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Posts Tagged ‘お会式’

この映像は、1957年1月23日にアメリカABCテレビで放映された、ウオルト・ディズニー制作の「わが友原子力」(原題は、Our Friend the Atom)という原子力推進プロパガンダ番組である。友人の紹介で、You Tubeに投稿されていることを知った。日本語字幕付きのものも投稿されていたようだが、著作権の関係で差し止められたらしい。英語があまりできない私としては残念である。

この番組については、有馬哲夫『原発・正力・CIAー機密文書で読む昭和裏面史』(新潮選書、2008年)において取り上げられている。この有馬の記述に従って書かれたブログもいくつか散見できる。新知識というわけではないのだが、私も有馬の記述に従って、本ブログで内容を紹介しておきたい。

1953年のアメリカ大統領アイゼンハワーによる国連での演説「アトムズ・フォー・ピース」以降、アメリカは全世界的に「原子力の平和利用」つまりは原子力発電所建設を推進した。その一つが、1954年から開始された日本の原子力開発であった。

もちろん、アメリカ政府は、アメリカ国内でも「原子力平和利用」を推進した。そして、アメリカの国内世論向けのPR活動も必要としていた。そのために起用されたのがウオルト・ディズニーであった。アメリカ政府の情報局次長であったウオッシュバーンは、アイゼンハワー大統領に1955年12月20日に宛てた書簡の中で、「アトムズ・フォー・ピース」のアニメーション制作について、海外でもっとも動員数をほこるディズニーと交渉を始めたことを報告している。そして、「わが友原子力」が制作された。ただし、上記の映像をみればわかるように、全部がアニメーションではなく、実写とアニメーションを交えたものであった。スポンサーはアメリカ海軍と世界最初の原子力潜水艦ノーチラス号(1954年進水)を建設したジェネラル・ダイナミックス社であった。なお、有馬は「映画」といっているが、この映像は、冒頭で述べたようにABCテレビの番組であった。ABCでは、1954年からディズニー制作の「ディズニーランド」という番組を放映していた。「わが友原子力」はそのコンテンツの一つである。

テレビ番組「ディズニーランド」について、ウィキペディアにより概略を説明しておこう。

世界初のディズニーパークであるディズニーランドの事業資金を確保し、またウォルト・ディズニー自身が構想する魔法の王国を広く知らせる目的で企画された紀行番組であった。初期はウォルト自らが出演し、「未来の国」「おとぎの国」「冒険の国」「開拓の国」の4つの国のうちから、ティンカー・ベルが妖精の粉を振りかけた一つの国をとりあげ、それに関連した内容を紹介するものであった。

実際、冒頭の部分はそうである。「星に願い」が流れる中、ティンカー・ベルが登場し、4つの国を紹介し、その後で「わが友原子力」のタイトルが流されている。

ここからは、有馬の記述から「わが友原子力」の内容を紹介しておこう。有馬は、冒頭について、このように述べている。

 

 

映画では、冒頭の場面のあとにディズニーの大ヒット映画『海底二万哩』からとった映像が続いていく。この映画に登場する潜水艦もノーチラス号というが、これは偶然ではなく、ジェネラル・ダイナミックス社がこの映画の原作になったジュール・ベルヌの同名の小説にでてくる無敵の潜水艦にちなんで名づけたのだ。(有馬前掲書p145)

続いて、ディズニー自身が登場し、映画『海底二万哩』の潜水艦ノーチラス号の模型と、原子力潜水艦ノーチラス号の模型を比較してみせる。あまり私は英語をききとれないのであるが、ディズニーは、ディズニーランド(遊園地)の「未来の国」のプログラムとして潜水艦を取り上げることを予定していたようで、デザイナーにアトラクションのデザインを何枚か提示させている。

そして、次に、原子力を専攻している科学者ハインツ・ハーバー博士が登場し、以後、原子力について解説していく。有馬はその内容を次のようにまとめている。

このなかでホストを務めるウオルトは(なお、実際に解説しているのはハーバー博士であるー引用者注)、原子力をアラジンの魔法のランプの精になぞらえ(なお、この精は千一夜物語に出てくるものであるが、アラジンの魔法のランプの精ではないー引用者注)、その力を発見した古代ギリシア人、キュリー夫人、アインシュタインなどを紹介しながら、それがどんな力を秘めているかをわかりやすく解説していく。そして、核兵器のほかに、潜水艦、飛行機、発電所の動力、また放射線治療や農作物の成長促進などにも使われている例をあげていく。最後に、この力は賢明に用いれば人類に幸福をもたらすが、使い方を誤れば破滅をもたらすと結んでいる。(有馬前掲書p144)

有馬は、別の箇所で、「わが友原子力」の結びの言葉をより正確に紹介している。

使用目的によっては、原爆ー死の灰という恐るべき原子力も、平和利用の開発により原子力の三つの願いである力と有益な放射能と生産力を人類にもたらす我々のすばらしき友人である。(有馬前掲書p207)

全体的には、この結びの言葉を、千一夜物語の一つのエピソードから説明している。この物語のなかには、漁師が海中から封印された壷を引き上げ、蓋をあけたところ、なかに封じられた巨大な霊が出現し、漁師を殺すと宣言したが、漁師が機転をきかして、霊が小さい壷に入るところをみたいといって、霊がそれに応じ、漁師が蓋を閉めてしまうことで、霊を従わせるというエピソードがある。ディズニーは、このエピソードをアニメーションにして、「小さい壷」=物質、「巨大な霊」=解放されたエネルギーという隠喩で、原子力のエネルギーを説明していく。ディズニーは、「巨大な霊」を、原爆のキノコ雲に重ね合わせて映像化している。原子力の脅威的な側面は人を殺すそうとしている霊として表現し、有益な側面は人に従順になった霊として表現している。

プロパガンダには違いないのであるが、非常によくできているといえる。

そして、このプロパガンダは、アナハイムのディズニーランド遊園地自体にも影響を及ぼした。有馬によると、1959年にディズニーランドの「未来の国」に登場したアトラクション「潜水艦の旅」は、ディズニー自身が「原子力潜水艦隊」と表現するようなものであった。このスポンサーもアメリカ海軍とジェネラル・ダイナミックス社である。そして、潜水艦も原潜ノーチラス号と同じく船体は灰色と赤で塗られていたのである。特に、潜水艦の名前が傑作で「ノーチラス、トライトン、シーウルフ、スケート、スキップジャック、ジョージ・ワシントン、パトリック・ヘンリー、イーサン・アレンと実際の原潜と同じものになっていた。」(有馬前掲書p234)だったのである。

そして、有馬は、このように述べている。

 

このアトラクションは来園者が知らず知らずのうちにジェネラル・ダイナミックス社と海軍に対して良好なイメージを抱くように意図して作られていたといたとも言えるだろう。「潜水艦の旅」は『わが友原子力』など科学映画の一部や『ディズニーランド』などのテレビ番組の一部と同じく冷戦プロパガンダのメディアでもあったのだ。(有馬前掲書p234)

これについては有馬のいう通りであろう。ディズニーランドの潜水艦が非軍事用(深海調査船用)の黄色い塗装に塗り替えられたのは、冷戦最末期の1987年である。そして、1998年に「潜水艦の旅」は廃止された。そして、2007年には、映画「ファインディング・ニモ」にちなんだ形でリニューアルオープンした。

そして、この「わが友原子力」は、1958年に日本テレビから放映され、日本でもプロパガンダの役割をはたしたのである。そのことについては、別に論じてみたい。

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2011年10月16~18日、東京都豊島区雑司ヶ谷(池袋の南側にあたる)において、今年もお会式の万灯行列が行われた。このお会式について、本ブログでは、このように説明している。

単純化すると、地域(豊島区南部)と宗教(日蓮宗)がコラボーレションしたような現代的都市祭典である。鬼子母神は、日蓮宗の法明寺に属している。日蓮宗では10月13日の日蓮の命日を追悼するためにその前後に「お会式」(おえしき)が行われる。最も有名なのは、日蓮がなくなった池上本門寺で行われている。雑司ヶ谷鬼子母神では、10月16-18日の三日間に行われている。基本的には、それぞれの講社が、うちわ太鼓や太鼓などを集団でたたきながら、まといなどをもって踊り、日蓮の事績や題目などが描かれた万燈を持参して、池袋駅東口(西武池袋)からパレードし、雑司ヶ谷鬼子母神・法明寺に参詣するというものである。

雑司ヶ谷鬼子母神お会式の万灯(2011年10月17日撮影)

雑司ヶ谷鬼子母神お会式の万灯(2011年10月17日撮影)

お会式について、よりご興味があれば、このブログで詳述しているので参照されたい。

今年のお会式においては、福島県を支援する試みがみられた。

その一つが、NPO法人「元気になろう福島」による「うつくしま子ども未来塾」基金への協力依頼をよびかけるブースの設置である。募金を集めるとともに、会津の牛のアイテムの販売を行っていた。場所は、鬼子母神堂のすぐ前で、屋台などが多く出されている鬼子母神境内の中では、かなり優遇されているといえる。

NPO法人「元気になろう福島」のブース(2011年10月18日撮影)

NPO法人「元気になろう福島」のブース(2011年10月18日撮影)

もう一つが、JA福島による「特産品販売」のブースである。野菜、漬物などが販売されていた。これも、鬼子母神堂のすぐそばにあり、かなり優遇されているといえる。

福島県JA復興特産品販売のブース(2011年10月18日撮影)

福島県JA復興特産品販売のブース(2011年10月18日撮影)

福島県産物の忌避は各地で起きている。例えば、9月には、福岡市で「ふくしま応援ショップ」を開催する予定が、抗議のメールや電話が殺到しているということでとりやめになったことが報じられた。

東京電力福島第1原発事故後の風評被害に苦しむ福島県の農家を支援しようと、福岡市内で17日に予定されていた「ふくしま応援ショップ」の開店が7日、取りやめになった。企画者側によると、計画発表後に「福島のトラックが来るだけで放射能を運んでくるだろう」といったメールや電話が相次いだことが原因という。新たな出店先を探すが、被災地を応援しようという試みに水を差された。

 「応援ショップ」は福岡市西区の商業施設「マリノアシティ福岡」内の農産物直売所「九州のムラ市場」の一角約20平方メートルに開設する計画だった。ムラ市場関係者によると、メールや電話は約20件で「出店をやめないなら不買運動を起こす」や「危ないものを売るとはどういう了見だ」などの内容も含まれる。ショップの運営主体で生鮮品宅配などを行っている「九州産直クラブ」(福岡市)にも同様のメールが約10件送られているという。

 ムラ市場によると、産直クラブは国の暫定規制値の10分の1まで放射性物質量の基準を厳格化し検査結果は店頭で開示。生鮮品の取り扱いはやめ、震災前の原材料を使った加工品だけを販売する方針だったが、7日に関係者で協議し異論も出たため見送りを決めた。

 産直クラブは「こんな事態になるとは予想していなかった。安全性は検査した上で消費者に判断してもらいたかったが、非常に残念」。ムラ市場側は「メールの内容はいわれのない話で、とんでもないことだが、他のテナントに迷惑を掛けるリスクがあった。違う形で支援したい」と説明した。

 ムラ市場と産直クラブは正式な店舗使用契約は結んでおらず、ムラ市場に出資しているマリノアシティ運営会社の福岡地所は「出店の合意形成ができていたとはとらえておらず、メールなどの苦情は判断材料ではない。被災地支援は企業としてこれまでも行ってきた。収益性の観点からもムラ市場は九州の生産者支援に力を注ぐべきだ」としている。

=2011/09/08付 西日本新聞朝刊=
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/262245

このような「忌避」は、かなり極端な事例として報じられる場合、福島第一原発事故の影響が少ないとみられる西日本のほうが多いように見受けられる。東京の鬼子母神境内では、普通に販売ブースが設置された(ただ、鬼子母神内部で議論があったかもしれない)。そこそこ購入者もいた。全体として、存在自体を忌避しているようには見られなかった。

ただ、価格であるが…写真に写っている小松菜は100円、ブロッコリーは100円、トマトは250円である。今の市価はよくわからないが、最近野菜の値段が上がっているようで、この間購入したブロッコリーが200円を超えていたことは記憶している。トマトは比較的高価な野菜で、一般的に300円は超えているのではないかと思う。

ここでは、ピーマンも販売されていた。写真ではラベルがみえないが…1袋50円である。このピーマンを購入してみた。

鬼子母神境内で売られていた福島県産ピーマン(2011年10月19日撮影)

鬼子母神境内で売られていた福島県産ピーマン(2011年10月19日撮影)

少々小ぶりではあるが、6個入りであった。翌日、前に買い置きしたピーマン(茨城県産である)とあわせてチンジャオロースにしてみたが、もちろん、何も変わらず、普段よりも甘く感じた。

販売担当者が別の客に説明しているのを聞いたのだが…普段だったら、とてもこんな値段では販売しないそうだ。前回紹介した、カタログハウス東京店では、ピーマンは210円で販売されている。カタログハウスで売られている野菜全体が比較的高く、大体200円はこえていたことと著しい対照をなす。

福島県では、放射性セシウムの検査を他県よりきめ細かく行っているが、最近の結果であると、一年草の野菜については、不検出かもしくはごく微量しか検出されていないのである。鬼子母神境内で販売されていた野菜も、基本的には健康に支障がないと考えられる。何も、小出裕章氏のように、悲壮な決意をもつこともなく、福島県産の野菜は食べられるのである。

ある意味では、すごく不条理である。カタログハウスで販売されている野菜は、市価よりもむしろ高めに販売されているのに、鬼子母神境内でJA福島が販売されている野菜は市価を大きく割り込んだ値段で販売されているということになるのである。そして、福島県産であっても市価を大きく割り込んだ価格の野菜をあまり気にせず買うのは、少しでも安い価格の商品を買わなくてはならない低所得者ということになろう。割り切れないが……。

根本的には、消費者が納得できる基準で、より厳格に検査すること。そのことによって、カタログハウスがそうしているように、「ブランド」化すること。福島県産の野菜を売るということについては、それがベターかもしれない。

しかし、それでも、釈然としない思いは残る。結局、生産者の目線ではなく、消費者の視線を考慮した流通側のセンスがそこでは優先されているともいえるのである。宮城県の水産特区でも同じ問題があろう。結局、ある意味では消費者のセンスを熟知した流通側の思惑で、生産者が組織されなくてはならないのであろうか。

20日、たまたま通りかかった、東京都北区滝野川のスーパーの店頭で、ピーマンが売られていた。1袋(たぶん5個入り)で60円。いやに安いと思ってみたら、袋には「JAたむら」と表示されていた。つまり「福島県産」なのである。どうも、福島県産の野菜は、一般的にはこのような価格で売られているようである。

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さて、前回紹介した資料は、雑司が谷地域でお会式を支えた講社の実態を伝えている。まず、戸張(政)によると、御嶽中島講は40軒程度の家で組織され、その代表の12-13人で、造花づくりなどの準備を清立院で行ったと述べている。
一方、戸張(政)より約15歳年長の吉田は、講中の各家では年番をつとめることになっており、準備はその家でも行ったといっている。さらに、吉田は、雑司が谷では、御嶽中島・南古木田・清土・六家町・上り屋敷・原・水久保という講社があり、それら(吉田は六つとしているが、あげられた講社は七つ)がまとまって妙法結社を組織していたとしている。そして、妙法結社内の各講社にも年番があり、それにあたると、下総中山の鬼子母神(法華経寺)、安房の誕生寺、鎌倉の竜口寺、身延山などに参詣に行ったと述べ、中山では、酒食の接待を受けたことを回想している。
一方、妙法結社では、お会式の際、法明寺門前にのぼりをあげるとしている。妙法結社全体の世話人は、後藤権二郎と安井銀太郎がしていたとしている。そして、妙法結社では、堀之内妙法寺と池上本門寺に万燈を奉納しに参詣したと吉田はのべている。いわば、大山講や伊勢講などと同様な代参講の形式をとっているといえるが、戸張(政)は知らないとしている。これは、雑司が谷の例であるが、この当時、地域外からくる講社も同様の形態ではないかと思われる。つまりは、参詣を中心とした講が、お会式を担ったと考えられるのである。
この講社名であるが、「新編武蔵国風土記稿」にある、雑司ヶ谷村の「小名」には、「古木多」「原」「水久保」「中島」「清土」とあり、五つが近世の小字名に由来することがわかる。なお、上り屋敷は、1916年の一万分の一地形図に山手線西方の地名としてでているので、これも小字名である。六家町は、たぶん四家町の誤記であろう。そうなると、目白通り沿いの高田四家町が該当することになる。つまり、この講社名は、雑司が谷地域の地名に由来しているのである。
さて、この講社名を前述の地図でみてみると、中島御嶽は雑司が谷霊園の南側の現雑司が谷1丁目を中心とした地域である。古木田は、その南側の現雑司が谷二丁目となる。清土は、地形図には出ていないが、この地名は鬼子母神出現の地であるから、現雑司が谷一丁目に隣接する文京区目白台2丁目で不忍通り沿いとなる。六家町が四家町ならば、目白通り沿いの雑司が谷2丁目・高田2丁目ということになる。上り屋敷は、山手線の西側の現西池袋2丁目で、上り屋敷公園が所在している。水久保は、雑司が谷霊園の北側で、現在では南池袋4丁目・東池袋4・5丁目あたりである。原については、よくわからないが、法明寺の北側に「中原」「東原」という地名があるので、その周辺ではないかとおもわれる。そうなると、南池袋2・3丁目ということになる。大体、雑司が谷鬼子母神・法明寺を囲んだ形で雑司が谷の講社は所在していたといえる。
吉田は、雑司が谷では10月1日に寄合があり、その時は、鬼子母神境内の茶屋から接待があったことを回想している。雑司が谷境内は、いわば接待側であったのである。講社名で、鬼子母神や法明寺の地元はみられないことと照応しているといえる。今日では、そのものずばりの地元の「大門宮元講」があるが、この時期は、参詣する各地域の講社をもっぱら接待していたといえるのである。
内田の回想によると、奉公人でもお会式の準備過程から参加できたようである。そのことも、この座談会では確認できる。
こうしてみてみると、戦前期のお会式を担った講社の実態がここにでていると思われる。雑司が谷では、各講社は地縁的な団体で、奉公人も参加できたが、本来の形は代参講の形態をとっていたと思われる。各講に年番がいた。そして、これら講社を統括する存在として妙法結社が存在し、雑司が谷お会式だけなく、池上本門寺や堀之内妙法寺のお会式にも万灯奉納を行っていたのである。一方、鬼子母神境内を中心とした地域は、お会式の接待側にまわっていたのである。

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ここから、何回かにわけて、「御会式新聞」第17号(1987年10月15日)に掲載された座談会「三嶽中島講 古老に聞く」を紹介しておきたい。戦前のお会式に参加した講社の実態が、この座談会によくあらわれている。まず、冒頭から、原文通りにみていくことにしたい。ここでは、お会式の準備から話が始まり、奉公人のお会式参加や、地域の講社組織のあり方まで及んでいる。この件についての分析は、次回行うこととする。

三島中島講 古老に聞く

吉田磯次郎さん(八八)
内田松五郎さん(七八)
戸張政次郎さん(七三)
戸張三郎さん (六九)
 司会  伊藤博
 まとめ 須藤昭雄

お会式が始まるぞ!
司会 今日は、古くから、お会式を愛しつづけてきた方々から、私たちの知らない昔話を伺いたいと存じます。まず、準備のあたり、内田さんにお願いいたします。
内田 そうですね、私は大正十二年四月、震災の年に十四歳で小僧にきました。昼間は小僧ですから仕事は休めませんでしたが、お会式が近づくと、夜は親方が「万灯の花を作る手伝いに行け」と指示してくれました。これが嬉しくてね。当時は一日と十五日の休みはあったものの、あまり外へは出られなかったのに、お会式の時だけは公然と出ていけましたから。
戸張(政) 清立院の屋敷や本堂を借りてやった覚えがありますよ。人数は、三嶽中島講の家が、このへんには四〇軒くらいあったから、その代表が出て、十二~三人くらいかな。
吉田 そうだな、それだけいれば、作ってしまう。講の年番に当たると、その家でもやる。吉野さんとか私の家でもやったよ。昔、雑司が谷には、今はない講もあるが、三嶽、南古木田、清土、六家町、上り屋敷、原(ここが一番いい万灯を出したね)、水久保とあり、これが番をぐるぐる回ってる。年番に当たると、わが家じゃ中山の鬼子母神へ奉納に行くんです。戦争のちょいと前までだったかな。奉納に行くと、二の膳付き、おかん徳利が二本ついて、しかも女の人がおしゃくしてくれる。そういうふうに、ご馳走になって帰ってくる。雑司が谷の鬼子母神は、十月一日に寄合いがあるんだ。鬼子母神の境内には、お団子屋さん、雀焼きの店が十一軒ばかりあった。上総屋、武蔵屋とかいったな。そのお茶屋の娘さんや奥さんが手伝いに来ておしゃくしてくれるんだ。たいへんなご馳走だったよ。
さっき話した六つの講がまとまって、妙法結社というのができていた。結社では、法明寺の仁王門の前にお会式のときには大きなのぼり、一〇間からあるやつを立てた。今は石が残っているだけだけれどね。
戸張(政) その中山の話は全然知らないね。
吉田 結社の講中では、番が回ってくると、中山の鬼子母神と房州の誕生寺、鎌倉の竜口寺、身延山などへお参りに行く。震災から戦争までぐらいやったね。
そして結社では池上、堀之内への万灯を奉納に行くんだ。つまりお参りさ。その時分は後藤権二郎さんと安井銀太郎さんが妙法結社の世話人だった。(後に続く)

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近代都市において、「講社」とはどのように存在していたのか。単に、雑司ヶ谷鬼子母神お会式のことだけでなく、日本の近代都市における民衆の結合形態全体を検討するためにも分析されなくてはならない課題である。
一般的に「講」とは、庚申講・大山講・伊勢講・念仏講・題目講・頼母子講など、農村部の民衆結合を中心に検討されてきた。そして、都市化につれて消滅していく民俗事象として理解されてきた。しかし、今日の雑司ヶ谷お会式の隆盛をささえているのは、東京という巨大都市の一部である雑司ヶ谷地域の「講社」に他ならない。これは、雑司ヶ谷お会式にとどまらない。都市部の寺院・神社をみていると、かなり多く「講」による石造物や灯篭などが存在しており、「講」によって維持されている部分が多いように思われる。このような都市部の「講」については、民俗学にせよ歴史学にせよまだ十分検討されていないといえる。
雑司が谷お会式の機関紙である「お会式新聞」は、お会式を検討し、さらに近現代の講社の実態を分析するためのよい資料といえる。もちろん、戦後が中心であり、後々は戦後について検討する予定である。ただ、この前から続けているように、まずは、「お会式新聞」から、大正期―昭和戦前期のお会式とそれをささえた講社に実態についてみてみよう。
ここで、集中的にとりあげるのは、大正期に存在した「御嶽中島講」である。この講社は、戦前において、雑司ヶ谷地域における有力な講社であった。しかし、戦後は中絶し、1982年に「三嶽中島講」として復活し、戦後のお会式の主催団体であるお会式連合会に参加した。「お会式新聞」第12号(1982年10月15日)には三嶽中島講の「連合会入会に際して」という一文が掲載されている。そこでは、まず「今年度より雑司が谷一丁目三嶽中島として連合会に入会させて頂きます。」と宣言している。そして、「戦前我々の町、一丁目には古くから御嶽中島講という講社があって毎年鬼子母神の御会式に万燈を出し御嶽の大太鼓といって有名だったそうです」と説明している。
その上で、なぜ「三嶽中島講」に改名したのかについては、(1)一丁目町会・第一町会・亀原自治会と三町会があり、この三町会の有志が心を一つにして計画したこと、(2)老中若の三世代の人々が心をあわせて実行することになったことという、二つの理由をあげている。
「三嶽中島講」となった由来はわかるのだが、もともとの「御嶽中島講」となった由来は何か。『角川日本地名大辞典』によると、雑司ヶ谷村の小字名に「中島御嶽」がある。このように、元来は小字名に由来している。ただ、『地誌御調書上』(1825-1829年成立)では、雑司ヶ谷町の字「御嶽」とされ、『新編武蔵国風土記稿』(1828年完成)では、雑司ヶ谷村の小字「中島」とされている。「御嶽」と「中島」が同一の地をさしているかいなかはわからないが、いずれにせよ、後代には「中島御嶽」となっているので、同一でなくても、近接していたといえる。「中島」の由来はわからないが、「御嶽」については、鬼子母神以前の雑司ヶ谷村の鎮守といわれる「御嶽社」に由来している。この「御嶽社」の別当寺が清立院であり、清立院は現存している。この清立院も日蓮宗寺院である。たぶん、御嶽社―清立院の門前の地域が御嶽中島の範囲と考えられるのである。このように、戦前の「御嶽中島講」は、雑司ヶ谷村の一小字によって組織されていたのである。

なお、参考のために地図をだしておく。「水仙寺」とされているところが清立院である。

参考文献:『豊島区史』資料編第三巻

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おえしき新聞15号3面(1985年10月15日)

おえしき新聞15号3面(1985年10月15日)

今まで述べてきたように、近世の雑司ヶ谷お会式では、日蓮の生涯をあらわした人形が飾り立てられ、近世の文人の目を引き付けていた。明治中期においても、新聞報道で「生人形」が陳列されていたことがわかる。しかし、それ以降、新聞報道でも回想でも、人形陳列についてはみることができなかった。
「おえしき新聞」15号(1985年10月15日)には、塩谷喜代枝の「子供の頃の思い出」がのせられている。彼女は当時70歳で、雑司ヶ谷二丁目に居住していた。鬼子母神表参道が中心のホームサービス会からお会式に出ているというので、表参道に近いところに居住していたと思われる。彼女が子供の頃といえば、大体1925年頃で、大正から昭和に移り変わる頃といえる。この回想で、彼女は、次のように述べている。

忘れてはならないのは鬼子母神様の左側に日蓮上人のごくろうされた人形が人の大きさでかざられていました。又、法明寺の中にも同じような人形がかざってありその人形も戦争でやけてしまったのでしょう。

この回想から、戦前の鬼子母神お会式では、まだ人形陳列が行われていたことがわかる。もはや、万燈行列がお会式の中心をしめるようになっていたが、法明寺が戦災にあうまでは、人形陳列もなされていたのだ。目立たない形であるが、雑司ヶ谷お会式の近世以来の伝統が生き残っていたといえよう。

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妙法寺仁王門(2011年1月2日撮影)

妙法寺仁王門(2011年1月2日撮影)

妙法寺祖師堂(2011年1月2日撮影)

妙法寺祖師堂(2011年1月2日撮影)

両国東西講中奉献の石塔(2011年1月2日撮影)

両国東西講中奉献の石塔(2011年1月2日撮影)

鳶奉献の常夜燈(2011年1月2日撮影)

鳶奉献の常夜燈(2011年1月2日撮影)

青山十二日講の石造物(2011年1月2日撮影)

青山十二日講の石造物(2011年1月2日撮影)


ここで、雑司ヶ谷のお会式の競争相手であった堀の内妙法寺の現況を紹介しておこう。1月2日に行ったので参詣客が多い。境内伽藍の多くが近世後期の建築であるが、鬼子母神ー法明寺に比べて、境内・伽藍も広大な感じを受ける。なお、本堂は修復中であった。
祖師堂内部は撮影禁止であるが、外から見ると金箔がはられており、豪華な印象を受ける。境内には多くの石造物があり、年代をみると近世後半から明治・大正期にかけてのものが多いようである。ほとんどが、日本橋・青山・両国などの講中による建造物である。また、鳶の寄付した常夜燈もあった。参詣者の少ない時期に、石造物を調査すると、お会式のさかんだった近世後半から明治・大正期の妙法寺に対する江戸ー東京の信仰のあり方がわかるのではないかと思う。

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