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Archive for the ‘津波’ Category

一昨日(7月26日)、石巻市を再訪した。

石巻市は、6月24日の集計で、死者3110名、行方不明者2770名と、宮城県下では最大の人的被害を出したところである。家屋被害も、全壊18560棟、半壊2663棟、一部損壊10043棟、床上浸水6756戸、床下浸水8973戸にのぼり、全壊戸数では最多、全体でも仙台市に次ぐ規模にのぼった。

罹災概況図(石巻管内)

罹災概況図(石巻管内)

石巻市の被災状況は、大別して三つにわけられると思う。まず、旧北上川の河口、石巻湾にそって発達している市街地中心部、牡鹿半島や旧雄勝町に散在している小規模漁村、そして、北上川河口である。

石巻市街地は、多くの地域が津波に被災したといえる。まずは、石巻湾沿いに展開している工業港・漁業港・工場・魚市場・倉庫・水産物加工場が津波にあった。石巻港が3月11日に津波に襲われた際の動画を紹介しておく。

被災後の景況については、6月5日の写真を出しておく。7月26日には、いくつかの工場で再建工事に着手する動きがみられた。

日本製紙石巻工場(2011年6月5日)

日本製紙石巻工場(2011年6月5日)

石巻市漁港(2011年6月5日)

石巻市漁港(2011年6月5日)

そして、港湾部の背後の低地にあった市街地が津波の直撃を受けた。この地域をよくみると、最も海側の家屋が被害が大きかったことがみてとれる。

石巻市海岸部の市街地(2011年6月5日)

石巻市海岸部の市街地(2011年6月5日)

これらの低地にあった市街地のうち、最も被害の程度が大きいのが門脇町・南浜町であった。この地点は、単に津波に被災しただけではなく、火災が発生したため、より甚大な被害となった。

日和山より門脇町・南浜町方面をみる(2011年7月26日)

日和山より門脇町・南浜町方面をみる(2011年7月26日)

なお、門脇町と思われる部分が津波と火災に襲われる動画をここで紹介しておこう。前半は多少見にくいのであるが、後半の火災はよくわかる。

門脇町の背後にある日和山は、標高約55mに達し、中世には石巻周辺の領主であった葛西氏が石巻城を築いていたところである。こことその周辺は、津波被災を免れた。しかし、門脇町の火災からの延焼を防ぐのに必死であったと伝えられている。ここは、現在、門脇町などの津波被災地を見下ろせるスポットになっている。ここを訪問した時、ボランティアとおぼしい人々が多く訪れていた。

日和山(2011年7月26日)

日和山(2011年7月26日)

日和山のさらに後ろ側に、中央・立町などの石巻市市街地中心部が広がっている。ここも津波被害を受けたが、現在みると海岸部の市街地ほどではない。原形を保った家屋もかなり多く残存している。現在のところ、ぼつぼつと、何等かの営業を行っている店舗がみられる。

石巻市立町大通り商店街(2011年7月26日)

石巻市立町大通り商店街(2011年7月26日)

今や、かなり片付いているが、3月11日には、このあたりも一階部分は水没し、車などが流れていた。中央二丁目10-13の特定非営利活動法人石巻スポーツ振興サポートセンター事務局から、引き波を撮影した動画をここで紹介しておこう。

石巻は、それこそ起源は中世にさかのぼる古い町であり、近世から近代にかけても舟運の中心地として栄えた。古い建物が残っているが、それも被災していた。

観慶丸商店(2011年7月26日)

観慶丸商店(2011年7月26日)

中州に移築された旧石巻ハリストス正教会教会堂(2011年7月26日)

中州に移築された旧石巻ハリストス正教会教会堂(2011年7月26日)

なお、地盤沈下の影響と思われるが、海・川の水面が上昇しており、河畔では土嚢が積まれていた。女川や気仙沼でも感じたのであるが、この地盤沈下がかなりの問題となっていると思われる。

旧北上川河畔(2011年7月26日)

旧北上川河畔(2011年7月26日)

さらに内陸部の国道などには駐車場の広い郊外型の店舗が数多く所在している。このあたりも津波被災しているはずだが、かなり多くの店舗が営業を再開している。前日みた多賀城市のようであった。今、どの地方にいっても、市街地中心部の商店街よりも、郊外型の店舗のほうが活気あるといえるのであるが、その違いといえる。課題は、津波だけではないのである。

なお、街中をよくみたためかもしれないが、ボランティアを数多くみかけた。女川町・気仙沼市などよりも多いようであった。

参考文献:東京工業大学真野研究室『石巻まちあるきマップー石巻の歴史ガイド、再開店舗・活動ガイド』

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昨日(7月25日)のブログで24日の多賀城市の津波被災地に行ったことを伝えた。7月26日には、石巻市・女川町、7月27日には、気仙沼市の津波被災地の見分を行った。

中世史研究者2名、近代史研究者1名がともに見分した。私個人は運転するほうにまわり、それほど写真撮影をしていない。

詳細は、後日ブログに書くことを予定している。

ただ、印象をここで記しておく。

石巻は、ようやく市街地中心部の津波被災状況が把握できたと思う。まずは、石巻港とその背後の工場地帯・倉庫地帯・水産物加工場地帯が被災し、その背後の市街地が津波の直撃を受けたといえる。もっともひどいところが門脇町ということになるだろう。さらにその背後の石巻市中心部市街地も津波が襲ったが、すべての家が全壊するほどではなかったようだ。そして、市街地中心部の一部の店舗は営業を始めているようである。

女川については、ほとんど山奥というところまで、津波に被災したことがわかった。また、昨日行った午後は、潮が満ちてきたらしく、埠頭の内側にかなり浸水していた。五箇浦湾の漁港は、それぞれの地域ごとに仮設住宅が作られていた。

気仙沼市の津波被災地(2011年7月27日)

気仙沼市の津波被災地(2011年7月27日)

本日行った気仙沼市については、湾の一番奥が、もっとも被災していたことがわかった。巨大な船が残留されていた。

それにしても、仙台ー石巻間の三陸道は大渋滞を起こしており、今回の見分において大きな支障となった。そのため、予定していた南三陸町などに足を踏み入れることはできなかった。

それに、変な話であるが、どこでも仏壇屋の新規開業が目立った。

被害も各所で大きく違っているが、復興の度合いもかなり違っている。それについても、詳述したい。

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2011年7月25日、数名の友人たちと多賀城市を訪れた。

陸奥国府である多賀城は869年の貞観地震で破壊されたというところである。そのことを伝える『日本三大実録』の現代語訳をここでのせておく。

5月26日癸未の日、陸奥国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立っていることができなかった。ある者は(倒壊)家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑み込まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合うなどし、城や数知れないほどの倉庫・門櫓・牆壁[10]などが崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり山に避難することができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。
(http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87_%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81より)

2011年3月11日もこの地は地震・津波で被災した。6月24日の集計では、死者187名、行方不明者3名、全壊家屋1549棟、半壊家屋2353棟、一部損壊は948棟となっている。まさに、多賀城の城下にあたる多賀城市八幡の津波被災を伝える動画を以下に示す。

(<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/OrsYTS7TUqQ&quot; frameborder="0"より)

現在、現地に行ってみると、国府多賀城跡そのものは高台にあり、貞観地震でも東日本大震災でも津波被災は受けなかったと思われる。

多賀城跡遠望

ただ、遺跡の一部で開発が規制されていると思われる場所(平時には駐車場であるように思われる)が瓦礫の集積場になっていた。

多賀城跡周辺の瓦礫集積場

多賀城跡周辺の瓦礫集積場

ただ、この地域では、さすがに復興にむけた動きが目立った。多賀城市には仮設住宅が建設されている。

多賀城市の仮設住宅

多賀城市の仮設住宅

また、激甚な津波被災を受けたと思われる多賀城市八幡も、かなり商店が復興していた。

7月25日現在の多賀城市八幡

7月25日現在の多賀城市八幡

よくここまで復興したという感がある。

しかし、より海岸部は、津波被災の爪痕をまだみることができる。さすがに仙台塩釜港は再開していたが、その周辺は、まだかなり荒涼としていた。夏なので、草が成長していたが、いまだ、自動車や木などが散乱している。ここでは、仙台市宮城野区蒲生前通の景況を示しておく。

仙台市宮城野区蒲生前通

仙台市宮城野区蒲生前通

ここも、被災直後は、こんな状態であった。

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被災前の女川港と南側の五部浦湾はどのような地域であったか。私のように、被災前に一度も行っていない人間は、過去の記録、映像などしか想像するしかない。インターネットで次の動画をみた。

(http://www.youtube.com/watch?v=Yu20bDkEyMk&feature=related)

約一年前の動画だそうである。桜が写っているので、たぶん季節は春だろう。出発点は女川港で、県道41号線を南下し、途中小さな漁港を経由して、最後には野々浜漁港に到達し、そこをじっくり写している。出発点と最終地点はわかるが、その途中の漁港の地名はよくわからない。

ここに写っている海岸付近の人家のほとんどが原形をとどめていない。なお、たぶん、女川湾の湾口堤防と思われるものが写っているが、現在ではあとかたもない。私もみなかったし、グーグルの航空写真でもみることはできないのである。

この動画からしかよくわからないのだが……。五部浦湾の各漁港は、小規模ながらも、かなり整備されていた印象を受ける。営々として、この地域で生きようとしてた人たちの心意気がみてとれる。この地域の漁港が、いつから本格的に整備されているのかはよくわからないのであるが、その努力が文字通り水泡に帰してしまったのである。

最後に、野々浜の現況の写真を出しておく。どれほどの被害があり、復旧するにはどれほどの営為が必要なのかをよく考えてほしい。

野々浜漁港(2011年6月5日)

野々浜漁港(2011年6月5日)

しかし、これらの漁港の復旧についての予算配分は、国や県の役人たちにまかされている。彼らは、この地域がどのような地域であるのか、イメージがあるのだろうか。

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さて、前々回まで、女川町の津波被災状態についてみてきた。津波波高は14.8mに達しており、さらに津波の到達地点は標高20m程度にまで及んでいたと思われる。基本的に、海岸線に集落が密集していた女川町では、女川町中心市街地においても、周辺の漁村集落でも、ほぼ6~7割の家屋が被災した。人的被害でも約1割の人命が失われていたと思われる。

この状態で、どのように女川町は復興していくのであろうか。14~20mの津波を想定した集落の再建、生業である漁業の基盤であった漁港・漁船の再生、養殖などを行っていたそれぞれの漁協の立て直し、公共施設・観光施設の再建……、外部者の私が思いつくままにあげたが、その大きさ、重さにため息をつかざるを得ない。

まずは、集落の再建からみていこう。女川町の集落再建方針につき、朝日新聞のホームページは、次のように報道した。

住宅を高台に集める案、住民からは異論 宮城・女川町2011年5月22日19時33分

 震災で建物の7割近くが全壊した宮城県女川町で22日、新たな町づくりに向けた復興計画について、住民から意見を聞く公聴会が始まった。住宅地区を高台に集約する町の計画案に対し、参加者から異論が相次いだ。

 女川町は震災による津波で中心部など沿岸地区が大きな被害を受けたため、町は、被災住宅を町内の6カ所ほどの高台に集約し、限られた予算でインフラ整備や医療サービスの充実を図りたい考えだ。

 この日、説明が行われた町南部の牡鹿半島にある五部浦湾の沿岸では、七つの浜にそれぞれ7~40世帯余の小さな集落がある。地区内で1カ所に住宅を集約する案が町側から示されると、参加者から「それぞれの集落の高台に住宅地を整備して」との要望が上がった。

 カキやホタテの養殖で生計を立てる人が多く、地区幹部は「漁民は浜や船が見えるところに住まなければ、災害に対応できない」。漁業者の一人は「慣れ親しんだ先祖伝来の土地に帰ってくるとエネルギーが出る」と訴えた。

 説明に当たった安住宣孝町長は「連携することを考えなければ」と言いながらも「地域で議論を続けてほしい」として結論は出さなかった。町は有識者を交えた復興計画策定委員会にはかり、8月までに結論を出したい考えだ。(川端俊一)

この報道を集約すると、5月22日に女川町では町の復興計画についての公聴会が開かれ、住宅を6ヶ所の高台に集約し、「限られた予算でインフラ整備や医療サービスの充実を図りたい」という方針を町は提起した。この計画によると、女川町南部の五部浦湾沿岸の漁村は1ヶ所に集約されるということになる。それに対し、漁業で生計を立ててきた地域住民は、漁港に近い、それぞれの既存の集落に近い高台に集落を再建することを望んだということである。

さらに、『朝日新聞』2011年6月11日付朝刊の「移住難題」は、より詳細に、五部浦湾の各漁村について報道した。

 

高台集約 漁師反発

 「集約化は認められない。各集落ごとに高台の居住地を設けてほしい」
 津波で漁村集落が壊滅した宮城県女川町。牡鹿半島の五部浦湾沿岸に点在する七つの漁村を高台の1カ所に集約する町のプランに説明会の参加者から反発の声が相次いだ。町は7~40世帯の集落を1カ所に集約すれば、道路も上下水道も効率的に整備できると説く。
 沿岸はカキやホタテ、銀ザケの好猟場だ。七つの集落はそれぞれ漁港を構えて縄張りを争ってきた。縄張りは収入に直結する。
 縄張りが浅瀬に限られてきた野々浜地区は、震災で26世帯が10世帯に。区長の石森紀夫さん(64)はカキの養殖を廃業するつもりだ。
 震災を機に、国や県は漁港の集約化を目指す。石森さんは、集落ごとの高台移転を町が認めるとは思えない。とはいえ、七つの集落が歩み寄るのも困難だ。「とにかく時間をかけて話し合わないと……」
 一方、縄張りの広い横浦地区は、震災後も漁業に従事する世帯が20軒残った。1億円規模の銀ザケの養殖事業を手がける漁師の一人(59)は町の提案に猛反対だ。「億単位の投資が台風や天候で台無しになる怖さは、役人にはわかんねえ」
 ここでは、仮設住宅も七つの集落ごとに建設中だ。
(後略)
(中村靖三郎)

この報道で、より詳細に五部浦湾地域の状況がわかる。具体的には、高白浜、横浦、大石原浜、野々浜、飯子浜、塚浜、小屋取の七つの集落を、野々浜・大石原浜集落後背地にまとめようというのだ。実際、大石原浜・野々浜の後背地には、二万五千分の一地形図には、比較的平坦な高台があるようにみえる。

この内、高白浜、大石原浜、野々浜は、本ブログでとりあげた。ほぼ集落全体が壊滅したところである。下記に、グーグルの地図を示しておく。

この問題は、単純に津波被害防止のための集落移転というだけではない。本記事によれば、漁港の集約化がからんでいる。それぞれの集落が漁港を構えており、縄張りを争ってきたという。一方で、国や県は、漁港の集約化をめざしている。集落を集約して移転するということの背景には、漁港の集約化があるのだ。

集落移転についての国や県の動向について、6月11日付の『朝日新聞』の「移住難題」記事はこう語る。

 

高台移転に2.1兆円 宮城県試算
 宮城県が、津波被害を受けた12市町で計画する集団移転や区画整理の事業費を、総額2兆円1千億円と試算したことが分かった。約8600億円が12市町の負担になり、12市町の当初予算総額の4倍となるという。同県の村井嘉浩知事が11日の復興構想会議で提示する。菅政権は津波対策で高台移転構想を掲げるが、県は「このままでは12市町すべてが財政再生団体に陥る。現行制度では実現は不可能としている。
 宮城県では、集落ごと高台や内陸へ移転する「防災集団移転促進事業」や、被災地区を災害に強い市街地に再生する「被災市街地復興土地区画整理事業」を12市町が検討している。
 試算では、集団移転を目指す59地区1万3900戸の移転に4250億円▽26地区2万5800戸の区画整理に5850億円、道路整備に3223億円ーなどとした。県はコンサルティング会社の支援を受けて街づくり計画を策定している。岩手県と福島県は今後、試算をまとめる。
(高橋昌宏)

今のところ、報道だけでははっきりいえないのだが、国が集落の高台移転策を打ち出し、県が計画を策定し予算を要求するという形をとっているようである。

女川町では、ホームページで町の復興計画を公表している。次回以降、女川町全体の復興計画を見ていこうと思う。

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さて、さらに女川町南部の漁村の景況をみておきたい。女川町の太平洋側に面した側には、五部浦湾という湾が広がり、横浦、大石原浜、野々浜、飯子浜、塚浜という漁村が所在している。その、さらに向こうには、東北電力の女川原発が所在している。

これらの漁村のうち、直接見聞した大石原浜・野々浜の津波被災の状況をみていきたい。グーグルの航空写真を下に示す。

この航空写真を拡大してみると、大石原浜、野々浜地区とも、山側に散在している家屋や、やや大きい建造物(鉄筋コンクリート造と思われる)のみが残っていることがみてとれると思う。大石原浜・野々浜をあわせて111棟の家屋が被災した。そもそも、人口が90名しかいないので、集落の主要な部分はほとんど流失したといえる。

人的被害は、両集落あわせて90名のうち、死亡等は9名にのぼった。10%にあたる。ただ、大石原浜は元々23名しかいないところに4名が死亡等となり、その率は相対的に約17%にのぼった。一方、野々浜は、人口67名中死亡等は5名であり、約7%である。

もともと、大石原浜、野々浜は非常に小さな集落である。前の高白浜が人口78名、横浦が人口114名、飯子浜が人口104名、塚浜が人口164名と、単独では大石原浜、野々浜よりは大きい。

二万五千分の一地形図には、五部浦湾には「かき養殖場」の表記があり、かき養殖場で生計を立てていたのであろう。

まず、大石原浜からみておこう。両集落は、小さいながらも、それぞれ漁港を有している。次の写真は、大石原浜漁港に向かう道より2011年6月5日に撮影したものである。ただ、これは、グーグルその他で推定したものであり、その時はわからなかったことを記しておきたい(違う場所ということもありうる)。

大石原浜の景況

大石原浜の景況

まだ、原型を保つ家屋があることがわかる。漁港も完全に破壊されることはまぬかれたようで、防波堤には数隻の漁船が繋留されていた。

次に、野々浜漁港をみておこう。

野々浜漁港

野々浜漁港

この漁港は県道沿いにあり、津波の被災状況がよくわかる。防波堤は残っており、漁船が何艘も繋留されている。しかし、船着き場にあたる部分はかなり破壊され、網などおもわれる漂流物が漂着している。たぶん、船着き場部分には、何等かの家屋があったと思われるが、全く残っていない。グーグルの航空写真をみると、現在残存している防波堤の南ー陸側に小さな防波堤があった痕跡がある。しかし、その跡だけしかないのだ。

津波で被災した野々浜漁港

津波で被災した野々浜漁港

山側をみてみよう。ガソリンスタンドはたぶん全壊したが、まだ形は残っている。さらに高台の鉄筋コンクリート造と思われる建物も、原型をとどめている。しかし、それ以外は、瓦礫しか写っていない。

野々浜集落

野々浜集落

野々浜集落を海側から遠望した写真のほうが、津波被災の状況がもっとよくわかるであろう。次の写真は、上は西側の野々浜漁港をとったものであり、下は、それより東側をとったものである。高台の大きな建物と、その下のガソリンスタンド以外は、ほとんど原型をとどめていない。ここは、野々浜集落の中心部があったはずだが、ほとんど何も残っていないのである。

野々浜集落遠望(西側)

野々浜集落遠望(西側)

野々浜集落遠望(東側)

野々浜集落遠望(東側)

ここで、私が撮影した時、大石原浜、野々浜については、地名すら知らなかった。そのため、激甚な被災状況をみても、その意味はよくわからなかった。津波被災地をみても、そこが集落なのか、道路なのか、農地なのか、空地なのかも不明であったのである。今、グーグル・グーの航空写真、二万五千分の一地形図、女川町の地区別被災状況などをつきあわせて、その意味が少しづつわかってきたのである。つまりは、90名しか住んでいない集落で111棟の家屋が被災するーこれは、ほとんどの家屋が被災したということなのだ。死者が、集計した時点で一桁台であることも、奇跡にしか思えないのである。

このような被災した地域をどう再建していくのか。そこに、どんな問題が内包されているのか。次回以降見ていきたいと考えている。

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続いて、女川町南側の漁村部落をみてみよう。このあたりは、牡鹿半島東側で、太平洋に面したところにある。

まず、高白浜をみてみよう。高白浜は、比較的女川町市街地に近いところにある。グーグルの航空写真を下記に提示する。

高白浜は小さな漁港である。北側の比較的高い土地には多少家屋が残っているが、漁港に近接した南側の低地の家屋はほとんど流失してしまっている。

その状況を、地上からみてみよう。次の動画は、youtubeより転載したものである。

(http://www.youtube.com/embed/tSulr0k7NAM” frameborder=”0″より 4月16日撮影)

この動画でも、漁港の前面にあったはずの集落がほとんどなくなっている。左側の高台にかろうじて家屋があるが、実際に使用できるものかどうかはわからない。

私自身も6月5日に高白浜を撮影した。まず、次の一枚をみてほしい。

津波で被災した高白浜

津波で被災した高白浜

正面が高白浜の漁港であるが、その前の、集落のあったはずの空間は、瓦礫しか残っていない。ただ、後方には残った家屋があり、たぶん整理だと思われるが、自動車が停められていた。

ただ、漁港はまだ使われていた。防波堤の内側に漁船が繋がれていた。

高白浜漁港

高白浜漁港

被災前の高白浜漁港の景況は、このようなものである。

高白浜は、人口78名で死亡等11名、約14%の人命が失われたことになる。被災棟数60であるが、これはたぶんに納屋なども含んでおり、住宅は60戸もあったようには思えない。いずれにせよ、比較的高地にあった数戸を除いて、ほとんどが流失してしまったと思われる。集落規模は小さいが、津波被害は圧倒的であった。

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