで、タブー視され、開発が抑止されたといえるのではなかろうか。
そして、環境保護が強く意識された革新都政の時代になって、この地は、公共的に保護されるようになった。いわば、前近代の「聖なる土地」が、現代の環境保護の前提となっているのである。そのことの意味を私たちは問わなくてはならない。前近代と現代、この二つの時代の論理はもちろん違う。しかし、いわば人間を越えたものを尊重しなくてはならないと考えたところに両者の共通点があるのではなかろうか。そして、前近代からの課題を現代において再検討するという営為によって、私たちは多少なりともオルタナティブな未来を展望できるのだと思う。

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  • なぜ、下北沢で福島県の高校演劇が上演されたのか
  • 2013年8月15日、東京・下北沢の小劇場・楽園で、原発・震災被災者と日常的な高校生活との葛藤を扱った高校生の演劇「シュレディンガーの猫」(福島県立大沼高校演劇部)と「彼女の旋律」(会津若松ザベリオ学園高等学校演劇部)の演劇公演が行われ、見に行った。

    まず、なぜ、下北沢で福島県の高校生たちの演劇が上演されたかを紹介しておかなくてはならない。この演劇公演をプロデュースしたNPO法人大震災義援ウシトラ旅団は、「大震災義援ウシトラ旅団は東日本大震災を機に結成されたボランティア団体です。ウシトラ旅団とは、本営のある東京から、東北(艮の方角)に向かって支援の旅に出るの意味を込めた団体名です。任意のボランティア団体として2011年4月に誕生し、地震・津波と福島第一原発事故による被災者、避難者を支援する活動を行って来ました」(ウシトラ旅団サイト)という避難者支援のボランティア団体である。そのボランティア事業の一環として、下北沢における高校演劇公演を行ったのである。

    ウシトラ旅団のサイトには、次のように、この演劇公演について語られている。

    福島県立大沼高等学校演劇部 東京公演を成功させよう

    ★福島の高校生たちの演劇成功に力をかしてください 
     あの忌まわしい地震、津波、原発事故とそれによって故郷を追われた人々。彼らにも私たちと何ひとつ違わない生活がある。食う寝る働く、学校へ通う。新しい命が生まれるし、永久の別れもやってくる。そうした当たり前の日常を彼らはどうやっておくっているのか。
     狭く不便な仮設住宅で、家族バラバラの借上げ住宅で、故郷から遠く離れた見知らぬ土地で……、 一方彼らの今の「日常」は避難先の人々の「日常」と重なりあって、ひと言では言い表せないマダラ模様になっている。
     ここに福島の高校生たちが感じたこと、言いたいこと、彼らのマダラな日常―「シュレーディンガーの猫」があります。その真直ぐな問いかけを大人たちは正面から受け止めなくてはいけない!そう思い東京公演を開催することになりました。
    8月15日~18日の公演期間の内、8月15・16日の二日間は、大沼高校のライバル校である会津若松市のザベリオ学園による松本有子作・演出『彼女の旋律』(福島県高校演劇コンクール第1席 東北地区高校演劇発表会優良賞)との二本立てで上演いたします。こちらも、高校生が被災者の避難所を訪れて起こる出来事を演劇にしたものです。
    高校生の芝居を通して、福島の想いを「演劇の聖地」下北沢で大きく叫んでもらいます。福島からの声をより多くの人々、とりわけ首都圏に住む人々に届けたいと思います。

    ★高校生の体験から誕生した『シュレーディンガーの猫』
     この作品は、震災・津波の被害、そしてそれに続いた福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染から逃れるために、会津美里町の県立大沼高校に転校してきた女生徒たちが演劇部に入部したことをきっかけにして生まれました。
     原発事故による避難者である彼女たちの気持ちと、受け入れた学校の生徒の気持ちは、すんなりと一致するようなものではありませんでした。体験をもとに演劇にすることの是非も含めて、多くの葛藤を抱え込みながら、被災者生徒と顧問の先生との共同作業で脚本が書き上げられました。

     二年間、自分の体験について口を閉ざしてきたというSさんは稽古に入って「そんなんじゃ、被災者の気持ちは伝わらない」と、ようやく自らの経験と心の傷を涙ながらに語ったといいます。それを聞いた部員の生徒たちもまた、涙を流しながら彼女(被災者)の心を受け止め、「そこから劇はガラリと変わった」(大沼高校演劇部顧問・佐藤雅通先生)という、本音のぶつかり合いによって成立した演劇です。
     これらの過程が作品の中では見事に表現されています。劇中の「私、生き残ったんじゃない。死ななかっただけ」、「悲しいんじゃない、悔しいんだ」、「箱の中で放射能物質に運命を握られている猫。私達(生きているのか死んでいるのか)どっちなんだろう・・」という独白は、被災者の心のうちの止むことのない動揺、答えの出ない問いかけです。

    ★共に生きていく勇気を呼び起こすために
     クライマックスで畳み掛けられていく、「同情はいらない」。「どんなことがあっても負けない」。「それでも、他人にはやさしくしたい」。「絶対に忘れない」といった台詞は、苦悩を乗り越えようとする被災者と、それに寄り添おうとする生徒たちが共に生きていこうとする勇気の表明です。自然な感情の高揚によって、被災者と本当に手を結んで生きていこうとすることを観客に訴える芝居なのです。
     地元の応急仮設住宅で行われた公演では、涙をにじませた避難者に「私たちの心の中をよく言ってくれた」「生徒たちが避難者の気持ちをここまで感じてくれていた。励まされる思いがした」と感想をもらい、生徒たちもまた「これまででいちばんの拍手をいただいた。(演技者の)みんなも泣いていた。(被災者のS)先輩の気持ちを伝えたかった。(東京公演でも)震災を忘れない、いつまでも心に残る劇にしたい」と語っています(朝日新聞福島版・5月9日付)

     福島のことが忘れ去られようとしている。そんな危惧の声を聞きます。
     私たちはそのような嘆きより、この高校生たちの演劇を通して、被災者とのしっかりとした関係を創っていこう、一緒に生きていくあり方を創っていこう、と呼びかけることを目指します。
     どうか意をお汲み取りのうえ、ご支援・ご協力をお願い申し上げます。
    http://www.ushitora-ryodan.org/311/modules/housing/

    この「シュレディンガーの猫」は、福島県の高校演劇コンクールでは最優秀賞をとった作品だった。しかし、東北大会での評価は低く、全国大会で上演される機会を逸した作品であった。それでも、いわき市で行われた演劇大会に地元枠として推薦され、上演された。それを見たウシトラ旅団のメンバーが感動して、下北沢公演をはかってくれたのであった。この経過を伝える、河北新報の記事を紹介しておこう。

    演じる/同情ではなく伝える「忘れない」/大沼高演劇部3年・増井結菜さん=福島県会津美里町

     「同情は、いらない」
     「どんなことがあっても、負けない」
     「それでも、他人には、優しくしたい」
     福島第1原発事故で避難区域から福島県会津地方に避難した高校生、絵里を演じる。
     劇「シュレーディンガーの猫」は絵里ら2人の転校生、2人を迎えた同級生6人の心の葛藤と友情を描く。15日から4日間、演劇の本場、東京の下北沢で公演する。
     「絵里は悲しみを胸に閉じ込め、努めて明るく生きようとする。言い回しの裏にある感情を表現しなければならない」
     これまでの役で最も難しいと思った。同県富岡町から避難した1年先輩の女子生徒から体験談を聞き、気持ちをつくった。
     同県会津美里町に生まれた。原発から西に約100キロ離れ、被災者ではない。地元の大沼高の演劇部に所属する。
     昨年11月、県高校演劇コンクールで最優秀賞を射止め、12月の東北大会に駒を進めた。上位に入ったら全国大会への道が開ける。
     「重すぎる」
     「見ていてつらい」
     東北大会での評価は厳しかった。入賞を逃し、全国行きの切符は手に入らなかった。
     ことし3月、全国規模の別の高校演劇大会がいわき市で開かれ、地元枠で出た。
     東北大会で受けた評価を教訓に脚本と演出を練り直した。転校生同士で言い争う場面など深刻なシーンを減らす。
     本番では好評を博した。公演を見た東京の被災者支援団体「ウシトラ旅団」のメンバーが気に入り、東京公演の道筋をつけてくれた。
     5月、会津美里町の仮設住宅で演じた。同県楢葉町の住民が暮らす。
     拍手が鳴りやまなかった。観客の一人が避難者の気持ちを代弁してくれたと握手を求めてきた。
     「役が自分のものになったと感じた」
     シュレーディンガーの猫は物理学の思考実験の呼称だ。箱に入れられた猫が放射性物質に生殺与奪権を握られ、外からは生きているのか死んでいるのか分からない状態を指す。
     劇では「生きている状態と死んでいる状態が50%ずつの確率で同時に存在している猫」と説明する。家を追われる実害を受けた避難者、風評被害の憂き目に遭う県民。原発事故が直接的、間接的に影を落とす福島県の現状を表す。
     裏方を含めて19人の部員で取り組む。稽古では劇中と同様に本音をぶつけ合い、駄目出しを繰り返した。
     「みんなで作り上げた舞台。避難者の思い、福島県の思いを伝えたい」
     絵里は同情から特別扱いされ、同級生の反発を買う。触れ合いを深めて次第に分かり合い、最後はお互いに力強く生きようと誓う。
     絵里が言う。
     「(原発事故を)絶対に忘れない」
     同級生が手を挙げて賛意を示し、幕は下りる。
    (阿部信男)

    2013年08月14日水曜日
    http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1109/20130814_01.htm

    ウシトラ旅団のサイトでは、より詳細に、背景事情を語っている。

    ★『フェスティバル2013 全国高校演劇研究大会』(いわき市)
    3月23日・24日に高校生たちの演劇を見に行って来ました。 いくつかの作品を見させてもらったのですが、お目当ては開催県の枠で、最後に上演された福島県立大沼高等学校の『シュレーディンガーの猫~Our Last Question~』でした。

    実はこのフェスティバルは地方ブロックの予選で最優秀を取れずに、夏の全国大会へ行けなかった作品の内から推薦されて、上演が行われるものなのだそうです。
    会津美里町の大沼高校演劇部がいわば全国大会への道を絶たれた時の「講評や批評」について、「東北でも震災被害が風化しつつある」と報じた新聞記事に、ウシトラ旅団の数人が怒りまくったのでした。 むろん、その怒りは、この作品が一等賞を取れなかったという結果についてではなく、生徒たちが福島の問題に正面から立ち向かった演劇に対して、評価する側が「正面から」向きあおうとしなかったらしいことについてでありました。

    事の結果を報じた福島民報はこう書いていました。 『震災と原発事故を題材にした大沼高(会津美里町)の演劇に対し、他校から「重いテーマを重くやられた感じ、疲れる」「(震災を)見せ物にしている」などの講評が寄せられた。審査員の一人も「疲れた」と感想を漏らしたという。結果は本紙既報の通り最優秀でも優秀でもなく、優良賞だった。  審査がある以上、優劣がつくのは当然で、結果についてとやかく言うつもりはない。残念なのは、被災地の視点で問題に真正面から取り組んだ姿勢に対し、冷ややかな見方があった点だ。講評者名は伏せられているが、関係者は「被災しなかった地域の生徒の意見ではないか」と推測している。思いを共有してくれていると信じていた東北での否定的な反応に、部員は落胆している。心を占めているのは悔しさより悲しみだろう』

    旅団長は、怒っておりませんでした。 嫉妬で目が濁る、んな連中はいるだろうし、風化なんていえば「絆」やらのごたくで塗りたくった支援や心持ちは、すぐに風化するに決まっている。
    そんなことより「共感の回路をどう作るか」を考えねばなりませぬ。 というわけで、例のごとく喚いてしまうもんね。 「この演劇、東京でやっちまおうぜ! 評価はそこで見てくれる人にやってもらえばいいじゃん」(後略)
    http://www.ushitora-ryodan.org/311/modules/housing/index.php?page=article&storyid=1

    なんというか、後述するように「シュレディンガーの猫」(『彼女の旋律』もだが)は、被災者と会津地方の一般高校生との「ディスコミュニケーション」を扱っている作品である。しかし、「シュレディンガーの猫」それ自体も、「重いテーマを重くやられた感じ、疲れる」「(震災を)見せ物にしている」「疲れた」などと言われ、「被災地を真っ正面に扱うこと」に対する「ディスコミュニケーション」のはざまで排除されたといえるだろう。

    それに対して、「共感の回路をどう作るか」ことを目的として、東京で(もちろん、東京は「全国」ではないが)上演させたのが、プロデュースした「ウシトラ」旅団だったといえよう。その意味で、今回の公演それ自体が、被災者との間に生じている「ディスコミュニケーション」をどのように対応するのかということに対する一つの取り組みであったのだ。今回の公演自体が、大きな「出来事」であったといえるだろう。
    (続く)

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    さて、また、首都圏のホットスポットとなった千葉県の状況を、柏市の動向を中心にみていくことにする。以前、本ブログで前述したが、学校施設の除染基準を年間20mSvから1mSvに事実上かえた文科省の措置、市民からの不安の声、東京大学内部での批判により、2011年5〜6月より、柏市、我孫子市、野田市、松戸市、鎌ヶ谷市、流山市の東葛6市は、独自に空間放射線量を測定するなど、独自の放射性物質対策を実施しはじめた。しかし、いまだ、「専門家」たちは、この地域の首長たちが開催した7月8日の「東葛地区放射線量対策協議会」で放射性物質対策は必要はない、測定もこまめに行う必要がないと主張し続けた。

    しかし、首長たちは納得せず、同日、今後とも放射線量測定などの独自の対策を講じること、費用対効果を考慮しつつも、学校施設については、年間1mSv以下にすることをめざすことなどが決められたのである。

    柏市で月2回発行されている柏市民新聞2011年7月22日号によると、柏市としては、次のような対策を講じることになっていた。

     

    また、6市のうち松戸市と野田市と野田市を除く4市では、今後の対策として、積算可能な測定機を購入し、全小学校と保育園、幼稚園に各1機を配備する方針を決めた。8月中に揃え、9月から現場の線量を年間通じて測っていく予定。2市については検討中だという。
     また、柏市では、夏休み中に市内の各小学校で細かい測定を行う。学校ごとに線量を図面に落とし、高い数値の場所については、教職員らで清掃する。限られた時間で、きめ細かく清掃するため、保護者らの協力を仰ぎたいとしている。
     ごみ処理場の基準値を超える放射性セシウムについては、秋山浩保市長が15日、環境省に早期対応の緊急要望を提出したが、21日の時点で国の回答はなく、進展はみられていない。

    つまり、学校・保育園・幼稚園ごとに測定機を備え付けるともに、小学校では夏休み中にきめ細かく線量を測定し、高い場所では教職員らで「清掃」ー除染することになっていたのである。そして、小学校の測定・除染については、保護者らの協力を仰ぎたいとしている。教職員・保護者らの、いわばボランティアによる線量測定、除染が提起されたといえる。

    しかし、すでに、放射性物質の問題は、学校施設の問題に限定されるものではなくなっていた。先の記事の中にも述べられているが、柏市の二つある清掃工場の焼却灰などより、環境省の基準である1kgあたり8000bqをこえる放射線量が検出されたのである。基準をこえる焼却灰などは、最終処分場に埋め立てて一時保管することになっているが、その準備が整うまで工場に仮保管されることになっており、基準以下の場合は、通常通り最終処分場で埋め立てることになっていた。しかし、柏市民新聞が「いずれの措置にしても、工場付近の住民の理解は得難く」といっており、柏市長としては、環境省に早期対策を要望した。結局、第一清掃工場は操業停止となり、第二は稼働を継続したが、もし国・県の対策が遅れた場合、1〜2月程度で双方とも保管限度をこえて操業停止となるという状態だったのである。なお、この問題は、現在もこの地域に重くのしかかっているのである。

    さらに、柏市は、7月28日から市内農産物の放射性物質調査を開始した。柏市民新聞2011年8月12日号には、その目的として、「柏市産の安全性を確認し、風評被害を防ぐこと」としている。農産物の放射性物質調査は千葉県が実施していたが、柏市の調査は簡易調査と位置づけられており、この市の検査で200bqをこえた場合、厚労省の登録検査機関に送って、暫定基準値を超えていた場合は、出荷停止となるというシステムになっている。柏市民新聞2011年8月12日号によると、ブルーベリーにおいて、セシウム134が40.9bq、セシウム137が44.6bq検出された事例があったが、いずれにしても暫定基準値をこえたものがないとしている。なお、千葉県も、柏市産を含めた千葉県産の早場米の検査を8月から開始している。

    加えて、1kgあたり500bqという暫定基準値をこえた牛肉が発見されたことから、8月より学校給食の食材に対する放射線セシウムの検査を開始することを決めた。

    このように、柏市では、2011年7〜8月から放射性物質対策がとられてようになってきたが、市民の目からみれば、まだまだ不十分なものであった。朝日新聞朝刊2011年8月11日号には、次のような記事が掲載されている。

    千葉の幼稚園 独自に土除去
     福島第一原発から約200キロ離れている千葉県の柏市や松戸市などは市の発表で毎時0.3〜0.4マイクロシーベルト前後になる場所がある。福島県発表のいわき市(同0.2マイクロ程度)を上回る。千葉県が発表する市原市の同約0.04マイクロに比べ1桁高い。放射性物質が他よりも多く降り注いだ「ホットスポット」と呼ばれる場所だ。
     千葉県柏市の私立みくに幼稚園で8日、杉山智園長らが花壇の表土をはがして古い浄化槽の中に埋める作業をした。花壇は毎時約0.4マイクロシーベルトだった。
     園庭の放射線量は0.1マイクロシーベルト。これは5月の測定で0.4〜0.5マイクロシーベルトだったので表土の入れ替えをしたためだ。杉山園長は「子どものために実行可能なことはやらざるを得ない」という。
     柏市など6市は対策協議会を開き「低減策が国の財政支援の対象になる毎時1マイクロシーベルトを上回る地点は確認されなかった」などとの中間報告を7月にまとめた。柏市は小中学校などで線量を細かく測定し、線量の高い場所は清掃や草の除去をするというが、校庭の表土の入れ替えなど大規模な工事の計画はない。
     子どもの被曝を心配する親らが約1万人の署名を集め校庭や公園で土砂の入れ替えなどを求める要望書を6月に柏市に出した。その一人、主婦の大作ゆきさん(33)は「市の動き方は鈍い」と批判する。大作さん自身は10日、1歳と3歳の2人の子どもとともに大分県に一時避難した。(編集委員・浅井文和)

    このように、市立の小中学校においても大規模な除染を行うことは想定されておらず、「市の動き方は鈍い」と批判される状況であったのである。そして、私立幼稚園としては、独自に除染作業を開始したのであった。

    しかし、朝日新聞の報道後、柏市の放射性物質対策はやや進展をみせる。8月19日には、職員4人の「放射線対策室」が環境部内に設置された。柏市のサイトでは、このように設置目的が説明されている。

    福島第一原子力発電所の事故に伴い、市民の皆さんから放射線に対する不安の声が多く寄せられていました。現在、空間放射線量の低減対策については、子どもを対象とした部署を中心に関係各課が行っているところです。今後は、今まで以上に子どもに関連する部署間の連携を強化するとともに、それ以外の部署(通学路や農作物、給食食材関連など)との連携も必要となってくることから、次のとおり環境部内に新たに「放射線対策室」を設置することとしました。
    http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/080500/p009165.html

    そして、8月には、多少とも、小中学校の除染活動も進んだようである。柏市民新聞2011年8月26日号では、次のような記事が掲載されている。

    地域住民 学校で除染作業 放射線量低減に安堵の声

     市内の幼稚園と小中学校で放射線の除染作業がはじまった。夏休み期間を利用し、敷地内で1マイクロシーベルトを超える地点や側溝などの高い数値が予想されるポイントを対象としている。教職員のほか、保護者らも参加して実施。一部の校(園)庭では、表土を削るなどの低減策もとられている。その効果は、毎時0.3マイクロシーベルトを測定した校庭が同0.2未満になるほどで、参加者からは喜びと安堵の声が挙がっていた。
     20日には、富勢小学校と松葉第二小学校などで作業が行われた。松葉第二小では、教職員のほか、保護者や地域住民など126人が作業に参加。校庭の大半の表土を削った。大勢の参加者が集まったため、開始時刻を早めてスタート。それでも、前日から降った雨が地中にしみ込んだため、その重量に参加者は悪戦苦闘。用意した土嚢袋の半分程度の量で成人男性がやっと持ち上げるほどの重みに。当初の土嚢袋800袋では不足し、さらに、800袋を追加。表土をわずか2センチ程度削っただけにもかかわらず、校舎からもっとも離れた校庭隅に土嚢の山が築かれた。
     当日は午後4時前から開始。気温は真夏日を下回ったが、マスクと軍手、長袖長ズボンの参加者は汗でぐっしょり。それでも「子どもに安心して運動会をしてほしい」との思いから作業に集中。学校職員が配備された測定機で測り「0.3マイクロシーベルトだったところが、0.2を切りました」と報告すると、喜びの声が挙がった。職員によると、松葉第二小は、6月以降、毎時0.3マイクロシーベルトの地点が非常に多く、今回の除染結果には笑顔が溢れた。参加者からも「子どもたちが安心して校庭で遊べる日がくるなら、がんばろう」との声が挙がり、多くの参加者が希望を持った作業結果となった。
     現在、市内の学校施設(幼稚園など含む)の放射線量測定は、全校で終了。私立園とも連携を図っており、放射線対策室によると、今後各学校が地域と連携し、2回目を含めた除染作業を行っていくとしている。 

    この記事は、非常に興味深い。まず、指摘すべきことは、すでに述べているように、柏市などは年間1mSv以下とするとしているにもかかわらず、結局毎時1μSv以上の地点しか除染作業の目標としていなかったことである。年間1mSv未満とするならば、現在の基準では毎時0.23μSv未満にすべきなのだが、そのような地点は本来は対象としていなかったのである。これは、実質的には「専門家」の意見に引きずられていたといえるのである。「市の動き方は鈍い」と批判されるのも無理はないだろう。

    しかし、この基準は、市民の求める基準ではなかった。ここで扱っている松葉第二小学校では、毎時0.3μSvでは高すぎるという意識があり、校庭の大半の表土を削り取るという大規模な除染が行われた。そして、この作業が、「教職員のほか、保護者や地域住民など126人が作業に参加。」とあり、いわば地域のボランティアを動員して行われたとみられることに注目しておきたい。この校庭の表土を削り取るという作業が、どのような形で意志決定されたかは不明だが、市の方針としては一部の高線量地点のみ除染ということであったから、それをこえた除染作業の実施は教職員も含めて自発的な形で決められたのではないかと想定される。そして、その究極の目的は「子どもに安心して運動会をしてほしい」「子どもたちが安心して校庭で遊べる日がくるなら、がんばろう」ということであった。真夏日ではなかったようだが、それにしても、夏の日にこのような重労働を地域の人びとは自発的に行ったのである。こういう活動を通して、年間1mSvにするという柏市のかかげた目標は、柏市当局の意図を超えて、定着していったのである。これは、住民自治ともいえるであろう。

    しかし、他方で、このような除染活動の実施は、そもそも、このような事態を引き起こした東電なり国なりが行うべきことであることも指摘しておかなくてはならない。そして、この除染活動によって、市民自身がいわば無用の被曝を強いられることにもなったといえる。このような矛盾は、福島県郡山市の除染活動で、より深刻な形で露呈されているのである。

    そして、また、2011年9月以降、柏市の放射線物質汚染状況がより明らかになってくるにつれ、市行政自体がより責任をもった放射能対策の必要性が提起されるのである。

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