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Posts Tagged ‘タハリール広場’

国際経済学、開発政治学を専攻する原民樹さんが「反原発運動のエートスーエジプト革命から受け継いだもの」という論文を『日本の科学者』2012年9月号(日本科学者会議発行)で発表している。非常に面白く読んだ。

原さんが、彼自身も参加した反原発運動を対象とした「反原発運動のエートス」においてキーワードとしていることは、「予示的政治」である。原さんは、このように説明している。

 

革命後の世界を先取りする。近年のアナーキズム思想の文脈では、これを「予示的政治( pre-figurative politics)」と呼ぶ。いつやってくるのかわからない理想社会を待つことを拒否し、いつかすべてが一挙に変革されるという物語を放棄し、小さく不完全でも今ここで解放された社会を立ちあげること、それによって現体制を相対化し、支配の正当性に対して不断に亀裂を走らせること、そうして、漸進的に社会の色を塗り替えていくこと。タハリール広場が世界に示したのは、こうした「予示的政治」の魅力と有効性だったのである(原前掲論文)

つまり、運動の中で、革命後の世界を「予め」「示す」ことーこれを「予示的政治」と原さんは定義しているのである。そして、この「予示的政治」を具体的に示したのは、2011年のエジプト革命において誕生した象徴的空間としてのタハリール広場だと原さんはいう。タハリール広場について、このように述べている。

タハリール広場の運動は、ムバーラク政権を打倒するための単なる「手段」ではなかった。それは同時に、彼/彼女らの自律的な生のあり方を具現した「目的」でもあった。
 換言すれば、タハリール広場という空間にみなぎっていたのは、「解放のためのたたかいは、必ずそれ自体として解放でなければならない」(原文は真木悠介『気流の鳴る音ー交響するコミューン』)という精神なのである。

原さんは、このタハリール広場の経験は、2011年の日本の反原発デモやアメリカの「オキュパイ・ウォールストリート」運動などにも継承されていったと論じている。特に、日本の反原発運動については、2011年4月10日、1万5千人も参加し、大規模な反原発デモの初めとなった、「高円寺・原発やめろデモ!!」を呼びかけた「素人の乱」のメンバーの一人である松本哉の回想を特に引用してこのことを示している。

(松本)「(アラブ革命について)結局、誰が中心かよくわからないという感じになっているんですね。…それが成功したというのに、ぼくらは衝撃を受けていました。『素人の乱』は、実は世の中を率先して変えてやろうとは全然変えていない。そんな面倒くさい権力者の連中のことは放っておいて、勝手に謎の人が集まっている空間を作っていって、既成事実として革命後の世界を作ってしまったほうが手っ取り早い。…エジプトのタハリール広場がそれの完成形みたいに見えたんですよ」(原前掲論文。原文は松本哉、樋口拓朗。木下ちがや、池上善彦「高円寺『素人の乱』とウォール街を結ぶ討論」、『Quadrante』14(3)、2012年)

具体的にどのような状態が現出されたのか。原さんは2011年6月11日、「素人の乱」のよびかけで新宿アルタ前にあつまった2万人の人びとについて、このように記述している。

…新宿アルタ前広場はタハリール広場の再現となった。左派政党の街宣車の上では、学者から一般市民までが自由に自分の意見を述べ、それを真面目に聞いている人もいれば、DJの流す音楽に踊り狂う人たちもいる。その隣では、ドラム隊が心地よいリズムを刻み、またある人たちは、ビールを飲みながらデモで知り合った友人たちと談笑している。老人、若者、子ども、ビジネスマン、主婦、ニート、外国人、障碍者など、多様な人びとが多様な振る舞いをしながらも、不思議な一体感が醸成されていた。
 普段でさえ人通りの多い新宿駅前の多い新宿駅前に2万人が集まっていても、参加者の自律的な配慮によって広場は整然としていた。指導者はいなかった。解放された人間性による連帯だけで十分だった。(原前掲論文)

つまりは、「予示的政治」とは、運動の中で、人間性を「解放」していくことといえよう。それを、原さんは、2011年6月11日の新宿アルタ前の空間にみたのであった。

そして、ある意味では目的と手段が合致する「予示的政治」こそが新自由主義と最も根源的に批判するものであると原さんは論じている。

 

「予示的政治」の内的論理としての手段と目的の合致という発想が近年の社会運動のなかで顕在化してきたことは、当然ながら時代状況と無縁ではない。現代において、もっとも先鋭的に手段と目的を切り離そうとしてきたのは、新自由主義という実践に他ならない。
 新自由主義的社会では、無限の資本蓄積という唯一の明瞭な目的に沿って合理性と効率性が徹底的に追及され、計測可能な価値に従属するかたちで、人間も街も自然も、ありとあらゆるものが手段とされてしまう。人びとは高い流動性と順応性をひたすら求められ、そこで意味や充実感を享受することはきわめて困難である。単なる手段に貶められた人間の苦悩や悲鳴を、私たちはすでに嫌というほど聞いてきた。
 この文脈からすれば、「予示的政治」は、新自由主義に対する根源的な批判であると言える。労働であれ娯楽であれ、人びとは目的から疎外される苦しみを知りすぎてしまっている。手段と目的を合致させる運動は、新自由主義の矛盾に直面した民衆から生み出された対抗的実践なのである。(原前掲論文)

私自身が、本ブログでときおりデモや官邸前抗議行動を拙いながらも取り上げてきたのは、まさに、原さんのいう「予示的政治」といえるものが、そこに現れていると感じたからである。ただ、「予示的政治」という概念を、原さんのように、タハリール広場の実践や近年のアナーキズム思想を検討する中で明示するということはできなかった。反原発運動の実践の中で生まれてきたエートスをこのような形で表現することは、この論文の大きな功績だと思う。

他方、この論文の執筆時期は、2012年6月上旬である。この時期は、いまだ、6月29日の官邸前車道解放や、7月29日の国会前車道解放が行われていないー予見すらされていないのであった。それこそ、これらの出来事を「予示」していたとすらいえるのである。

そして、ここで、強調しておかねばならないだろう。反原発を求める運動は、それ自体が人びとを解放し、新たな世界を創出していく試みといえるのである。

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