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Archive for the ‘関東大震災’ Category

さて、また、首都圏のホットスポットとなった千葉県の状況を、柏市の動向を中心にみていくことにする。以前、本ブログで前述したが、学校施設の除染基準を年間20mSvから1mSvに事実上かえた文科省の措置、市民からの不安の声、東京大学内部での批判により、2011年5〜6月より、柏市、我孫子市、野田市、松戸市、鎌ヶ谷市、流山市の東葛6市は、独自に空間放射線量を測定するなど、独自の放射性物質対策を実施しはじめた。しかし、いまだ、「専門家」たちは、この地域の首長たちが開催した7月8日の「東葛地区放射線量対策協議会」で放射性物質対策は必要はない、測定もこまめに行う必要がないと主張し続けた。

しかし、首長たちは納得せず、同日、今後とも放射線量測定などの独自の対策を講じること、費用対効果を考慮しつつも、学校施設については、年間1mSv以下にすることをめざすことなどが決められたのである。

柏市で月2回発行されている柏市民新聞2011年7月22日号によると、柏市としては、次のような対策を講じることになっていた。

 

また、6市のうち松戸市と野田市と野田市を除く4市では、今後の対策として、積算可能な測定機を購入し、全小学校と保育園、幼稚園に各1機を配備する方針を決めた。8月中に揃え、9月から現場の線量を年間通じて測っていく予定。2市については検討中だという。
 また、柏市では、夏休み中に市内の各小学校で細かい測定を行う。学校ごとに線量を図面に落とし、高い数値の場所については、教職員らで清掃する。限られた時間で、きめ細かく清掃するため、保護者らの協力を仰ぎたいとしている。
 ごみ処理場の基準値を超える放射性セシウムについては、秋山浩保市長が15日、環境省に早期対応の緊急要望を提出したが、21日の時点で国の回答はなく、進展はみられていない。

つまり、学校・保育園・幼稚園ごとに測定機を備え付けるともに、小学校では夏休み中にきめ細かく線量を測定し、高い場所では教職員らで「清掃」ー除染することになっていたのである。そして、小学校の測定・除染については、保護者らの協力を仰ぎたいとしている。教職員・保護者らの、いわばボランティアによる線量測定、除染が提起されたといえる。

しかし、すでに、放射性物質の問題は、学校施設の問題に限定されるものではなくなっていた。先の記事の中にも述べられているが、柏市の二つある清掃工場の焼却灰などより、環境省の基準である1kgあたり8000bqをこえる放射線量が検出されたのである。基準をこえる焼却灰などは、最終処分場に埋め立てて一時保管することになっているが、その準備が整うまで工場に仮保管されることになっており、基準以下の場合は、通常通り最終処分場で埋め立てることになっていた。しかし、柏市民新聞が「いずれの措置にしても、工場付近の住民の理解は得難く」といっており、柏市長としては、環境省に早期対策を要望した。結局、第一清掃工場は操業停止となり、第二は稼働を継続したが、もし国・県の対策が遅れた場合、1〜2月程度で双方とも保管限度をこえて操業停止となるという状態だったのである。なお、この問題は、現在もこの地域に重くのしかかっているのである。

さらに、柏市は、7月28日から市内農産物の放射性物質調査を開始した。柏市民新聞2011年8月12日号には、その目的として、「柏市産の安全性を確認し、風評被害を防ぐこと」としている。農産物の放射性物質調査は千葉県が実施していたが、柏市の調査は簡易調査と位置づけられており、この市の検査で200bqをこえた場合、厚労省の登録検査機関に送って、暫定基準値を超えていた場合は、出荷停止となるというシステムになっている。柏市民新聞2011年8月12日号によると、ブルーベリーにおいて、セシウム134が40.9bq、セシウム137が44.6bq検出された事例があったが、いずれにしても暫定基準値をこえたものがないとしている。なお、千葉県も、柏市産を含めた千葉県産の早場米の検査を8月から開始している。

加えて、1kgあたり500bqという暫定基準値をこえた牛肉が発見されたことから、8月より学校給食の食材に対する放射線セシウムの検査を開始することを決めた。

このように、柏市では、2011年7〜8月から放射性物質対策がとられてようになってきたが、市民の目からみれば、まだまだ不十分なものであった。朝日新聞朝刊2011年8月11日号には、次のような記事が掲載されている。

千葉の幼稚園 独自に土除去
 福島第一原発から約200キロ離れている千葉県の柏市や松戸市などは市の発表で毎時0.3〜0.4マイクロシーベルト前後になる場所がある。福島県発表のいわき市(同0.2マイクロ程度)を上回る。千葉県が発表する市原市の同約0.04マイクロに比べ1桁高い。放射性物質が他よりも多く降り注いだ「ホットスポット」と呼ばれる場所だ。
 千葉県柏市の私立みくに幼稚園で8日、杉山智園長らが花壇の表土をはがして古い浄化槽の中に埋める作業をした。花壇は毎時約0.4マイクロシーベルトだった。
 園庭の放射線量は0.1マイクロシーベルト。これは5月の測定で0.4〜0.5マイクロシーベルトだったので表土の入れ替えをしたためだ。杉山園長は「子どものために実行可能なことはやらざるを得ない」という。
 柏市など6市は対策協議会を開き「低減策が国の財政支援の対象になる毎時1マイクロシーベルトを上回る地点は確認されなかった」などとの中間報告を7月にまとめた。柏市は小中学校などで線量を細かく測定し、線量の高い場所は清掃や草の除去をするというが、校庭の表土の入れ替えなど大規模な工事の計画はない。
 子どもの被曝を心配する親らが約1万人の署名を集め校庭や公園で土砂の入れ替えなどを求める要望書を6月に柏市に出した。その一人、主婦の大作ゆきさん(33)は「市の動き方は鈍い」と批判する。大作さん自身は10日、1歳と3歳の2人の子どもとともに大分県に一時避難した。(編集委員・浅井文和)

このように、市立の小中学校においても大規模な除染を行うことは想定されておらず、「市の動き方は鈍い」と批判される状況であったのである。そして、私立幼稚園としては、独自に除染作業を開始したのであった。

しかし、朝日新聞の報道後、柏市の放射性物質対策はやや進展をみせる。8月19日には、職員4人の「放射線対策室」が環境部内に設置された。柏市のサイトでは、このように設置目的が説明されている。

福島第一原子力発電所の事故に伴い、市民の皆さんから放射線に対する不安の声が多く寄せられていました。現在、空間放射線量の低減対策については、子どもを対象とした部署を中心に関係各課が行っているところです。今後は、今まで以上に子どもに関連する部署間の連携を強化するとともに、それ以外の部署(通学路や農作物、給食食材関連など)との連携も必要となってくることから、次のとおり環境部内に新たに「放射線対策室」を設置することとしました。
http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/080500/p009165.html

そして、8月には、多少とも、小中学校の除染活動も進んだようである。柏市民新聞2011年8月26日号では、次のような記事が掲載されている。

地域住民 学校で除染作業 放射線量低減に安堵の声

 市内の幼稚園と小中学校で放射線の除染作業がはじまった。夏休み期間を利用し、敷地内で1マイクロシーベルトを超える地点や側溝などの高い数値が予想されるポイントを対象としている。教職員のほか、保護者らも参加して実施。一部の校(園)庭では、表土を削るなどの低減策もとられている。その効果は、毎時0.3マイクロシーベルトを測定した校庭が同0.2未満になるほどで、参加者からは喜びと安堵の声が挙がっていた。
 20日には、富勢小学校と松葉第二小学校などで作業が行われた。松葉第二小では、教職員のほか、保護者や地域住民など126人が作業に参加。校庭の大半の表土を削った。大勢の参加者が集まったため、開始時刻を早めてスタート。それでも、前日から降った雨が地中にしみ込んだため、その重量に参加者は悪戦苦闘。用意した土嚢袋の半分程度の量で成人男性がやっと持ち上げるほどの重みに。当初の土嚢袋800袋では不足し、さらに、800袋を追加。表土をわずか2センチ程度削っただけにもかかわらず、校舎からもっとも離れた校庭隅に土嚢の山が築かれた。
 当日は午後4時前から開始。気温は真夏日を下回ったが、マスクと軍手、長袖長ズボンの参加者は汗でぐっしょり。それでも「子どもに安心して運動会をしてほしい」との思いから作業に集中。学校職員が配備された測定機で測り「0.3マイクロシーベルトだったところが、0.2を切りました」と報告すると、喜びの声が挙がった。職員によると、松葉第二小は、6月以降、毎時0.3マイクロシーベルトの地点が非常に多く、今回の除染結果には笑顔が溢れた。参加者からも「子どもたちが安心して校庭で遊べる日がくるなら、がんばろう」との声が挙がり、多くの参加者が希望を持った作業結果となった。
 現在、市内の学校施設(幼稚園など含む)の放射線量測定は、全校で終了。私立園とも連携を図っており、放射線対策室によると、今後各学校が地域と連携し、2回目を含めた除染作業を行っていくとしている。 

この記事は、非常に興味深い。まず、指摘すべきことは、すでに述べているように、柏市などは年間1mSv以下とするとしているにもかかわらず、結局毎時1μSv以上の地点しか除染作業の目標としていなかったことである。年間1mSv未満とするならば、現在の基準では毎時0.23μSv未満にすべきなのだが、そのような地点は本来は対象としていなかったのである。これは、実質的には「専門家」の意見に引きずられていたといえるのである。「市の動き方は鈍い」と批判されるのも無理はないだろう。

しかし、この基準は、市民の求める基準ではなかった。ここで扱っている松葉第二小学校では、毎時0.3μSvでは高すぎるという意識があり、校庭の大半の表土を削り取るという大規模な除染が行われた。そして、この作業が、「教職員のほか、保護者や地域住民など126人が作業に参加。」とあり、いわば地域のボランティアを動員して行われたとみられることに注目しておきたい。この校庭の表土を削り取るという作業が、どのような形で意志決定されたかは不明だが、市の方針としては一部の高線量地点のみ除染ということであったから、それをこえた除染作業の実施は教職員も含めて自発的な形で決められたのではないかと想定される。そして、その究極の目的は「子どもに安心して運動会をしてほしい」「子どもたちが安心して校庭で遊べる日がくるなら、がんばろう」ということであった。真夏日ではなかったようだが、それにしても、夏の日にこのような重労働を地域の人びとは自発的に行ったのである。こういう活動を通して、年間1mSvにするという柏市のかかげた目標は、柏市当局の意図を超えて、定着していったのである。これは、住民自治ともいえるであろう。

しかし、他方で、このような除染活動の実施は、そもそも、このような事態を引き起こした東電なり国なりが行うべきことであることも指摘しておかなくてはならない。そして、この除染活動によって、市民自身がいわば無用の被曝を強いられることにもなったといえる。このような矛盾は、福島県郡山市の除染活動で、より深刻な形で露呈されているのである。

そして、また、2011年9月以降、柏市の放射線物質汚染状況がより明らかになってくるにつれ、市行政自体がより責任をもった放射能対策の必要性が提起されるのである。

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さて、郡山の除染問題をもう少し続けよう。2011年8月26日、内閣府の原子力災害対策本部が「除染に関する緊急実施基本方針」「除染推進に向けた基本的考え方」「市町村による除染実施ガイドライン」(http://www.kantei.go.jp/saigai/anzen.html#除染の取組)などを発表した。これが、現在の除染事業の基本方針となっている。警戒区域や年間被曝量20ミリシーベルトをこえる計画的避難区域では国が実施し(安全性が確保されれば市町村が実施することも可)、1-20ミリシーベルトの地域では、コミュニティ単位が有効に除染できるとして、市町村が除染計画を策定して実施し、国はその支援を行うとされた。ある意味では、人の住んでいない警戒区域や計画的避難区域は国費で、それ以外の人の住んでいる地域は市町村で除染するという、ある意味では不思議な制度が実施されたのである。

そして、「市町村による除染実施ガイドライン」では、除染の実施主体を「地域住民の方々が自ら実施することができる作業」と「安全性や効率性などから専門事業者に依頼して実施すべき作業」にわけた。後者の作業の例として、高所作業など危険性の高い作業、重機などの特別の機器が必要な作業、文化財など慎重に取り扱うべき作業、線量率が高く安全性により配慮すべき作業をあげた。ある意味で、専門事業者が行うべき作業は限定しているといえる。町内会などの市民に依拠して行っている郡山市の除染作業は、国の指針におおむねそっているといえる。

もちろん、このような除染作業のあり方自体が問題である。そもそも、市民は、このような無償労働をする謂われはない。東電が実施すべき作業のはずである。国や市町村ならばかかった費用を東電に請求することもできようが、市民の無償労働では、まったく請求できない。

また、防護服や線量計などを持ち合わさない市民が、安全に除染作業ができようか。もちろん、半袖・短パン、マスクなしでも除染作業ができるとしていた福島県や郡山市のマニュアルとは違って長袖、防塵マスク、ゴム手袋、ゴム長靴などの着用が指示されているが、それにしても普通の衣類である。「市町村による除染実施ガイドライン」では、事業者の行う場合、従業者に個人線量計を持たせ、放射線量を記録することを義務付けているが、市民にはそのようなことは規定していない。要するに、どれだけ被曝してもわからないのである。

福島市の場合は、9月27日に「福島市ふるさと計画」というものを出し、その中で、市が中心となって道路・公共広場・公共施設などの主要な部分を除染をし、住民自らは住宅やその周囲の除染のみを行わせる方針を打ち出した。もちろん、町内会などに50万円の補助を出して除染作業を行わせることも規定している。しかし、住宅でも屋根や雨樋は業者委託で作業させることとしている。福島民報は、次のように報じている。

除染へ市町村始動 ほぼ全世帯対象に実施 福島市が計画
2011年10月 9日 | カテゴリ: 震災から7カ月

 福島市は市内全域の約11万世帯を対象とした除染計画をまとめた。除染した放射性物質を含む全世帯分の土を仮置きする場所は確保できないとして、民家分は敷地内に埋めて保管するよう求めた。市内の約6割を占める山林や農地は対象から外された。

 当初発表した計画では、費用負担対象を比較的高い世帯のみとしていたが、市は発表後、市内ほぼ全世帯の屋根と雨どいを業者委託で除染する方向で対象を拡大した。2年間で市内全域の放射線量を毎時1マイクロシーベルト以下にするのが目標だ。http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/10/post_2113.html

郡山市とはかなり対照的である。ただ、たぶんに、福島市の場合は有名になった渡利地区のように避難が問題になるような地域をかかえており、市民まかせにはできないという事情も加味しなくてはならないと思う。それはそれなので、福島市については、別の角度からみる必要がある。ここでは、郡山市の特質をうきたたせるために、福島市の事例を扱っているとご承知されたい。

他方で、郡山市は、10月1日に前述のように「郡山市放射性物質除染マニュアル(第一版)」を出した。これは、町内会などを通じて市民に除染を行わせる福島県のマニュアルを良くも悪くも踏襲したものである。この時期、郡山市議会が開会していた。これをみると、本来、国の方針であると除染計画を出さなくてはならないので、議員がさかんに質問しているが、市長などはほとんど町内会を通じての市民への除染作業ばかりを強調していた。ある意味では、全体的な除染計画不在の除染作業なのである。

特に、それがあらわれているのは汚染された土壌の仮置き場である。郡山市では、先駆的に学校や公園の除染を進めていた。しかし、今度は、道路・住宅の周りなど、かなり面的に除染をすることになった。そして出された汚染物のうち、ゴミや草などの可燃物はゴミ焼却場で焼却処分することになった。これ自体、東京の例をみてもわかるのだが、かなり問題なのだが。しかし、土壌については、最終処分場が決まらず、小学校の学区単位で協議して、学区内の公園に穴を掘って仮置きするこおTになったのである。

これでは全く意味がない。公園については、わざわざ除染したのに、また汚染土壌を運びこむことになっている。もちろん、穴を掘っていわば埋めるのであるから、多少は放射線量は低くなるだろう。しかし、それだけだ。子どものために公園の除染をしたのに、これではほとんど意味がない。

郡山市では10月2日に、デモンストレーション的に、喜久田町で市民2000人を動員した除染事業を実施した。福島民報は、次のように伝えている。

住民2000人通学路除染 郡山市喜久田町 汚泥など195トン埋設 
 小中学校の通学路の放射線量低減を目指す大規模な除染作業が2日、郡山市喜久田町で行われた。
 喜久田町区長会などが市の協力を得て実施し、住民約2000人が参加した。喜久田小、喜久田中の通学路のうち、多くの児童、生徒が通るコースを集中的に除染し、喜久田小を起点に側溝にたまった汚泥や側道の土砂を15キロ四方にわたって除去した。約5時間の作業で25キロの専用袋約5000袋合わせて195トンを回収した。JR磐越西線の喜久田駅前近くの喜久田町堀之内畑田の側溝は、地上1センチの高さで除去前の毎時1.30マイクロシーベルトから毎時0.94マイクロシーベルトに下がった。他地点もおおむね低下したという。
 袋の埋設は市建設業協会が担当。喜久田スポーツ広場に掘った穴に遮蔽(しゃへい)シートなどを三重に敷き、汚泥と土砂の袋を埋め、さらに約30センチの盛り土をした。これにより、袋を集めた時点で毎時7.45マイクロシーベルトだった埋設地の放射線量は毎時0.43マイクロシーベルトになったという。
 市は除染で出た汚泥や土砂をスポーツ広場や都市公園など市有地の土中に仮置きする手法を模索している。今回の取り組みをモデルケースの一つとして各地域に提案する方針。
(2011/10/03 09:29)
http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&blockId=9894048&newsMode=article

といっても、郡山市の除染計画が決まったわけではない。10月12日、福島民報は、次のような記事をネット配信した。

 郡山市は11日、除染計画の策定などを担う原子力災害対策直轄室を設置した。しかし、配属された職員は浮かぬ顔だ。国は除染地域の優先順位付けを求めているが、人口、地域の放射線量、子どもの利用する施設数など考慮する事情が多い上、具体的な基準を示さないためだ。

 郡山市内の放射線量は毎時0・2~2・0マイクロシーベルト。最も線量の高い地域が優先順位のトップ候補だが、そうした地域の中でも放射線量に高低があり一概に「大字」「字」の単位で実施場所を決めるのは難しい。市民から除染を早急に実施するよう求める声が相次いでおり、線引きの仕方によっては反発も生まれかねない。

 直轄室職員は「道路を挟んで除染が始まるのが早い世帯と遅い世帯が出る可能性もある。国は地域の設定の仕方まで示すべきだ」と訴える。

http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/10/post_2149.html

ある意味では、除染作業を市民に押し付ける枠組みはできていたのに、除染計画が不在であったことがわかる。ある意味、郡山にとってジレンマであったと思われる。

そのような状況を打破したのが、かなり皮肉なことだが、10月18日の野田首相の郡山訪問であったといえる。福島民報は、10月19日に次のように報じている。

除染徹底を推進 首相が郡山で園児の父母に表明
2011年10月19日 | カテゴリ: 福島第一原発事故

 野田佳彦首相は18日、郡山市の富田幼稚園で開かれた保護者との意見交換会で、除染を徹底して進め、子どもたちが屋外で遊ぶことのできる環境を一刻も早く取り戻す考えを示した。
 同園と市内の別の幼稚園の保護者らも参加した。除染の推進や食品の安全確保を求める意見が相次ぎ、野田首相は全力で対応することを約束した。終了後、みどり幼稚園の女性の保護者は「野田首相ならやってくれるのではないかと感じた」と評価。同園の男性の保護者は、首相が首相官邸で本県産のコメや野菜を使う考えを表明したことに、「心強く感じた」と笑顔を見せた。
 一方、富田幼稚園の女性の保護者は「いち早く子どもたちが外で遊べる環境をつくりたいという話はあったが、もっと具体的な話が聞きたかった」と不満を口にした。席上、原正夫市長が除染の財政支援や最終処分場整備などを求める要望書を野田首相に手渡した。http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/10/post_2200.html

たぶんに、野田首相は、幼稚園を訪問し、子どもたちやその保護者のために、国も除染に積極的になっていることを示したかったのだと思う。同日、郡山市とはだいぶ違う除染方針をとっている福島市大波地区を訪問しているので、郡山市の除染方法に特別賛意を野田がもっていたわけではないだろう。

しかし、その二日後の10月20日、郡山市は、町内会長などを集めて、「郡山市線量低減化活動支援事業・郡山市放射性物質除染マニュアル」説明会を開催した。そして翌日の21日から補助金受付を開始した。郡山市のサイトは、次のように伝えている。

「郡山市線量低減化活動支援事業・郡山市放射性物質除染マニュアル」説明会

 10月20日に郡山市公会堂で「郡山市線量低減化活動支援事業・郡山市放射性物質除染マニュアル」説明会を開催しました。
 郡山市線量低減化活動支援事業とは、子どもの健康を守るために、通学路等の除染活動を行う町内会、PTA、ボランティアなど自発的な取り組みを行う団体に対して、除染活動や除染に必要な物品の購入などに最大で50万円を補助するものです。
 開会に先立ち、郡山市自治会連合会の鈴木光二会長が「いくら除染、除染といっても一時仮置き場がなければ、除染は不可能です。除染には総論賛成、各論反対の意見が必ず出ます。今日は、忌憚のない意見を出していただき郡山市の除染につながるようことを願っています」とあいさつしました。
 続いて栗山副市長が、東日本大震災の被害状況やこれまでの学校等の表土除去の取り組み、喜久田町の自発的な除染作業で出た汚泥をスポーツ広場へ埋めた事例などを説明し、「本日は、町内会長さんをはじめ、PTA、ボランティアの皆様に参加いただき、大変ありがとうございます。ぜひとも皆さんにお願いしたいのは、今後の日本を担う子どもたちをぜひとも守る。ということで皆さんのご協力をいただければと思います。皆様のご協力なしには十分な除染は進みません。どうかひとつよろしくお願いいたします」とあいさつしました。
 この日は、町内会連合会やPTAなど133団体、244名の方に参加していただき、補助事業の内容説明や申請の仕方、除染マニュアルの説明、除染活動で生じた草木の収集・運搬方法などを説明しました。
 参加した方からは、早期に除染計画を策定するよう求めることや仮置き場の確保、除染活動の技術講習会の開催、活動時に負傷した場合の保険適用の有無、除染の際に使用する水道水の確保、町内会とPTAの連携のあり方、継続的な説明会の開催などの多くの意見や要望が出されました。市では、これらの意見などを踏まえ、今後の除染活動への取り組みに反映させていきます。
 なお、線量低減化活動支援事業の申請は、10月21日から受け付を開始しました。
http://www.city.koriyama.fukushima.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=24986

結局、この時点でも、除染計画が示されることはなかった。結局のところ、野田首相がきて、除染の必要性を主張し、それを契機に、町内会などへの補助を中心とする「線量低減化活動支援事業」のみが開始されたのである。たぶん、当事者たちは否定するであろうが、あまりにも近接しており、野田首相の訪問が「線量低減化活動支援事業」開始の追い風になったことは否めないであろう。しかし、あまりに「事大主義」である。

住民680人が除染 郡山市の赤木小の通学路周辺 
 郡山市の赤木小学区の通学路除染クリーン統一活動は3日、同校周辺で行われ、町内会や育成会など28団体の関係者や住民合わせて約680人が通学路の除染作業に取り組んだ。市内の中心市街地での大規模な除染活動は初めて。
 県の補助を受けた除染活動で、町内会などでつくる実行委員会の主催。市の協力を得て赤木小の通学路のうち、道幅の広い道路などを中心に除染した。住民がデッキブラシで路面を丁寧にこすった。地元の消防団のポンプ車3台を含む高圧洗浄機計12台が放水し、歩道や路肩にたまった土砂を洗い流した。
 除染前は、うねめ通りの最も高いところで毎時1・5マイクロシーベルトあったが、除染後は同1・3マイクロシーベルトになった。
 実行委によると、購入し使用した高圧洗浄機は今後、町内会で除染作業を行う際に貸し出す。

(2011/11/04 09:41)
http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&blockId=9904116&newsMode=article

華々しく報道される除染作業。しかし、それは単に町内会に補助金を渡して実施するものであり、「無計画」といえる。そして、そこから出された汚染土壌は、最初の除染目標であった公園に積み置きされる。

もちろん、ある程度早く除染が進展することはいいことである。しかし、「計画不在」の事業では、進展になるのだろうか。そもそも、マニュアル自体が、とても不備だというのに。

その上で、町内会・PTA単位で動員され、望まない人びと、いやむしろ、最大限防護しなくてはならない子連れの母親たちも、結局不必要な被曝にさらされる
のである。

前述したように、野田首相は幼稚園にきて、子どもたち、そしてその親たちのためにも国は除染に協力するといったはずだ。それが、全く逆のことに帰結してしまったといえるのである。

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さて、1923年の関東大震災において、被災者が自力で被災地にバラックー仮設建築物を建設したこと、そして、それが生活者としての被災者それぞれにとっての復興の開始であったことを述べてきた。当時の政府は、バラック建設を容認しただけではなく、用材供給という形で支援していたといえる。そして、帝都復興区画整理事業でも、減歩による道路・公共用地の確保という全体的な方針は維持しつつも、被災者が地域で再び生活することを考慮していたことを指摘した。

当時のバラックの景況について、震災・戦災について展示している東京都復興記念館が写真を展示している。ここであげておこう。実際に焼け跡のかなりの部分がバラックで埋め尽くされていたことがわかる。

震災直後のバラック(東京都復興記念館にて展示。2011年9月17日撮影)

震災直後のバラック(東京都復興記念館にて展示。2011年9月17日撮影)

1924年1月に、本建築建設も許可されるようになった。また、それ以降は、バラック建設も地方長官の許可制となった。しかし、区画整理が遅延しており、区画整理前に現実に本建築建設が認められることはきわめて少なかったと、田中傑の『帝都復興と生活空間』(2006年、東京大学出版会)は語っている。

結局、バラック建設に頼らざるを得なかった。バラック建設の着手は、1924年2月に延長された。さらに1924年8月には、区画整理の換地処分決定までバラック建設ができるようになった。そして、撤去期限も通常1933年8月となった。

そして、バラック自体も掘建小屋以上のものが建てられるようになった。そういう状況において、1925年1月に政府は「本建築以外ノ工作物築造物願処理方針」をだし、よりバラックについての規制を強めた。そこでは、換地処分が決まっている場合は換地予定地以外にはバラック建設は認めない、換地が決まっていない場合においては、煉瓦造、石造、鉄骨造、RC造以外で、建坪合計50坪以下もしくは建築延坪当たり平均単価120円を超えないという制限がかけられた。基本的に、換地処分以前においては、簡易に除去・移転できる構造で、建築費用も安価なものがバラックとして建築が認められたのである。

結果的に、バラックは約23万戸建設された。区画整理の障害になったそれらのバラックはどうなったのだろうか。撤去されてしまったのであろうか。撤去されたものもあるのだが…大半はそうではなかった。

大半のバラックは、区画整理による換地先に移転されたのである。これは、かなり大がかりなものであった。まず、軍の偵察機を借りて、復興事業を担当する復興局は、詳細な航空写真をとって、バラック移転計画を作成した。移転先も、また移転経路にもバラックが建設されていることが予想されるので、これは、大変な作業であった。そして、田中によると「多くの場合、バラックは部分的に除去して小さくした後、ジャッキアップし、轆を用いて換地先へ曳家された」(田中前掲書p165)としている。区画整理は、いずれにしても公共用地確保のために減歩するので、前の敷地において建設されたバラックは、小さくしないと移転できない。そこで、部分的にバラックを除去して小さくしてから、そのバラックを曳家して、移築するのである。

このような建物移転は、1927年から本格化し、最盛期の1928年8月には一日当たり500棟、合計1万5252坪の建物が移転したという。東京市では総計20万3485棟のバラックが移築された。戸と棟とは多少違いはあるが、まず大半のバラックは区画整理の換地先に移転されたのである。

バラック移築中、被災者は、国と東京市が用意した臨時収容家屋に住んだ。また、移転工事費・動産移転費・休業損失費など1坪当たり43円20銭が支給された。バラック建築費が120円以下と規定され、それに比べると被災者それぞれには家屋新築費にもならない金額であったが、移転したバラック建築面積が340万坪であり、総額では1億円かかった計算となった。当時の国家予算が約17億円弱であり、かなり大きな財政負担となったといえよう。

結局、区画整理事業で、街路は拡幅されたが、建てられた建築物の多くはバラックであったというのが、関東大震災の復興事業であったといえる。関東大震災は火災によって被害が拡大したのであるが、結局のところ、建物の不燃化率は、震災前よりも低下した。田中は「この間、建築物の不燃性能の点では、神田区、日本橋区、京橋区で1920年時点の棟数比で17~27%という水準から3~4%程度へと著しく低下した」(田中前掲書p116)と述べている。

バラックを改築して本建築にすることも進まなかった。そして、本建築といっても、木造建築物が多かったと思われる。次にあげるのは、現中央区築地に1930年に建設された商家である浜野家住宅である。

浜野家住宅(2011年1月15日撮影)

浜野家住宅(2011年1月15日撮影)

中央区のホームページでは、次のように紹介されている。

濱野家住宅
  区民有形文化財・建造物
  所在地:中央区築地七丁目10番8号
地図はこちら(電子マップ「ちゅうおうナビ」へ)

 濱野家は、海産物を扱う商家として、昭和5年現在地に建てられました。
 入口には、人見梁という背の高い梁がかけられ、軒は出桁造 という形式になっています。また、以前は、家に入ってすぐの場所が広い土間になっていて、鰹節 を入れた樽が山のように積まれていたといいます。
 濱野家住宅は東京の古い商家の造りを今に伝える貴重な建造物です。(内部非公開)
http://www.city.chuo.lg.jp/info/bunkazai/bunka002.html

つくりからみて、バラック建築とは思えない。本建築であろう。しかし、それでも、木造二階建てで、むしろ江戸的な家屋なのである。港区愛宕、中央区築地、中央区月島など、戦災をまぬがれた震災復興期の市街地は多少残っている(ただ、いまや再開発でほとんどが消滅していこうとしている)が、多くの建物は、銅版張りやモルタルで防火をしている建物はあるものの、それらを含めて、ほとんどが木造なのである。

このような震災復興のあり方は、防災上大きな課題を残した。ほとんどが木造家屋の町並みでは、空襲による戦災を免れえなかったのである。ある意味で、市街地の建築物のあり方は、バラックの移転などを認めるなど、被災者の生活を配慮したものであった。しかし、それは、将来の災害を防ぐという観点からは、問題をはらんでいた。それは、現在の津波被災地における、将来の防災のために住宅の高台移転を促進しようとする動きと、仮設店舗建設など早急に住民生活を再建させなくてはならないとする動きとの相克をある種先取りしていたとみることができる。

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前述のように、関東大震災後においは、焼け跡ー被災した市街地は、被災者が自力で建設したバラックー仮設建築物で埋め尽くされていた。このような中で、1924年より、帝都復興事業として、帝都復興区画整理が開始された。

帝都復興事業についての詳細は、別の機会について述べたい。ここでは、当初の計画が、帝国議会においてかなり予算が減額されたことを述べるにとどめておく。

帝都復興区画整理事業について、前回のブログで前述した田中傑の『帝都復興と生活空間』(2006年、東京大学出版会)が、最初に開始された第6区画整理地区(神田区駿河台)をもとにその特徴を述べている。この地区では15本の道路が新設され、8万坪の宅地より新たに1万坪が道路用地に編入されたが、用地買収は行われなかった。

区画整理は、地権者や住民がそれぞれ敷地を出しあい(減歩)、それを公共用地にあてるという仕組みであるので、用地買収をしなかったのは当然である。しかし、減歩される地権者や住民は反対した。そこで、帝都復興区画整理事業においては「価格換地の原則」が打ち出されていた。つまり、同じ面積の換地を与えるのではなく、同一価格の換地を与えるということである。そうしなければ、買収せずに新たな道路用地を捻出することはできないのである。この仕組みは、現在の区画整理にも受け継がれている。

しかし、田中傑は、実際の運用は違っていたと述べている。

…ところが実際の換地交付では、従前の所有地面積を勘案しての換地(面積換地)も行われた。それに加え、本来は換地を交付せずに金銭整理されるべき極小な土地に対しても換地をなるべく交付した。換地設計の原則から逸脱したこれらの措置は、住民が区画整理後も地区内に残ることができるように配慮した結果である。第6地区区画整理委員会の審議過程においても、地区内にあった開成中学校を地区外へと転出させたり、地区内の土地を買収して公共用地に充てる(潰地の充当)ことで減歩率を下げるなど、地権者の不満をかわすための措置がみられる。
 以上のように、区画整理の実施にあたっては事前に定めた換地設計の原則には必ずしも縛られておらず、居住者への臨機応変な配慮がなされていた。…(本書p162~163)

このように、現実には、公共用地を買収せず減歩で捻出するという区画整理の仕組みは守りつつ、地権者や住民の反対も念頭におきながら、住民が少しでも居住地に住むことができるように配慮して、帝都復興区画整理事業はなされたのである。

なお、参考のために『港区史』下巻(1960年)に掲載されている、「第25地区換地位置決定図」をここであげておく。ここは、現在の港区愛宕ー虎ノ門の南側、東京タワーの北側ーを中心とした地区である。黒く塗りつぶされた土地が減歩によってあらたに道路となったところである。

第25地区換地位置決定図(1926年)

第25地区換地位置決定図(1926年)

さて、この区画整理事業の実施にあたり、焼け跡に立ち並んでいたバラックー仮設建築物は、どのようになったのであろうか。これについては、次回以降のブログでみておこう。

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津波によって沿岸の各市町が大規模に被災された宮城県において、都市計画の実施をみこんで広範囲に建築制限が適用されたこと、しかし、財源・制度など、とても宮城県レベルでは決定できない問題を抱えてしまっており、都市計画のグランド・デザインが描けない自治体が多く、先の見込みのないままに、建築制限が適用されつづけ、結果的に被災地の復興の妨げとなったことを、このブログでは以前みてきた。

それでは、震災からの市街地の復興は、歴史的には、どのようなものであったのだろうか。ここでは、1923年の関東大震災による市街地復興のあり方をみていく。関東大震災における市街地復興は、後藤新平が中心として実施された「区画整理事業」を中心に議論されてきた。そして、このような議論においては、後藤新平の先進性や指導力が高く評価されている。たぶんに、村井嘉浩宮城県知事の大規模再開発構想も、たぶんに1995年の阪神・淡路大震災の復興過程を念頭にしているのだろうが、歴史的な源流としては、関東大震災の復興過程にたどることができよう。

しかし、震災復興について、財源問題について帝国議会は減額し、後藤新平の計画は構想よりは限定したものになったことも指摘されている。

他方で、震災に襲われた町々の生活者の側からみた「復興」とはどのようなものであったのか。2006年に出版された田中傑の『帝都復興と生活空間ー関東大震災後の市街地形成の論理』(東京大学出版会)は、今までほとんど検討されてこなかった、町々のレベルでの復興を正面にすえて検討した力作である。

少し、本書などに従って、関東大震災の復興過程を、町々で生活していた人びとの視点でみておこう。このことは、現在において震災復興とは何かということを考える参考にもなるだろうと思う。

1923年9月1日に発生した関東大震災では、約31万戸が罹災した。東京の町は、下町を中心に徹底に破壊された。現在、東京の町を歩いていても、関東大震災以前の町はほとんど残っていない。かなり古い外見をもった家でも、震災復興期以後に建築されたものが大半である。空襲による戦災のほうが広範囲であるが、中には空襲以前の町並みが残存していることもある。それだけ、徹底的な被災であったということなのだ。

田中は、このように指摘している。

住宅を失った人々は屋外生活を余儀なくされ、一部は東京府や東京市、陸軍やその他の団体が提供した天幕や避難民バラック(公設バラック)に収容された。
 事態が沈静化すると、被災者はそれぞれに住宅を確保しはじめた。引き続き公設バラックに居住するものもいれば、自ら掘建て小屋を作るものもあった。(本書p150)

最初は、現在でいえば避難所や公で建設した仮設住宅に収容されたということになるのだろうか。しかし、だんだん、自身で「掘建て小屋」を自分自身で建設していったのである。

田中は、9月21日ー10月11日に実施した、被災者の生活実態のヒアリング調査に基づいて、「焼跡の掘建て小屋に居住する被災者は材料の供給さえあれば自ら家屋を建築しようとするものが多い…大部分の人々は次第に自力でバラックを建てて移り住むようになっていった」(本書p151)と述べている。

つまりは、焼跡に自力で掘建て小屋やバラックを住民自身が自力で建設し、「生活空間」を確保した。いわば、町々に暮らす人びとの復興とは、そこから開始されたといえるのである。

そして、当時の政府も、このような住民自らが焼跡で行うバラック建設を容認した。1923年9月16日に出された「バラック令」といわれる勅令第414号は、震災で焼失した区域において、仮設建築物の建設を認めた。この仮設建築物は、1924年2月末までに建設が着手され、1928年8月末までに撤去されることになっていた。そして、この仮設建築物については、現在の建築基準法にあたる市街地建築物法で定められていた規制(用途地域、接道義務、建築線からの突出の禁止、建築物の高さと配置、防火地区、美観地区に対する規定)を免除することにした。といっても、すべて規制しなかったわけではない。9月17日の内務省令第33号では、バラックの階数を2階とした。さらに、9月27日の警視庁令第42号では、仮設建築物の屋上を不燃材で覆うことを定め、衛生のための最低限の便所の仕様を提示した。

バラックの用材は、一つには廃材であったとみられる。しかし、そればかりではない。臨時震災救護事務局(総裁:首相)から東京市に交付され、市が区を通じて被災者に廉価で供給した建材を利用したものもあると田中は指摘している。このように考えると、被災者の自力によるバラック建設を、当時の政府は、ある意味では促進したといえるであろう。

このような、被災者の自力によるバラック(つまりは期限のある仮設建築物)建設、そしてそれを容認し、部分的には促進したといえる政府のあり方は、今日の「震災復興」という認識枠組みとは大きくかけ離れているといえる。一見、後藤新平による復興事業によって復興が開始されたと思われがちだが、すでに、焼け跡のバラック建設という形で生活者は自力で「復興」に着手していたのだ。

もちろん、今日と状況は違う。しかし、元々いた「生活空間」を確保するということが、生活者にとっては「復興」なのであると思う。その意味で、そのような生活者ー住民の意欲を後押しすることが行政に求められているのだと考えるのである。そして、結局のところ、生活者ー人びとの生活空間が確保できなければ、都市・村落の機能自身が停止してしまう。それは、行政自体がもっている「統治」という課題にも反することなのではなかろうか。

震災の焼け跡に建設されるバラックは、規制は強まりながらも、建設着手期限、建築物撤去期限が延長され、かなり長い間建設され続けた。結局、約23万戸建設されたとされている。まず、震災による東京の焼け跡を埋めたのは、このような被災者が自力で建設したバラックー仮設建築物であったのである。

後藤新平の震災復興事業は、この被災者が自力で建設したバラックー仮設建設物にいかに対処するかということも課題であった。そのことについては、また語ることにしたい。

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