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Archive for the ‘新聞報道’ Category

最近、朝日新聞で「エダノミクスvsマエハラノミクス」という連載記事(1月8~10日付朝刊)を読んだ。民主党の前原誠司政調会長と枝野幸男経産相の政策を対比的に論じたものである。

枝野の政策についても論じなくてはならないが、ここでは、より露骨に財界に近い政策を唱えていると思われる前原の政策を中心に検討しておこう。朝日新聞は、まず、前原の経済成長論について、このように紹介している。

国内市場は縮んでもアジアは成長する。原発や新幹線を海外に売り込めば成長は可能だー
 「良い製品を日本で作って海外に売ることで、雇用が生まれ、地域経済が活性化する。世界は成長を続ける」。前原は1日付の後援会会報でに書き込んだ。いま一度坂を駆け上がろうという前原は(司馬遼太郎の『坂の上の雲』からの連想)、各種世論調査で首相候補のトップに立つ(朝日新聞1月8日付朝刊)

好い製品を輸出すれば雇用が生まれる、そのためには原発も輸出すべである、そして、今後も経済成長を続けようというのが、前原の議論の中核にあるといえよう。

これに対し、朝日新聞は、次のようなコメントを付している。

 

だが、成長路線の放棄を唱え、枝野と勉強会を重ねてきた埼玉大学大学院客員教授の水野和夫(内閣審議官)は「企業が潤っても高騰するエネルギーの確保や株式の配当に回り、国内の雇用にはつながりにくい」という。
(中略)
 前原も説得力に乏しい。日本一国でどんな成長戦略を描いても、世界経済の状況次第でその戦略は簡単に崩れてしまう。インフラ輸出も超円高の逆風は避けられない。過去の自民党政権の成長戦略との違いもはっきりしない。(朝日新聞1月8日付朝刊)

前原が、彼の成長戦略の中で目玉として位置付けているのは、原発である。朝日新聞は、このように紹介している。

 前原にとって原発はグローバル市場に打って出る「目玉」だ。インドやベトナムなど新興国の需要は原発事故後も旺盛で、前原は「日本の技術への信頼は揺らいでいない。輸出はしっかりやるべきだ」と明言する。
 大和総研の試算では、定期検査に入る原発がすべて再稼働しなければ経済は滞り、実質国内総生産(GDP)が10年間平均で年14兆円(全体の2.5%)減る。前原は昨年末の講演で「日本が原発を再稼働できるのか世界のマーケットが見ている」と訴えた。「原油や天然ガスに過度に頼れば、産出国に足元を見られる」と主張する。(朝日新聞1月10日付朝刊)

これに対して、朝日新聞は「脱原発の国内世論は強まっている。『成長より安全』を願う人々を説得できなkれば成長戦略の柱とはなりえない」(朝日新聞1月10日付朝刊)と批判している。

この記事を一読して感じたことは、原発輸出などにより個々の大企業の成長をはかるという前原の戦略は、本当に「雇用」につながるのかということである。そしてそれが、全体の「成長」に本当に結果するのかということである。確かに、生産拠点が国内に事実上限られていた高度経済成長期においては、企業の発展は、国内の雇用をうみ、全体の発展につながっていったといえる。しかし、現在では、個々の企業が収益をえても、より低賃金の労働力を得られる海外に生産拠点を移しており、国内の雇用にはつながらない。国内での雇用は、まさに管理労働(そのために、イニシエーションとしての「就活」が一般化される)と補助的な非正規雇用に限定されていく。企業の収益をまったく度外視せよとはいわないが、、それを制御していくことも必要なのではなかろうか。

ある意味で、前原の政策は、高度経済成長期の時代状況を考慮しない、時代錯誤なものだと感じざるをえない。石原慎太郎東京都知事の「東京オリンピック構想」とそれほど変わらないだろう。

結局、事故を起こしてしまえば、経済的被害だけでも天文学的数字になってしまうのが原発である。福島原発事故の被害は、いったいどれほどのものとして見積もられているのか。補償は、除染は…。たぶん、昨年は、多くの俳優や歌手や学者が来日をとりやめたと思うが、そのようなものまで換算して被害額は試算されているのか。

現存秩序の枠内で、それこそ「交渉」して、より有利な地位を得ようとしてきたのが、3,11以前の日本社会であった。それは、前原のように、依然として根強く日本社会にはびこっている。個別の企業の利益や、所詮官僚機構の利益にすぎない「国益」、また所属しているマスコミや大学の利益-これらはもちろん、個々の成員のためのものではないが、それに依存していきれば共存共栄として有利に生きられるーそれこそ、高度経済成長期の「悪しき幻想」ともいえる。前原は、自分の成功体験を全国民に強制しようとしているのだ。そして、このような人物をもちあげているということが、日本社会の問題なのだ。

福島第一原発事故は、そんな幻想を揺るがした。政府や東電は、「姿勢」というものではなく、「能力」の問題として、この事故に対処しえない。どれだけ、事故においてまき散らされた放射性物質がまき散らされ、どれほどの健康被害が起きるか、まだ予測がつかない。また、いくら除染に努力するといっても、限界がある。除染を進めれば進めるほど、汚染された廃棄物が増大する。例えば、住宅地・学校などは除染できたとしても、広大な農地・山林・海洋すべてを除染はできない。福島県浜通りは、原発だけが産業ではない。農業・山林業・水産業も存在していた。それをすべて回復することが、現時点で可能なのだろうか。原発立地自治体は、確かに原発と「共存共栄」だったのかもしれない。しかし、それは、もはやない。

福島第一原発事故は、日本において、企業や国家などがつくりあげてきた現存秩序と「共存共栄」できるという幻想に疑念をもつ契機となったと思う。

今、福島第一原発事故というだけでなく、企業や国家と「共存共栄」するということについて、疑念が広まっている。しかも、それは、世界的に。「われわれは99%」だというのは、ニューヨークでの叫びなのだ。

その点からいえば、前原の議論は、時代錯誤で私の考えるような常識からみて違和感を感じざるをえないものにしかみえないのだ。それが、この記事を読んだ全体の感想である。

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一昨日(2011年12月31日)、例年のごとくNHKは紅白歌合戦を生放送で放映した。東日本大震災があった2011年という年をNHKがどのようにしめくくるのかということに興味があって、すこし注意深くみることにした。なお、ここで、紅白歌合戦で歌われた歌について、多少批判的なことを書くかもしれないが、その歌や歌っていた歌手を批判するつもりではなく、NHKの紅白歌合戦に対する姿勢を表明している材料として検討していることをまず申し述べておく。それでも、それぞれの歌手のファンには不快の念を与えるかもしれない。前もってお詫びしておく。

今年のテーマは「あしたを歌おう」ということがテーマになっていた。善意でいえば、NHKは「希望」で東日本大震災のあった2011年をしめくくりたいらしいのである。そして、それが、良くも悪くも、紅白歌合戦全体のコンセプトになっていたようである。

まずは、冒頭に、「なでしこジャパン」が登場してきた。別に彼女たちに文句はない。確かに、日本社会に「希望」を与えたことも確かであろう。しかし、彼女たちの「希望」は、震災・津波・原発事故における「苦悩」を背景にしていたがゆえに輝いたのではないか。ある意味では、「明暗」の「明」しかみようとしていないように思えた。

後、大体、そんな調子で進んだ。震災や津波の被災が語られることはあまりなく、語られるとしても「希望」の前提としてみられているようである。例えば、紅組司会井上真央が、3.11当日に誕生した子どもたちを紹介していたが、それこそ、「被災」という現実よりも「明日の希望」に焦点をあてた事例といえよう。

特に、福島第一原発事故については、ほとんどふれられることがなかった。長淵剛の「ひとつ」という歌の紹介で、長淵が原発事故より避難した子どもを鹿児島に招待したということが語られていた。福島出身の人が他にも出ていたので、全く言及されていないとは思えないのだが、印象に残ったのはそれくらいだ。

全く、NHKが被災地を無視していたわけではない。被災地復興のための「応援ソング」というものもかなり多く見受けられた。例えば、福島県出身のグループ猪苗代湖ズが歌った「I love you and I need you ふくしま」などがその一つである。この歌については、賛否両論があることは承知している。とりあえず、紹介しておこう。

この歌の中では、このように福島は歌われている。

I love you,baby 浜通り
I need you,baby 中通り
I want you,baby 会津地方 福島が好き

少し調べてみて、この歌の成立は、3.11以前だったようであることを知った。それならいたしかたないのだが…。ただ、この歌詞を聞いた時の感想では、この三つの地域を同列に扱ってよいのかと思った。ただ、それは、この歌を採用したNHKの方の問題であろう。全体でいえば、「希望」を際立たせたいという、NHK側のもくろみがよく現れていると思う。すべての「応援ソング」を注意深く聞いていたわけではないのだが、いわゆる「応援ソング」はこのようなかたちで「希望」が歌われていたように思われた。

「東北」や「ふるさと」を扱った歌も多かった。ただ、郷愁の中で歌われる「東北」「ふるさと」と、現実の東北の津波・原発被災地とはかなり距離があるのではなかろうか。千昌夫「北国の春」や北島三郎「帰ろかな」では、「ふるさとに帰ろうかな」と歌われていた。しかし、帰ることができる「ふるさと」は、実在するのか。千や北島が悪いわけではないのだが。

「短期的にでも元気づける」というならば、むしろ、現実の苦悩を一時でも忘れさせ、相対化させるようなもののほうがよいのではなかろうか。津波被災地の石巻市の夏祭りで、例年にはないディズニーのパレードがでて、石巻の人びとが喜んでいる映像をみたことがある。今回の紅白でも、ミッキーが出演していた。KARAや少女時代が出演していたのも、そのようなねらいなのかもしれない。しかし、ミッキーの出演には問題がなかったが、KARAや少女時代などの「韓流」の出演については、右翼的な人びとの抗議デモを招いたのである。

さらに、どうしても「希望」を語りたいのであれば、その底流にある「苦悩」にもっと光をあてなくてはならないのではなかろうか。紅白の中で、徳永英明が、中島みゆきの「時代」をカバーして歌っていたが、その点からみれば評価できると思った。歌詞を一部紹介しておこう。

今はこんなに 悲しくて
涙も 枯れ果てて
もう 二度と 笑顔には
なれそうも ないけど

そんな時代も あったねと
いつか話せる 日がくるわ
あんな時代も あったねと
きっと笑って 話せるわ
だから今日は くよくよしないで
今日の風に 吹かれましょう

まわる まわるよ 時代は回る
喜び悲しみ くり返し
今日は別れた 恋人たちも
生まれ変わって めぐり逢うよ
(後略)

そんなこんなの、一視聴者の違和感などは、もちろん気にせず、NHK紅白歌合戦は進行していく。そして、いわゆる、ラストは、スマップが歌った。スマップの歌は、「SMAP AID 紅白SP」ということでメドレーである。「AID」とあるので、応援ソングなのだろう。このメドレーの最後をなしているのが、「オリジナル スマイル」なのである。「オリジナル スマイル」の歌詞を一部紹介しておこう。

笑顔抱きしめ 悲しみすべて
街の中から 消してしまえ
晴れわたる空 昇ってゆこうよ
世界中がしあわせになれ!

(中略)
マイナスの事柄(こと)ばかり 考えていると
いいことない 顔つき暗いぜ

笑顔抱きしめ ココロに活力(ちから)
腹の底から笑いとばせ
女神がくれた 最高の贈り物
生まれつきの笑顔に戻れ!
(後略)
http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=5299

この歌は、1994年に発売されており、震災とはもちろん関係がなくつくられた。歌っているスマップにも、別に、他意はない。しかし、やはり、この歌をラストにもってきたNHKの意図は、やはり「希望」を強調しようという意識なのであろう。だが、この歌を聞いていると、笑えば何でも解決できるように聞こえるのだ。

もちろん、笑うことも必要だ。しかし、今、笑っているだけで、何が解決するのか。笑っててはすまない問題もあろう。怒ることも悲しむことも、また必要なのではなかろうか。

「希望」は重要である。しかし、「苦悩」が先行していることが、あまりにも紅白歌合戦では軽く扱われているように思えた。

確かに、紅白歌合戦なんて、日本という国民国家でその年流行した歌を確認することによって、日本国民というアイデンティティを確認する国民国家の国民統合の装置ということができる。しかし、これは何だろうか。家族・友人・家・財産・故郷を失い、仮設住宅の中でようやくテレビを見ている人びとも「国民」の中にはいるはずだ。国民統合の装置であるはずが、「国民分断」の象徴のように思えてならないのだ。「共苦」という姿勢がかけたまま、「希望」だけが強調されていたのが今回の紅白だったと思う。

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本日(2011年12月19日)、北朝鮮の金正日総書記死去のニュースにかぶり、ほとんど報道されないであろう出来事が、昼、東京の新橋駅前であった。ここで、野田首相が、街頭演説を行う予定だったのだ。

この街頭演説は、少し前から企画されていた。時事通信は、12月15日付で、次のような記事をネット配信している。そして、15~16日に、他のメディアも同様の報道を行った。

野田首相、19日に街頭演説=支持率下落を意識?
 野田佳彦首相は19日に東京都内で街頭演説を行う。消費増税を含む社会保障と税の一体改革を中心に、政権の基本方針を訴えるとみられる。選挙に関わりなく首相が街頭でマイクを握るのは異例。内閣支持率下落の理由として首相の発信不足を指摘する声があることも意識しているようだ。 
 支持率下落に関し、首相は15日付の首相官邸のブログ「官邸かわら版」で、「国民の皆さんが、野田政権に向けている視線に厳しさが増していることを感じる」と指摘。「私自身にも閣僚にも、期待に応えられていない部分がある。心を正し、改めるべき点はしっかり改め、課題に一つ一つ答えを出し、使命を果たしていくしかない」とした。(2011/12/15-21:15)http://www.jiji.com/jc/zc?k=201112/2011121501022

この報道からみると、野田首相は、内閣支持率低下にかんがみ、街頭で「消費増税を含む社会保障と税の一体改革を中心に、政権の基本方針を訴える」ことをしたかったようである。財務相就任まで、ほぼ平日はかかさず、千葉の選挙区で街頭演説をしてきたという野田首相らしい考えだといえる。

確かに、毎日街頭演説をしているのはつらいだろう。選挙期間中、立候補者が駅前で演説しているのをみたことがあるが、朝などは通勤時間で、ほぼ聞いてくれない。ほんの少しの言葉が耳に入るのもまれなくらいだ。そのような「街頭演説」を毎日にこなして、支持率をあげ、選挙戦を勝ち抜いてきた野田首相だからの発想だといえる。「異例」というが、選挙期間中でもない限り、確かに今までの首相は、街頭で演説などあまりしてこなかった。

そして、19日午前、テレビ朝日は次のような記事をネット配信した。野田首相は、「昼休みに集まる多くのサラリーマン」をターゲットとして、「消費税増税」などの世論形成をしようとしていたとテレビ朝日は観測している。

菅政権で入閣するまで20年以上にわたって、駅前での演説を日課にしていた野田総理大臣。内閣支持率が急落し、発信力不足が問われるなか、今週から消費税の議論が本格化することから、現職の総理としては異例の街頭演説を行います。「どじょう演説」でトップの座を射止めた野田総理の反転攻勢となるのでしょうか。

19日午前から、民主党議員による演説が始まっています。オフィス街の新橋で、野田総理がターゲットにしているのは昼休みで集まる多くのサラリーマンです。この後、現職総理として選挙遊説以外では異例の街頭演説を行います。国会や記者会見でも主張してきた消費税増税の必要性などについて世論の支持を得ようと、今度は得意の街頭演説で直接国民に訴える作戦です。消費税増税をめぐっては、民主党幹部からは「まとまらなければ年明けに先送りもあり得る」との声が強くなっています。世論に訴えながら、何とか年内にまとめたい野田総理とのせめぎ合いが激しくなっています。
http://news.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/211219013.html

新橋駅前で演説する民主党の議員たち(2011年12月19日撮影)

新橋駅前で演説する民主党の議員たち(2011年12月19日撮影)

たまたま、時間があいたので、私も、演説会場にいってみた。新橋駅前のSL広場で行われていたのだが、それほど広い広場ではない。そこが全体的にうまっていたとはいえる。しかし、「サラリーマン」が多く集まっていたか。もちろん、いないわけではない。しかし、そこで目立つのは、「民主党政権退陣」の横断幕やプラカードだった。

どのような人びとによって、そのような横断幕はかかげられたのか。横断幕やプラカードをみていただけではわからなかった。ただ、それらに加えて、日の丸が打ち振られ、「売国奴」みたいに民主党政権を批判する声がずっとあげられていたので、右翼的な人びとがいたことは確かである。

新橋演説会場で広げられる日の丸(2011年12月11日撮影)

新橋演説会場で広げられる日の丸(2011年12月11日撮影)

右翼的な人びとが、TPP他いろんな意味で民主党政権に対して批判的になっていることは承知していた。彼らが抗議にくることは理解できる。ただ、これは、全く気分の問題でしかないが、現職首相を「歓迎」するのではなく、「抗議」するという意味で、日の丸が振り回されてことには、結構驚いた。

そのうち、演説を行っていた宣伝カーの上で動きがあった。現職閣僚である蓮舫が宣伝カーから去った。そして、残った議員より、北朝鮮の金正日総書記が死去し、安全保障会議が開催されることになったので、演説会に向っていた野田首相は、急遽官邸に引き返したと発表があった(後で、テレビでみてみると、この発表がひどいもので、「韓国の」とか「金正日主席」といっていた。それだけ混乱しているのである。)

そうなると、俄然、会場全体が騒然となった。実は、宣伝カー一番近いところに陣取った人びとの多くは「脱原発」グループだったのだ。「脱原発」のプラカードが急遽とりだされ、多くの人が頭上でうちふった。そして、「脱原発デモ」でよくいわれる「原発いらない」などの掛け声がそれぞれ発せられたのである。

「脱原発」プラカード(2011年12月19日撮影)

「脱原発」プラカード(2011年12月19日撮影)

脱原発のプラカードに直面する民主党議員たち(2011年12月19日撮影)

脱原発のプラカードに直面する民主党議員たち(2011年12月19日撮影)

蓮舫などの「前座」が演説していた際には、比較的静かであった。たぶんに、野田首相の演説時に出して、最大の効果をあげようとした戦術だったと考えられる。

一方、「脱原発」グループの存在に気づいた右翼的な人びとは、今度は、「脱原発」グループに攻撃対象をかえた。「おまえたちこそいらない」「脱原発では不景気になる!」などなど。そして、対抗して「日の丸」が振り回された。最後までみなかったのだが、「脱原発」グループへの対抗の場にもなったといえる。

とにかく、野田首相が世論形成をしようとした新橋の演説会場は、「脱原発」グループと右翼的な人びとが野田政権への抗議の意をアピールする場になったのである。

私は、こう思う。「こんなの当たり前ではないか。TPPにせよ、福島第一原発事故収束宣言にせよ、許せないという人はたくさんいる。右にせよ左にせよデモが増えている中、抗議に来る人がいることは予測できたはずだ」と。

しかし、野田首相サイドは、そう思わなかったようだ。それこそ、3.11以前の選挙の経験則を振り回して、街頭演説で増税を誠実に主張すれば、世論形成できると思っていたようだ。確かに、自民党も民主党も政策的にはそれほど違いがなく、その中で選挙戦で勝ち抜くのは、利益でなければ人柄・雄弁であったのかもしれない。しかし、今や、そのことは通用しないのだ。ある意味では、「選挙」ではなく、直接的な意思表示が意味をなす時代への転換への第一歩をなす出来事だったのかもしれない。

今後、野田は街頭演説を続けるのだろうか。そして、そのたびに抗議行動が続けられるのであろうか。注視していきたいと思う。

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東日本大震災においては、津波に襲われた各地の被害状況をリアルタイムに記録した動画が数多く残されており、youtubeなどの動画サイトにアップされていいる。本ブログでも、津波被災の状況を示すものとしていくつか引用している。

しかし、このように、リアルタイムの動画が数多く残され、社会に流通するということは、非常に新しいことである。

まず、考えてほしい。基本的に、何か事件が起きているとき、それにまきこまれている当事者は、記録機材ーそれこそカメラ程度でもー持ち歩いていないのが普通である。基本的に、動画ないし写真などは、今までは、メディア関係者が事件の行われている場に赴き、そこで撮影され、テレビ・新聞・雑誌などのメディアを通じて発信され、最終的には記録されるというものであったといえる。その意味で、短時間で終わってしまう津波などの「現場」がリアルタイムで撮影されることは、たまたま、撮影機材をもったメディア関係者もしくは学術関係者がその「現場」にいたという「偶然」がなければ、ありえないことであったといえる。

東日本大震災の起きた今日、あまりにも一般的になっているのでほとんど指摘されていないのだが、このような状況は大きく変わったといえる。現在、多くの人が携帯電話を持ち歩いている。日雇派遣の際、求人のためのアイテムとなっているなど、たぶん、携帯電話は人びとの生活において必須なものになっているといえる。この携帯電話は、単に電話機能だけでなく、写真・動画撮影のカメラ機能をもつものが普通である。そして、メール機能やインターネット接続機能がついている。つまり、携帯電話をもつということは、出来事を撮影するカメラをもつということであり、さらに、撮影した動画・写真などをインターネットを通じて発信できるということなのである。

通常は、このような機能は、比較的他愛のないことに使われている。例えば、「今日、どこに行った」とか「夕食でステーキを食べた」とかなど、それぞれの個人が体験したことを伝え合っているにすぎない。しかし、日常時でも、「当事者が経験しつつあることを当事者自身の視点で記録し発信する」ということが行われている。

東日本大震災において、多くの動画が残されているのだが、大部分は携帯電話によるものではないかと推察している。もちろん、なにがしかデジタルカメラ・デジタルビデオによるものもあると思うが、津波より避難している人びとの多くが、わざわざデジタルカメラ・デジタルビデオなどを持参しているとは思えない。多くは携帯電話で撮影されたものであろう。津波をリアルタイムに記録している動画をみると大抵は避難している当事者たちによって撮影されたものである。事件を体験している当事者自身が、当事者の視点でリアルタイムで動画・写真を記録したということは、類を見ないことである。

携帯電話で撮影された動画・写真は、メールによって転送されることができ、youtubeなどの動画サイトに投稿できる。すべての動画を直後にアップしたとは限らないが、それこそ、リアルタイムに出来事を伝える速報性を、携帯電話で撮影された動画・写真は可能性としては有しているといえる。当事者自身が体験ししている出来事を、当事者自身の視点で、情報伝達するーこれは、例えば速報性を有するとされていたテレビもできなかったことである。

その例として、たまたまyoutubeで発見した動画をみておこう。南相馬市における津波被災を写したこの動画は、2011年3月11日、たぶんFNN(フジテレビ)のニュースで流されたものである。テレビで流しているのだが、テレビ局や通信社で撮影した動画ではない。福島テレビを介して「視聴者」から提供されたものである。この「視聴者」とはだれか。この動画の後の方の電話インタビューでわかるのだが、南相馬市に襲来した津波から避難した「当事者」なのである。

テレビ局もしくは通信社が「当事者」たちを撮影し、それをマスメディアとして情報発信しているのではない。当事者自身が当事者の体験しつつある「出来事」を記録し、情報発信しているのである。そして、テレビ局は、そのような「当事者」たちに依拠して、ようやく「速報性」を確保しているのである。

このことをせんじつめていくと、かなり大きな変化が起こっているということができる。メディアは、出来事の「当事者」たちを「客体」として記録・撮影し、そして、「主体」として情報発信していた。しかし、東日本大震災では、当事者たちが記録し、情報発信している。それに依拠しなければ、メディアは情報発信できないのである。その意味で、メディアと「当事者」たちの間の位相が大きく転換しているといえるだろう。

そして、メディアを介さず、「当事者」たちがyoutubeなどのサイトに投稿することも多い。実は、資料的には、ネット掲載の動画のほうが、価値が高いといえる。テレビ局などで流されている動画は、結局のところステロタイプな「津波像」を表現するように編集されることが多く、津波のすごさは強調されるが、一体全体、どういうところで具体的にはどのような状況で津波がきたのかがわからなくなっていることが多い。早い話、石巻でも気仙沼でも、似たような動画が流されている。しかし、ネット掲載の動画は、それぞれの当事者にいた場に即して記録されており、具体的な状況がわかるのである。

そのような意味で、東日本大震災で、多くの津波の動画が残されたということは、多いというばかりではなく、携帯電話とネットを介して、当事者とメディアの関係が変わったことを意味しているのである。それは、もちろん、東日本大震災だけに限られない。つい最近、リビアのカダフィ大佐を殺害した動画が流された。わざわざ戦闘現場にカメラ(従軍記者は別だが)をもってくるものがいるとは思えない。もちろん、断定はできないが、携帯電話での撮影ではなかろうか。いずれにしても、あの動画は、プロのカメラマンが撮影したものとは思われない。「当事者」が自ら体験していることを記録して情報発信し、それに依拠してメディアが報道するという時代が到来したということができよう。

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さて、また鉢呂経産相の問題に議論を戻してみよう。ここまで、鉢呂の「死のまち」発言の内容について、十分みていなかった。ここで、検討してみよう。なお、前述してきたように、ほぼ同時に「放射能つけちゃうぞ」発言も報道されているが、まずは「死のまち」発言にしぼってみていこう。

2011年9月10日付朝日新聞朝刊3面で、この発言の場について「鉢呂吉雄経済産業相の9日の閣議後会見での不適切発言は、福島視察の状況説明の中で出た」としている。まずは、公式の会見の場の発言であったことを指摘しておきたい。

そして、このように「死のまち」発言の要旨を紹介している。

【「死のまち」発言(要旨)】
 事故現場では、大変厳しい状況が続いている。福島の汚染が経済産業省の原点ととらえ、そこから出発すべきだと感じた。
 事故現場の作業員の方々は予想以上に前向きで、活力をもって取り組んでいる。しかし、残念ながら、周辺町村の市街地は、人っ子一人いない。まさに死のまちというかたちだった。野田首相の「福島の再生なくして、日本の元気な再生はない」を柱に、内閣としてやっていくと、至るところで話した。

 鉢呂の発言は、「福島の再生」という野田首相の発言を前提として、福島第一原発周辺町村の厳しい状況を述べ、その中で「死のまち」と表現したものだ。彼の主張は「福島の再生」を前提にしたものである。彼は、北海道泊原発を地元にかかえており、それなりに、原発については詳しかったのではないかと思う。原発事故がどのような性格をもつかは、通常の議員よりは理解していたのではないか。それゆえに、現状を厳しくみた上の発言になったと考えられる。それでも、彼は「再生」するということは前提にしていることは特筆しておきたい。

この発言について、朝日新聞は、まず、このように語っている。

 

原発周辺については、菅直人前首相も「長期にわたって住民の居住が困難な地域が生じる」との見解を示している。民主党内からは「そんなことを問題にしたら、口がきけなくなる。傷つけようと思って言ったわけではない」(幹部)と同情する声も出ている。

つまりは、菅政権の判断に従った発言と位置づけられるのである。このように、朝日新聞においても、鉢呂発言を問題にすべきではないという声も報道されているのである。

しかし、さらに、朝日新聞は、このように指摘するのである。

 

ただ、発言の不用意さは否めない。「死」という言葉には、再生を否定するイメージがある。長期避難を強いられ、帰郷の見通しすら立たない住民がいる中で、原発事故の補償問題担当の経産相が「死のまち」と表現すれば、被災者の感情を逆なでしかねない。

鉢呂の発言内容をみればわかることだが、鉢呂発言の趣旨とは全く相反したかたちで、「死」には「再生を否定するイメージ」があると主張している(なお、これ自身、意味不明だ。「死」というイメージには、「再生」を希求することと結びついている印象がある)。その上で、長期避難を強いられている被災者の感情を逆なでしかねないと述べている。「被災者」感情が問題だとしているのである。

その上で、野党指導者の鉢呂発言についてのコメントを紹介している。自民党の大島理森副総裁は「軽々しく言葉を吐いて、被災者から希望を奪うような発言をすること自体、大臣として失格に値する。深く反省しなければならない」とし、鉢呂経産相の辞任を求めた。公明党の井上義久幹事長は「一刻も早く住民を帰す努力をしなければいけない立場の大臣として、住民の気持ちを全く考えない発言で言語道断だ」と述べた。みんなの党の渡辺善美代表は「原発周辺の人たちにしてみれば、自分たちに責任がないのに避難生活を強いられている。感覚を疑う」と指摘している。

その上で、「地元」の声として、福島県の自治体関係者の反応をつたえている。

地元「好きで避難していない」

 東京電力福島第一原発が立地する福島県大熊町の渡辺利綱町長は、鉢呂経産相の発言について、「ふるさとを『死のまち』なんて言われたら、たまったもんじゃない。好きで避難しているわけではないんだから、避難者の気持ちも考えて発言してほしい」と話した。
 大熊町の課長の一人も「政府が『出ろ』と言った警戒区域に人がいないのは当たり前じゃないか」と切り捨てた。
 福島県議会の佐藤憲保議長は「状況説明とはいえ、被災者にとっては配慮に欠けた発言だ。抗議したい」と語った。

 このような調子で、鉢呂発言への批判が数多く報道されている。しかし、まずは、朝日新聞と同様に、「被災者感情」を根拠とした野党側の批判が出されている。そして、「地元」の声として、福島県の自治体関係者の発言が紹介されている。だが、この時点では、一般被災者は不在なのである。

朝日新聞・野党・福島県の自治体関係者は、自らを「被災者感情」を代弁するとしている。しかし、一般被災者の声は、ここにはない。鉢呂の発言の真意は、「福島の再生」にある。そして、その厳しさを説明するために「死のまち」として表現している。全く、真意とは違う形で、朝日新聞・野党・福島県の自治体関係者は、鉢呂発言をとらえている。そのように、曲解した結果を「被災者」に提示し、それに適合するような反応を求めているのである。

もし、このような形で報道されなかったら、どうであろうか。確かに「死のまち」と言われるのは不快であろう。しかし、真意まで説明されるならば、どのような対応があるだろうか。

このことは、今、「言葉狩り」としていわれている。しかし、今、ここで考えてみると「言葉狩り」以上である。「死のまち」を不適切とするのは、それを指摘する朝日新聞その他ではない。「被災者」なのであるとしている。そして、このような「被災者」の声ー現時点では不在であるーをつくりあげるために、情報を選択的にながしているのである。ある意味では、鉢呂を批判する「被災者」という主体を形成することが、朝日新聞他の発言にはめざされているといえる。

そして、何か問題があれば、すべてを「被災者感情」に抵触するという批判のしかたをしているのである。

言っておくが、別に政権に対して批判するなというのではない。批判するならば、「被災者感情」によりかかって「言葉狩り」をするのではなく、具体的な形で批判をしてほしいということである。例えば、「福島の再生」というが、「除染」はどうするのか。具体的には、どのような予算で、どのように行うのか。そのことにこたえられない大臣はやめてほしい、というような批判は正当といえよう。

結局、野田政権は、このような対応をすることになった。次のように、朝日新聞は伝えている。

 

首相は強く反応した。福島第一原発の周辺は現実に人が住めない状況だが、首相は「不穏当な発言」と断定。さらに謝罪と訂正を求めたうえで、更迭の可能性は打ち消した。藤村修官房長官も9日午後の会見で、「言葉を十分に選んで発言していただきたいと思うが、それがただちに適格性ということにつながるかどうかと指摘。これ以上、問題にはしない姿勢だ。

そして、鉢呂は、次のような形で、発言を取り消し、陳謝した。

【陳謝(午後の会見、要旨)】
 発言は表現が十分でなかった。全体の私の思いは皆さんにも理解いただけると思うが、被災者の皆さんに誤解を与える表現だった。真摯に反省し、表現を撤回させていただきたい。深く陳謝を申し上げる。被災されている皆さんが戻ってこられるように、除染対策などを強力に進めていくことを申し上げたかった。いま反省しながら陳謝する。

しかし、鉢呂については、発言の撤回と陳謝ではすまなかった。そのことは、後で述べておこうと思う。

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2011年9月9日の鉢呂経産相による「死のまち」発言は、2011年9月10日付朝日新聞朝刊では、大きな騒ぎとなっていた。そして、9月8日夜に記者に語ったとされる「放射能つけちゃうぞ」発言とあわせて報道されるようになっていた。1面では「『死のまち』発言 鉢呂経産相陳謝」「福島視察後、記者団に『放射能つけちゃうぞ』と見だしがでている。より詳細な報道をした3面では、「経産相『死のまち』『放射能つけるぞ』、野田政権、続く火種」と出ている。

さて、まず、この時間経過に注目されたい。後で詳述するが、鉢呂が福島県視察(野田首相に同行したもの)後に、記者団に「放射能つけちゃうぞ」と発言した(本当に発言したどうかは不明なのだが)とされるのは、9月8日夜である。そして、閣議後、記者会見で「死のまち」という発言をしたのは、9月9日午前である。つまり「放射能つけちゃうぞ」発言(?)は「死のまち」発言より、時間的には先行している。

しかし、実際には「死のまち」発言が朝日新聞において最初に報道されたのは、前述したように9月9日付夕刊である。そして、9月10日付朝刊は、「死のまち」発言の詳細とともに「放射能つけちゃうぞ」(?)発言が共に報道されたのである。

つまり、時間的には後に起こった出来事が先行して報道されているのである。

この二つの出来事の間における関係は、どのように考えたらよいのだろうか。この二つの出来事自体については、後に詳しく考えることにしたいのだが、今は、先行して、この二つの出来事の関係性を考えてみたい。

通常の因果律では、先行した出来事を前提にして後の出来事が起こると考えられるのである。

しかし、この場合では、逆に、後に起きた「死のまち」発言報道が、先行して起きたといわれている「放射能つけちゃうぞ」(?)報道のきっかけとなったということができる。

それを告白しているのは、9月13日付の朝日新聞朝刊37面に掲載している「鉢呂氏の放射能発言経緯」という記事である。この記事の前半は、鉢呂が「放射能つけちゃうぞ」発言をした経緯を述べている。「放射能つけちゃうぞ」発言については、鉢呂自身は認めておらず、そのこと自体検証が必要であろう。

後半は、朝日新聞他が鉢呂の「放射能つけちゃうぞ」発言をした経緯を述べている。これが真実であるかどうかも問題であるが、しかし、この言明は、非常に興味深い。ここでみておこう

 

1日遅れ、各社報道

 9日午前、新聞やテレビ・通信社は鉢呂氏の「放射能」発言を報じなかった。
 だが、その日の午前の記者会見で、鉢呂氏は原発周辺自治体を「死のまち」と表現、野田佳彦首相は9日昼すぎ、「不穏当な発言だ。謝罪して撤回してほしい」と語り、鉢呂氏は
同日夕に発言を撤回し、謝罪した。
 「放射能」発言を最初に報じたのはフジテレビとみられる。9日午後6時50分過ぎ、鉢呂氏の失言関連ニュースの最後に「防災服の袖を記者になすりつけて、『放射能を分けてやるよ』などと話している姿が目撃されている」と伝聞調で伝えた。
 午後八時半には自社のウェブサイトにも掲載。この後、他のメディアも報じ始め、共同通信は午後九時過ぎ、「放射能」発言を加盟社向けに速報。TBSは午後11時半からのニュースで報じ、NHKも午後11時59分に「経産相『放射性物質うつった』発言」というニュースをネット配信。朝日新聞など新聞各社も10日付の朝刊で発言を大きく扱った。

このように、「放射能つけちゃうぞ」発言は、発言当初は全く報道されていなかった。報道されるべき事実とは認定されていなかったと思われる。しかし、「死のまち」発言が9日に報道され、野田首相が発言の撤回と謝罪を鉢呂経産相に指示し、鉢呂が発言を撤回し謝罪した後に報道されるようになった。最初に報道したマスコミはフジテレビであり「死のまち」発言報道に関連して報道されたということは、この二つの出来事の関係性をよく示している。

その後、この朝日新聞の記事は、実際に8日夜どの記者が聞いたかを「検証」している。これ自身興味深いが、これは後述することにしたい。

ここでは、なぜ報道するにいたったかについて、マスコミ各社の言い分を聞いてみよう。毎日新聞社長室広報担当は「9日に報じなかった理由は『経緯についてはお話ししかねる』」と述べたと、朝日新聞の記事は報じている。共同通信では「経済部長名」(この記事の担当者は経済部なのだ!)で「『死の町』発言で、原発事故対策を担う閣僚としての資質に疑義が生じたことで、前夜の囲み取材での言動についても報道するべきだと判断した」とするコメントも配信したと、朝日新聞のこの記事では述べている。「放射能つけちゃうぞ」発言報道の火付け役となったフジテレビは「取材の結果、報道する必要があると判断した」としたと、朝日新聞は述べている。

「死の町」発言が原発事故対応担当閣僚としての資質に疑義が生じたきたから「放射能つけちゃうぞ」発言を報道したとする共同通信の答えは意味深長である。そして、朝日新聞自体も、この記事の中で、同様に答えている。

 朝日新聞の渡辺勉・政治エディターは「8日夜の議員宿舎での発言の後、鉢呂氏は9日午前の記者会見で『死のまち』とも発言。閣僚の資質に関わる重大な問題と判断して10日付朝刊(最終版)で掲載した」と話す。

この問題は、いろいろ取りざたされている。もちろん、「放射能発言」が実際に行われたかいなか、そしてオフレコ取材の内容を報道することの是非が問題となっている。しかし、よく考えてみると、ある時点で、報道に値するほどの事実ではないとされた出来事が、後から起きた出来事の報道によって、報道されてしまったという事実も問題なのである。しかも、どちらの出来事も事実関係が充分報道されず、さらには、たぶん別々の次元に属する問題をごっちゃにし、すべてが鉢呂経産相の資質に還元されてしまったのである。いわば、鉢呂の資質を問題にしたいために「放射能発言」が報じられたのである。「放射能発言」が報道されたから、鉢呂の資質が問題になったのではない。これは、ある意味で、後からの視点で事実経過を解釈する「歴史」の問題でもある。

次には、一連の報道の「第一原因」となった「死のまち」発言をみてくことにしたい。

*なお、本ブログも、ある意味で、後からの視点で事実経過を解釈する「歴史」の手法をとっていることを告白しておきたい。本来ならば、時間経過をおって記述したいのであるが、後からあかされる事実がないと、全く、この出来事の経過も意味もが不明となってしまう。それは、たぶん、新聞記事なども一般的にそのように書かれているだろう。ある意味、原発などは、建設当初は問題ではなかったことが、今の時点であるがゆえに、問題となっている。その意味で、このような、後からの視点が過去の事実の解釈を変えるということ自体は一般的にあるだろう。ということを留保しながら、この問題を問い続けてみたい。

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朝日新聞夕刊2011年9月9日付13面

朝日新聞夕刊2011年9月9日付13面

次に、朝日新聞が、鉢呂吉雄経産相の「死の街」発言をどのように伝えたのかを、時間をおって細かくみておこう。

朝日新聞が、鉢呂の「死の街」発言を最初に伝えたのは、2011年9月9日付夕刊である。

原発被災地「死の街」
鉢呂経産相、会見で発言

 鉢呂吉雄経済産業相は9日の閣議後会見で、前日に野田佳彦首相らと視察に訪れた福島県の東京電力第一原子力発電所の周辺市町村について、「市街地は人っ子一人いない、まさに死の街という形だった」と述べた。
 経産相は野田首相の発言を引用し「福島の再生なくして、日本の元気な再生はない」とも述べたが、多くの人々がふるさとをはなれざるをえない状況のなか、原発事故の被災地を「死の街」と表現したことは今後問題になる可能性がある。

この報道のしかたは、かなり異様である。通常、大臣の会見内容などは、夕刊の場合2面にのることが多い。この新聞でも、「郵政株売却先行 総務相は否定的」(川端達夫総務相)や「汚染土仮置き場 『国有林』も検討 細野原発相」という9日の閣議後会見の内容を伝える記事は2面に出ている。

しかし、鉢呂の記事は13面、社会面に出ている。小さい記事なので後から挿入されたものであろう。隣には「福島の子 本音あふれた 静岡でのキャンプ参加」という記事が掲載されている。まるで、鉢呂の発言の問題性を浮き立たせるようである。紙面からいえば、福島の人々(しかも子ども)の心情と、為政者である鉢呂経産相の「無理解」が対比されているといえる。

内容も、最初の文章は事実の報道といえるが、次の文章は、可能性を伝える観測記事といえる。そもそも、福島第一原発周辺の市町村の現状を「死の街のようである」と表現することが、なぜ問題になるのか、この記事だけでは不明である。隣の「福島の子 本音あふれた 静岡でのキャンプ参加」という記事とあわせてみると、明確な論拠を示さないままで、読者に「鉢呂発言を問題にすること」を煽動しているようにすらみえるのである。

そして、朝日新聞が「観測」しているように、「鉢呂問題」は大きな問題となっていく。

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