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3.11以後、いつも頭から離れない話がある。それが、トルストイの創作民話「人にはどれほどの土地がいるか」(1886年発表。『トルストイ民話集 イワンのばか 他八編』<岩波文庫>所収)である。

    <「人にはどれほどの土地がいるか」のあらまし>

この話は、ロシアの農民の話である。主人公のパホームは、小作農民であり、商人などより安定した生活をしていることに満足していた。しかし、パホームは「ただひとつ弱るのは、地面の足りないことだ! これで、地面さえ自由になったら、わしにはだれだってこわいものはないー悪魔だってこわかないよ!」と呟いた。それに対して、悪魔は、「ひとつおまえと勝負してやろう。おれがおまえに地面をどっさりやろう。ー地面でおまえをとりこにしてやろう」と考えたのである。この物語は、小作農民パホームが、土地を獲得することによって破滅したことをテーマにしている。

といっても、パホームは、少なくとも最初は、土地に対して過大な欲望を抱いてわけではない。最初は、近隣の地主が商人に土地を売却するという話を聞きつけて、それに対抗するために一部の土地(15デシャティーナ。1デシャティーナは1092ヘクタール)を買っただけであった。しかし、土地を購入した以降、家畜などの無断立ち入りなどで、近隣住民と際限のない争いを惹起してしまった。トルストイは「こうしてパホームは、土地は広く持ったけれども、世間を狭く暮らすようになってしまった」と叙述している。

そのうち、ある百姓が「ヴォルガのむこう」では移住すればより広く豊穣な土地を分け与えられると話しており、その話をききつけて、パホームは移住した。パホームはそれまでからみると一人当たり3倍の土地(50デシャティーナ)を獲得した。しかし、パホームは「だんだん住み馴れるにつれて、この土地でもまた狭苦しいような気がしてきた」という。パホームは、小麦生産の拡大をはかったが、そのためには、自分の土地だけでは足りず、他人の土地を借りざるを得なかった。そのような土地の借用をめぐって、またも近隣住民と競争しあうことになった。

そこで、パホームは、より広い土地を購入するように物色をはじめた。500デシャティーナの土地を1500ルーブリで買い取ることになったのだが、その折、ある商人が1000ルーブリで5000デシャティーナの土地をパシキール人から買い取ったという話をパホームにした。

この話を聞いて、パホームは、パシキール人の土地に旅立ち、同地に到着した。パシキール人は遊牧民であり、土地を耕作してはいなかった。パホームは、贈物をおくるなどして、彼らに気に入られることにつとめた。パシキール人はパホームを気に入り、パホームの贈物に返礼したいと言い出した。そこで、パホームは、土地が欲しいと言い出したのである。

パシキール人の村長は、欲しいだけ土地をやるといい、その価格は均一で「一日分千ルーブル」としていると述べた。一人が一日歩き回ったところを1000ルーブルで売るというのである。ただし、条件が一つある。それは、日没までに出発点に戻らなければならないというのである。

こういう条件を出されれば、ロシア農民どころか現代日本人でも有頂天となるだろう。トルストイは、このように書いている。

<どうでもひとつ、できるだけ大きなパレスタイン(約束の土地)をとらなくちゃ>と彼は考えるのだった。一日かかったら、五十露里はまわるだろう。それに今は一ばん日の長い時だ。そこで、まわり五十露里の地面といえば、いったいどれくらいになるだろう! そのうち悪いところは売るか、百姓たちに貸すかすればいい。そしていいところだけとって、そこにすわりこむこととしよう。二頭の牝牛にひかせる犂をつくり、作男をふたりやとって、五十デシャティーナくらいを耕し、残りの地面で牧畜をやることにしよう。

ところが、その夜、パホームは夢をみた。パシキール人の村長、パシキール人の話をしていた商人、「ヴォルガの向こう」の話をしていた百姓が次々と夢の中に出てきた。

が、さらに見ると、それは例の百姓でもなく、角と蹄のある悪魔自身で、そいつがすわったまま腹を抱えて笑っているのだった。そしてその前には、シャツとずぼん下だけのはだしの男がひとりころがっている。パホームはなおそばへ寄って、じっと見たーその男はいったい何者だろう? ところが、男はもう死んでいて、しかも彼自身である。パホームはぎょっとして、はっと目をさました。目がさめるとー<何だ、夢か、つまらない!>こう考えた。

夢から覚めると、もう朝で、パホームは、一日分の土地を計るために出発した。丘の上にある出発地点には、村長の帽子が置かれ、日没までにそこに戻ってこなければならなかった。「いかにも地面がいいので、思いきるのは惜しいわい。おまけに、行けば行くほどよくなんだからたまらない。」ということで、とにかく大きな地面をとろうと必死にパホームは歩いた。途中で疲労し、眠気が襲ってきても、パホームは「一時間の辛抱が一生のとくになるんだ」といって歩き続けた。

しかし、さすがに日没が近づいてくるとパホームはあせり、出発地点に戻るために走り出した。

<ああ>と彼は考えた。<おれはあんまり欲をかきすぎた、ーもう万事おしまいだー日の入りまでには行き着けそうもない>…すると、なお悪いことに、こう思う恐れから、いっそう呼吸がきれてきた。パホームはただ走った。(中略)パホームは無気味になっては考えたー<あんまり夢中になって、死んでしまいはしないだろうか>
 死ぬのはこわいけれども、立ちどまることはできなかった。
 <あんなに駈けまわりながら、いまになって立ちどまったら、ーそれこそばか呼ばわりされるだろう>こんなことを考えた。

ほぼ日没直前に、パホームは、出発地点にようやく近づいた。出発地点ではパシキール人たちが彼をせきたて、村長が両手で腹を抱えていた。それをみて、パホームは、このように考えた。

と、パホームには夢が思いだされた。<土地はたくさんとったが>こう彼は考えた。<神さまがその上に住ませて下さるだろうか? おお、おれは自分を滅ぼした! とても走れまい>…

一度はあきらめかけたパホームであるが、なんとか、日没時までには出発地点まで戻ってきた。しかし、結末は、こういうありさまであった。

パホームは、勇を鼓して丘へ駆けあがった。丘の上はまだ明るかった。パホームは駈けつけると同時に帽子を見た。帽子の前には村長がすわり、両手で腹を抱えて、あはあはと笑っている。パホームは夢を思いだし、あっと叫んだ。足がすくんでしまったので、彼は前のめりに倒れたが、倒れながらも両手で帽子をつかんだ。
 「やあ、えらい!」と村長は叫んだ。「土地をしっかりおとんなすった!」
 パホームの下男が駈けつけて、彼を抱き起こそうとしたが、彼の口からはたらたらと血が流れた。彼は死んで倒れていたのだった。
 下男は土掘りをとりあげて、ー頭から足まではいるようにーきかっり三アルシンだけ、パホームのために墓穴を掘った。そして、彼をそこに埋めた。

最終的に、パホームは、土地のために破滅したのだった。彼に最後に残された土地は、彼の身長分しかない墓穴だけだったのである。

    <3.11以後、「人にはどれほどの土地がいるか」を読み返して>

この話のテーマは、人の生存手段である土地を追い求めた結果、逆にその生存自身を失ってしまったというところにある。「<土地はたくさんとったが>こう彼は考えた。<神さまがその上に住ませて下さるだろうか? おお、おれは自分を滅ぼした! とても走れまい>」ーこれがこの話の眼目といえるだろう。

そして、人の生存手段というのは、何も土地だけにかぎらない。経済成長・雇用・補助金・税源・購買力・資本ー、ここには、一般的な「富」全体が入るだろう。この話は、ロシアの小作農民の話となっているが、むしろ、無制限な資本蓄積を行っている現代資本主義のほうが、より該当する話である。といっても、複雑な現代資本主義においては、寓話としてもこのように明瞭な話は成立しないだろう。この話では、ときどき「村組合」という言葉が出てくる。パホームは「村組合」に代表される村落共同体から出発し、互いに対抗、競争しあう資本主義の世界に入っていったといえる。逆に、それゆえに、等身大の共同体的世界観(トルストイの立場からいえば宗教的という観点も入るだろう)から資本主義の構造を読み解いているといえるのである。

そして、パホームが最後に土地を獲得しようとしたところは「パシキール人の土地」であった。この話においても、パシキール人は土地を耕作しない遊牧民として描かれている。パシキール人は、ロシアの東方に居住しており、その土地に侵攻することで、当時のロシア帝国は発展したのだ。その土地を、いわば法外の値段で買い取ろうとしたのであった。パシキール人からの土地収奪といえるだろう。当時のロシア帝国主義の発展を戯画的に描いているということができる。まさに、無制限な資本蓄積の源流は、資本主義的な意味での「中心」と「周縁」との不等価交換に基づいているのだ。

しかし、この話の中心は、土地を収奪されたパシキール人ではなく、ロシア帝国主義による土地収奪の尖兵ともいうべきロシア農民であるパホームに何が起こったかを中心に書かれている。パホームは最終的に5000デシャティーナ以上の地主になることを望んだが、実際に彼自身の経営可能な農地は50デシャティーナ程度であった。それ以上の土地は、売るか貸すかしかなかった。生存に必要な範囲をはるかにこえた土地を獲得しようとしたがゆえに、彼は命を落とすことになった。無制限な資本蓄積が身を滅ぼしたのである。

しかし、無制限な資本蓄積が肯定されている現代資本主義にとっては、このような話は、単なる倫理的・宗教的空想にしか聞こえないだろう。ケインズ以来の修正資本主義すらかなぐり捨てて、無制限な資本蓄積をより一層推進する新自由主義の下では、とりわけそうだ。そして、このような無制限な資本蓄積を肯定するメンタリティは、その枠組みの中で生きる人びとすべてに影響を与えている。例え、資本主義的蓄積を批判的にみたとしても、生活自体がその枠組みを前提として成立している以上、現実には、資本主義的蓄積のみが現実的なもので、それを否定するものは空想的にしかみえないといえる。私自身、「人にはどれほどの土地がいるか」は、前から知っていた。しかし、無気味ではあるものの、自分たちとは無関係なものと思っていた。

原発というものは、無制限な資本蓄積の象徴といえる。高速増殖炉もんじゅなどは、「燃やせば燃やすほど燃料が増える」ということをキャッチフレーズにしていた。一般的な原発も、その経済性を売り物にしていた。今思えば、この経済性とは、一方で政府が立地対策や使用済み核燃料再処理サイクル確立などを行うことで補助し、他方ではウラン採掘現場から放射性廃棄物処理まで全ての段階で惹起される被曝を無視し、そのリスクを労働者や地域社会に押しつけて成立したものだったといえる。しかし、無制限な資本蓄積が前提で私たちの生活が成り立っている限り、原発に対しても一般的には否定できない雰囲気があったといえる。原発に無関心であるということは、意識的ではないにせよ、その存在を否定できなかったということができるのだ。そして、原発に多少問題があるにせよ、技術的制御によりカタストロフィーまでにはならず、私たちの生存・生活を侵すことはないだろうと信じられていたのである。そして、原発を廃絶することは、「空想的」と考えられていたといえる。

3.11における福島第一原発事故は、この状況を覆し、原発事故は人びとの生存・生活を根本的に脅かすものであるということを示すことになった。本来は原発というものは、人びとの生存・生活を発展させるために存立する手段だったはずのものだった。しかし、福島第一原発事故は、生存・生活の手段だった原発が、事故を契機として、人びとの生存・生活自体を脅かし、さらには覆すものになったことを明示したものとなった。多くの人が放射能汚染によって避難を余儀なくされた福島県の状況がこのことをよく物語っている。

福島県の地域社会は、全体としては、地域住民の生存のために原発を受け入れていたといえる。しかし、今度は、その原発によって、生存それ自体が脅かされ、生活していた地域から避難をせざるをえなくなったのである。生存の手段が、逆に生存自体を脅かすものになったのである。

こういう状況を目にして、私は「人にはどれほどの土地がいるか」を想起したのである。「<土地はたくさんとったが>こう彼は考えた。<神さまがその上に住ませて下さるだろうか? おお、おれは自分を滅ぼした! とても走れまい>」。土地とは、生存・生活の手段である。しかし、それが人の破滅の種になった。福島の話で考えれば、地域住民としては生存・生活の手段として原発は受け入れたのだが、逆にそれが地域における住民生活を不可能にしたといえる。もちろん、福島の人びとがパホームほど欲望の虜になったとは思えない。しかし、パホームだって、最初は安定した生活を望んだにすぎない。そして、福島の人びとについていえば、より安定した生活を望んだだけで、その土地から追い出されたことになる。原発とは無制限な資本蓄積の具であるが、それこそ「安全性」すら「無制限」に資本蓄積を行ったあげく、この状況となったのである。

この状況が「反原発」の機運を生んだことは周知のことであろう。放射能汚染への恐怖は、原発が立地する福島だけの問題ではなく、日本全国やさらに近隣諸国ー世界全体の問題になった。

これに対して、関電などの電力会社(社員を含めて)、経団連などの財界、野田政権は、むしろ態度を硬化させ、原発の安全性を実質的に無視した上で、原発は日本の経済成長と雇用を維持し「国民生活」のために必要だと主張したのである。ここにおいて、「人にはどれほどの土地がいるか」のたとえは、より正鵠を射るようになったといえる。福島の状況は、私たちみなの抱えている問題になった。最早、原発だけでなく、それが象徴している経済成長ー無制限な資本蓄積総体が疑問とされるようになった。人びとの生存・生活の手段だったはずのものが、今やそれ自体が目的として追求され、人びとの生存・生活が犠牲に供されるようになった。パホームは、無制限な資本蓄積の枠組みの中で生きる私たち自身であり、その結末は、パホームと同じになるのではなかろうか。もはや、「空想」のほうが、より「現実的」になったのである。「人にはどれほどの土地がいるか」は、3.11以後、ますます、私たちの状況を照射するものになっていっていると考えられるのである。

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