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Posts Tagged ‘プルトニウム’

さて、猪瀬都知事の辞任を受けて、2月9日に都知事選が行われることになった。脱原発などを公約に掲げた前日弁連会長の宇都宮徳児がいち早く立候補を表明、共産党・社民党が推薦した。また、石原慎太郎個人の応援を受けた形で元空幕長の田母神俊雄も立候補の記者会見を行い、元首相の細川護煕も脱原発を旗印に掲げて立候補を検討していると伝えられている。他方で、元厚相・元参議院議員舛添要一も無所属で立候補し、自民党などの推薦を受けることになると報道されている。

今回の都知事選の一つのテーマは、原発問題である。宇都宮・細川は「脱原発」を標榜している。そして、田母神は、自身のブログで、2013年3月20日に、低線量放射線は有害ではなく、むしろ有益だなどとしながら、次のように指摘している(田母神の原発論については、機会をみて紹介したいと考えている)。

我が国では長い間歴史認識の問題が、我が国弱体化のために利用されてきた。しかし近年では多くの日本国民が真実の歴史に目覚め始めた。そこに起きたのが福島原発の事故である。左向きの人たちは、これは使えるとほくそ笑んだ。そして今ありもしない放射能の恐怖がマスコミ等を通じて煽られている。原発なしでは電力供給が十分に出来ない。電力が不足してはデフレ脱却も出来ない。不景気が今のまま続き学校を卒業してもまともな就職も出来ない。放射能認識は第二の歴史認識として我が国弱体化のために徹底的に利用されようとしている。
http://ameblo.jp/toshio-tamogami/entry-11494727117.html

他方、自民党の推薦を受けるとされる舛添はどうなのだろうか。彼が当時代表を勤めていた新党改革の公約集「新党改革約束2012」(2012年11月27日発表)では、次のように宣言している。

改革その3 原発に依存しない社会の構築

福島の原発事故をしっかりと反省し、原発に依存しない社会を構築します。近い将来には、原発をなくすためエネルギー政策の大転換を図ります。そのために、地域が主体となる再生可能エネルギーの開発を進め、個々人の意識改革と社会全体や生活の仕方の構造改革等を行い、実現します(後略)。
http://issuu.com/shintokaikaku/docs/manifest/14?e=1872444/2703599

漸進的な「脱原発」とでもいえるであろう。しかし、舛添は、3.11以前から、このように主張していたわけではない。舛添要一は、1996年に『諸君』1996年10月号に寄稿した「巻原発『住民投票』は駄々っ子の甘えである」という文章を発表している。。この当時、東北電力は、新潟県巻町(現新潟市)において原発建設計画を進め、町当局に工作していた。しかし、反対運動は、推進派町長のリコール運動や住民投票実施を求める運動などを展開して対抗した。その結果、1996年8月4日に原発建設の是非を問う住民投票が実施され、原発反対派が約60%の得票を得た。2003年12月に東北電力は巻原発建設撤回を正式に表明するが、その一つの契機となっている。

この、巻町の住民投票について、舛添は、表題において「巻原発『住民投票』は駄々っ子の甘えである」としている。そして、リード文では「住民投票を礼賛する世論が衆愚政治を生み、大衆民主主義をおぞましい独裁に変えるのだ」と主張している。

舛添は、そもそも「住民投票」について、不満をあらわにしている。次の文章をみてほしい。

 

町民によって正当に選挙された町議会が、そして町民が直接選挙によって選んだ町長が決定したことには、たとえそれに反対であっても従うのが民主主義のルールというものである。その手続きが住民投票によって無視されるとすれば、それこそ巻町の民主主義は危機に瀕していると言ってよい。町民の直接選挙によって選ばれた町長の正統性はいわずもがな、町議会が多数決原理にもとづいて決めたことが軽んじられ、住民投票のほうが正統性に上であるのような錯覚を持つとしたら、代議制民主主義は成り立たない。

そして、住民投票の制度化を真剣に検討すべきとした朝日新聞朝刊1996年8月5日号の社説「巻町の住民投票が示した重み」を批判しながら、こう指摘する。

…そのような考え方こそが、衆愚政治を生むのであり、大衆民主主義をおぞましい独裁に変えるのである。
 20世紀のドイツにおいて、「選挙では味わえない充実感」(前述の朝日新聞社説中の表現…引用者注)を求めて、大衆がたどり着いた先は、天才的デマゴーグ、ヒトラーである。ニュルンベルクのナチ党大会において、「ハイル、ヒトラー!」と叫ぶ何十万という大衆は、確かに「選挙では味わえない充実感を感じとった」であろう。しかし、この現代の独裁の帰結は、ユダヤ人の大量虐殺であり、戦争であった。直接民主主義は独裁に正統性を与える危険性がある。そのリスクを回避する知恵のひとつが、間接民主主義、代議制民主主義なのである。

さらに、舛添は、フランスのルイ・ナポレオンが1851年のクーデター後、翌年の人民投票によって憲法を改正して帝政を復活し、ナポレポン三世になっていったことをあげ、「人民投票が第二帝政を誕生させたことを忘れてはなるまい。ナポレオン三世を生んだフランスの大衆もまた、人民投票に参加することによって、「選挙では味わえない充実感」に浸ったに違いないのである」と述べている。

ただ、舛添は、住民投票による世論の表明の力を軽視していたわけではない。投票結果について法的拘束力はないとしながらも「しかしながら、これはあくまで形式論であり、住民が投票によって決めたことを、首長や議員が覆すことは不可能と考えてよい。実質的には、住民投票は拘束力を持たざるをえないのである」と指摘している。

このように論じた上で、舛添が住民投票による世論の表明の力を無化するために持ち出しているのが「国のエネルギー政策の一環としての原発」である。舛添は、次のように主張する。

 

原発建設は国のエネルギー政策の一環であり、ある特定の地域の意向に左右されるべきでものではない。基地問題についても同様で、国の防衛政策に関わる問題なのである。一地域の住民が、住民投票という手を使って国の政策の根幹を覆すことができるとすれば、そのような国はおよそ国家とは言いがたいのである…人口三万人の町が住民投票によって国の政策を拒否することができるとすれば、残り1億2500万人の日本国民はどこでどのように自らの意思を表明すればよいのだろうか。国会や国会議員は何のために存在しているのであろうか…ある地域が国の政策に対して反乱を起こすときは、最終的にはその国から独立する覚悟がなくてはならない。国からの補助金は懐に入れる、しかし国の政策には反対するというのでは筋が通らないし、それは駄々っ子の甘え以外のなにものでもない。

そして、住民投票賛成派が持ち出してくると舛添が想定する「人権・自然権」について、「人権や自然権は自分以外の他の日本国民にもあることを忘れている。電気のある快適な文明生活を送ることも、外敵の侵略から生命や財産を守ることも、人権であり、自然権である。これら相対立する人権や自然権を調整することこそ政治の仕事なのである」と反論している。ここでは明示的に書いていないが、そのような「調整としての政治」が「間接民主主義」の課題なのであろう。

舛添は、原発建設の是非を問う巻町の住民投票について、巻町だけでなく、国のエネルギー政策の根幹に関連する問題なのだという。ウラン・化石燃料などの天然のエネルギー資源には限りがある中で、舛添は、再生可能エネルギーにもました日本で生み出すことができるプルトニウムに期待をかける。そして、すでに、日本の電力の34%が原子力により生産されているとした上で、このように述べている。

 

このような日本のエネルギーをめぐる状況を考えると、あえて議論を単純化して言えば、電力の約三分の一を供給している原子力発電所を、(1)拒否するならば、省エネに心がけて電力消費量を三分の一減らす、(2)今のような多電力消費型生活を続けるために受け入れる、という選択肢しかないはずである。

最後に、舛添は、原発反対派の人びとにこのように呼びかける。

 

もし巻町の原発反対派の人たちが、住民投票に向けての運動の中で、同時に省エネ運動を実行していたら、はるかにその主張は説得力を増したであろうし、また地域エゴという非難にさらされることもなかったであろう。エネルギー問題は国民全体の関心事でなければならない。
(中略)
 「地方の反乱」が地域エゴと非難されないためには、少なくとも反乱のリーダーが、自分たちの主張を国の政策とどう調整させていくのかという視点を欠いてはなるまい。そして、そのようなリーダーシップは、マスコミ向けのパフォーマンスからは生まれないのである。

1996年の舛添は、まず第一に、住民投票のような人びとが直接に民意を表明することについて、ナチズムやポナパルティズムのような「独裁」につながっていくと述べている。このような考え方は、舛添だけではない。東京大学法学部教授長谷部恭男も『憲法とは何か』(岩波新書、2006年)の中で同様の意見を述べている。彼らにすれば、選挙代表によってなされる間接民主主義だけが民主主義なのである。

第二に、舛添は、国策全体にかかわることは、自治体だけで決めるべきではないとする。ここで行われた住民投票は、巻町に原発を設置するかどうかということであり、日本全国において原発を建設するかどうかを問うたものではないのであるが。ここでは引用しなかったが、随所で舛添は1995年の沖縄米兵少女暴行事件後に激しく展開された沖縄の反基地運動についても同様の論理で批判している。その上で、国策に反するような運動は、補助金の停止など、相応の覚悟が必要であるとしている。彼によれば、そのような覚悟のない運動は「駄々っ子の甘え」なのである。

第三に、舛添は、資源の乏しい日本において、プルトニウムは貴重なエネルギー源であるとしつつ、最早電力の三割以上にもなった原子力発電については、徹底的な節電をするかしないか二者択一だとしているのである。

1996年の舛添要一はこのように考えていた。舛添は、考え方を変えたのであろうか。舛添が推薦を取り付けようとしている自民党の安倍政権は、原発再稼働を進めようとしている。例え、現時点で舛添が「脱原発」を掲げたとしても、エネルギー源確保としての原発が国策として維持されるならば、自治体レベルで異論をさしはさむことはできないことになるだろう。そして、そのような原発政策に対する反対運動は、彼にとっては、公選首長や議会の正統性を脅かし、間接民主主義を破壊し、ナチズムやボナパルティズムのような独裁へ導いていくものとして認識されることになるだろう。脱原発は、ただ、それを政策として掲げればよいというものではない。民意を少しでも反映し、それぞれの地域の自立性を尊重して政治を進めていくという、民主主義と地方自治の課題が横たわっていることを、1996年の舛添の議論は逆説的に示しているといえる。

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ここで考えておきたいことは、「原子力の平和利用」の「平和」ということである。原発などの原子力の産業的利用において、特に日本では、常に「平和利用」ということが強調される。1951年に制定された原子力基本法には「平和の目的に限り」と原子力研究・開発が限定されている。

しかし、そもそも、原子力の利用・開発は、核兵器開発の「軍事利用」として、本格的に開始されたといえる。特にそのことを示しているのが、原爆製造のためにアメリカが第二次世界大戦中に実施したマンハッタン計画である。このマンハッタン計画については、平田光司「マンハッタン計画の現在」(歴史学研究会編『震災・核災害の時代と歴史学』、青木書店、2012年)が要領よく整理しているので、これに依拠してみていこう。

ウラン (U235)の核分裂反応が発見されたのは1938年であった。この発見は、ドイツのベルリンにおいて、O・ハーンとF・シュトラスマンによって行われたが、そのことは1939年にはアメリカに伝わった。アメリカでは、カリフォルニアの E・ローレンスのもとで最新鋭の粒子加速器サイクロトロンがつくられており、すぐにウランの核反応の詳細が調べられた。1940年には、サイクロトロンを使った連鎖核分裂反応をおこすプルトニウム(Pu239)の生成にバークレーのG・シーボーグ等により成功した。しかし、プルトニウムの発見・合成はすでに兵器開発の一環とされ、公表されることはなかった。

そして、1941年には、元マサチューセッツ工科大学副学長V・ブッシュが科学研究開発部長になり、原爆の本格的開発をめざしたマンハッタン計画の実施が決定された。この時期想定された原爆製造方法としては、ウラン(U235)とプルトニウム(Pu239)の二つを用いる方法が考えられた。周知のように、天然ウランにおいては、核分裂反応を起こす U235は0.7%しかなく、ほとんどはU238である。原爆としてU235を使うためには、純度を90%以上にする必要があった。これがウラン濃縮である。大量にウラン濃縮をすることは難しく、ガス拡散法やサイクロトロン用に開発された巨大磁石を使う(電磁分離法)などの大規模施設が必要であった。このウラン濃縮施設はテネシー州オークリッジに建設された。
 
他方、プルトニウムの場合は、E・フェルミやL・シラードによって考案された原子炉を使うことが構想された。原子炉(黒鉛炉)の中で天然ウランを「燃焼」させ、天然ウラン中のU235を核分裂させて中性子を発生させ、中性子がU238にあたってPu239に転換になる反応を利用してプルトニウムを生産させるという方策がとられた。シカゴ大学に世界最初の原子炉CP−1(シカゴパイル)がつくられ、1941年12月には連鎖反応が確認された。そして、安全性を配慮して、人口の少ないワシントン州ハンズフォードにプルトニウム生産炉は建設された。このように、原子炉とは、まず原爆製造のためのプルトニウム生産の装置であったのである。
 
このようにして生産されたウランとプルトニウムを原爆に製造する施設として、1943年、ニューメキシコ州にロスアラモス研究所が作られ、所長に理論物理学者のオッペンハイマーが就任した。1945年7月16日、ロスアラモス南方のアラゴモードでプルトニウム原爆の核実験(トリニティ実験)が行われた。そして、周知のように、8月6日には広島にウラン原爆が、8月9日には長崎にプルトニウム原爆が投下されたのである。

第二次世界大戦後、原子力エネルギーの管理は、軍部ではなく、文民の原子力委員会( AEC)に移された。AECは、(1)核兵器の開発、(2)核エネルギーの利用(原子力)、(3)核(素粒子)物理学を管轄した。つまり、アメリカにおいては、第二次世界大戦後も、核兵器の開発と、核エネルギーの利用、核物理学研究は一体のものであった。

そして、いわゆる核エネルギー(原子力)の利用自体も、兵器生産と結びついて開始されたのである。前述したように、そもそも原子炉は原爆材料としてのプルトニウムを生産するために設置されたが、原子炉のエネルギーを動力源とすることをはじめて行ったのは原子力潜水艦であった。原子力潜水艦に搭載するために、水を減速材および冷却材として使い、濃縮ウランを燃料とする軽水炉が開発された。1954年には初の原子力潜水艦ノーチラス号が完成した。原子力潜水艦開発にはウェスティングハウス社とゼネラル・エレクトリック社が協力したが、原子力潜水艦用の軽水炉は民需用原子炉のモデルとなり、両社は、二大原発メーカーとして成長していくのである。

他方で、プルトニウム生産炉としての原子炉は、高速増殖炉計画へとつながっていく。高速増殖炉においては、U235の核分裂反応によるエネルギーによって発電するとともに、放出される中性子により、U238がPu239に転換し、核燃料がより増加していくことになる。プルトニウム生産炉としての原子炉のそもそもの性格を発展させたものといえる。しかし、ここで生産されるプルトニウムは、単に原発の燃料となるだけでなく、原爆・水爆などの核兵器の材料ともなるのである。
 
平田は、次のように指摘している。

原子炉は、もともと原爆製造のために作られたものであり、軽水炉も原子力潜水艦の動力源として開発された。原子力の平和利用は、兵器の製造過程を多少変えて、一般にも役立つようにしたものである。このため、原子力で発電する装置は即軍事に転用できる。…原子力は核兵器と同じ体系のものである。原子力が広まれば、核武装の可能性も同じように広まる。(平田前掲書91頁)

まず、原子力の本格的利用を開始したアメリカにおいて、原子力を原発などの民需に使う「平和利用」とは、核戦争のための軍事利用と一体のものとして位置づけられて開始されていたことに注目しておかねばならない。

その上で、平田は、このように述べている。

アメリカ、フランスなど原子力を進めようとしている国は核武装しており、国防という経済性を無視した聖域のなかで核兵器および原子力の開発を一体として進めてきた。原子力におけるマンパワーも豊富である。軍が基本的な開発をおこなって、ある程度のノウハウが確立してから民間を参入させている。リスクが莫大で事実上計算不能であり、投資が回収できる保証のない原子力の技術とは、国家が国防のために開発するしかないものではなかろうか。この観点からすると、導入の経緯が問題なのではなく日本の原子力は最初から平和利用のみであったため、輸入技術に依存したひよわな産業構造しか持てなかったのかもしれない。(平田前掲書98頁)

高速増殖炉や核燃料再処理などのプルトニウム生産にこだわる日本の原子力政策が「平和利用」目的だけかは疑問の余地があるが、その主流が軽水炉をつかった原発開発という「原子力の平和利用」であることは相違ないといえる。そもそも、核兵器開発と一体として開始された「原子力の平和利用」であり、名目としては「平和利用」に限定せざるをえない日本の「原子力研究・開発」は、そもそも矛盾をかかえていたといえるのである。

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さて、このブログで述べてきたように、関西圏では、1957〜1960年にかけて関西研究用原子炉設置反対運動が惹起され、原子炉の立地問題が浮上していた。並行して、関東においては、商用原子力発電所第一号として建設されることになった東海発電所設置につれ、その安全性が問われる事態となっていた。政府・産業界が進めようとした原子力発電所建設計画は、湯川秀樹などの反対を押し切った形で1957年に承認され、その受け皿としての日本原子力発電株式会社(日本原電)が同年11月に発足した。そして、イギリス型のコールダー・ホール型発電所(電気出力約16万kw)が導入されることとなり、1958年6月にイギリス側と調印した。なお、イギリスのコールダー・ホール型発電所が導入される大きな要因として、この発電所に使われる原子炉が、元来天然ウランを燃焼してプルトニウムを生産する軍用プルトニウム生産炉であり、この発電所によって、電力だけではなくプルトニウムを得ようとした原子力担当大臣兼原子力委員長である正力松太郎らの意向が働いていたことが、有馬哲夫「日本最初の原子力発電所の導入過程」(歴史学研究会編『震災・核災害の時代と歴史学』、青木書店、2012年)で紹介されている。この東海発電所が、日本最初の商用原発である東海第一発電所(東海第一原発と略称。現在は廃炉作業中)となっていく。
 
この東海第一原発の設置については、1959年3月より設置許可申請が出され、安全審査が開始された。しかし、それ以前からさまざまなかたちで安全性がとわれた。その背景になったことは、コールダー・ホール型原子力発電所原子炉の原型となった軍用プルトニウム生産炉であったウィンズケール原子炉が1957年10月10日に火災によりメルトダウン事故を引き起こしたということであった。このメルトダウン事故は、原子炉構内だけでなく、周辺にも放射能汚染を引きおこした。周囲の500㎢内で生産された牛乳は約1ヵ月間廃棄された。その意味で、原子炉—原発事故が、周辺にも放射能汚染を惹起することを明瞭に示した事例となった。

このコールダー・ホール型原子力発電所の安全性については、すでに1958年2月に、日本学術会議・日本原子力研究所・原子力燃料公社ほか主催で開かれた第二回日本原子力シンポジウムで議題となった。このシンポジウムの最終日2月9日に行われた「原子力施設の安全性をめぐる討論」において、電源開発株式会社の大塚益比古は、次のような指摘を行っている。

むすびに東海村のある茨城県の地図に、アメリカ・アイダホ州にある国立原子炉試験場の広大な敷地を重ねた図と、先日事故を起したウィンズケール周辺の地図をならべて示し、発展途上の原子力の現在の段階では、敷地の広さも一つの安全装置であり、一旦事故が起れば、公衆への災害を皆無にすることは不可能であることを考えれば、そのように広い面積を得ることは不可能なわが国では、たとえ原型にコンテーナーのないイギリス型の炉にも必ずコンテーナーを設けるなど、可能な限りの努力を安全性にそそがない限り、従来の技術では可能だった試行錯誤のできない原子力では、その発展を逆に大きくひき戻す結果にさえなりかねないことを強調した。(椎名素夫「原子力施設の安全性をめぐる討論」 『科学朝日』1958年4月号 36頁)

この図を、下記にかかげておく。アメリカの国立原子炉試験場にせよ、ウィンズケール原発による牛乳使用禁止区域にせよ、かなり広大であり、東海村にあてはめれば、人口密集地域である水戸市や日立市も含まれてしまうことに注目しておきたい。

『科学朝日』1958年4月号

『科学朝日』1958年4月号

特に、東海第一原発の安全性については、コールダー・ホール型原子力発電所の原子炉が黒鉛炉であって黒鉛ブロックを積み上げただけで、格納容器(コンテナー)をもたない構造であり、日本において耐震性は十分であるのかなどが中心的に問われた。この安全性問題の総体については、中島篤之助・服部学の「コールダー・ホール型原子力発電所建設の歴史的教訓Ⅰ・Ⅱ」(『科学』44巻6〜7号、1974年)を参照されたい。ここでは、この研究を中心に、立地問題に限定して議論していきたい。

日本第一号の商用原発の立地について、当時審査基準がなかったため、敷地選択で紛議になることをおそれ、安全性を新たに検討することなく、すでに既成事実となっていた日本原子力研究所構内に建設することになっていた。そして、原発事故の際、最大規模で放射性ヨウ素が1万キュリー(約370兆ベクレル)もしくは60万キュリー(約2京2200兆ベクレル)流出すると想定し、アメリカ原子力委員会が公衆に対する許容線量としていた2000ラド(2000レム、シーベルトに換算すると約20シーベルト)を採用し、最大規模の事故の際でも立退きする必要がないとした。

しかし、ウィンズケール原子炉事故以後、イギリスの原子力公社原子炉安全課長ファーマーは、1959年6月にイギリスの新しい立地基準についての論文を発表した。中島・服部は、その骨子を次のようにまとめている。

同論文は立退きを要する放射線被曝量として25レムをとり、また敷地基準として次のようにのべていた。
(イ) 原子炉から450m(500ヤード)以内にほとんど居住者がないこと。
(ロ) 角度10°、長さ2.4km(1.5マイル)の扇型地域をどの方向にとっても、その中に500人以上の人が住んでいないこと。同じく子どもの大きな集団がいないこと。
(ハ) 8km(5マイル)以内に人口1万以上の都市がないこと。(同上Ⅰ、377頁)

このファーマー論文によって示された立退基準25レム(シーベルトに換算すると約250ミリシーベルト)は、設置者側にとっては大きな問題となった。もし原電のいう事故時の放射性ヨウ素の放出量1万キュリーを前提として、立退基準を8レム(約80ミリシーベルト)と規定した場合、風向きによっては100kmの範囲まで事故の際に立ち退く必要が出てくると、1959年7月31日に開催された原子力委員会主催の公聴会で藤本陽一が指摘した。他方、同じ公聴会で、設置に賛成する公述をした西脇安大阪大学助教授(関西研究用原子炉建設を推進した一人)は、立退基準25レムを認めた上で、放射性ヨウ素放出量についてはファーマー論文にしたがって250キュリー(約9兆2500億ベクレル)に引き下げて安全性を主張した(『科学朝日』1959年10月号参照)。

さらに、8月22日に学術会議の要請で開かれた討論会において、原電の豊田正敏技術課長(東京電力からの出向者であり、後に東電にもどって福島第一・第二原発の建設を推進、東電副社長となる)は、「申請書の内容あるいはそれまでの原電の言明を全く無視して、想定放射能量を25キュリー(約9250億ベクレル)とし、地震その他のどんな想定事故でもこれ以上の放射能がでることはありえない」(中島・服部前掲論文378頁)と述べた。いわば、安全基準は25レムとして、想定された事故時の放射能汚染を最終的には大幅に引き下げて帳尻をあわせたのである。

一方、ファーマー論文の基準によれば、東海第一原発は敷地基準の(ロ)と(ハ)を満足させていなかった。原子炉から1.3kmの所に小学校(子どもの集団)があり、さらに角度の取り方によれば、当時人口389人であった東海村居住区の大部分が入るが、その中に急増しつつあった原研職員は含まれていなかった。また、北方3.7kmの地点には人口11000人の日立市久慈町が所在していた。

まず、設置側の日本原電は、小学校は移転予定であると述べた。また、ファーマーは扇型は角度30°、長さ1.6kmとしてもよい、8km以内に1万人以上の都市がないということは直接危険を意味するものではなく、必ずしも守らなくてよいと述べ、自説を崩した。結局、この場合は、基準のほうを緩和したのである。

加えて、黒鉛炉のため格納容器がないので格納容器をつけるべきである、隣接して米軍の爆撃演習場があるなど、さまざまな安全上の問題が提起されていた。しかし、東海第一原発の安全審査にあたった原子力委員会の原子炉安全審査専門部会は、11月9日に安全と認める旨の答申を出した。そして、12月14日、内閣は正式に東海第一原発の設置を許可したのである。1960年に東海第一原発は着工し、1965年に臨界に達し、1966年より営業運転を開始した。しかし、この東海第一原発の建設はトラブル続出で、予定よりかなり遅延したのである。

このように、日本最初の商用原発である東海第一原発の安全審査については、原発事故時における放射線量の許容量が厳格になるにしたがって、原発周辺の居住を制限するなどとという当たり前の形ではなく、原発事故の規模を小さく見積もることによって、原発事故時の放射線量を許容量以下に抑えたのである。つまり、この原発の「安全性」とは、原発事故のリスクを小さく仮想することによって保たれていた。まさしく、仮想の上の「安全性」であったのである。

そして、この時期、通産省は、より実情に即した原発事故の想定を秘密裏に行っていた。それによると、東海村近傍の水戸市などはおろか、場合によっては東京にすら被害が及ぶ試算結果となったのである。このことについては、次回以降、みてみたい。

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さて、前回のブログで、1969年に東京都立大学助教授に赴任した高木仁三郎が、「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」(宮沢賢治)をめざして、大学をやめようと考えるにいたったことを述べた。高木は、西ドイツのマックス・プランク核物理学研究所に留学し、東大原子核研究所時代以来抱いていた研究テーマをまとめた。そして、1973年に、慰留をうけながらも東京都立大学をやめた。高木は、その時の思いを、『市民科学者として生きる』(岩波新書、1999年)で、次のように回想している。

大学や企業のシステムのひきずる利害性を離れ、市民の中に入りこんで、エスタブリッシュメントから独立した一市民として「自前(市民)の科学」をする、というのが私の意向だった(同書134頁)

もちろん、生活を維持することには苦労していたと高木は回想している。雑誌『科学』(岩波書店)の科学時事欄執筆を匿名で担当する、他の雑誌に原稿を書く、翻訳に従事するなどで、ようやく生計を立てていた。ただ、『科学』については、後に「市民の科学」のための基礎知識を得たり、世界全体の科学技術を鳥瞰することに役立ったと高木は述べている。

しかし、アウトサイダーになった高木は、次のような苦労もしたのである。

 

今のようにインターネットなどなかった時代のことで、文献資料を得るのには苦労した。都立大学の図書館を利用させてもらおうと思い、知り合いの教授を紹介者として立て、図書館利用を正式に申しこんだが、「部外者には認めていない」とあっさり断られた。今だったら大学も市民に対してこんなに閉鎖的ではやっていけないと思うが、いったんアウトサイダーの刻印を押された人間には、大学・諸研究機関は、なべてこんな調子で、歯ぎしりさせられることが多かった。それにしても、私の心の中には、未だにこの都立大学の態度には一種の屈辱感が残っていて、その後、自分のことを「元都立大学助教授」と書かれる度に恥しい思いがした。(同書p138)

ただ、高木は「しかし、一方的に孤独感に悩まされる、という感じではなかった。そこには、内側にいたのでは見えなかった世界のひろがりがあった」(同書p138)と書き留めている。三里塚通いも続き、平和や環境問題に関する市民運動との交流も広がった。三里塚では、有機農法によって1反あまりの田づくりを行った。このことは、放射能の実験ではなく米づくりをしながら考えるという意味で新鮮な経験になり、後年エコロジストに傾斜する原点にもなったと高木は述べている。

そんな中、当時大阪大学に勤務しており、四国電力伊方原発差し止め行政訴訟の住民側特別補佐人になっていた久米三四郎より、1974年、高木仁三郎に、プルトニウム問題に取り組んでくれないかという要請がなされた。高木は、プルトニウム問題については前から思い入れをもっていたが、久米は、そのことは知らなかっただろうと、高木は推察している。久米の意図については、1970年代前半、原発建設がさかんになり、そのことで原発反対運動もさかんになっていたとして、次のように述べている。

人々は、電力会社や政府の宣伝とは別の、独立した情報を求めていたが、その助けになるような研究者・専門家が決定的に不足していた。そういう状況下で、一人でも仲間を増やしたい。そういう気持ちで久米さんは私の所にやって来たのだと思う。(同書p141)

この時の高木の対応は、複雑なものであった。次のように回想されている。

 

その場では、私は返事を留保した。私はそれまでの間、専門性と市民性という問題に悩んでいた。先述のように、連れ合いのハリ(中田久仁子、後、高木久仁子…引用者注)とも常に議論があり、市民側・住民側の立場から運動に参加するにしても、できたら原子力分野の専門家として再登場するという形でなく、一市民として参加できたらよいなと思っていた。いずれ原子力問題は避けて通れない思っていたが、その参加の仕方、私の志向する”市民の科学”へのアプローチが見えて来なかったためだ。
 だが、結局、私は久米さんの要請にある程度応える形で、限定的ながら、プルトニウム問題に取り組むことにした。なんといってもプルトニウムは、私のスタートとなった特別な物質であったし、シーボーグ(プルトニウムの発見者…引用者注)に魅せられたとともに、一抹の違和感を彼の本に抱いたことは、第3章で触れた。その違和感を、もっと踏みこんで解明してみようと思った。(同書p142)

高木自身は、この時点で、専門家というよりも、一市民として、運動に参加したいと考えており、それが上記のような複雑な対応をとらせたといえよう。科学者ー専門家としてふるまうこと、一市民運動家としてふるまうこと、この二つの志向は、高木の後半生を支配したモティーフだったといえる。

そして、高木は、プルトニウムの毒性(発がん性)の研究をはじめ、すでにプルトニウムの毒性の大きさを指摘していたタンプリンとコクランの説を高木なりに評価した「プルトニウム毒性の考察」を『科学』1975年5月号に掲載した。高木はプルトニウム論争に巻き込まれ、テレビの論争にも”批判派”として登場するようになった。

さらに、高木は、プルトニウムに関する多面的な問題(安全面、社会面、経済性、高速増殖炉計画など)を議論する「プルトニウム研究会」を組織した。この時の検討をもとにして、原子力に関する初めての本である『プルートーンの火』(現代教養文庫、1976年)を書いた。

すでに、1974年末には、高木は反原発の東京の市民運動の集まりにも顔を出すようになったと回想している。高木によると、当時の日本の反原発運動は原発立地予定地の住民運動を中心としていたが、「ようやくにして東京のような都会でも、原発問題を自分たちの問題としてとらえようとする市民運動がスタートしつつあった時で、運よくほとんどその初期から参加することができた」(同書p147)と述べている。

この当時、原発立地予定地の住民運動に協力して活発に活動していた専門家として、久米の他、武谷三男、小野周、水戸巌、市川定夫や、藤本陽一などの原子力安全問題研究会、全国原子力科学技術問題研究会を高木はあげている。高木は「それらの人々に比べたら、私はずい分、”遅れてやって来た反原発派”だった。」(同書p147)と述べている。

1975年8月24〜26日には、京都で日本初めての反原発全国集会が開かれた。この集会は、女川、柏崎、熊野、浜坂、伊方、川内など、原発計画に反対する住民運動団体が中心的に準備していたと高木は述べている。この全国集会に呼応して、前記の専門家の間にも、共通の資料室的な場をもとうという動きが起こってきた。この動きを強く押し進めたのは、反原発運動に取り組んでいた原水禁国民会議であり、その事務局の一部を提供してくれることになった。ここで、原子力情報資料室が誕生したのである。このことについて、高木は、次のように述べている。

…1975年の夏までに何回か話し合いがあり、結局武谷三男氏を代表とし、浪人的存在であった私が専従(ただし無給!)的役割(一応世話人という名称で)を担うことを了承して、その司町のビル(原水禁国民会議事務局が所在した神田司町のビル…引用者注)の五階で、原子力資料情報室は9月にスタートすることになった。…とりあえずの合意としては、「全国センター」的なものとして気張るのではなく、文字通りの資料室=資料の置き場とそこに集まってくる研究者たちの討論や交流の場(ある種サロン的なもの)とするということでスタートした。(同書p148〜149)

この原子力情報資料室創設時、基本的には高木が一人で運営していた。高木は、無給で電話の応対、資料の収集・整理、自身の学習に従事していた。当時の資料室は財政困難であり、彼自身の生活のためだけでなく、資料室のためにも稼がなくてはならなかったと語っている。高木は、創設時の原子力情報資料室は会費(会員40人程度)と原水禁からの若干の支援によって財政的に支えられていたが、原水禁から一定の独立性を保ちたいという会員の意向もあって原水禁からの支援は限定的なものであったと述べている。

しかし、高木は、この原子力情報資料室に「全人生」をかけていた。

 

ところが、私はなにしろ、資料室にかかわることを決めた時点で、そこに全精力、おおげさでなく全人生をかけ、そこをわが「羅須地人協会」にするという気持になっていたから、設立の趣旨を越えて走り出し、それがフライング気味だったことは、否定すべくもないだろう。(同書p150)

高木にとって、原子力情報資料室は、いうなれば宮沢賢治の「羅須地人協会」を継承するものーいや「羅須地人協会」そのものであったのである。そのような高木の思いと行動が、原子力情報資料室自体のあり方を決定づけていくことになったのである。

 

 

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