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安保法制に反対する運動をしてきた学生団体SEALDsの中心的メンバーである奥田愛基に、自身と家族に対する殺害予告が届き、奥田は警察に被害届を提出した。まず、朝日新聞の次のネット配信記事をみてほしい。

SEALDsの奥田さんに殺害予告届く 大学に書面
2015年9月28日20時02分

 安全保障関連法案への反対運動をしてきた学生団体「SEALDs(シールズ)」の中心メンバー、奥田愛基さん(23)が28日、自身と家族に対する殺害予告の書面が届いていたことをツイッターで明らかにした。奥田さんは、神奈川県警港北署に被害届を提出したという。

 奥田さんによると、「奥田愛基とその家族を殺害する」という趣旨の手書きの書面1枚が入った封書が24日、奥田さんが在籍する明治学院大に届いたという。同大広報課は「調査中」とし、詳細を明らかにしていない。

 奥田さんは、国会前などで学生が主催した抗議行動の中心メンバー。参院特別委員会が今月15日に開いた中央公聴会に公述人として出席し、「国会を9月末まで延ばし、国民の理解を得られなかったのだから、廃案にするしかない」などと述べていた。
http://www.asahi.com/articles/ASH9X67FVH9XUTIL06P.html

奥田個人も自身のツイッターで28日に報じている。

学校の方に、僕と家族に対する殺害予告が来ました。なんか、僕だけならまだしも、なんで家族に対してもそうなるのか…。何か意見を言うだけで、殺されたりするのは嫌なので、一応身の回りに用心して、学校行ったりしてます。被害届等、適切に対応してます。
https://twitter.com/aki21st?lang=ja

この奥田の発言に対し「ぺトリオットセイ」なる人物が次のようにかみついてきた。

表だって政治活動をするなら、それくらいの覚悟があって当たり前だろwwwやっぱりただのヘタレ学生集団だな。
しかもテレビにまで露出してるのに。そこまで想定して覚悟できてないんなら、デモもテレビ露出もするな。

まあ、「ぺトリオットセイ」なる人物の言い分は、「殺される覚悟」があるのが「当たり前」であり、なければ、デモやテレビなどでの意見表明などするなというのである。

さすがに、奥田も次のように反論した。

こういうマインドで殺害予告とか書いてるんだろうな。嫌だったら黙っとけって言いたいんだよね。嫌だし、黙らない。ごめん。そんな当たり前知らない。

その後も、ツイッター上で多くの人が「ぺトリオットセイ」に対する批判を続けた。しかし「ベトリオットセイ」は反論を続け、このように言い出した。

シールズかしらんがそもそも履き違えてるみたいだけど、そもそも間接民主制の一番の基本は選挙。殺害予告に対する覚悟とは、他人がそのせいで殺されたら自分のせいだし、十分ありうることだ事前に認識し、自分がそれで殺されても構わないと思うこと。

「ペトリオットセイ」は、間接民主制の基本は選挙なんだという。そういうことを履き違えているSEALDsについて、自他ともに殺害予告への覚悟があるべきだというのである。たぶん、ここには「自己責任論」があるのだろう。イレギュラーな形で意見表明することは「殺害」を惹起することにつながるのだから、殺されても文句を言うなということなのであろう。

もともと、安保法制に反対し安倍政権の退陣を求める意見を非暴力的に表明したSEALDsの一員への殺害予告について、覚悟がないなら発言するなというのはとんでもない意見である。それは「殺害予告」による「自由な言論」の封殺を是認する論理である。奥田のいうように「殺害予告者」に極めて近い姿勢といえる。

ただ、その上で考えてみたいのは、この「ペトリオットセイ」なる人物は、どのような「民主制」観をもっているのだろうかということである。「民主」ということは、それぞれの人民がそれぞれの意見を自由に表明するということが基本であり、「選挙」代表を要する「間接民主制」というのは、とりあえずの手段でしかない。人民が、いかなる立場であろうとも、自由に意見を主張するということが民主制の基本である。

そして、「選挙」というのも、人民の多様な意見を前提として、それらを組織化し、多数派を形成することから成り立っているだろう。政党とは、そのような人民の多様な意見を収束する核として成立してくるといえる。しかしながら、「選挙」とそれを前提とする政党は二次的な存在にすぎない。その前提に多様な人民の意見があり、そして、様々な形で自由に表明されている。デモやテレビでの露出は確かにその一つであるが、それだけにはとどまらない。新聞・雑誌・図書などの言論の場でも表明されるであろうし、経団連や業界団体さらには地方自治体などの「陳情」という形でも表明されている。そして、本来であれば、それらの多様な意見が政治に反映されていくといえる。

「ペトリオットセイ」の民主制とはなんだろうか。彼は、デモなどを通しての自由な意見表明はイレギュラーなものであり、「死を覚悟すべき」ものとした。そして、「間接民主制」の基本は「選挙」であるとした。奥田を含め、多くの人間が死を賭して意見表明などはできない。「ペトリオットセイ」の考え方を敷衍していくと、彼の考える「間接民主制」の主体は、選挙で選出される代表ーたぶん「命にかえても」などと絶叫していることだろうーであり、人民の自由な意見の表明など必要がないということになるだろう。人民の参政権は「選挙」だけに限定されるのである。日常的に自由な意見を表明し交換することができなければ、「選挙」というのも選出代表を「信任」する行為でしかない。このどこに「民主」があるのか。このどこに「自由」があるのだろうか。

そして、この「ペトリオットセイ」のツイッターにおけるプロフィールは、次のようになっている。

日本は自由主義国です。自由を愛するそこの君、貴方の自由を保障する日本国を守りましょう。そして、国民の自由を保障する日本への脅威となる国を見逃してはいけません。 政治は歴史に謙虚でなければならない。 ならば政治が学ばなければならないことは「ナチスの膨張を見過ごした英仏、とりわけフランスに成るな。」ということだ。
https://twitter.com/kenshiro1229912?lang=ja

自由な言論の場を認めない者が「自由を保障する日本国」を守りましょうと呼びかけている。ここに、現代日本の大いなる逆説があるのである。

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さて、前回、石破茂自民党幹事長が11月29日に自身のブログで「デモなどのシュプレヒコールはテロと本質的に変わらないと述べたことを紹介した。

その後、石破は自身の発言を「撤回」したと報道されている。

例えば、NHKは、次のように12月1日報道している。

石破氏 ブログの「テロ」部分を撤回の考え
12月1日 18時7分

石破氏 ブログの「テロ」部分を撤回の考え
自民党の石破幹事長は、特定秘密保護法案に反対する国会周辺のデモに関連し、「絶叫戦術はテロ行為とその本質であまり変わらない」とみずからのブログに書き込み、1日、表現が足りないところはおわびするとして、「テロ」という言葉を使った部分を撤回する考えを示しました。

自民党の石破幹事長は先月29日、みずからのインターネットのブログに、特定秘密保護法案に反対する国会周辺のデモに関連し、「主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は、決して世論の共感を呼ぶことはない。単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質において、あまり変わらないように思われる」などと書き込みました。
これについて、石破氏は1日、富山県南砺市で講演し、「国会の周りに大音量が響き渡っているが、周りにいる人たちが恐怖を感じるような大きな音で『絶対に許さない』と訴えることが、本当に民主主義にとって正しいのか。民主主義とは少し路線が異なるのではないかという思いがするが、もし表現が足りなかったところがあればおわびしなければならない」と述べました。
そして、石破氏は講演のあと、記者団に対し、「『テロだ』と言ったわけではないが、テロと同じだという風に受け取られる部分があったとすれば、そこは撤回する」と述べ、「テロ」という言葉を使った部分を撤回する考えを示しました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131201/k10013486071000.html

また、石破は、自身のブログでも、「撤回」を本日表明している。

石破 茂 です。
 
 整然と行われるデモや集会は、いかなる主張であっても民主主義にとって望ましいものです。
 一方で、一般の人々に畏怖の念を与え、市民の平穏を妨げるような大音量で自己の主張を述べるような手法は、本来あるべき民主主義とは相容れないものであるように思います。
 「一般市民に畏怖の念を与えるような手法」に民主主義とは相容れないテロとの共通性を感じて、「テロと本質的に変わらない」と記しましたが、この部分を撤回し、「本来あるべき民主主義の手法とは異なるように思います」と改めます。

 自民党の責任者として、行き届かなかった点がありましたことをお詫び申し上げます。
http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/

しかし、この「撤回」は半面でしかない。北海道新聞は、NHKが報道した先の富山県の講演について、このように報道している。

絶叫デモ「恐怖与える」 講演で石破氏、規制強化も示唆(12/01 13:15、12/02 01:38 更新)

 自民党の石破茂幹事長は1日、富山県南砺市での講演で、特定秘密保護法案に反対する市民団体らのデモについて「人が恐怖を感じるような音で『絶対にこれを許さない』と訴えることが、本当に民主主義にとって正しいことなのか」と述べた。石破氏は11月29日付の自身のブログで、デモについて「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」と批判しており、表現の自由に基づくデモをテロに例えるなどして問題視する一連の発言は反発を呼びそうだ。

 石破氏は講演で「民主主義は常に言論において行われるもので、相手に恐怖の気持ちを与えてはならない」と強調。「議会において整然と討論がなされるべきものだ。そういう点で、民主主義とは少し路線を異にするのではないかという思いがする」と述べた。

 石破氏は講演後、記者団に対し、自身のブログ発言について「(デモを)テロと同じと見たというふうに受け取られる部分があるとすれば、そこは撤回をさせていただく」と釈明。だが一方で「一般人に対して大音量など有形の圧力を加えるという点においては、(テロに)相通ずるものがあると思う」とも強調した。さらに「規制のやり方に問題があると思う」とも述べ、デモに対する規制強化の必要性も示唆した。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/507525.html

この報道のほうが、石破の真意を伝えているといえる。石破は、デモをテロと同じとした点については「撤回」した。しかし、「「一般人に対して大音量など有形の圧力を加えるという点においては、(テロに)相通ずるものがあると思う」とも強調した。さらに「規制のやり方に問題があると思う」」と記者団に話している。いうなれば「テロでなかろうがデモは規制する」ということになる。彼のブログの表現によれば、「整然と行われるデモや集会は、いかなる主張であっても」かまわないが、「一般の人々に畏怖の念を与え、市民の平穏を妨げるような大音量で自己の主張を述べるような」デモは規制するということになろう。

しかし、デモなどで、自らの主張を「大音量」で述べないデモなどありうるだろうか。拡声器を使わなくても、多くの参加者がコールすれば、「大音量」となる。どのような形で主張しても、それは「言論・表現」の自由である。石破の発言は、デモ全般をなんらかの形で規制するということなのだ。最早、「特定秘密保護法案」だけの問題ではないのである。

思うに、これが、自民党幹事長石破茂が出した、3.11後の社会変動に対する回答なのだと思う。3.11において、東北や関東圏の住民を中心に多くの人びとは、民主党政権による福島第一原発事故による情報隠蔽に直面した。メルトダウンは隠蔽され、スピーディによる放射能影響予測は公表されず、事故の規模の矮小化がなされた。その過程で、多くの人が無用の被ばくをした。

それに対して、自主的に情報を集め、それを広げていこうとする営為がさかんになってきた。高価で操作も易しくない線量計を購入して自らの周辺の放射線量をはかる人、マスコミが垂れ流す情報を精査し、状況を自ら分析する人、しぶる役所をつきあげて情報提供をさせる人などが多くなった。本ブログもささやかながら、その一環であると思っている。

他方で、政権に対して、有効な事故対策と脱原発を求める運動が展開するようになってきた。金曜抗議行動は、単に官邸前や国会前だけでなく、全国各地で起こっている。デモや集会もさかんになってきた。特定秘密保護法案反対デモが「大音量」というが、今のところ、参加者は多くて1万人くらいである(もっと多くなることを望んでいるが)。一昨年や昨年の反原発デモや抗議行動のほうがはるかに規模が大きかった。

3.11以前、不満はあっても、自ら情報収集したり運動に参加する人びとは少なかった。しかし、3.11以後、人びとは、自らの生存を保障するために、行動するようになった。それは、他方で、当時の民主党政権への不信にもつながっている。国は、決して人びとを守ることはしない、自ら情報を収集し、自ら声をあげることによって、ようやく、それを確保することができるという思いがそこにはあったといえよう。少しでも「風通しのよい社会」をつくるということは、自らの生存にかかわることなのであった。

一昨年、昨年の人びとの活動は、もちろん、当時の民主党政権に向けられたのであって、当時野党であった自民党に直接向けられたものではない。しかし、自民党議員たちは、このような人びとの動きに恐怖を感じていたのであろう。石破は自身のブログで「一般市民に畏怖の念を与えるような手法」と書いている。彼らにとって、人びとが自ら行動することは恐怖の対象であったことがはしなくも暴露されている。

そのために、「特定秘密保護法案」があり、今回の石破の「デモ規制」発言があるといえる。3.11後にさかんになってきた、人びとが自主的に情報を収集したり、デモなどで意志表示することを制限すること。それは、国家安全保障会議設置法があらわしているように、戦争の危機をあおりながらである。これが、自民党幹事長石破茂の3.11後の社会変動に対する回答であったといえるのである。

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さて、自民党の石破茂幹事長は、11月29日に自身の「石破茂(いしばしげる)オフィシャルブログ」に掲載された「沖縄など」と題された文章の中で、特定秘密保護法案についてこのように主張した。

(前略)
 特定秘密保護法の採決にあたっての「維新の会」の対応は誠に不可解なものでした。自民・公明・みんなの党とともに共同修正を提案したからには、その早期成立にも責任を共有してもらわなくてはなりません。しかるに、日程を延ばすことを賛成の条件としたのは一体どういうわけなのか。質疑を通じて維新の会の主張は確認されたのではなかったのか。反対勢力が日程闘争を行うのはそれなりに理解できなくもありませんが、共同提案をしている党が日程闘争を展開するという前代未聞の光景に当惑せざるを得ませんでした。

 今も議員会館の外では「特定機密保護法絶対阻止!」を叫ぶ大音量が鳴り響いています。いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。
 主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべきなのであって、単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます。
(後略)
http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/

この発言で問題なのは、後半である。石破は、「特定秘密保護法案」反対のシュプレヒコールを「絶叫戦術」とし、世論の共感をよぶことはないと批判した上で、「民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべき」と主張した。そして、「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます。」としたのである。

もちろん、この発言には石破一流のレトリックもあるだろう。しかし、非暴力的に行われている「特定秘密保護法案」反対のシュプレヒコールを「テロ行為」と本質的に変わらないとするのは大きな問題をはらんでいる。

なぜならば、これは、特定秘密保護法案のテロの定義にかかわるからである。特定秘密保護法案のテロの定義については、11月29日付の毎日新聞社説がこのように指摘している。

社説:秘密保護法案 参院審議を問う テロの定義
毎日新聞 2013年11月29日 02時31分

 ◇あいまいで乱暴すぎる

 国際的にも解釈の分かれる重要な論点が、ほとんど議論のないまま素通りされていることに驚く。

 特定秘密保護法案のテロリズムに関する定義である。「反政府組織はテロリストか」。国際社会では、そういった解決困難なテロの定義をめぐり、今も議論が続く。日本も国際協調しつつ、テロ対策に向き合うべきだ。だが、テロを定義した法律は現在、国内にない。法案は12条でテロを定義した。全文を紹介する。

 「政治上その他の主義主張に基づき、国家若(も)しくは他人にこれを強要し、又(また)は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう」だ。

 テロ活動の防止は、防衛、外交、スパイ活動の防止と並ぶ特定秘密の対象で、法案の核心部分だ。本来、法案の前段でしっかり定義すべきだが、なぜか半ばの章に条文を忍ばせている。それはおくとしても、規定のあいまいさが問題だ。

 二つの「又は」で分けられた文章を分解すると、「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要」「社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷」「重要な施設その他の物を破壊するための活動」の三つがテロに当たると読める。衆院国家安全保障特別委員会で、民主党議員が指摘し、最初の主義主張の強要をテロとすることは拡大解釈だと疑問を投げかけた。

 これに対する森雅子特定秘密保護法案担当相の答弁は、「目的が二つ挙げてある」というものだった。つまり、「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し」「又は社会に不安若しくは恐怖を与える」がともに「目的で」にかかるというのだ。

 ならば、そう分かるように条文を書き改めるべきだ。法律は、条文が全てだ。読み方によって解釈が分かれる余地を残せば、恣意(しい)的な運用を招く。だが、委員会では、それ以上の追及はなかった。

 たとえ森担当相の答弁に沿っても、テロの範囲は相当広い。「主義主張を強要する目的で物を破壊するための活動」はテロなのか。「ための」があることで、準備段階も対象になる。原発反対や基地反対の市民運動などが施設のゲートなどで当局とぶつかり合う場合はどうか。

 もちろん、この定義に従い、すぐに具体的な摘発が行われるわけではない。だが、こんな乱暴な定義では、特定秘密の対象が広がりかねない。参院の拙速審議は許されない。
http://mainichi.jp/opinion/news/20131129k0000m070123000c.html

つまり、普通に読むと、人を殺傷したり、施設その他を破壊するということだけでなく、「政治上その他の主義主張に基づき、国家若(も)しくは他人にこれを強要」することも、テロに該当する危険性があると毎日新聞は指摘しているのである。それに対して、森雅子担当相は、上記の部分は、人を殺傷したり、施設その他の破壊について修飾するものだと弁明した。

しかし、石破の特定秘密保護法案反対のシュプレヒコールはテロ行為と同じとした発言は、「政治上その他の主義主張に基づき、国家若(も)しくは他人にこれを強要」という定義に合致しているといえる。つまり、政府の主張と対立するシュプレヒコールを集会やデモで発することは、テロ行為と見なされる可能性があるのである。

その先に、どういう社会がまっているのか。すでにジャーナリストの堤未果は、4月の週刊現代に次のような記事を寄稿し、自身のブログにも掲載している。その中で、「テロとの闘い」を旗印にした米国愛国者法が施行されたアメリカを参考にしながら、この法律の危険性を警告している。

先週の週刊現代連載記事です。
昨夜のJーWAVE JAM THE WORLD でもインタビューコーナーで取り上げました。
この法律が通ったら、ブログやツイッターでの情報発信、取材の自由など様々な規制がかかるでしょう。
アメリカでも、大手マスコミが出さない情報を発信する独立ジャーナリストは真っ先にターゲットにされました。そして「原発情報」はまず間違いなく「軍事機密」のカテゴリーでしょう。

「アメリカ発<平成の治安維持法>がやってくる!」
ジャーナリスト 堤 未果

3月31日、安倍総理は今秋国会での「秘密保全法」提出を発表した。
日弁連などが警鐘を鳴らし続けるこの法案、一体どれだけの国民がその内容を知っているだろうか? 

01年の同時多発テロ。あの直後にアメリカ議会でスピード可決した「愛国者法」がもたらしたものを、今ほど検証すべき時はないだろう。 

あのとき、恐怖で思考停止状態の国民に向かって、ブッシュ元大統領はこう力説した。
「今後、この国の最優先事項は治安と国会機密漏えい防止だ。テロリスト予備軍を見つけ出すために、政府は責任を持って全米を隅々まで監視する」

かくして政府は大統領の言葉を忠実に実行し、国内で交わされる全通信に対し、当局による盗聴が開始された。それまで政府機関ごとに分散されていた国民の個人情報はまたたく間に一元化され、約5億6千万件のデーターベースを50の政府機関が共有。通信業者や金融機関は顧客情報や通信内容を、図書館や書店は貸し出し記録や顧客の購買歴を、医師達は患者のカルテを、政府の要請で提出することが義務づけられた。

デンバー在住の新聞記者サンドラ・フィッシュはこの動きをこう語る。
「米国世論は、それまで政府による個人情報一元化に反対でした。憲法上の言論の自由を侵害する、情報統制につながりかねないからです。でもあのときはテロリストから治安や国家機密を守るほうが優先された。愛国者法もほとんどの国民が知らぬ間に通過していました」

だが間もなくしてその“標的”は、一般市民になってゆく。

ペンシルバニア州ピッツバーグで開催されたG20首脳会議のデモに参加したマシュー・ロペスは、武器を持った大勢の警察によって、あっという間に包囲された経験を語る。
「彼らは明らかに僕達を待っていた。4千人の警察と、沿岸警備隊ら2千5百人が、事前に許可を取ったデモ参加者に催涙弾や音響手りゅう弾を使用し、200人を逮捕したのです」
理由は「公共の秩序を乱した罪」。
その後、ACLU(米国自由市民連合)により、警察のテロ容疑者リストに「反増税」「違憲政策反対」運動等に参加する学生たちをはじめ、30以上の市民団体名が載っていたことが暴露されている。

政府による「国家機密」の定義は、報道の自由にも大きく影響を与えた。
愛国者法の通過以降、米国内のジャーナリスト逮捕者数は過去最大となり、オバマ政権下では七万以上のブログが政府によって閉鎖されている。

為政者にとってファシズムは効率がいい。ジャーナリストの発言が制限され国民が委縮する中、政府は通常なら世論の反発を受ける規制緩和や企業寄り政策を、次々に進めていった。

ブッシュ政権下に時限立法として成立した「愛国者法」は、06年にオバマ大統領が恒久化。
その後も「機密」の解釈は、年々拡大を続けている。

日本の「秘密保全法」も、日米軍一体化を進めたい米国からの〈機密情報保護立法化〉要請が発端だ。その後、07年に締結した日米軍事情報包括保護協定を受け、米国から改めて軍事秘密保護法の早期整備要求がきた。 だが米国の例を見る限り、軍事機密漏えい防止と情報統制の線引きは慎重に議論されるべきだろう。なし崩しに導入すれば〈愛国者法〉と同様、監視社会化が加速するリスクがある。

震災直後、テレビ報道に違和感を感じた人々は、必死にネットなどから情報収集した。
だがもし原発や放射能関連の情報が国民の不安をあおり、公共の安全や秩序を乱すとして〈機密〉扱いにされれば、情報の入手行為自体が処罰対象になるだろう。 

公務員や研究者・技術者や労働者などが〈機密〉を知らせれば懲役十年の刑、取材した記者も処罰対象になる。国民は「適正評価制度」により「機密」を扱える国民と扱わせない国民に二分されるのだ。

行き過ぎた監視と情報隠ぺいには私達も又苦い過去を持ち、国民が情報に対する主権を手放す事の意味を知っている。歴史を振り返れば〈言論の自由〉はいつも、それが最も必要な時に抑えこまれてきたからだ。

(週刊現代:4月14日連載「ジャーナリストの目」掲載記事)
http://blogs.yahoo.co.jp/bunbaba530/67754267.html

ここで、特に重要なのは、このくだりである。

ペンシルバニア州ピッツバーグで開催されたG20首脳会議のデモに参加したマシュー・ロペスは、武器を持った大勢の警察によって、あっという間に包囲された経験を語る。
「彼らは明らかに僕達を待っていた。4千人の警察と、沿岸警備隊ら2千5百人が、事前に許可を取ったデモ参加者に催涙弾や音響手りゅう弾を使用し、200人を逮捕したのです」
理由は「公共の秩序を乱した罪」。
その後、ACLU(米国自由市民連合)により、警察のテロ容疑者リストに「反増税」「違憲政策反対」運動等に参加する学生たちをはじめ、30以上の市民団体名が載っていたことが暴露されている。

政府による「国家機密」の定義は、報道の自由にも大きく影響を与えた。
愛国者法の通過以降、米国内のジャーナリスト逮捕者数は過去最大となり、オバマ政権下では七万以上のブログが政府によって閉鎖されている。

つまり、政府の政策に反対する主張を行う人や団体は「テロ容疑者」に指定され、徹底的に弾圧され、多くのジャーナリストが逮捕され、数多くのブログも閉鎖させられてしまうというのがアメリカの現状なのである。石破の発言は、まさに、その危険性を明らかにしているといえよう。

すでに、アメリカでも、そのような現状を見直しすべきという声が出ている。それを紹介しているのが、The New Classicというウェブマガジンである。

国者法から12年、アメリカは新しい時代に突入した

シャットダウンに陥った一連の問題分裂したアメリカが1つになるには、NSAへの抗議活動によってかもしれない。26日、ワシントンに集まった米国政府によるオンライン監視プログラムへの抗議者の中には、リベラルなプライバシー擁護派から保守的なティーパーティー運動のメンバーまでが参加したという。この抗議活動には、数百人が集まったと言われているが、メルケル首相への衝撃的なスパイ行為が明らかになったことで、この動きは世界中に広がっていくと思われる。

愛国者法から12年
彼らが集まった日は、2001年に「愛国者法」が成立した日と同じ10月26日だった。9.11の直後にスピード可決した法案が、12年が経過したアメリカ社会に問いかけるものは大きい。

この愛国者法は、テロリストの攻撃に対応するために政府などがアメリカ国内における情報の収集に際して生じる規制を緩和するものだ。国内における外国人に対しての情報収集の制限を緩和したりすること以外にも、電話やEメール、医療情報、金融情報などへの調査権限を拡大するとともに、「テロリズム」の定義が拡大したことで、司法当局の拡大された権限が行使される場面の増加を招いている。

テロと炭疽菌事件によって混乱していたアメリカ社会においてあっという間に可決された法案は、2011年にオバマ大統領が、「愛国者法日没条項延長法(PATRIOT Sunsets Extension Act of 2011)」に署名したことでその中心的な条項は4年間延長されたのだ。

ビック・ブラザーを引き抜け
「愛国者法」に代表されるように、アメリカ社会の安全と引き換えに市民の監視を強める姿勢をジョージ・オーウェルの名作に準えるむきもある。デモには、「ビック・ブラザーを引き抜け(Unplug Big Brother)」という言葉も見えたが、これは小説『1984年』に登場する架空の人物だ。

作中の全体主義国家「オセアニア」に君臨する独裁者であるビック・ブラザーは、テレスクリーンをはじめとする手段によって、住民を完全なる監視下に置いていた。冷戦下の英米で“反共主義のバイブル”として爆発的な人気を誇った著作は、現在でも広く知られている。

日本とも無関係ではない
“共産主義と闘い”、そして“自由を具現化してきた”アメリカ政府をビック・ブラザーとなぞらえる動きは、皮肉なものだ。しかし、「愛国者法」の成立から10年以上が経過して、突如として「戦後最大の外交上の亀裂」に直面した政府にとっては、リアリティのある批判になりつつある。

彼らが今後大きな議論に巻き込まれ、そして新たな社会へと突入することは確実だろう。そのことは、アメリカをベンチマークとしながら、日本版NSCや秘密保護法の構想が現実のものとなっている日本にとっても決して無関係のことではないだろう。
http://newclassic.jp/archives/2476

このように、アメリカで批判にさらされているような制度を、「安全保障」という名目で導入しようとしているのが、今回の特定秘密保護法案といえるだろう。そのことを、石破発言は暴露してしまったのである。

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本ブログでもとりあげたことがあるが、在日特権を許さない会(在特会)などが主催する在日コリアンを排斥するデモが、東京の新大久保や大阪の鶴橋などを中心に行なわれている。そのことについて、新大久保も管轄している東京都の猪瀬直樹知事の2013年3月29日における記者会見で質問が飛んだ。産經新聞は3月31日付のネット配信記事で詳細に伝えているので、まず、その部分を紹介しておきたい。なおーーは記者の質問で、「 」が猪瀬の答である。

--新大久保のコリアンタウンで、在特会と称する人たちの主催による、在日コリアン排斥を目的とする街宣デモが行われている。200人ほどで練り歩き「朝鮮人は皆殺し」「首をつれ」などのプラカードを掲げ、「ゴキブリ」「日本から出て行け」といったシュプレヒコールをあげている。地元、観光客はみなおびえきっている。一部の国会議員はこれを憂慮し、民族差別デモを許可しないよう、東京都公安委員会に要請している。民族差別デモが平然と行われているこの国で、民族の祭典であるオリンピックを誘致する資格があるのかどうか。知事の見解を。

 「僕も見たことないが、品がない表現。ただ、デモは届け出をして手続きをやれば、できることはできる。人を傷つけるなどしなければ、とりあえずは合法活動ということになる」

 --ただ、外国では民族を扇動するようなデモは固く禁じる法律があるところもある

 「だからそれは法律のバックがあるからね。今のところ日本の法律では、人に危害を加えたりしなければ、警察の取り締まりの対象にならない」

 --それについて知事はどう考えているか。

 「だからそういう下品なデモで、品のない言葉を吐くわけ。でもわずか200人ぐらいの人。東京の1300万人のうちのわずか200人。もちろんそれはよろしくないとは思う」

 --知事として何か具体策をとるとか。

 「対策というのは、法律に基づかないとできないから。もちろんそういうことに対して『それはおかしいじゃないか』ということを僕は思っている」

 --東京都公安委員会は都が管轄だと思うが

 「それは公安委員会の方が判断しなければいけない問題だから」

 --知事が働きかけるとかそういうことは考えていないか

 「今のところ法律的にそれを取り締まるものがないということ」

 --都政としてはこのままか

 「都政の問題じゃなくて、警察とか法規に基づいてデモが暴走したりしたらそれは逮捕とかできるわけだが、相手に危害を加えるとか器物を破損しているとか、そういうことが起きているかどうか注意深く見守りたいと思う」

 --見守るということですね

 「見守るというか、そういうことが起きているかどうか。そういうことが起きていれば、それは犯罪になるから」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130331/lcl13033107010000-n3.htm

簡単にいれば、結局、取り締まる法律がないから、犯罪行為にならない限り、「「朝鮮人は皆殺し」「首をつれ」などのプラカードを掲げ、「ゴキブリ」「日本から出て行け」といったシュプレヒコールをあげている」在特会の人種差別的なデモを見守るということにつきるだろう。猪瀬は、「ただ、デモは届け出をして手続きをやれば、できることはできる。」としている。そして、「民族差別デモが平然と行われているこの国で、民族の祭典であるオリンピックを誘致する資格があるのかどうか」という問いについても、都民1300万人に対して、200人の集団に過ぎないと答えているのである。

まず、このような猪瀬の見解が、現在の日本政府が、人種差別に対してとっている姿勢をベースにしているということをここでは確認しておきたい。1965年に採択された「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」(人種差別撤廃条約)に、日本は1995年に批准した。しかし、この条約では、第四条で、人種差別思想の流布、人種差別の煽動、人種差別にもとづく暴力行為、それに対する資金援助、人種差別を助長・煽動する団体の組織的宣伝活動を法律で禁止することを求めているのであるが、日本政府は、この第四条に対し、次のような「留保」をつけた。

「日本国は、あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約第4条の(a)及び(b)の規定の適用に当たり、同条に「世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って」と規定してあることに留意し、日本国憲法の下における集会、結社及び表現の自由その他の権利の保障と抵触しない限度において、これらの規定に基づく義務を履行する。」http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinshu/99/4.html

そして、具体的には、名誉棄損その他、刑法など現行法で取り締まることができる範囲内でしか規制しないとしたのである。猪瀬の発言は、大枠では、日本政府の解釈にそったものとしてみることができる。

この日本政府の「留保」自体が問題であり、人種差別撤廃委員会から、人種差別の言動を取り締まる立法を迫られている。このことについては、別の機会にみてみたい。

ここでは、猪瀬個人にしぼってみておきたい。猪瀬は「ただ、デモは届け出をして手続きをやれば、できることはできる。」と主張している。しかし、本当に、猪瀬は、そのような対応をとっていたのであろうか。

猪瀬が副知事であった2012年11月、東京都は、日比谷公園を出発地とする反原発デモを、公園の一時使用を許可しない形で阻止した。このことを『週刊金曜日』が11月21日にネット配信した記事でみておこう。

毎週金曜日の首相官邸前デモなどを主導してきた首都圏反原発連合が一一月一一日に予定している「11・11 反原発1000000人大占拠」は、東京都が日比谷公園の一時使用を不許可としているため開催が危ぶまれる状況となっている。

 二日、衆議院第一議員会館で行なわれた会見で反原連のミサオ・レッドウルフさんらが経緯を説明した。これまでと同じやり方で日比谷公園の指定管理者に使用許可書を提出した際、「東京都から、デモの一時使用受付はしないよう言われた」という。反原連は一〇月二六日、都に対し使用許可の申請をしたが、都は三一日、「公園管理上の支障となるため」として不許可の通知を出した。

 主催者らは「(実現できなければ)運動全体にとってかなりのダメージになる」「(圧力に屈して)できなくなるという前例はつくりたくない」として東京地裁に申し立てる決断をしたという。しかし二日夕刻、東京地裁は主催者らの主張を却下。主催者側は即時抗告を出したが、五日には東京高裁が地裁判決を支持したことで一一日の日比谷公園でのデモは不可能となった。

 東京都は八月より従来の方針を切り替え、日比谷公園をデモの出発地点とする場合、日比谷公会堂や日比谷野外音楽堂の使用を条件につけることにしている。国際政治学者の五野井郁夫氏は「大きな場を借りなければ集会ができないとすれば、お金がない人間は集会ができなくなる」と訴えた。

 中東の民主化デモ「アラブの春」などを取材してきたジャーナリストの田中龍作氏は「独裁政権下にあるエジプトでもタハリール広場の使用を認めてきた。東京都の実態は異常としか思えない」と話す。

(野中大樹・編集部、11月9日号)
http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/?p=2670

もちろん、この時、猪瀬は副知事にすぎない。最大の責任者は石原慎太郎都知事(当時)である。しかし、猪瀬もまた、11月8日、彼のツイッターで次のように述べている。

亀井静香氏から1カ月ほど前に電話があり、日比谷公園を反原発デモの出発地として許可しろと言うから、あなたお巡りさん出身だから知っているでしょ、学生運動が盛んな時代、明治公園に集まり青山通りから国会付近へ行き日比谷公園は流れ解散の「一時使用」でしょ、と記憶を確かめてやりました。
日比谷公園でなく日比谷野外音楽堂はメーデーなどいろいろ利用されている。亀井さん、野音を取れば?と勧めたら、もう埋まっているのだよと言うからそれは単に不手際でしょと返して、明治公園から日比谷公園までデモする根性なくてなにが反原発だ、日比谷から国会なんてやる気があるの?です。
デモの常識。明治公園は日本青年館横のかなり広いスペース、数万人は集まれる。地面はコンクリート。休日にフリーマーケットなどで使われている。青山通りから虎ノ門経由で国会周辺、日比谷公園へ。日比谷は花壇と噴水だから流れ解散の場。集会の自由あたりまえ、やる側の根性とセット。
http://matome.naver.jp/odai/2135261591756465301より転載。

つまり、猪瀬は、このツイッターにおいて、反原発デモに介入し、阻止した石原都知事の側にたって、反原発デモの阻止を正当化しているのである。「ただ、デモは届け出をして手続きをやれば、できることはできる。」ということは、反原発デモには適用されていないのである。

このように、猪瀬は、人種差別的な在特会のデモは「見守り」、反原発デモは「阻止」しているのである。いわば、デモに対して、猪瀬は二重基準で行動しているといってよいだろう。

ただ、どのような形で、このような人種差別に対応していくかということについては、より慎重に考えていかねばならないだろう。在特会デモへの規制が、一般のデモ規制強化につながっていく危険性もあるのである。

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先週、官邸前抗議行動について、野田首相が抗議側の代表と会うと意志表明した(結局、2012年8月8日を予定していたが、政局によって延期された)。

このことは、いろんな意味で波紋をよんだ。その一つとして、ここでは橋下徹大阪市長が8月5日にツイッターで表明した脱原発デモについての意見を検討しておこう。

橋下徹については周知の人物といえる。彼の大阪府知事・大阪市長としての強引な政治は、確かに一部の熱狂的な支持を得つつも、他方で、強く反対する人びとをうんでいる(ここでは「強引な政治」と書いているが、それでは過小評価であろう。しかし、このことを中心に批判する文章ではないので、このような表現をとっていることをご承知されたい)。一方で、大飯原発再稼働については抵抗の意志を示しており、夏期の計画停電を根拠にして再稼働を認めたものの、長期的においては「脱原発」の旗を下ろしてはいないのである。

そのような橋下が、官邸前行動やデモなどをどのようにみているのか。8月5日のツイッターは、そのことをよく示している。

彼は、まず、被災地がれきの広域処理について、大阪市役所などで抗議デモがありながらも、世論調査では9割が賛成していると指摘し、このように問いかける。

しかし国民全体では9割が賛成。このギャップは何なのだろうか。政治家は目の前の一部の団体などの声に左右されやすい。数千人の声が集まるとそれが有権者全体の声と錯覚してしまう。官邸前・国会前の反原発デモは、本当に国民全体の声なのだろうか。デモだけで政治判断するのは危険である。
もちろん国民・有権者の声を限りなく聞く姿勢は重要である。しかし参考にする声を、目の前の大きな声を軸にするのは危険である。国民全体の声を見誤る。確かに議会が本当に有権者の声を反映しているのか疑念はある。しかしだからと言って議会を補完するためにデモがあるというのは短絡過ぎる。
http://twilog.org/t_ishin/asc

なかなか、微妙な言い回しである。橋下は、国民・有権者の声を限りなく聞く必要があることを認めている。別のところでは、自分自身をポピュリズムであるといっている。そして、議会が本当に有権者の声を代表しているのかということにも疑念を表明している。しかし、目の前のデモなどの大きな声によって政治判断することは危険であるとし、デモが議会を補完するという機能があるのではないかということすら短絡的と断じている。

そして、橋下は、やはり議会の声に有権者の声の反映を求めていく。

むしろ議会の声とデモ的な声、つまり一部の大きな声が重なることも多い。つまり議会の声もデモの声も、有権者の多数の声を反映していないことが多い。議会がダメだからデモだとはならない。結局、有権者の声は何なのか、誰も計りようがない。ゆえに議会の声が有権者の声と擬制せざるを得ない。
http://twilog.org/t_ishin/asc

これは、なかなか意味深長な発言だ。橋下は、有権者の声など誰も計りようがないとしつつ、「ゆえに議会の声が有権者の声と擬制せざるを得ない」と述べている。有権者ー議会の代表関係は「擬制」であるのである。

その上で、橋下は自身の行ってきた強引な政策運営を有権者の声に基づいたものとし、朝日新聞などの批判的論調は、有権者の声をつかみそこなっているものとしている。

朝日新聞や毎日新聞は、この点、多くの有権者の声を掴み損なうことが多い。ほかの新聞社もだけど。学力調査の市町村別結果公表、君が代起立条例、職員入れ墨調査などの公務員規律強化、教育委員会制度、それと文楽をはじめとする文化行政の在り方。枚挙にいとまがない。
結局新聞などに寄せられる自称インテリ層の意見は、国民総数からするとほんの少しの意見なのに、新聞紙面には多くを占める。いわゆるデモと似ている。新聞の自称インテリ層の意見が、国民大多数の意見だと見誤るとえらい目に遭う。もちろん、数だけが全てではないことは分かっている。
http://twilog.org/t_ishin/asc

つまり、彼が一般的に批判されている諸政策は、多くの有権者の声に基づいており、新聞などに出てくる意見は少数意見で、デモもそれと似ているというのである(なお、脱原発デモに参加している人びとは、新聞や放送局がいかにデモを報道しないかをよく知っている。)。その根拠は何か、有権者の声を擬制しているとされる「議会」に基づいているからである。

そして、橋下は、こう主張する。

しかし政治行政の本質は多数の意見で進めることだ。ポピュリズムと軽蔑されようがなんであろうが、民主制とはそういうものだ。それが嫌なら、民意を軽蔑する、賢人政治にするしかない。そんな政治はまっぴらごめんだ。賢人などいるわけがない。民主制は完ぺきではないがそれに替わる政体はない。
(中略)
有権者全体の民意を探りながら、民意の大きな方向で全体が良くなるように最善を尽くす。民意べた寄りでもない。ここが難しい。しかし目の前の大きな声新聞を占める自称インテリの声、これだけに左右されては見誤る。原発依存度を下げて行こうという国民全体の声は官邸前のデモの声を聞かなくても分かる。
http://twilog.org/t_ishin/asc

多数意見で政治を行おうとする点で、彼はポピュリズムを自認している。しかし、それは、新聞やデモではなく、「有権者」の民意などである。なぜ有権者を表に出してくるのか。それは、橋下は、自身が多くの有権者の支持を得て当選したという自負があるからである。そして、あのような強引な政策を、批判をかえりみず行う正当性もまた、この有権者の多数の支持を得ているという点に求めているといえよう。

デモについては、軽視することはさけながらも、デモの中でも意見がまとまっているわけではなく、国民の代表の声であるかどうかもわからないとして、議員が力を発揮すべきであると主張している。

デモを軽く扱えということではない。原発についての国民の声の動きとして、大変参考になる。大きな民意の動きとして大変参考になる。ただデモに参加している個々人の意見が皆まとまっているわけではない。デモの中の誰の意見を参考にするのかというのは大変難しい。だからこそ議会制民主主義がある。
国民全体の声、官邸前のデモの動きを汲みながら、政治は早急にその流れの中で最善の策を構築すべきだ。デモの代表者と協議をしてもそれが国民の代表の声かどうかはわからない。こういうときこそ議員が力を発揮すべだ。って言うのは理想かな。
http://twilog.org/t_ishin/asc

その上で、脱原発デモに対して、こう呼びかけた。

官邸前のデモの代表者が首相と会談するとのこと。デモ側は、最低限、代表者に権限を与えて、デモの代表者であることは確定すべきだ。この代表者が首相と会談した後、別の者が俺の考えは違うから首相に合わせろとなれば収拾がつかなくなる。
僕らは自分の思いを実現するために選挙を通じて多数議席を獲得してきた。想像を絶する労力が必要だ。メディアからも散々批判を受けた。朝日新聞、毎日新聞は選挙を通じての多数獲得には容易に独裁批判を展開するのに、デモで自分の考えを実現しようとすることは市民運動として拍手喝采となる。
おかしい。官邸前のデモの皆さん、皆さんの運動自体は否定しませんが、やっぱり最後は選挙で変えていくしかありません。次回の衆議員総選挙はエネルギー政策も最大の争点になるでしょう。デモのエネルギーを、選挙にぶつけて下さい。
http://twilog.org/t_ishin/asc

前段は、デモ側が首相と会う代表者に代表権委任せよという話だ。しかし、そもそも「脱原発」という主張をするために、官邸前・デモに寄り集まってきた人びとにどのように代表権委任ができるのだろうか。むしろ、弁護士出身の橋下が、「代表権委任」という概念に固執していることを意味しているのだろうと思う。

後段は、自分たちは努力してきて議会で多数を獲得してきた、デモ側も選挙で変えていくことが本道ではないかと主張しているのである。ここにおいて、橋下の論理がよくわかるといえる。彼は、選挙で勝って、公選首長や議会の多数派を獲得することにより、有権者の多数意見は判明すると考えているといえる。その意味で、マスコミもデモも、そのような有権者の多数意見とは無関係なものとして捉えているといえよう。

このように、橋下の意見は、自身もまた依拠している公選制に基づいた「議会制民主主義」の枠から一歩も離れていないことがわかる。橋下は、デモなどの直接民主主義的実践は、議会制の補完物ですらなりえないのだ。彼にとって、政治は公選された代表者たちの執り行うものであり、もし、それがいやならば、橋下自身と同様に自分たちのグループを選挙によって公選された代表者たちの中に送り込んむしかない。橋下にとっては、有権者の声とは、擬制であるとしつつも、議会の声でしかないという認識をもっている。そして、公選された代表者たちは、多数の有権者の支持を得ているのであって、それに基づかない新聞世論やデモは、「小さな声」でしかないのである。その意味で、脱原発を主張している橋下が、野田首相の政治姿勢を評価したと報道されていることが、よく理解できるといえよう。

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フランスの新聞 “Le Monde”は、2012年7月30日に、レンヌ大学教授Marc Humert(立命館大学留学中)執筆による「日本人のトランペットは原子力の要塞に打ち勝つだろうか?」という記事をネット配信した。このことは、フェイスブックを通じて、フランスに留学している友人から教えてもらった。この記事は、現在行われている官邸前抗議行動や国会大包囲などの反原発の抗議行動を論評したものだ。その冒頭の文は「福島事故以来1年半以上たった日本における民衆の結集は、一見親しげで温和にみえるが、ジェリコのトランペットの様相を帯びている」としている。(なお、翻訳には自信がないので、フランス語を解する人は、http://www.lemonde.fr/idees/article/2012/07/30/les-trompettes-japonaises-auront-elles-raison-de-la-citadelle-du-nucleaire_1739039_3232.htmlを参照してほしい)

「ジェリコのトランペット」とは何だろうか。これは、旧約聖書のヨシュア記にある、「エリコ(ジェリコのこと)の戦い」から想起されたものである。ウィキペディアに、「エリコの戦い」がこのように概括されている。

エリコの戦い

ヨシュア5:13
エリコの戦い(エリコのたたかい、英:Battle of Jericho)は、ヨシュア記6:1-27にあるイスラエルの戦闘。エリコの周囲をめぐりながら吹き鳴らされた角笛が有名である。イスラエルの指導者である預言者モーセの後継者、ヨシュアの最初の戦闘。
イスラエルの神、主は約束の地を与えるとヨシュアに告げる。 「わが僕モーセは已に死り然ば汝いま此すべての民とともに起てこのヨルダンを濟り我がイスラエルの子孫に與ふる地にゆけ」(ヨシュア1:2[1]) 「我なんぢに命ぜしにあらずや心を強くしかつ勇め汝の凡て往く處にて汝の神 主偕に在せば懼るる勿れ戰慄なかれ」(ヨシュア1:9[1])
ヨシュアは斥候を遣わし、ラハブという遊女の家に潜伏する。イスラエルの勝利を見て取った売春婦ラハブは、「父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者」(ヨシュア2:12-13[2])と自分のいのちの助命を懇願し、認められる。斥候はヨシュアに報告した。「誠に主この國をことごとく我らの手に付したまへりこの國の民は皆我らの前に消うせんと」(ヨシュア2:24[1])。
エリコに近づいたヨシュアの前に、抜き身の剣を持った主の軍の将が現れ、告げた。[2]「主の軍旅の將ヨシユアに言けるは 汝の履を足より脱され汝が立をる處は聖きなりと ヨシユア然なしぬ」(ヨシュア5:13-15[1])
城塞都市エリコは城門を閉ざした。主なる神に命じられた通り、イスラエルの民は契約の箱を担ぎ、7人の祭司が、7つの角笛をもって、主の箱の前を行き、6日間町の周囲を一回まわり、7日目だけは7回まわった。
民がときの声をあげ、角笛を吹き鳴らすと、城壁が崩れ落ちたので、イスラエルは主の命令に従ってエリコを聖絶した。ラハブとその家族、親戚のいのちは助けられた。(ヨシュア6:20-25[2])
ヨシュアは呪いを宣言する。「ヨシユアその時人衆に誓ひて命じ言けるは凡そ起てこのヱリコの邑を建る者は主の前に詛はるべし 其石礎をすゑなば長子を失ひその門を建なば季子を失はんと」(ヨシュア6:26[1])。これは周囲に知れ渡った。「主、ヨシユアとともに在してヨシユアの名あまねく此地に聞ゆ」(ヨシュア6:27[1])。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

概括すると、モーゼの後継者であるイスラエル人の指導者ヨシュアが城塞都市ジェリコを攻撃したが、その際、イスラエルの民のときの声と祭司たちの吹き鳴らす角笛(トランペットを含む金管楽器の源流)によって城壁が崩れ落ちたというのである。それを念頭に「日本人のトランペットは原子力の要塞に打ち勝つだろうか?」としているのである。ユダヤ・キリスト教の素養が一般的ではない日本においては思いつかない比喩である。

しかし、この比喩は的をついていると思う。脱原発デモや官邸前の抗議行動においては、ドラムや吹奏楽器などがリズムを刻みながら、人びとは「再稼働反対」「原発いらない」などとリズミカルにコールしている。このような、サウンドとコールの一体化は、20世紀の日本のデモにはみられなかったものだ。そして、そこに人びとは集まり、踊りながら、より大きな声で発していくのである。もう一度、旧約聖書をみておこう。

角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から突入し、この町を占領した。

実際、6月29日も7月29日も、人びとがたくさん寄り集まったというだけで、車道にいれまいとした警察の規制線は崩壊したのである。そして、解放された車道でも、人びとはトランペットを吹き鳴らし、ドラムをたたき、踊りながら、「再稼働反対」などとコールした。次の動画において、人びとがこの出来事にいかに熱狂したかということを見て取ることができる。

多くの人びとの声とトランペットの音は、少しづつであるが、官邸や国会などという「原子力の要塞」を壊しつつあるとも思えるのだ。

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2012年3月11日の夕べ、脱原発を訴えるために「人間の鎖」で国会を包囲するという企てに私は参加していた。その前に日比谷公園を起点にして行われたデモが1万数千人であり、他のデモの参加者も終了後参加したようだから、それよりも多かったのではなかろうか。いずれにせよ、1万人以上の人がそこにはいた。

相も変わらず、警察は、「人間の鎖」を「規制」という名の妨害をかけていた。まず、国会に直接面する側の歩道を封鎖した。反対側の歩道には、周囲の車道が交差しており、さすがに横断歩道では「人間の鎖」はできない。さらに、歩道も二分し、「鎖」の側と通行路を分断していた。私は、大体国会図書館側にいたのであるが、別の側では、警察が「人間の鎖」ができないように妨害したところもあるようだ。

警察は、「音」も規制した。国会周辺では、「旗」などはもってはいけないという規制があることを事前に主催者から告知されていた。しかし、「音」を規制するとは聞いていなかった。ところが、私と同行している友人の一人が持参したタンバリンを叩いていたら、警官が音を鳴らせないことになっていますと、ていねいな口調ではあるが、規制した。

別の友人は、「こんなことで逮捕されてもしかたがない」といって、タンバリンを叩くことを自重するように主張した。私自身もそんな気持ちをもった。しかし、タンバリンを叩いていた友人は、何の根拠もないといって、警官から遠ざかりつつ、叩き続けた。周囲の人びともにっこり笑い合って、タンバリンを叩き続けることを応援した。あまりにも数が多く、それ以上警官も規制することはなかった。

そのうち、反対側から、右翼(在日特権を許さない市民の会であろうか)とおぼしき数名の人たちが、数多い警官に護衛されて歩いてきた。彼らは、口々に「人間の鎖」に参加している人びとを罵っていた。

先ほどの友人は、ここでもタンバリンを鳴らした。そうすると、彼らは「うるせえんだよ」と血相をかえて怒ってきた。右翼も「音」は嫌いのようである。

やや、時間が経って、ドラムを中心とした「楽隊」が、私たちのいたところを通過した。彼らの多くは、喪服をイメージしたものと思われる黒服に身を包んでいた。白い花を付けていた人たちもいた。そして「3.11 追悼と怒り」という旗がついていた。イルコモンズの人びとであった。

イルコモンズのサイト「イルコモンズのふた」では、人間の鎖への参加が呼びかけられていた。

3.11国会議事堂の前に一輪の白い花を」
 「3月11日、東京では東日本大震災の追悼と脱原発の思いを込めたデモ行進と”人間の鎖”による国会議事堂の包囲が行われます。震災で犠牲になった方々への追悼と、福島原発事故および原子力発電に対する国の対応への抗議の気持ちを込めて、国会議事堂の前に白い花を一輪、捧げませんか。」http://illcomm.exblog.jp/

サイトによると、演奏されていた曲もこのような意味を有していたようである。

 

演奏「追悼と怒りのテーマ(仮)」

 「(前略)今回の「3.11追悼と怒り」のデモのために、世界各地のいろんな追悼曲や葬送曲を研究しました。いろいろきいてみた結果、「葬送行進曲」などがそうであるように、たいていの曲は「葬儀」や「葬列」そのものを連想させるもので、そこでは「怒り」がぬけてしまうので、既成の曲は避けようと思いました。そこで発想を変えて、こしらえたのが「追悼と怒りのテーマ(仮)」です。このテーマには手本があります。以前在籍していた国立の楽団「ウラン・ア・ゲル」の「橋の下」という曲のリフです。現在、ウラン・ア・ゲルは、中心メンバーのひとりが家庭の事情で音楽活動を停止し、さらにもうひとりのメンバーが、3.11の原発事故のために、東京から地方に移住したので、活動停止状態です。自分が3.11の原発事故で失くした大事なもののうちのひとつが、ウラン・ア・ゲルだったので、その想いもあって、「橋の下」をもとに「追悼と怒りのテーマ(仮)」のリフをつくりました。(中略) 「橋の下」は、かつて多摩川の橋のたもとで暮していた男性を悼むものとしてつくった曲です。「追悼と怒りのテーマ(仮)」では、「橋の下」で延々と繰り返されるリフからふたつの音をもらいました。B♭とFのくりかえしがそうです。そのリフに、最近、デモでやっているリフの、B♭とDのふたつの音を加えて、デモ用にアレンジしました。なので、基本の音は3つだけです。これなら初心者でも一週間くらい練習すればおぼえられるし、多少楽器ができる人なら、その場ですぐに吹けると思います。(後略)」(T.D.C.メーリングリストより抜粋)http://illcomm.exblog.jp/

なお、日比谷公園のデモを写した下記動画の中で、彼らとおぼしき人びとがみられる。

http://www.woopie.jp/video/watch/bdc4fe7882cfcc90

人間の鎖にも下記動画にもイルコモンズの人びととおぼしき人たちが撮影されている。

イルコモンズの人びとは、私たちからやや離れたところで、演奏を続けた。近くまで見に行った。かなりの迫力で、周囲に人びとが集まってきた。彼らのいたところは、国会図書館前で、国会議事堂正門とは反対側にある。たぶんに、人びとを誘導する意味もあったのであろう。

警官もいた。メガフォンをもって何か話していた。たぶん、規制しようとしていたのであろう。しかし、演奏の音で、警官の規制などは、全く聞こえないのである。

そのうち、イルコモンズの人びとは、演奏しながら、人間の鎖の前を行進しはじめた。私たちの前を通過していった。

その後、不思議な出来事が起こった。「人間の鎖」に参加していた人びとが、口々に「原発いらない」などと叫びはじめたのだ。先ほど、警官に規制されて、タンバリンをならすことを自重させようとした人までが。

その後、国会前を警備する警官隊に突っ込んだらどうなるのかという会話になった。もちろん、冗談まじりではあるが。私たちは、やはり日常では、権力の行使に従順だ。国会前で音を出すなという根拠もあまりないとおもわれる警官の規制に従おうとするくらい。しかし、この音をめぐる闘争は、1万人を超える人びとが口々に主張したら、さすがに警察も取り締まりすることはできないということを気づかせてくれた。1万人を超える人びとを逮捕するのはかなり難しい。そして、何の法律が根拠になるだろうか。音を出すということが逮捕に値することなのか。そして、例えば、口々に叫ぶ人びとの前で、イルコモンズの人びとのみを逮捕したら、どうなるのだろうか。

この「音」をめぐる闘争には、はかとない反乱の予感があったように思われるのである。

「イルコモンズのふた」(2011年4月22日)では、オペラ・トゥランドットのアリア「誰も寝てはならぬ」が紹介されている。この歌は、日比谷公園のデモのオープニングでも歌われていた。「そして、私の口づけが、沈黙の終わりとなり、私はあなたを手にいれる。夜よ、去れ。星よ、沈め。星よ、沈め。夜明けとともに、わたしは勝つ」

「沈黙の終わり」こそが、必要なことなのである。

誰も寝てはならぬ」
 作曲:ジャコモ・プッチーニ
 うた:ルチアーノ・パバロッティ

 誰も寝てはならぬ
 誰も寝てはならぬ

 冷たい寝室で
 愛と希望に打ちふるえる
 星たち見るのだ

 私の秘密は
 この胸のうちにあり、
 誰も私の名を知らない

 いや、そんなことにはならない
 夜明けとともに私は
 あなたの唇に告げよう
 そして、私の口づけが
 沈黙の終わりとなり
 私はあなたを手にいれる

 夜よ、去れ
 星よ、沈め
 星よ、沈め
 夜明けとともに
 わたしは勝つ
 わたしは勝つ
 わたしは勝つ
http://illcomm.exblog.jp

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