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Posts Tagged ‘いわき市’

最近の福島県内の首長選で、現職が落選することが目立っている。まず、9月10日にネット配信された河北新報の次の記事をみてほしい。

進まぬ復興、現職に逆風 いわき市長選も新人当選

 8日のいわき市長選で現職の渡辺敬夫氏(67)が新人の清水敏男氏(50)に敗れ、再選を阻まれた。4月の郡山市長選でも新人が当選し、福島県の主な市長選で現職の敗戦が続く。福島第1原発事故からの復興が進まない停滞感が現職批判につながったとみられ、11月に福島市長選を控える現職の瀬戸孝則氏(66)は現職落選の連鎖に危機感を強めている。

<敗因明かさず>
 8日夜、いわき市の渡辺氏の事務所。テレビの開票速報で落選が伝えられ、重苦しい雰囲気に包まれた。渡辺氏は「敗軍の将は多くを語らない」と敗因を明かさなかった。
 得票は約4万8000で、約7200票の差をつけられた。初当選した2009年の前回よりも3万4000票減らしている。組織力を誇ったが、新人の各陣営から原発事故対応で批判の集中砲火を浴びて沈んだ。
 矢吹貢一選対本部長は「復興遅れや避難者の受け入れで市民がギスギスした雰囲気になり、おおらかな市民性が失われた。国や東京電力へのやり場のない憤りが現職に向かった」と分析する。

<流言が痛手に>
 事故直後、インターネットで「市長が(県外へ)逃げた」と流言が広がり、痛手を受けた。「事実無根」と説明しても打ち消すのは容易でなかったという。陣営幹部は「批判票をつかもうと思ったら簡単だ」と新人陣営の戦術を皮肉る。
 自宅を津波で流された同市の自営業女性(64)は新人に投票した。「2年半たっても何も進まない。市長のアピールが弱く、取り残されている」と語る。
 郡山市長選では3選を目指した現職の原正夫氏(69)が苦杯をなめた。自民、公明両党の推薦を受けて組織戦で臨み、校庭表土除去の除染にいち早く取り組んだ実績を強調したが、現職批判の逆風をはね返せなかった。渡辺氏と同様、「事故直後に逃げた」というデマにも苦しめられた。
 選対本部長だった渡辺隆弘氏(75)は「復興の停滞に対する市民のじれったい思いが全部現職にぶつけられた。県内首長選では現職の苦戦が続くだろう」と話す。
 避難自治体でも7月の富岡町長選で現職が新人に敗れている。

<手をこまねく>
 福島市の瀬戸市長は焦りを隠さない。市長選で4選を目指す。ほかに1新人が立候補を表明している。
 瀬戸氏は「リーダーが変われば閉塞(へいそく)感が解消されるのではという空気がある。実績を訴えるだけでは厳しく、放射能対策や子育て支援など具体的な政策を訴えて支持を拡大するしかない」と強調する。
 瀬戸氏を支持する市議会会派「真政会」の黒沢仁幹事長は「いわき市長選は市民の憂さ晴らしのようなもの。どのように戦えばいいのか、まだ道筋が見えない」と現職批判のうねりに手をこまねいている。
http://jyoho.kahoku.co.jp/member/backnum/news/2013/09/20130910t61011.htm

この記事が示すように、4月の郡山市長選、7月の富岡町長選、9月のいわき市長選と、相次いで現職の首長が敗退している。特に、郡山市長選では、現職が自公両党の推薦を得ていた。それでも敗退したのである。

河北新報では、現職敗退の要因をまず「復興の遅れ」に求めている。もちろん、それもあるだろう。ただ、それに加えて、郡山・いわき両市長選では、3.11直後市長が県外に逃げたというデマが流れたこともあげている。デマはデマなのだろうが、その背景には、震災直後の行政対応への不信があるといえよう。

そして、11月17日の福島市長選では、現職の福島市長が敗退した。19日付の河北新報のネット配信記事をみてほしい。

福島市長選・現職落選 原子力災害への不満集中

 福島市長選(17日投開票)で、現職瀬戸孝則氏(66)が新人の小林香氏(54)に大差で敗れた。福島県の主要市長選では4月の郡山、9月のいわきに続く現職3連敗。福島第1原発事故の復興遅れに対する批判の集中砲火を浴び、現職退場が連鎖する。来年11月には佐藤雄平知事(65)が任期満了となる。佐藤氏は3選を目指すかどうか明らかにしていないが、「連鎖の最終章は知事選か」という声も出ている。

<徹底した組織戦>
 テレビの当選確実速報は午後6時の投票終了時刻と同時に出た。あっけない幕切れに瀬戸氏の事務所は一瞬にして重苦しい空気に包まれ、瀬戸氏は「全ては私の人としての至らなさ」と言葉少なに敗戦の弁を語った。
 瀬戸氏は現職の落選続きに危機感を抱き、自民、公明、社民3党の推薦を受け、徹底した組織戦を展開。それでも、負の連鎖のうねりにひとたまりもなく、小林氏に2倍超の差をつけられた。
 郡山市長選で敗れた原正夫前市長(69)は「原発災害は前例がなく、除染が遅いと批判されても何との比較か分からない。瀬戸市長も懸命に頑張ったのに」と同情する。

<被災なお進行中>
 東日本大震災の被災3県のうち岩手、宮城両県の首長選は「復興加速」を掲げた現職の当選が相次ぐ。宮城では8月に奥山恵美子仙台市長が再選され、10月には村井嘉浩知事が3選された。いずれも圧勝だった。
 福島は3県で唯一、原子力災害を受けた。避難指示の未解除など被災は今も進行中だ。「まだ底を打っていない」という不満が事故対応に当たった現職に集中し、特有の選挙結果につながった。
 東北大大学院の河村和徳准教授(政治学)は「国策に翻弄(ほんろう)された面は否めないが、地方自治の原点の『民の声』を聞いてきただろうか」と現職の市政運営の不備が響いたとみる。

<自民から主戦論>
 首長選で「現職不利」の流れが強まる中、佐藤知事の任期は満了まで1年を切った。知事は18日の記者会見で、来年秋に想定される知事選に対しては明言を避けた。現職落選続きに関しても「目の前のことをしっかりやっていく」とかわした。
 佐藤氏が初当選した2006年知事選で対立候補を立てた自民党県連。杉山純一幹事長は「現職支持、独自候補擁立の両面で検討する」と言うが、県連内では主戦論が高まる。知事周辺は「自民党は必ず擁立する」と警戒心を隠さない。
 知事与党を自任する民主党県連の亀岡義尚幹事長は「県民の信頼を得るべく、復興加速に突き進むだけ」と語る。同党県議の一人は福島市長選の結果に「知事選が1年後で良かった。今なら負けていた」と身をすくめた。

2013年11月19日火曜日http://jyoho.kahoku.co.jp/member/backnum/news/2013/11/20131119t61011.htm

この記事によると、現職市長は、自民、公明、社民の推薦を取り付けた。それでも新人候補に2倍を超える差をつけられて落選したという。同じ被災県でも、岩手・宮城県の首長選では「復興加速」をかかげた現職が相次いで当選しているそうで、福島県特有の傾向ということである。「復興の遅れ」が主因と分析されているが、その遅れ自体が、まさに原子力災害によるものであり、つきつめていえば、原子力災害への対応を批判されたといえるだろう。

そして、11月24日の二本松市長選、広野町長選でも現職が落選した。毎日新聞の次のネット配信記事をみてほしい。

選挙:福島・二本松市長選/福島・広野町長選 また現職落選
毎日新聞 2013年11月25日 大阪朝刊

 福島県で24日、任期満了に伴う二本松市長選と広野町長選が投開票され、いずれも現職が新人に敗れた。同県では今年度、東京電力福島第1原発事故後の対応を巡り、17日の福島市長選のほか、郡山市、いわき市、富岡町で現職首長が落選している。

 二本松市長選は、無所属新人で前市議の新野(しんの)洋氏(62)が、3選を目指した無所属現職の三保(みほ)恵一氏(64)を破り初当選した。投票率は64・72%。

 同市は国の資金で自治体が除染する「汚染状況重点調査地域」に指定されているが、除染達成率は44%(10月末現在)にとどまる。

 一方、広野町長選は無所属新人で前町議の遠藤智氏(52)が3選を目指した無所属現職の山田基星(もとほし)氏(65)を破り初当選。同町は原発事故で緊急時避難準備区域に指定され、解除後の2012年3月に役場機能をいわき市から戻したが、町民5235人のうち帰還したのは1191人(22日現在)だけ。【高橋隆輔、中尾卓英、喜浦遊】

 二本松市長選の確定得票数次の通り。

当 15632 新野洋<1> 無新

  14930 三保恵一(2) 無現
http://senkyo.mainichi.jp/news/20131125ddn002010052000c.html

23日に私は広野町を通った。その際、選挙事務所が設置されたのをみた。その際、多少は戻りつつあるのかと思ったのだが…。まだ2割程度しか戻っていないということである。どちらにせよ、「復興の遅れ」を指摘されてもしかたのないことである。

前述したように、岩手・宮城両県と比較して、福島県における復興の遅れがみられる最大の要因は、原子力災害問題である。福島第一原発事故によって放出された放射性物質は、内陸部の中通りなどにもとどき、3.11による地震・津波被害が相対的に軽かった地域にも及んだ。これらの地域においても、まず除染が必要とされたが、除染作業自体が遅れているとともに、その効果も限定的なものである。さらに、海岸部の浜通りでは、地震・津波によって大きく打撃を受けた上に、福島第一原発事故によって放出された放射性物質がより多く蓄積された。現在でも立ち入り、居住が制限された地域が設定されているとともに、除染の必要性もより大きい。しかも、海岸部における津波災害からの復興も、原子力災害があったがゆえに遅れざるをえなくなっているのである。

つきつめてしまえば、原子力災害というものが、地方行政への不信を招き、その責任者である現職首長たちの苦戦につながっていっているのである。それが、福島県の現状といえよう。

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さて、前回のブログで、11月23日に福島県楢葉町を踏査したことを述べた。その後、海岸線を南下し、広野町をぬけて、いわき市に入った。

いわき市の小名浜地区には、アクアマリンふくしまという水族館がある。2000年に開館した水族館で、私も10年ぐらい前に行ったことがある。この水族館は、小名浜港にあり、3.11においては、津波により、多大な被害を蒙った。Wikipediaには、次のように書かれている。

東日本大震災[編集]
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では揺れによる建物への損傷こそ殆ど無かったが、巨大な津波が施設の地上1階全体を浸水させこれにより9割の魚が死亡した。
その後は自家発電装置で飼育生物の生命維持装置である濾過装置などを稼働していたが、日動水の支援もあり3月16日にセイウチなど海獣を中心とした動物を他の水族館や動物園へ緊急移送(避難)させた。
トド、セイウチ、ゴマフアザラシ、ユーラシアカワウソなどの海獣、ウミガラスなどは鳥類は鴨川シーワールドと伊豆三津シーパラダイスへ、カワウソが上野動物園に、ウミガラスが葛西臨海水族園など。ただしバックヤードに収容されるため基本的に展示は行われない[10][11][12]。また、2011年4月1日にはメヒカリやガーといった魚類がマリンピア日本海に避難した[13]。
拠出用のクレーンに自家発電装置用の備蓄燃料である軽油を消費したが、交通網の遮断に加えて立地するいわき市北部が福島第一原発事故による屋内退避基準の半径30kmに含まれる関係もあり、燃料と餌の調達は困難であった。その後漁港の機能がマヒし、アザラシなどの海獣やカニなどの海洋生物・両生類・鳥類など約700種の餌も入手できず、最後に残った小型発電機の燃料を使い果たし水の管理が出来なくなったため海洋生物20万匹が全滅したことが3月25日に判明した[11]。
また施設内のWebサーバーも被災のため公式サイトが一時不通となり、3月16日頃に「マリンピア日本海」の公式サイトで被害状態などの惨状が掲載された。
7月15日、震災以来4ヶ月ぶりに営業を再開した[14]。同日は、7月16日(土)・17日(日)・18日(月、海の日)の週末3連休の前日で、当館の開館記念日にあたる。震災後に生まれ、「きぼう」と名付けられたゴマフアザラシが注目を集めている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%B5%E3%81%8F%E3%81%97%E3%81%BE

この被災について、ここではWikipediaの記事から引用したが、3.11直後、ときどきマスコミにこの水族館の状況は報道されていた。大型動物は移送されたが、9割もの飼育されていた生物が死滅したということである。

今回、行ってみて驚いたのは、この水族館が十年前の記憶と全く同じであったことである。もちろん、津波によって流されていないないモダンな水族館建屋自体が変わっていたわけはない。しかし、内装まで全く同じなのだ。

アクアマリンふくしま(外観)

アクアマリンふくしま(外観)

例えば、ヒトデなどの海洋生物にふれあうことができるタッチプールという施設を十年前にみたが、今も存在しており、ほとんど記憶通りなのである。

タッチプール

タッチプール

また、「潮目の海」とネーミングされた大水槽は、津波によって親潮と黒潮の界をなしていたアクリル板が壊れるなど、かなり被災したはずだが、その痕跡を見ることはできない。

潮目の海(大水槽)

潮目の海(大水槽)

館内で、パブリックな形で3.11における被災についてふれている掲示としては、入口にあるこのパネルくらいである。ただ、提携水族館との協力や、放射線問題についてふれているコーナーでは多少3.11の痕跡をみることができるのであるが。

アクアマリンふくしま再開のパネル

アクアマリンふくしま再開のパネル

もちろん、これは、アクアマリンふくしまが「復興」しようとした努力の結果であるといえる。しかし、3.11による被災は、Wikipediaの記事をみるように、アクアマリンふくしまの歴史にとって、非常に大きなものであった。そして、十年前と同様な形で再開したこと自体が、館にとって大きなことであったに違いない。しかし、そのことをはっきりと明示した展示物は館内にはないのである。

そして、アクアマリンふくしまのサイトにも、全く3.11の痕跡はみられない。「アクアマリンふくしまの復興日記」というブログがあったようだが、このブログは閉鎖され、過去の記事は非公開となっている。

このように、アクアマリンふくしまは、3.11における被災という事実を館内から消失させようと努めているといえるのである。

しかし、館の外には、津波の痕跡を示す記念物がある。津波によるがれきを集めてつくられた「がれき座」という「舞台」があり、津波により破壊された大水槽のアクリル板によってプレートがつくられている。

がれき座

がれき座

がれき座プレート

がれき座プレート

がれき座のプレートには、次のような言葉が記されている。

がれき座
〜私たちの海をよみがえらせる〜

その日、アクアマリンふくしまは、津波の中にあった。このアクリル板は黒潮と親潮をへだてる厚さ6cmのアクリル板の破片です。
MARCH 11、M9の地震は黒潮と親潮の「潮目の海」の2000トンの大水槽にも津波を起こし、巻き起こった大波が仕切り板を破壊し突破した。親潮の魚が黒潮の魚が仕切り板を越えて交流していた。
外のアスファルトさえも波打って裂け目ができた。アスファルトをはがして、がれきの津波をつくった。
アクリル板を「がれき座」の舞台の看板にして、私たちの海をよみがえらせる祭りの場とする。
        アクアマリンふくしま 館長 安部義孝

つまり、館内で消し去った津波の「痕跡」である大水槽の「アクリル板」を使って、館外に3.11の「記憶の場」を設置したということになる。

アクアマリンふくしまにおける3.11の記憶の問題は、複雑である。アクアマリンふくしまの館内においては、3.11の痕跡はほとんど消失させられている。それは、サイトやブログまで及んでいる。そして、ちょっと奇異に感じるくらい、3.11以前の水族館が「再現」されている。3.11は消し去りたいという心性がそこに働いているのではないかとも思う。

しかし、他方で、3.11を記憶しなくてはならないという心性もまた存在する。それが、館外のがれき座という形で表現されているのであろう。

水族館「内部」での3.11の記憶の消去と、水族館「外部」における3.11の記憶の場の設置。これは、「復興」における地理的格差の暗喩ともみえる。アクアマリンふくしまのある小名浜港においては、3.11の痕跡はほとんど目立たなくなっている。しかし、おなじいわき市でも久之浜や豊間などは、がれきが片付いただけで復興はすすんでいるとはいえないのである。

いわき市豊間周辺

いわき市豊間周辺

もっといえば、楢葉町・富岡町など、居住や立ち入り自体が制限されたところもある。そういう所では、3.11の記憶をいやがおうでもつきつけられているのである。

3.11の記憶は、このように複雑なものである。3.11をなかったものにしたいとする心性と、記憶しなくてはならないとする心性は、水族館アクアマリンふくしまの中でもせめぎあっている。このせめぎあいの中から、「歴史」意識が生まれてくるのではなかろうか。

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いわき市立美術館前のヘンリー・ムーアの彫刻

いわき市立美術館前のヘンリー・ムーアの彫刻

<緑濃きいわきにおける反原発集会>

さて、5月15日、いわき市の海岸部の久之浜、四倉、豊間を車で巡った後、いわき市中心部の平地区に向かった。

こんなに美しい街だったのか…まず、そんな思いにかられた。ほぼ10年前、ここにきた時は、雨にぬれ、なんか淋しい街だった。今日は晴天で、まさに新緑の頃、街路樹や公園の木々は青々としていた。街路も広々としていた。いわき市立美術館の前には、ヘンリー・ムーアの「横たわる人体・手」(1979年)という彫刻があった。

私は、いわき市平地区の中心部にある「平中央公園」に向かった。あまり大きな公園ではないが、真ん中に芝生の広場があり、そのまわりには大きな木が植えられていた。東京などと違って、芝生も木々も傷みがなく、青々としていた。

しかし、公園の前にある、「いわき芸術文化交流館」は被災し、ところどころ壊れ、その前の地面には、亀裂が走っていた。

この公園に来たのは理由がある。その日、この公園を出発点として「NO NUKES! PEACE DEMO in Iwaki, FUKUSHIMA☆ さよなら原発 放射能汚染のない平和な未来を求めるパレード」が開催されるということになっていた。前々から、福島県の被災地をみてみたいという希望があったのだが、こういうことがあるのならば、参加してみたいと思った。そこで、この日に福島県浜通りにくることにしたのだ。

それ以前、5月3日に東京新宿で行われたデモにも出ていたのだが…。こういうデモやパレードへの参加は、私が個人的にできる、本当にささやかな意思表示かと思ったので。

なお、この集会の趣旨は、このようなものだ。一言でいえば、福島第一原発における放射能汚染から、「子供たち」を守ろうということが目的となっているといえる。

〜子供たちを守りましょう!〜
2011年3月11日に発生した東日本大震災により引き起こされた、東京電力福島第一原子力発電所の大事故をきっかけに、私たちの生活や環境が大きく変化してしまいました。地震や津波の被害、余震への心配の上に、「放射能汚染」という更なる被害が私たちに覆いかぶさってきています。
日本全国、福島県全域はもとよりいわき市でも、行政の放射線量に関しての「安全キャンペーン」により正確な情報が市民に行き届いていない、または遅れ遅れの対応での被害拡大など、特に最近の小中学校に対する行政からの指示などは、子供を持つ多くの父母に甚大な不安を与えています。また、このままのやり方を行政に許していくことで、更なる環境汚染と健康被害を市民、とりわけ未来を担う子供たちへもたらすことは一目瞭然です。子供たちを守ることは、私たち大人の「責任範囲」です。
開催地いわき市の人々だけではなく、福島県全域または全国からの脱原発を望む人々、不安を抱えながらどうすることもできないと思っている人々、避難所でこの不条理な状況に憤っている人々、すべての人々が集い、元気を与え合い「私たちは無力ではない、私たちにも変えられる」という意識を持って帰れる、そんな場を一緒につくりましょう!(http://nonukesmorehearts.org/?page_id=462)

集会の中央にそびえるメタセコイア

集会の中央にそびえるメタセコイア

パレードに先立って、緑の濃い平中央公園で集会が開催された。通常演説壇が置かれることになる集会の中心は、一本のメタセコイアの木の根元であった。なんというか「自由の木」を思わせる。そして、その前の芝生広場に人が集まっていた。数百人ほどであろうか。警察の規制もあまり厳しくない。東京のギスギスした感じとは大違いであり、まるで、テレビでみる欧米の集会のようであった。趣旨が趣旨だけに母子づれが目立った。

このパレードは、「いわきアクション!ママの会」といういわき市の団体と、「No Nukes More Hearts」という東京に事務局のある団体の共催で行われ、「脱原発福島ネットワーク」という福島県の団体が協賛する形で行われていた。地元の団体と全国ネットワークがある東京の団体という共催の形である。司会者は「いわきアクション!ママの会」から出し、主催者挨拶は「No Nukes More Hearts」が行っていた。なお、どちらも、「母親」ということであり、その意味で趣旨通りであるといえる。「No Nukes More Hearts」の主催者挨拶は、福島県の人々にかなり気を遣っており、日本いや世界のために、福島県の人々こそ反原発で頑張ってほしい、その応援にきたのだという論調であった。

演説する福島県議会議員

演説する福島県議会議員

まず、福島県議会議員が挨拶を行った。その他にも、いわき市会議員も挨拶しており、自治体議員の参加が多かったようだ。

<福島ー東京の間における亀裂の露呈>

ただ、東京への微妙な思いが交錯していた。先に、パレードが地元の団体と全国ネットワークがある東京の団体という共催の形であると述べたが、東京などの他県の人々の協力は大きかったようある。集会スピーチも、他県の人が多かった。しかし、東京の電力供給のために福島が犠牲になったことへの憤りは強く、最初に挨拶した福島県議会議員は、「地産地消、東京の電力は東京でまかなってほしい」といって、拍手されていた。

さらに、次のようなことがあった(なお、この一件についてはメモをとっていなかったので、ニュアンスを違って記憶しているかもしれないことを付記しておく)。東京出身で、放射線への恐怖のため子どもとともに関西地方に転居した一人の母親が、涙ながらに「福島の原発の電力を、今まで享受してきたことを反省する」旨のスピーチをしていた。放射線の脅威から子どもを守るというのが集会・パレードの趣旨であるので、それにそっている発言といえる。

しかし、会場から、「川崎市民が福島県の瓦礫を受け入れないということをどう考えるのか」という発言があった。その発言をした人は、まあ初老の老人といえる人で、後でよくみたら、背中に「南相馬市」という文字を付けている衣服を着用していた。津波で大きな被害を受けた上に、多くの部分が「警戒区域」「計画的避難区域」「緊急時避難準備区域」に指定され、復興事業が遅れている南相馬市の人だったらしい。

スピーチをしている女性は「福島県の放射性物質に汚染されたものは、20km圏以内から動かさないようにしてほしい」などと答えたのだが、そこで論争になってしまった。ああいう場で論争する光景は、はじめてみた。

しばらくして、「東京の方からわざわざ来ていていただいて、感謝します」などという発言が会場からあって、とりあえず、収拾された。しかし、そのスピーチをしていた人と、会場で疑問をなげかけた人は、その後も檀上をおりて議論していた。

いわき市久之浜地区の瓦礫

いわき市久之浜地区の瓦礫

川崎市の話については、説明を必要としよう。川崎市長が福島出身で、好意で福島県の瓦礫(別に放射性廃棄物というわけではない)を引き受けて処理しようとしたら、市民より反対のメールが殺到したということだ。いわば、まさに「風評被害」なのだ。その結果はわからない。切ないなと思わなくもないが、今や、郡山市の校庭の土でも市内すら引き受け手がない状態になっていると聞いている。

16日付けの朝日新聞朝刊には、「警戒区域」「計画的避難区域」を除く福島県中通り・浜通りの瓦礫は、県内に焼却処分場を新設し、放射性物質を除去する装置をつけて、処理する方針を環境省が固めたという報道がなされている。技術的には可能ではあろうが、建設するだけでも日時がかかる。それに、このような施設の立地には時間がかかるのが通常である。

南相馬市鹿島地区の津波被災(4月9日撮影)

南相馬市鹿島地区の津波被災(4月9日撮影)

南相馬市では、福島第一原発事故のため、津波被災における瓦礫の片付けはすすんでいない。南相馬市においては、単に放射線への恐怖だけでなく、津波被災からの生活再建が進んでいないということもあるのだ。そして、それもまた、福島第一原発事故のためなのである。

南相馬市の人の発言の意味を考えると、その苦しみを、福島県で生産された電力を享受してきた関東圏の人々に少しでも分かち合ってほしいということであろう。

しかし、そのような真意と全く逆に、「福島県の放射性物質に汚染されたものは、20km圏以内から動かさないようにしてほしい」とスピーチ者の女性は応答してしまった。福島県内より低い放射線量の東京からでも、子どものために関西へ避難した彼女の応答は、素朴に考えるならば、理解できる。「放射能汚染から子どもを守る」というのが、今回の集会・パレードの目的でもあり、東京圏内の多数の子どもたちを守りたいということが、彼女の心情であろう。

だが、これは、東京などへの放射線汚染を防ぐために福島県内に放射性物質を封じ込めておくということであり、それは、そもそも福島県内に原発を建設した東電の意図に重なっていくことになろう。警戒区域などの福島県内は、どうするのか。論争になるのも当然である。

ここで、そのように答えたこの女性を批判するつもりはない。ここで考えなくてはならないことは、福島の地に原発が建設された時に前提とされた中央―地方からなる社会構造は、反原発運動の中における言説のあり方も規定しているということなのだ。本ブログの中で、どのように福島に原発が建設されたかということを問題にしてきたが、それは、それぞれの人の主体的意思をこえて、私たちを拘束しているのである。これは、全くのアポリアである。そして、これは、このブログを書いている私の問題でもある。

<和解の契機としての「共苦」>

このように露呈されてしまった亀裂はどのように解決されるのであろうか。「たぶん主催者側の人だと思うが、『東京の方からわざわざ来ていていただいて、感謝します』などという発言が会場からあって、とりあえず、収拾された。」と私は書いたが、そのことの意味を考えなくてはならない。子どもも連れて関西に避難したというならば、かなり放射線について恐怖しているであろうとこの女性については考えられる。それにもかかわらず、東京より放射線量が高いいわき市にきていたただいてありがとうといっていると解釈すべきなのだろう。

この発言を行った人の属性は、中年の男性ということしかわからなかった。内容からみて、会場進行の責任を担う発言であり、主催者側の人であろうと推測される。さらにいえば、この発言は、当事者の福島県の人でなければ意味をなさないといえる。こういうようにいえるのではないか。私たちもあなたも、放射線の脅威を感じている。あなたは、わざわざ放射線の脅威をおして、わざわざいわき市にきて運動に参加してくれた。そのことにわれわれ福島県民は感謝すると。

「放射線の脅威」にさらされながら共に在るということ、それが、社会構造に起因する亀裂を乗り越え、お互いの連帯を可能にさせているといえる。つまりは「共苦」の意識が人々をつなげているのである。それが、私にとっての、この集会で得られた意義であった。

<パレードに出て>

平中央公園を出発するパレード

平中央公園を出発するパレード

さて、ここで、もう一度、集会・パレードの光景にもどろう。パレードつまりデモなのだが、かなり牧歌的で、子どもも参加していた。東京のデモでは、車線はみ出し規制など警察が暴力的に行っていたが、ここでは主催者が行っていた。もちろん、警察も規制しないわけではないが、信号待ちのようなことに終始し、早く歩けなんていわない。

パレードの参加者たち

パレードの参加者たち

デモ文化もかなり変わりつつあるようだ。最初、年長の人が「シュプレヒコール」なんていっていたが、いまいちのりが悪い。一方「素人の乱」も参加しており、リズミカルな音楽をベースとして「原発やめろ」「原発いらない」「子どもを守れ」というコールをしていたが、最終的にはそちらの方が主流となった。どうやら、いわき市でデモが行われたのはひさしぶりらしい。猫が窓から顔を出して、デモ見物をしていた。

デモの際の市民向けのコールで、「今、私たちの体には放射線が貫いています」というのがあった。それはそうで…。感じ入った。いわき市のその日の放射線量は、0.25マイクロシーベルト。福島や郡山は1.3マイクロシーベルトを超えているので、それよりは低いのだが、東京の0.06マイクロシーベルトよりは高いのだ。

人のいい人が多かった。ある方から「どこから来たのですか」と聞かれ、「東京です」と答えたら、いわき市のいろんなことを教えてくれた。いわき市では今までデモなんてなかったそうである。主催者発表によると500名くらいが参加していたようだ。

また、途中で、平市体育館の前を通ったら、中から手を振ってくれた。避難所らしい。後日聞くと、福島第二原発のある楢葉町からの避難民であった。

デモ解散地点がいわき駅で、そこに近づくと、別の方が、「いわき駅から東京に帰るのですか」と心配してくれた。解散地点で「遠くから応援にきてくれた方々に感謝します」と主催者側がコールしていた。

まさに、優しい、美しい光景であった。「共苦」している人々への感謝。しかし、ずっと放射線量の高い地域で生活するということと、たまたま、短期間来訪したということは、レベルの違う話なのだ。そのことを、私は心に刻んでおかねばならない。そう思いつつ、車にて、東京への帰途についた。

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美しき土地福島県浜通りを襲ったのが地震・津波・放射線であった。5月15日、山側の常磐自動車道から下りて、海岸線にそっている国道六号線を車で走ってみると、まず目に付くのは、津波の被害である。

いわき市久之浜というところで、海岸線に出た。ここは、厳密にいえば福島第一原発から30km以内であり、一時期は屋内退避圏であったが、4月12日に外された。なお、いわき市の北側の広野町は「緊急時避難準備区域」である。

車から降りて、海岸まで歩いてみた。そこは砂浜で、震災前は海水浴場であったらしい。防潮堤もあったようだが、それを乗り越えて、津波が襲来し、多くの家が被災していた。

いわき市久之浜地区の砂浜

いわき市久之浜地区の砂浜

いわき市久之浜地区の遠望

いわき市久之浜地区の遠望

ここで、写真撮影してきたら、くわえ煙草の老人が話しかけてきた。「ここは、まだ大したことはないよ」と言うのだ。「向こうの方に、海のそばに山がみえるだろう。あの山の麓に津波が襲来し、さらに火事になったんだ。津波が襲来して、家にいたままで流された人もいたと聞いている」と話してくれた。

「ここにも堤防があったんだが、こんなに低いじゃねえ、福島第一原発で15mというでしょう、この辺だって10m以上の津波だった」というのである。

老人は、運送業か漁師かわからないが、昔いろいろなところに仕事で行ったことがあるらしく、夏になったら、三陸のほうに行ってみるつもりだと言っていた。そこで、私も、4月に行った相馬市松川浦周辺では、国道六号線ぞいまで津波が襲来し、松川浦と水田が見分けがつかなくなっていたと述べた。老人は、「国道六号線まで津波が来たのか」と目を丸くしていた。

ここで、私は尋ねた。「ご近所の方ですか」。老人は答えた。「そうだよ。隣の四倉。ここは30km圏内、四倉は32km。今は避難所で暮らしている。家は海沿いにあって、津波で全壊した」とこともなげに話すのである。

どうも、いろいろと東日本大震災のことを目に焼き付けておきたいらしい。いわき市で他に多大な被災にあった場所として、塩屋崎灯台の近くの豊間という集落をあげていた。今はようやく通れるようになったとのことである。いろいろと親切に道順を教えてくれたが、「豊間」という集落自体を知らないので、よくわからなかった(最終的に行き着くことはできたのだが)。

最後に老人は、このように言った。「今朝のラジオで、(いわきの)放射線量が0.25マイクロシーベルトと聞いた。確かに、福島や郡山よりは低い。しかし、長く浴びていたらどうなるか、だれにもわからない」。私は、「そうですね」と言うより他はなかった。

老人と別れを告げて、その勧めにより、久之浜の中心部にいってみた。小さな町場となっていて、沿道の人家は、津波や地震によって壊れていた。ボランティアか業者か自衛隊かはわからないが、白い防護服をきた集団が、復旧作業にあたっていた。よく覚えていないが、ガスマスクもつけていたのではないかな。そのそばで、地元の人たちが、ランニングシャツ姿で、やはり復旧事業にあたっていた。地元と、それ以外の意識の落差が垣間見えていた。

いわき市久之浜地区の焼失跡地

いわき市久之浜地区の焼失跡地

いわき市久之浜地区の焼けた郵便ポスト

いわき市久之浜地区の焼けた郵便ポスト

いわき市久之浜地区への津波被災と防潮堤

いわき市久之浜地区への津波被災と防潮堤

さらに行くと、焼けただれた家屋が目立つようになった。焼けた郵便ポストが目に痛い。、建築物を中心とした瓦礫の山がそこにはある。はるか遠くに見える防潮堤が空しい。

ここ久之浜は、津波だけでなく、火災にも襲われたのだ。町場の津波被災地をこの目で見るのは初めてだ。相馬市周辺のように、広大な面積が津波で一掃されたというのではないが、生活の場を一瞬で破壊されたということは、久之浜のほうが強く感じられる。

ここは、30km圏内で、一時期は屋内退避圏であったことも忘れてはならない。二か月以上たった5月15日時点においても、いまだ瓦礫の撤去が進んでいないのは、そのためだ。前述のように、現在でも人によっては防護服着用で作業している有様である。それ[に、福島県内で、放射線を浴びたと想定される瓦礫をどう扱うかは問題になっている。環境省は、県内に放射性物質を回収できるような装置を設置した焼却処分場をつくるという。しかし、そもそも焼却処分場を一から作るのにもそれなりの時間がかかる。それに、どの自治体が立地を許容するのだろうか。

破壊された四倉港の港湾施設と残置された漁船

破壊された四倉港の港湾施設と残置された漁船

四倉港から船で運び出される漁船

四倉港から船で運び出される漁船

老人の住んでいる、南隣の四倉にもいってみた。確かに、大きな火災にはあっていないようだが、久之浜と同じくらい津波で被災していたと思った。漁港の周囲にはいまだ漁船が置かれている。ただ、瓦礫がまとめておかれていたり、被災した漁船を運び出す船が入港していたり、屋内退避圏ではなかったため、久之浜よりは復旧作業が進んでいた。

老人のいっていた豊間にもいってみた。多少迷ってしまい、次の用事があるので、通り過ぎただけだ。ただ、それでも、町場に瓦礫がまだ散乱していた。

いわき市の河畔

いわき市の河畔

最後に、たぶん「夏井川」だと思うが、いわき市の川べりの写真を掲載する。このように、福島県浜通りは非常に美しい土地なのである。ここに地震、津波(いや火災も)さらに放射線が襲ったのであった。

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