Feeds:
投稿
コメント

Archive for the ‘東海原発’ Category

2012年10月24日、原子力規制委員会は、現状で防災の目安とした原発から半径30kmより広い地域でも避難の基準となる積算被爆量を越える地域が出る可能性があることを公表した。そのことを伝えた朝日新聞の2012年10月25日付ネット記事を下記に示しておきたい。

4原発、30キロ圏外も避難線量 全原発の拡散予測公表

 原子力規制委員会は24日、全国16カ所の原発で東京電力福島第一原発事故のような深刻な事故が起きた場合の放射性物質の拡散予測を公表した。関西電力大飯原発(福井県)など4原発が、規制委が新たに防災の重点区域の目安とした原発から半径30キロより広い地域で、避難の基準となる積算被曝(ひばく)線量に達した。原発によっては従来の想定を超えた広い範囲を重点区域にした防災計画づくりが迫られる。

 国が全国の原発で大事故を想定した被害を予測し、公表したのは初めて。目安の範囲を超えたのは、大飯原発のほか、東電柏崎刈羽原発(新潟県)、福島第二原発(福島県)、中部電力浜岡原発(静岡県)。重点区域の対象市町村が増えることで、計画づくりが困難になることなどから、原発を再稼働させるのは一層難しくなる。

 規制委はこれまで重点区域としていた原発から半径8~10キロを、福島の事故を受けて国際原子力機関(IAEA)の基準に合わせて30キロに拡大。これを受け、自治体は来年3月までに防災計画を見直す。

 さらに、重点区域を指定するには、外部被曝と内部被曝を合わせて人が1週間に浴びる放射線被曝量が100ミリシーベルトを超える場合には避難を検討するというIAEAの基準も参考にする。今回の予測は道府県が重点区域の範囲を具体的に決めるための参考として示された。

 今回、福島の事故と同規模の事故が全国の原発で起きたと仮定し、各地の原発の基数や出力に応じて放射性物質の拡散を予測。その結果、大飯原発など4原発で、30キロを超える地点が積算被曝線量100ミリに達した。

 全国で唯一稼働中の大飯原発は、南南西から南東方向に放射性物質が広がりやすく、県境を越えて南に32.2キロ離れた京都市内でも積算被曝線量が100ミリに達した。隣接する関電高浜原発の予測では、大飯原発が避難基準値に達する地域に入る。高浜原発で事故が起きれば大飯原発も影響を受ける結果となった。

 全国で最も広範囲に放射性物質が広がると予測されたのは柏崎刈羽原発で、東南東方向に40.2キロ離れた新潟県魚沼市内でも避難基準値に達した。全国最多の7基が集中立地し、合計出力も最大。このため、予測上の放出量が最大になった。

 規制委が示した原子力災害対策指針案の重点区域で対象となる自治体数は、これまでの15道府県45市町村から30キロ圏内に拡大するのに伴い21道府県135市町村に増える。対象人口はのべ約480万人におよぶ。今回の予測で30キロ超の地域でも避難基準値に達したことを受け、原発によっては対象市町村がさらに増えることもある。http://www.asahi.com/national/update/1024/TKY201210240130.html

実際、この公表により、原発事故の際の避難区域が拡大され、より広範囲を対象にした防災計画が必要になったことは確かであるといえる。

しかし、この公表について、原子力情報資料室では、次のように批判している。

注意点1)このシミュレーションは福島原発事故で放出された放射能(1~3号炉の合計)が一度に放出されたと仮定しているが、事故想定でこれが最大とは言えない。
福島原発事故は水素爆発だった。最悪の事故を想定するのなら、水蒸気爆発による放射能の拡散を想定するべきではないか。

注意点2)シミュレーションの被ばく線量は7日間で100ミリシーベルトを想定しているが、これは規制緩和である。
原子力規制委員会はIAEA基準に合わせようとしているので、素案では、防災対策の範囲として半径30kmが導入される。正確には「緊急時防護措置を準備する区域(UPZ: Urgent Protective action Zone)のことで、避難および屋内退避を必要とする範囲である。これまで半径10kmだったので、規制強化には違いないが、単純に強化と言えないからくりがありそうだ。
 素案では避難の際の基準は「検討し、本指針に記載する」として、示していないが、シミュレーションでは7日間で100ミリシーベルトを想定している。これがこのまま基準になってしまう恐れが高い。また、これはIAEAの推奨する避難基準である(素案では、避難の際の基準について「運用介入レベル(OIL: Operation Intervention Level)」という用語を使っている)。
 現行の防災指針では、全身50ミリシーベルトなので、この点では規制緩和となる。さらに言えば、100ミリシーベルトを基準にするのはとうてい容認できない高い線量基準だ。これでは健康への悪影響は必至となってしまう。また、素案に従えば、例えば、飯舘村の村民のような高い線量の被爆後の避難が繰り返されることになる。
(後略)
http://www.cnic.jp/4757

この試算でも事故の規模を過小に見積り、避難基準を緩和しているというのである。

さて、ここで、原発創設期の問題に立ち帰って考えてみよう。前回のブログで、1959年、イギリスのコールダー・ホール型原子力発電所の導入による東海第一原発(電気出力約16万kw)建設が決められたが、その安全審査の際、事故の際の公衆被曝線許容量が約20Svから250mSvに引き上げられたことにあわせるため、事故の際放出される放射性ヨウ素の量を、1万キュリー(約370兆ベクレル)もしくは60万キュリー(約2京2200兆ベクレル)から、まず、250キュリー(約9兆2500億ベクレル)、最終的には、25キュリー(約9250億ベクレル)にまで引き下げたことを指摘した。つまり、想定される事故の規模を小さく見積もることによって、避難すべき区域を小さくし、原発事故の影響を小さくしたのである。

しかし、このような原子炉の安全性審査の背後で、実際の原子炉過酷事故についての試算が行われていた。

すでに、アメリカの原子力委員会は、1957年の「公衆災害を伴う原子力発電所事故の研究」( WASH-740)において、「最悪の原発事故の場合には、急性死者3400人、急性障害者4万3000人、要観察者380万人、永久立退き面積2000平方㎞、農業制限等面積39万平方㎞」(今中哲二「原発事故による放射能災害—40年前の被害試算」 『軍縮問題資料』223号、1999年5月所収。http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/genpatu/gunshuku9905.htmlに転載)と試算している。この試算結果により、アメリカでは、原発事故の賠償責任を一定額で打ち切るプライス・アンダーソン法が制定された。

他方、本格的な原発建設が開始されようとされた1950年末、日本においても、同様の法律を制定することが検討されていた。そのため、科学技術庁は、日本の原子力企業の業界団体である日本原子力産業会議(現日本原子力産業協会)に、WASH-740を手本にして原発事故の際の被害状況を試算する研究を行うことを委託した。日本原子力産業会議は1960年に「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算」という報告書をまとめた。

この試算結果を、今中前掲書や武谷三男編『原子力発電』(岩波新書 1976年)に依拠しながらみておこう。この試算のモデルとしては、熱出力50万kw(電力約16万kw)の原子炉が海岸に所在し、原子炉から敷地境界まで800m、そして炉から20kmのところに10万人、120kmのところに600万人の都市が存在しており、これらの都市のほうに風が吹いていたと想定している。今中によると、東海第一原発の現実の立地条件(電力16万kw、20km地点に10万人の水戸市、120km地点に人口600万人の首都圏)にあわせていたとしている。その想定モデルは、次のようなものであった。

武谷三男編『原子力発電』107頁

武谷三男編『原子力発電』107頁

炉内には5億キュリー(約185京ベクレル)の放射性物質がたまっており、それが、2%(1000万キュリー、3京7000兆ベクレル)と0.02%(10万キュリー、3700兆ベクレル)放出されるという二つの場合を想定して試算された。たとえ、前述した東海第一原発の安全審査では、最終的に放出される放射性物質を25キュリー(9250億ベクレル)としていたが、それとは全くかけ離れた規模で原子炉事故が想定されていたのであった。

ここでは、1000万キュリー放出された場合の試算結果をみておきたい。下記の表によると、最も人的被害の大きいのは、気温逆転層がある状態でほぼ原子炉内の放射性物質と同じ構成のもの(全放出、なお揮発性放出とは揮発性成分のみ放出のこと)が粒度小(1μm)で放出された場合で、死亡540人、障害2900人、要観察400万人に達するとしている。なお、この死亡・障害は急性障害のみで遺伝や晩発性障害はカウントしていない。『原子力発電』では「要観察者」は25〜100レム(250〜1000mSv)の照射をあびており、この人びとのガン発生率は大人では2倍に、胎児・小児では約10倍になるだろうと指摘している。いずれにせよ、原発事故の場合、首都圏も含んだ多くの人びとに影響が及ぶであろうことが試算されていたのである。

武谷三男編『原子力発電』109頁

武谷三男編『原子力発電』109頁

一方、物的損害が大きいのは、雨天で全放出・粒度小で放射性物質が放出された場合とされていた。まず、物的損害の基準となる立退基準は、 A、12時間以内に全員立退き、B、1ヵ月以内で全員立退き、C、都市では半年退避、農村では立退き、D、一ヵ年農業制限となっていた。その表は下記に示す。なお、単位は1Sv=100レム(1レム=10mSv)、1キュリー=370億bqとして換算されたい。

武谷三男編『原子力発電』110頁

武谷三男編『原子力発電』110頁

そして、避難人数9万9000人(A+B)、耕作禁止(農村)・半年退避(都市)対象者が1760万人(C)、農業制限面積が15万㎢(D)、全損害金額が3兆7300億円となっている。1960年当時の国家予算が1兆7000億円であり、その2倍をこえている。その試算結果は下記の表に示しておきたい。

武谷三男編『原子力発電』108〜109頁

武谷三男編『原子力発電』108〜109頁

今中は、この試算による物的損害について、「10万人の早期立退き、1760万人の退避・移住、15万平方㎞に及ぶ農業制限といった数字に匹敵するようなことは、戦争にともなう壊滅的被害しか思い浮かばない。」と指摘している。つまり、東海村第一原発の認可で安全が強調される一方で、原発の推進者側は、原発事故の過酷さをそれなりに認識していたといえるだろう。このような原発の危険性についての認識は、1964年の原子炉立地審査指針の策定の前提になったと思われる。

しかし、このことは、ながらく隠蔽されてきた。「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算」は、その試算結果については表で示すのみで、試算結果の意味については全く語っていない。この報告書は、1961年の「原子力損害の賠償に関する法律」の国会審議において概要のみが示されただけで、全体はマル秘とされた。1973年前後にはコピーで出回っていたようだが、科学技術庁は1989年の国会答弁で存在すら否定し、ようやく1999年になって国会に提出されたのであった。

この試算結果自体、電気出力16万kwという今からいえば小規模な原発を想定したものであり、ガンや白血病などの発生を想定していないものである。武谷三男編『原子力発電』では、電気出力100万kwの発電所を想定した1974年のラスムッセン報告を使ってさらに詳しく述べている。

ただ、、ここで確認しておきたいのは、日本で初めての商用原発(東海第一原発)の1959年の安全審査においては、非常に過小な原発事故規模の見積りをしておきながら、ほぼ同時期の1960年には、より大規模で広範囲な原発事故被害の試算を政府・原子力委員会・日本原子力産業会議は把握していたということである。このような原発被害の試算が、低人口地帯に原発立地を限定することになる1964年の原子炉立地審査指針の成立の前提にあったといえる。しかし、この試算結果は隠蔽され、原発立地において「安全」であることが強調されたのである。

すでに1960年という段階で、原発事故の広範囲で深刻な被害は想定されていたといえる。つまり、現在の福島第一原発事故とは、この段階から想定可能だった。そして、この想定結果が隠蔽されて、福島をはじめとする各地の原発立地はすすめられたのである。

広告

Read Full Post »

さて、このブログで述べてきたように、関西圏では、1957〜1960年にかけて関西研究用原子炉設置反対運動が惹起され、原子炉の立地問題が浮上していた。並行して、関東においては、商用原子力発電所第一号として建設されることになった東海発電所設置につれ、その安全性が問われる事態となっていた。政府・産業界が進めようとした原子力発電所建設計画は、湯川秀樹などの反対を押し切った形で1957年に承認され、その受け皿としての日本原子力発電株式会社(日本原電)が同年11月に発足した。そして、イギリス型のコールダー・ホール型発電所(電気出力約16万kw)が導入されることとなり、1958年6月にイギリス側と調印した。なお、イギリスのコールダー・ホール型発電所が導入される大きな要因として、この発電所に使われる原子炉が、元来天然ウランを燃焼してプルトニウムを生産する軍用プルトニウム生産炉であり、この発電所によって、電力だけではなくプルトニウムを得ようとした原子力担当大臣兼原子力委員長である正力松太郎らの意向が働いていたことが、有馬哲夫「日本最初の原子力発電所の導入過程」(歴史学研究会編『震災・核災害の時代と歴史学』、青木書店、2012年)で紹介されている。この東海発電所が、日本最初の商用原発である東海第一発電所(東海第一原発と略称。現在は廃炉作業中)となっていく。
 
この東海第一原発の設置については、1959年3月より設置許可申請が出され、安全審査が開始された。しかし、それ以前からさまざまなかたちで安全性がとわれた。その背景になったことは、コールダー・ホール型原子力発電所原子炉の原型となった軍用プルトニウム生産炉であったウィンズケール原子炉が1957年10月10日に火災によりメルトダウン事故を引き起こしたということであった。このメルトダウン事故は、原子炉構内だけでなく、周辺にも放射能汚染を引きおこした。周囲の500㎢内で生産された牛乳は約1ヵ月間廃棄された。その意味で、原子炉—原発事故が、周辺にも放射能汚染を惹起することを明瞭に示した事例となった。

このコールダー・ホール型原子力発電所の安全性については、すでに1958年2月に、日本学術会議・日本原子力研究所・原子力燃料公社ほか主催で開かれた第二回日本原子力シンポジウムで議題となった。このシンポジウムの最終日2月9日に行われた「原子力施設の安全性をめぐる討論」において、電源開発株式会社の大塚益比古は、次のような指摘を行っている。

むすびに東海村のある茨城県の地図に、アメリカ・アイダホ州にある国立原子炉試験場の広大な敷地を重ねた図と、先日事故を起したウィンズケール周辺の地図をならべて示し、発展途上の原子力の現在の段階では、敷地の広さも一つの安全装置であり、一旦事故が起れば、公衆への災害を皆無にすることは不可能であることを考えれば、そのように広い面積を得ることは不可能なわが国では、たとえ原型にコンテーナーのないイギリス型の炉にも必ずコンテーナーを設けるなど、可能な限りの努力を安全性にそそがない限り、従来の技術では可能だった試行錯誤のできない原子力では、その発展を逆に大きくひき戻す結果にさえなりかねないことを強調した。(椎名素夫「原子力施設の安全性をめぐる討論」 『科学朝日』1958年4月号 36頁)

この図を、下記にかかげておく。アメリカの国立原子炉試験場にせよ、ウィンズケール原発による牛乳使用禁止区域にせよ、かなり広大であり、東海村にあてはめれば、人口密集地域である水戸市や日立市も含まれてしまうことに注目しておきたい。

『科学朝日』1958年4月号

『科学朝日』1958年4月号

特に、東海第一原発の安全性については、コールダー・ホール型原子力発電所の原子炉が黒鉛炉であって黒鉛ブロックを積み上げただけで、格納容器(コンテナー)をもたない構造であり、日本において耐震性は十分であるのかなどが中心的に問われた。この安全性問題の総体については、中島篤之助・服部学の「コールダー・ホール型原子力発電所建設の歴史的教訓Ⅰ・Ⅱ」(『科学』44巻6〜7号、1974年)を参照されたい。ここでは、この研究を中心に、立地問題に限定して議論していきたい。

日本第一号の商用原発の立地について、当時審査基準がなかったため、敷地選択で紛議になることをおそれ、安全性を新たに検討することなく、すでに既成事実となっていた日本原子力研究所構内に建設することになっていた。そして、原発事故の際、最大規模で放射性ヨウ素が1万キュリー(約370兆ベクレル)もしくは60万キュリー(約2京2200兆ベクレル)流出すると想定し、アメリカ原子力委員会が公衆に対する許容線量としていた2000ラド(2000レム、シーベルトに換算すると約20シーベルト)を採用し、最大規模の事故の際でも立退きする必要がないとした。

しかし、ウィンズケール原子炉事故以後、イギリスの原子力公社原子炉安全課長ファーマーは、1959年6月にイギリスの新しい立地基準についての論文を発表した。中島・服部は、その骨子を次のようにまとめている。

同論文は立退きを要する放射線被曝量として25レムをとり、また敷地基準として次のようにのべていた。
(イ) 原子炉から450m(500ヤード)以内にほとんど居住者がないこと。
(ロ) 角度10°、長さ2.4km(1.5マイル)の扇型地域をどの方向にとっても、その中に500人以上の人が住んでいないこと。同じく子どもの大きな集団がいないこと。
(ハ) 8km(5マイル)以内に人口1万以上の都市がないこと。(同上Ⅰ、377頁)

このファーマー論文によって示された立退基準25レム(シーベルトに換算すると約250ミリシーベルト)は、設置者側にとっては大きな問題となった。もし原電のいう事故時の放射性ヨウ素の放出量1万キュリーを前提として、立退基準を8レム(約80ミリシーベルト)と規定した場合、風向きによっては100kmの範囲まで事故の際に立ち退く必要が出てくると、1959年7月31日に開催された原子力委員会主催の公聴会で藤本陽一が指摘した。他方、同じ公聴会で、設置に賛成する公述をした西脇安大阪大学助教授(関西研究用原子炉建設を推進した一人)は、立退基準25レムを認めた上で、放射性ヨウ素放出量についてはファーマー論文にしたがって250キュリー(約9兆2500億ベクレル)に引き下げて安全性を主張した(『科学朝日』1959年10月号参照)。

さらに、8月22日に学術会議の要請で開かれた討論会において、原電の豊田正敏技術課長(東京電力からの出向者であり、後に東電にもどって福島第一・第二原発の建設を推進、東電副社長となる)は、「申請書の内容あるいはそれまでの原電の言明を全く無視して、想定放射能量を25キュリー(約9250億ベクレル)とし、地震その他のどんな想定事故でもこれ以上の放射能がでることはありえない」(中島・服部前掲論文378頁)と述べた。いわば、安全基準は25レムとして、想定された事故時の放射能汚染を最終的には大幅に引き下げて帳尻をあわせたのである。

一方、ファーマー論文の基準によれば、東海第一原発は敷地基準の(ロ)と(ハ)を満足させていなかった。原子炉から1.3kmの所に小学校(子どもの集団)があり、さらに角度の取り方によれば、当時人口389人であった東海村居住区の大部分が入るが、その中に急増しつつあった原研職員は含まれていなかった。また、北方3.7kmの地点には人口11000人の日立市久慈町が所在していた。

まず、設置側の日本原電は、小学校は移転予定であると述べた。また、ファーマーは扇型は角度30°、長さ1.6kmとしてもよい、8km以内に1万人以上の都市がないということは直接危険を意味するものではなく、必ずしも守らなくてよいと述べ、自説を崩した。結局、この場合は、基準のほうを緩和したのである。

加えて、黒鉛炉のため格納容器がないので格納容器をつけるべきである、隣接して米軍の爆撃演習場があるなど、さまざまな安全上の問題が提起されていた。しかし、東海第一原発の安全審査にあたった原子力委員会の原子炉安全審査専門部会は、11月9日に安全と認める旨の答申を出した。そして、12月14日、内閣は正式に東海第一原発の設置を許可したのである。1960年に東海第一原発は着工し、1965年に臨界に達し、1966年より営業運転を開始した。しかし、この東海第一原発の建設はトラブル続出で、予定よりかなり遅延したのである。

このように、日本最初の商用原発である東海第一原発の安全審査については、原発事故時における放射線量の許容量が厳格になるにしたがって、原発周辺の居住を制限するなどとという当たり前の形ではなく、原発事故の規模を小さく見積もることによって、原発事故時の放射線量を許容量以下に抑えたのである。つまり、この原発の「安全性」とは、原発事故のリスクを小さく仮想することによって保たれていた。まさしく、仮想の上の「安全性」であったのである。

そして、この時期、通産省は、より実情に即した原発事故の想定を秘密裏に行っていた。それによると、東海村近傍の水戸市などはおろか、場合によっては東京にすら被害が及ぶ試算結果となったのである。このことについては、次回以降、みてみたい。

Read Full Post »

大飯原発再稼働の一つの理由が「夏場の電力不足」とされていたことー今や、それも根拠薄弱なのだがーは、周知のことといえる。

しかし、原子力利用が開始された草創期である1956年にも、電力会社の連合体である電気事業連合会は、将来の電力不足を名目とした原発建設を、原子力委員会に陳情した。『科学朝日』1956年7月号には次のような記事が掲載されている。

   

電気事業連合会のお願い
 4月12日電気事業連合会の松根理事と関西電力の一本松常務とは原子力委員会を訪れて、正力、石川、藤岡の3委員に「原子力発電計画に関するお願い」をした。
 それにはまず昭和40年度に数十万kw(後に再び資料が出されて45万kwと発表された)の原子力発電を必要と予想されることをのべ、「われわれは以上を考慮して、これに対処すべき万全の態勢をととのえ、営業用原子力発電の開発と運営に当る所存でありますが、貴委員会において原子力開発利用基本計画の策定ならびにその実施計画の策定に当っては左記の事項を考慮されることを切望致します」として、次のような要望事項をあげている。
A 原子力発電の年次計画として、昭和32年10月までに動力用試験炉を発注。昭和35年10月までに動力用試験炉を完成。昭和36年までに営業用動力炉を発注。昭和38年から40年末までに順次営業用動力炉を完成するものとし、この仕事は電気事業者が行う。
B 動力用試験炉は2台以上。炉の型は適当な型を2種以上、場所は東京、大阪など。容量は電力10000kw以上とする。これらの原子炉は「早期実現のため」輸入すべきである。
C 営業用動力炉は電力10万kw級とし、これは電気事業者が直接やる。初期は輸入する。国産化は原子力委員会で考える。
D 以上の対策の確立を助けるため先進国から適当な技術顧問団を招いてもらいたい。

1965年(昭和40)には電力が不足するので、原発建設を急いでほしいということなのである。

このことをテーマとして推進派の物理学者である伏見康治らによって「座談会 日本の原子力コース」が行われ、その記事が『科学朝日』に掲載されている。伏見は「お伺いしたいのは足りなくなるという推定が妥当なものか相当狂う可能性のあるものなのか…。」と問いかけた。この問いに答えたのが、科学技術庁科学審議官・東京大学教授であり、河川学・土木学を専攻していた安芸皎一である。安芸は、電気需要が年に7〜4%づつ伸びるなどと述べながらも「実をいうとわからない」とした。安芸は「いままではいかにたくさんのエネルギーを早く供給しうるかだったが、いまは安いエネルギーがほしいということなんです」と主張している。具体的には、当時の電力の源の一つであった石炭火力発電所において、今後石炭価格の高騰が見込まれるということが指摘されている。結局は、安価な電力を得たいということだったのである。

電気事業連合会による発電設備予測(1956年)

電気事業連合会による発電設備予測(1956年)

後に、中島篤之助と服部学が「コールダー・ホール型原子力発電所建設の歴史的教訓Ⅱ」(『科学』44巻7号、1974年)で上記のように実績と比較している。1965年の電力は、電事連の予測では水力1435万kw、火力776万8千kw、原子力45万4千kw、総計で2257万2千kwであったが、実績は水力1527万kw、火力2116万2千kw、原子力0kw、総計で3643万2千kwであった。結局、火力発電が予想以上に伸び、原子力発電に依存する必要は、まだなかったのである。

この座談会に出席していた科学者たちは、早期の原発建設には否定的であった。北大教授で物理学者の宮原将平が「俗論」といい、東大教授で化学者であった矢木栄は「原子力がなかったらどうするつもりか」とこの座談会で述べている。伏見は「研究者を無視した恐ろしい高い目標がかかげられて、正直な研究者がその階段を上ろうとして落っこちてしまうという結果になるんです」と懸念していているのである。この座談会に出席していないが、原子力委員であった湯川秀樹も早期の原発建設には否定的であった。この時期は、世界でもソ連のオブニンスク発電所(1954年)くらいしか原子力発電所はなかった(なお、1954年よりアメリカは原子炉を電源とした原子力潜水艦を使用していた)。また、ようやく原子力委員会や日本原子力研究所が創設されたが、まだ、ようやく日本原子力研究所の敷地が決まったばかりで、日本では全く原子炉などはなかったのである。

しかし、原子力委員長であった正力松太郎は、早期の原発建設に積極的であった。そして、コールダーホール型原発を開発していたイギリス側の売り込みを受けた。結局、1965年までに原発を建設することを1956年12月に原子力委員会は決定してしまう。1957年には湯川秀樹が原子力委員を辞任し、1958年にはコールダーホール型原発の導入が決定されたのである。このように、科学者たちの懸念をよそに、電事連の「電力不足」を理由とした原発建設が結果的に実現していくのであった。これが、日本で初めての原発である、東海発電所になっていくのである。

Read Full Post »

さて、東海村に研究炉(日本原子力研究所)・商用炉(東海発電所)が設置されたが、それは被ばくのリスクを少しでも回避するために過疎地の沿海部に立地するためであった。しかし、逆に、茨城県や東海村は、この立地により、人口増を含む地域開発を望んでいた。

このことは、日本初の原発である東海発電所が営業運転を始める1966年開始)1960年代においても問題になっていた。そのことが、財界中心に結成された原子力開発・利用推進団体である日本原子力産業会議(現在日本原子力産業協会)が発行した『原子力開発十年史』(1965年)に記述されている。『原子力開発十年史』に依拠しながら、みておこう。

原発が立地している地域の整備については、1959年頃からすでに原子力施設地帯整備法案の策定という形で議論されていた。しかし、周辺地帯の緑地化、建築制限などの規制面と、工場地帯・産業関連施設整備などの促進面が並立し、関係各省の調整が行き詰まってしまったという。つまり、原発立地にもともと内在している二面性が露呈していたのである。

そこで、原子力産業会議は、1961年9月に原子力施設地帯整備特別委員会を設置し、1962年2月に検討した結論を国会などに提出した。原発周辺は土地の買収をすすめて、道路拡張、公園・レクリエーション施設の整備を進め、空地地区指定を含めた土地利用計画を策定、さらに主要道路の整備や市街地開発にともなった新規道路の設置、上下水道や工業用水の整備、放射能安全対策の実施などを求めていた。開発促進するよりも、空地地区指定のように規制面が強いものといえる。

そして、原子力委員会は、1962年9月、原子力施設地帯整備専門部会を設置し、東海村周辺を対象として、原子力施設地帯整備の方針を検討することにした。

その場合、まず想定されたのは、原発事故の際、どれだけの地域が被ばくにさらされるかといことであった。その場合、1957年にメルトダウンを起こして周囲に放射能をまき散らした、イギリスのウィンズケール原発事故の規模を参考にすることになった。その規模の事故で被ばくを受ける範囲を風下側約8km以内、気象条件の良い場合では約2.4km以内とし、安全性を見込んで原発から10km以内を対象とすることになった。

そして、1963年7月に、同専門部会は中間報告を行った。『原子力開発十年史』はその内容を次のようにまとめている。

 

この結果、大部分の市町村については、それぞれの都市計画に従って、人口増加が行われてさしつかえないが、一部地域については、特別の考慮を必要とすることが明らかとなった。すなわち、日立市の南東部については、そこが東海発電所の比較的近傍であること、すでにかなりの人口集中が行われているので、現在でもなんらかの施策が必要である。東海村については将来東海駅付近に人口が増加する見込みなので、それに見合う施策が必要である。勝田市(現在はひたちなか市)についても、将来の人口増加をおさえるともに、なんらかの方策を必要とする。以上のほか原子炉施設から約2km以内の人口増加は望ましくなく、また、2〜3kmの地域の人口が増加する場合には、それに見合う施策が必要であるという結論を出した。(『原子力開発十年史』p333)

具体的には、次の地図をみてほしい。Aが東海発電所である。日立市は東海村の北側、勝田市(現ひたちなか市)は東海村の南側に接している。東海駅などの東海村の主要部は、東海発電所や日本原子力研究所のある沿海部の西側である。つまり、原子力関連施設の周辺での人口増加は「対策」が必要であり、できれば人口増加を抑制すべきであるとしたのである。特に2km以内の人口増加は望ましくないとしているのである。

そして、専門部会では、1963年7月に都市計画小委員会を設置して、東海村周辺の具体的な都市計画のプランを検討することになった。1964年6月に中間報告が行われ、その内容をもとに専門部会は原子力委員会に答申した。『原子力開発十年史』では、その内容を次のように紹介している。

(1) 施設地帯の住民の安全の確保と福祉の増進を前提として、人口や各種施設の配置とその規模の適正化を期しつつ、この地帯の健全な発展を図ることを目標とする。
(2) 具体的には、施設地帯を3段階に分け、原子力施設隣接地区(施設からおおむね2km未満)にはつとめて人口の増加を生じないよう、原子力施設近傍地区(おおむね2km以上6km未満)には、規模の大きい人口集中地区が存在しないようにし、また、その他の周辺地区(おおむね6km以上)には、人口の増加が正常に行われるよう留意する。
(3) したがって、原子力施設地帯の理想像は、白亜の施設を、公園、緑地などのグリーンベルト地帯がとりまき、その周囲には工場その他居住用以外の諸施設は配置され、さらに、その外側には住宅が整備され、また、これらを結ぶ道路、衛生施設などが整備されている。(後略)
(『原子力開発十年史』p.p333-334)

これが、原子力委員会などが描く、原発周辺地域の理想像なのである。事故による被ばくリスクを考慮して、隣接地区には住宅・工場をなるべく置かず、グリーンベルト地帯とする。その外側の近傍地区においても、工場などは設置しても、人口集中地区が存在しないようにする。原発周辺では、人口増加をなるべく抑制することが求められているのである。これは、たぶんに、立地地域の人びとの思いに反していたであろう。

そして、この中間報告では、原発隣接地区では、国や公共団体が、土地の買収などを行い、緑地化・公園化や農業地区化を進展させるべきとした。近傍地区においても、人口集中を抑制するため、都市計画法などで調整するとともに、この地区でも緑地・公園の拡大をはかるべきとしたのである。

結局、この「理想像」がどれだけ現実の原発周辺地域の整備の中で生かされたのか、これは、今後検討していく課題の一つである。ただ、一つ言えることは、1964年5月というほぼ同時期に出された原子炉立地審査指針とほぼ同一の構造をもっていることである。原発に隣接する地域は低人口地帯であり、さらに人口密集地帯から離して原発は設置されなくてはならないという審査指針を、より具体化したものといえよう。

原子力関連施設の周りに緩衝地帯を設けるということは、安全対策としては適切なことである。1999年の東海村JCO臨界事故においても、2011年の福島第一原発事故においても、その必要性は実感されたといえる。その意味で、例えば、漁村の真ん前にある美浜原発などは、危なっかしくみえるのである。

福井県美浜原発(2011年5月25日撮影)

福井県美浜原発(2011年5月25日撮影)

しかし、このように開発が規制されるということを、原発立地自治体の人びとは望んでいたとはいえないだろう。結局、被ばくのリスクを恐れて低人口地帯に設置し、人口増加を抑制するという原発を設置する側の考えと、地域開発を望む原発立地自治体側の考えは相矛盾しているのである。ある意味で、「低開発の開発」とでもいえようか。原発による開発のこのような性格が1974年に創出される電源交付金制度の前提になっているとみることができる。

Read Full Post »

前回のブログで、現在の大飯原発再稼働問題において、客観的な意味における「安全」と、「信頼」という問題に変換される言葉だけの「安全」との間にギャップが生じていることを述べた。このことは、日本において最初に原発が立地された東海村において、すでに生じていたのである。

1956年、東海村に日本原子力研究所が設置され、さらに日本最初の商用炉が立地され、東海発電所として建設されていくが、その際、放射能汚染のリスクが重要であったことは、すでにこのブログで述べた。原子炉ー原発は、住宅・工場・農耕地・森林などの相関関係で立地が計画されていた。そして、放射能汚染水は、化学処理し希釈された後に、海に放流されることになっていた。それゆえに、東京から比較的遠い東海村が候補地の一つとして浮上してきたのである。

このことは、すでに報道されてもいた。1956年1月20日の『いはらき』新聞(現在の茨城新聞)は、動力用実験炉の建設候補地として、茨城県水戸市郊外の米空軍爆撃演習場(なお、実際に建設されたのはその北側に隣接した地域)と神奈川県武山旧海兵団跡の二つが浮上したことを報道した。その際、「また動力試験炉を置く研究所としては将来各電力会社や電源開発公社との協力による原子力発電の試験を行うことになり、また放射能による汚染の問題ともからんで水を豊富に使える海岸地帯が有利とされるところから、水戸市郊外と武山が選ばれたものとみられる」(なお、『いはらき』新聞の引用は『東海村史』通史編から行う)と、放射能汚染問題が候補地選定の要因であったことも伝えている。その意味で、原発について必ずしも「安全」というイメージはなかったと思われる。

2月1日には、日本原子力研究所の土地選定委員会が東海村の視察を行い、翌2日の『いはらき』新聞にその景況が報道されていた。そして、あわせて、地元自治体の首長たちの発言も伝えられた。その部分をここで紹介しておきたい。

 

《友末知事談》 三十日に川崎東海村長、宮原那珂湊市長、大和田勝田市助役のみなさんに集まってもらい、調査団の来県について打合せを行った。地元としては基本的態度としては誘致に賛成の意向のようである。県としても原子力の平和利用の一助としてまた商工業発展のために県下に原子力研究所の建つことは大いに結構なことだと思う。県会の方へはまだ正式に計ってはいない。
 《宮原那珂湊市長談》 正式に話合ったことはないが、地元としては賛成の意向が強いようだ。ただ考えられる放射能の汚染などの点に対して漁民がどの程度難色を示すかが問題だが、漁民たちの表面的な意思表示はまだあらわれていない。
 《大和田勝田市助役談》 この話が新聞紙上に報道されたので二十五日の市議会が済んだあと、全員に非公式に図ってみたところ大部分が研究させてくれということなのでまだ市としての態度は決定していない。とにかくここに研究所が建設されるかどうかは疑問なので、それが正式に決まってから、誘致策なり何なりを積極的に進めて行きたいと思っている。
 《川崎東海村長談》 私個人としては村の発展のためにたいへん結構なことと思い、三十日に友末知事と今度の視察について打合せた時もその旨話合った。村議会が改選したばかりなのでまだ正式には図っていない。

県知事は「商工業の発展」をうたい、東海村長も「村の発展」を旗印にして、原研誘致ーつまりは原発誘致に積極的であったことがうかがえる。他方、隣接する那珂湊市、勝田市はトーンダウンした対応をとっていたといえる。特に那珂湊市には那珂湊漁港があり、漁民たちが放射能汚染を懸念するのではないかという観測が述べられていた。誰からみても「原発は安全」とは言いがたかったのである。

2月6日には、県が地元関係市町村長や県下各界の代表を集めて原子力研究施設誘致懇談会を開催し、その席上で原子力研究施設誘致期成同盟会が結成された。しかし、「出席者の殆どが原子力施設についての知識がないため、つっこんだ発言もなく、久保三郎氏から『研究所の排水によって沿岸漁業に悪影響はないか』との質問が出た程度で了り」(『いばらき』新聞1956年2月7日号)と、ここでも放射能汚染による沿岸漁業への影響が懸念されているのである。

翌2月7日、東海村議会代表が原子力研究所を訪問した。そこで説明を受け、村をあげて誘致することになった。『いはらき』新聞1956年2月9日号において、次のように報道されている。

 

《川崎東海村長談》七日議会代表が原子力研究所を訪問、村上次官から今回設置を予定される原子力研究所の内容、被害の有無その他詳細な説明を聴取した結果、被害の心配は全然なく、しかも原子力の研究は既に世界の大勢で日本としては国を挙げてこれが研究を推進しなければ世界の原子力界から取り残されるということを聞いて大いに力を得、八日直ちに村議会を召集して以上のことがらを報告、なお県の高橋商工部長さんも議会に臨まれ説明されたので議員一同も了解し、満場一致、誘致の態度を決定したわけです。この結果議員、部落長、農委、教委、関係部落愛林組合長、農協組合長、青年会、婦人会各会長、木村晴嵐荘長、加納医務課長等約百名を以て原子力研究所誘致対策委員会を設置、引続き各住民にも内容を説明、協力を得て、全村一丸となって、誘致運動と今後の対策を推進することになりました。

直接説明を受けることで、議員らは「被害の心配は全然なく」ということを納得してしまうのである。そして、全村一丸となった誘致体制が東海村の中で形成されるのである。

原子力研究所関係者がどのような説明をしていたかはわからない。同日付の『いはらき』新聞では、研究炉を扱う原研関係だけで2000人の人が必要となり、動力炉を設置するならばもっと人手が必要になってくる、「東洋の原子力センターとして日本の名物になることも夢ではない」などと報道しているので、これに類したことを説明されたのではないかと思う。

他方で、放射能の汚染については、どうであっただろうか。このブログで、以前、原子力担当大臣であった正力松太郎が、1956年4月24日の参議院商工委員会において、次のように述べたことを紹介した。ここでも再掲しておく。

これは私しろうとの説明であるけれども、実は武山につきましてもずいぶん反対論があったのです。それはどういう点かというと、あそこで廃棄物を出す、あの出した廃棄物が逗子方面に流れて、鎌倉沿岸に流れて行きはせぬかと杞憂した人があったのであります。ところが東海村に至っては海岸の汚物が全部沖へ行ってしまうんです。全然その心配がない。そういう非常な有利な点がこれは東海村にあるのであります。

結局、原発の廃棄物を海に流すことは、大臣自体が認めているのである。今からみれば「安全」とはいえないだろう。ここまで、あけすけに東海村関係者に説明したとは思えず、包括的に安全であると説明したと考えられる。そして、このことも含めて、東海村では「了承」し、村全体で誘致活動を行うことになった。

結局、4月6日の閣議で、日本原子力研究所は、研究炉・動力試験炉ともどもすべて東海村に立地することになった。そのことは『いはらき』新聞4月9日号で報道されている。その紙面で、東海村議長の談話が紹介されている。東海村が原発立地に望むことを素朴に表現しているといえよう。

 

《東海村塙議長談》 幸いに地元には反対がなく挙村一致で事業を進められるので、この点大いに意を強くしている。愈本村に研究所が設置と決まり、人口も倍増することであろうし、地元としても受入れ体制に万全を期さなければならない。そんな関係で今まで役場職員の人員縮小も考えていたのであるが、今度は逆に増員して専任の係員を配置し、受入れ、建設事務に支障なきを期すことになろう。

東海村のような電力大消費地である大都市から離れたところに原発が立地したのは、汚染水などの放射性物質によるリスクが多くの住民にふりかかることを想定したからにほかならない。そのことは、汚染水を外海に流すという形で、新聞報道においても大臣答弁においても触れられていて隠すことはできなかったし、地元側でも懸念する声があった。そのような客観的にみた意味での「安全」への懸念を払拭し、「信頼」という形で「言葉だけの安全」を得るためには、説明会という形をとらざるを得なかったといえよう。

しかし、このことには、もう一枚の裏があるだろう。人口倍増、村の発展、県下商工業の振興などの「リターン」がなければ、よりリスクへの不安が強まったのではないかと考えれる。例えば、宇治の研究炉建設計画においては、設置する側の大学がいくら安全対策を説明しても、不信感は払拭できなかった。大都市近郊の宇治においては、新たな「リターン」を切実に欲しておらず、むしろ、原子炉は既存の生活を脅かすものとして認識されていたと考えられる。「リターン」を得るためには、政府などの「リスク」対策を「信仰」しなくてならなかたのである。

もちろん、公選の首長や議員たちにとって、住民の「安全」をあからさまに無視した形で「リターン」を得るわけにはいかない。自分たちもまた、この地に住んでいるのだ。「安全」を政府から「担保」してもらうことは、最低限必要なことであった。それは、東海村の時もそうであったし、大飯原発についてもそうなのである。

しかし、多くの住民に放射能のリスクを与えるわけにはいかないがために過疎地に建設された原発が、真に、立地自治体が求める「リターン」をあたい得るのだろうか。このことはまた、別にみていかなくてはならない。

Read Full Post »

昨年、4月、福島第一原発事故で、放射能汚染水を海に流すということが行われた。例えば、韓国の中央日報日本語版は次のように伝えている。

福島第一原発、放射能汚染水1万トンを海に放流
2011年04月05日09時56分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] comment0mixihatena0
東京電力が放射性物質の濃度が法定許容値の100倍に達する汚染水1万1500トンを海に放流することにした。これは放流汚染水より高濃度の汚染水を保存する場所を確保するための措置だ。

東京電力は4日、「福島第一原子力発電所の集中廃棄物処理施設にたまっている汚染水1万トンと5・6号機の地下水保管施設にある1500トンを早ければ5日から放流する計画だ」と明らかにした。同社は「汚染水を放流しても人体には特に問題はない。原発周辺の魚類と海草などを毎日食べても年間放射線量許容値の1ミリシーベルトを下回る0.6ミリシーベルトにしかならない」と説明した。

東京電力はまた、2号機から放出される汚染水を防ぐために水中フェンスを設置することも検討している。2号機取水口付近の電力ケーブル保管施設にたまった汚染水が海に流れ急速に広がることを防ぐためだ。

東京電力は3日、汚染水流出を防ぐためにセメントコンクリートを投じ、吸水性樹脂と新聞紙・おがくずまで動員したが特別な成果を得ることができなかった。これに汚染水が海に流れ込む所周辺の水深5~6メートルの海底にカーテン式のフェンスを設置する場合、ひとまず汚染水の拡散を阻止する効果があると期待している。

東京電力はまず汚染水が流出する通路を確認するために白い粉末を汚染水がたまっている施設に投じた。

一方、文部科学省はこの日、福島第一原発から北西に30キロメートル離れた浪江村でこの11日間に年間許容値の10倍を超える10.34ミリシーベルトが検出されたと発表した。
http://japanese.joins.com/article/830/138830.html

この放流は、韓国その他の周辺諸国に無断で行われ、これら諸国から批判されている。

しかし、このような放射能汚染水の放流は、そもそも沿岸部に原発が立地している日本においては想定されていたことであった。1956年、日本初の研究炉・動力試験炉が設置されることが予定されていた日本原子力研究所の立地について、『原子力委員会月報』第1巻第1号(1956年5月発刊)によると、次のように協議されていた。

原子力研究所の敷地選定について

 昨年11月に発足した財団法人原子力研究所では、原子力研究所の建設をする敷地即ち原子炉の設置場所について土地の選定をするために、土地選定委員会を設けて昨年暮から6回に亘って会合を重ねて本年2月8日に結論を得た。この土地選定委員会の委員は次の諸氏であった。
 委員長 駒形 作次(原子力研究所副理事長)
 委 員 久布白兼致(原子力研究所常任理事)
     内田 俊一(原子力研究所理事、東京工大学長)
     岡野保次郎(原子力研究所理事、三菱重工業代表清算人)
     茅  誠司(原子力研究所理事、東京大学教授)
     木村健二郎(原子力研究所理事、東京大学教授)
     菅 礼之助(原子力研究所理事、電気事業連合会会長)
     田代 茂樹(原子力研究所理事、東洋レーヨン会長)
     中泉 正徳(原子力研究所理事、東京大学教授)
     堀田 正三(原子力研究所理事、住友銀行頭取)
 理 事 和達 清夫(中央気象台長)
     兼子  勝(地質調査所長)
     那須 信治(地震研究所長)
     広瀬孝六郎(東京大学教授)
     竹山謙三郎(建築研究所長)
     松村 孫冶(土木試験所長)
 会合を行った日時は、第1回は昭和30年12月27日、第2回は31年1月6日、第3回は1月13日、第4回は1月21日、第5回は2月4日、第6回は2月8日であった。候補地としては22地区があったが、これらについて土地選定のための要件として次の事項を考慮して選定を行った。すなわち
1.なるべく東京に近いこと。
 研究者が喜んで研究に入り得るということと、研究センターとして東京及びその附近の大学、各研究所との施設の共同使用という点から、東京より2時間以内で到達できるという点を重視する。
2.広さの充分なこと。
 動力試験炉まで含め一応50万坪ていどを目安にする。アメリカなどと異なり、人口稠密な日本ではいわゆるexclusion areaの公式では考えず、狭くとも施設を強化して、これを補備すべきであると考える。
3.国有地、国有林、公有地などが望ましい。
4.用水の十分なること。
 水量、水質が問題となるが、水質の点は技術的に克服できるので、水量の点を重視する。すなわち1万kWていどの炉の冷却水は温度によって多少の相違はあるが、夏期最悪の場合0.3トン/秒を必要とする。ただし、循環使用するので、冷却池を設けれぼ取水量は更に減少することができる。なを化学処理する場合も同ていどの用水が必要である。
5.風向及び風速(地表及び上空)
6.空気中の塵埃
7.雨 量
8.地質及び地勢
 地盤、地質並びに地震の経歴及び土工の難易等が考慮の対象となる。地震の被害は構造物の研究によりこれを防護することが可能である。従って整地の難易及び新しく整地した箇所に重量構造物を建設する場合の沈下等の問題を重視する。
9.断層、地震、洪水の経歴
10.地下水の状況
11.受電の容易、安定な電源が得られること。
12.排水の支障のすくないこと。
13.道路、整地等の附帯工事のすくないこと。
14.周囲の民家、工場等との相関位置
15.農地、森林等との相関位置
 これらのうち、5,6,12,14及び15は汚染に対する考慮であって、最も重視すべき事項であり、化学処理をしたあとこれ監稀釈放流するには大量の水を要し、関東地区ではそうした水量の河川は数えるほどしかなく、その点では外海に面した処が好ましい。たとえば1万kWの原子炉について燃料を100日間使用し、100日間冷却し、これを100日で処理するとし、汚染除去度を105ていどに仮定し、河川の汚染度を10-7μc/ccにするには5トン/秒の河川流量を要するのである。
 その結果、書類上、実地調査上候補地としてあげられたのは神奈川県横須賀の武山地区、茨城県那珂郡東海村の水戸地区、群馬県群馬居郡岩鼻村の岩鼻地区及び群馬県高崎市の高崎地区の4地区に絞られ次のような結論をだした。

 イ案 武山に動力試験用炉までを集中的に設置
 ロ案 水戸に動力試験用炉までを集中的に設置
 ハ案 武山の一部に国産炉までを設置し、水戸に動力試験用炉を分離して設置
 ニ案 岩鼻に国産炉までを設置し、水戸に動力試験用炉を分離して設置
 ホ案 高崎に国産炉まで設置し、水戸に動力試験用炉を分離して設置
 ただし、武山については米軍が使用中でこれが返還の見込みのない場合は不可であり、一部分使用可能の場合でも少なくとも半分ていど使用可能な事が必要である。
 岩鼻については、火薬工場が隣接していることが問題であるから将来この火薬工場の大きな発展は中止せしむることを条件とする。
 高崎については旧射撃場に建物の中心をおくことを想定しているので、その地帯(民有地)の入手が可能であることを要し、かつ附近の民家約20戸及び亜炭鉱山の立退きが必要である。
 水戸は東京からの距離がやや遠いが、大規模の動力炉及び化学処理工場としては好適であるので、今日より確保しておくことが望ましい。
 原子力研究所は以上の緒論を原子力委員会に報告したので、原子力委員会は2月15日臨時委員会を開催して原子炉敷地につき討議した結果、土地選定委員会の意見を尊重して、武山を実験用原子炉敷地の第1候補地と決定し、動力試験用炉は水戸に置くことも同時に決定した。しかし、武山地区は米軍が接収中であるので、その解除が行われなければ実際には敷地にはできないので、調達庁を通じて米軍の意向を打診した。3月5日には米極東軍司令部から「米軍としても極めて重要な基地であるが日本政府から強い要求があるならば2分の1までの返還を考慮することが可能である。ただし、そのかわりとして代替施設を提供することが必要である。」との非公式の口頭による回答があった。代替施設が土地を含むものか建物その他の施設だけであるかを確めるために9日に調速庁と原子力局からハーバート少将を訪問して質問したところ、
1.日本側から正式な具体的要請を正規の手続で行わなければ代替施設の詳細は判明しない。
2.もしも正式に要請を提出すればアメリカ軍は好意的に考慮する。
3.代替地は1エーカー対1エーカーの意味ではない。
という回答に接した。この回答は9日午後の原子力委員会に報告され、討議の結果、ただちに正式の要請をなすべきであり、そのために総理大臣に、「武山を原子炉敷地として原子力委員会で決定した。」旨報告することとなった。この報告を受けた政府は13日の閣議にこの件を諮ったが、船田防衛庁長官から武山は海上自衛隊の要地として3年前から米軍に折衝しており、現在も強い希望がある旨の異議があったので改めてはかることとなり、30日の閣議にはかったが決定せず、4月3日の閣議でも決定されず、4月6日の閣議で、「原子力委員会に再考を求める」との態度を決めた。原子力要員会は同日午後2時から定例委員会を開き、武山を断念して、これに代る候補地として水戸地区を選ぶことを決定したのである。この際の原子力委員会の発表は次のとおりである。
 日本原子力研究所の敷地については、かねて横須賀市武山を候補地として選んできた。しかるに政府としては種々の事情により、候補地選定について本委員会の再考を促された。原子力研究の開始は至急を要し、したがって敷地の決定は遷延を許さないので本委員会は慎重に審議して改めて、茨城県東海村を候補地として選ぶことにした。
 元来原子力研究所は1ヵ所にまとめて設置するのが理想的である。2ヵ所以上に分かれることは研究者の分散、施設の重復、総合研究の困難等の種々の不便がある。しかしながら-方において研究者の便宜ということも忘れてはならない点である。研究開始の初期の段階では、日本原子力研究所員以外の学者の協力を要することも多いので、この点は特に注意を要する。この研究者の便宜の点や、また既存施設の利用可能等の事情に重きをおき、まず実験炉の段階は武山で行うことが適当であると決定したわけである。
 きよう(6日)改めて東海村を選んだが、ここは地域が広く、実験炉から動力試験炉の段階までを1ヵ所で研究し得る利点がある。半面この地は交通が不便で、研究者の立場からは多少の欠点が認められ、また施設の完備にやや日時を要するであろう。これらの欠点を克服するために、できるだけの設備を至急施して研究の促進をはかるよう努力したいと考える。

 なおこのたびの件については、政府が原子力委員会の決定を十分換討の上、改めて本委員会の再考を促されたので、本委員会もこれを了とした次第である。政府は今後も委員会の決定を尊重されることを希望する。
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/ugoki/geppou/V01/N01/19560518V01N01.HTML

要するに、このような経過をへて、日本原子力研究所は現在所在している茨城県東海村に設置が決まり、そして、研究炉第一号と動力試験炉第一号も東海村に設置されることになった。1957年には原子力研究所によって作られた研究炉第一号が臨界に達した。動力試験炉は1963年に臨界に達した。なお、その後、同地で建設された商用炉第一号は、官民合同の日本原子力発電株式会社によって東海発電所として建設され、1966年に営業運転が開始された。商用炉第一号が東海発電所である。

この立地をめぐる協議について、重要な論点となったのは、「汚染に対する考慮」であった。「5.風向及び風速(地表及び上空)」、「6.空気中の塵埃」、「12.排水の支障のすくないこと」、「14.周囲の民家、工場等との相関位置」、「15.農地、森林等との相関位置」の項目がそれにあたる。つまり、まずは、民家・工場・農地・森林など相関関係が重要であった。つまり、周りに住民が居住し生産活動が行われていることが少ないことーつまりは過疎地域であることが条件とされたといえるのだ。しかも、このようにいわれているのである。

これらのうち、5,6,12,14及び15は汚染に対する考慮であって、最も重視すべき事項であり、処理をしたあとこれ監稀釈放流するには大量の水を要し、関東地区ではそうした水量の河川は数えるほどしかなく、その点では外海に面した処が好ましい。たとえば1万kWの原子炉について燃料を100日間使用し、100日間冷却し、これを100日で処理するとし、汚染除去度を105ていどに仮定し、河川の汚染度を10-7μc/ccにするには5トン/秒の河川流量を要するのである。

つまりは、放射能汚染水は、河川水で希釈して、外海に放流されることが想定されていたのである。日本の商用原子炉ー原子力発電所は沿海部に建設されているが、その要因として、このことがあるといえる。

このことは、原子力担当大臣であった正力松太郎も認めていた。正力は、1956年4月24日の参議院商工委員会において、なぜ、武山ではなく東海村に設置されたのかという参議院議員白川一雄の質問に答えて、このように答弁している。

○国務大臣(正力松太郎君) 武山問題についてだいぶん世上を騒がせましてはなはだ相済みませんが、武山についても私ども一番遺憾に思いましたのは、あそこでは実験炉と動力炉とやれないのであります。ですから、従ってあそこでは実験炉だけでやらなくちゃならない。そのあとで動力炉を作るという悪条件があるのでありますが、そういうことでありますからして、最初研究所を作るには政府におきましては専門家の選定を見まして、そうして実験炉と動力炉の両方を置くことをやらしたのであります。ところがなかなか両方置くところは見当らなかった。そのうちに、いやそれよりも一つ動力炉はあとにしてまず研究炉だけを作ろう、それについてはなるたけ学者の研究の便利なところ、そうしますると、立地条件について便利という点は武山にありますけれども、他の点においては水戸の方が、つまり東海がまさっておるのでありますが、ただ学者の便利という点もあったから、それではこれを分離して、そしてこれを武山に持っていこうということになったので、決して初めから武山を最適地としたのじゃありません。最適地というのは学者の交通上便利という点だけであります。これを設けるについてはあそこではどうしても動力炉を設けられないのであります。従って動力炉をあとで設けるとしたら二重の設備が要る。要るけれども学者の人も皆希望するし、それからまたすぐ既存設備でも使えるところがあるからまあまあということになったのであります。ところがそのうちに政府としては閣議に諮りましたところ、武山については防衛上の計画も考えておるがまだ立っていないのだ、一つ委員会の方でもう一ぺん考慮をしてくれぬかということでありました。そこで委員会の方で考慮した結果、もともと武山が最適地ということじゃなかったのです。先ほど申し上げた通り動力炉を別にしなければならぬ、動力炉を別にすれば非常に費用がかかるのです。けれども一時的便利を考えたことですから、そういう事情も参照して、もともと二つの研究炉と動力炉を置くのがほんとうであるからして、それじゃ一つ水戸にしようじゃないかということにしたのであります。もっともこの水戸にする声のおくれた理由は、初めに水戸に指定した場所は進駐軍にとられておったところであります。ところが最近になって、二月ごろになって大蔵省の所有地にいいところがあるということになって、水戸の東海村の声が上ったのはずっとあとなんであります。あとだが、そのときに武山の問題も進んでおるし、距離的に近いことは事実であるから一時的に武山ということにしたのでありますが、幸い政府の方の注意もありまして、原子力委員会全会一致をもって東海村にきめたようなわけでありますので、ところが私どももきまってから現地へ行きまして、私は専門家じゃありませんけれども、われわれども説明を聞いてしろうとながらもなるほどという感じを得たのでありまして、これは私しろうとの説明であるけれども、実は武山につきましてもずいぶん反対論があったのです。それはどういう点かというと、あそこで廃棄物を出す、あの出した廃棄物が逗子方面に流れて、鎌倉沿岸に流れて行きはせぬかと杞憂した人があったのであります。ところが東海村に至っては海岸の汚物が全部沖へ行ってしまうんです。全然その心配がない。そういう非常な有利な点がこれは東海村にあるのであります。それからなおまた御承知の通り、原子力には水が非常に要るのです。そうしますと、武山であると水道よりほかに、それに海水を使うとしても、水道をおもに使わなければならぬ。東海村は幸いにして今敷地のすぐわきに阿漕浦という大きな湖水があります。直径一町、長さが四、五町あります。これが非常に天然のわき水だそうです。これが使っていない。魔の池といってだれも泳ぎもしない。そういうのが近くにあるのです。さらに一面久慈川という川があります。さらに少し離れたところに那珂川という川がありまして、水利の便にあれほどいいところはなかったのでありまして、われわれどもも初めから、初めからというか、中途からしてこれは水戸の方がいいなという議論が起ったのです。そういうような事情であるから、先ほど申し上げました通り、政府の注意と同時に委員会全会一致をもって東海村と決定したのでありまして、世上いろいろな揣摩憶測、流言流説が広がっておりますが、真相はこうでありますから、どうぞ御了承を願います。
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=21222&SAVED_RID=1&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=2&DOC_ID=22057&DPAGE=1&DTOTAL=3&DPOS=3&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&MODE=1&DMY=21571

正力は「これは私しろうとの説明であるけれども、実は武山につきましてもずいぶん反対論があったのです。それはどういう点かというと、あそこで廃棄物を出す、あの出した廃棄物が逗子方面に流れて、鎌倉沿岸に流れて行きはせぬかと杞憂した人があったのであります。ところが東海村に至っては海岸の汚物が全部沖へ行ってしまうんです。全然その心配がない。そういう非常な有利な点がこれは東海村にあるのであります。」といっている。廃棄物は海に流すこと。それは、原子力担当大臣である正力松太郎も認めていたことであった。

高度経済成長期、水俣病などでわかるように、有害な産業廃棄物はほとんど規制されず、海中・大気中に放出されていた。それは、当然のことであり、原発も例外ではなかった。原発が過疎地域の沿海部に立地されていくということについては、そのような含意があったのである。

Read Full Post »

1950~1960年代の福島県議会の会議録から、福島第一原発誘致にむけての、知事や県議たちの発言をみてきた。もちろん、今日からみれば、彼らの発言をそのままの形で認めることはできない。しかし、彼らの発言からは、原発立地を契機に、関連産業も誘致し、立地地域である双葉郡の地域工業化をめざそうという意識をみることができる。かなりの程度、「建前」なのだろうが。それでも、原発から生産される電力は、単に首都圏に送るものではなく、地域の工業化にも資するということで、原発立地の正当化を行おうとしていたといえる。それは、地域社会の自立的な発展をめざす動きであった。

しかし、現実は、どうであっただろうか。確かに、ある程度の雇用は生まれた。電源交付金や固定資産税によって、自治体財政も豊かにはなった。しかし、それは、まさに、原発にのみ依存したものでしかない。開沼博の『「フクシマ」論』が描き出しているが、政府・電力会社に従属して、ようやく「豊かさ」が保たれているといえるのだ。ゆえに、「脱原発」の一般的世論に抗して、原発の存続を原発立地自治体を強く主張するようになるといえる。もちろん、このような主張は切実である。だが、これは、まさに、自立した地域社会の発展とはいえないであろう。

このように、一般的な原発立地自治体において、原発存続を打ち出している中で、東海村長村上達也は、立地している東海第二原発の将来的な廃止を主張するようになった。例えば、6月23日、産経新聞は、次のような記事をネット配信している。

原発再稼働、東海村長が反発 「福島の事故究明が先」 茨城
2011.6.23 02:23
 海江田万里経済産業相が18日に「原発再稼働」を記者会見で発表したことに対し、原発を抱える県内の首長から反発の声が相次いでいる。地方の現状を無視した震災対応が続くとして菅直人政権に対し、自治体側のいらだちや不満は頂点に。日本原子力発電の東海第2発電所(東海村白方)は今回の再稼働の対象には含まれていないが、東海村の村上達也村長は今後の対応に厳しい姿勢を示す。

 「住民の命がかかっている。福島第1原発事故の原因究明もなしに、軽々しく再稼働と言ってほしくない」。村上村長は22日の記者会見で声を荒らげた。

 原子力安全・保安院などが行った原発の立ち入り調査が、原発再稼働への「表面的、形式的な調査」としか思えないという。

 村上村長は、福島第1原発事故を踏まえた安全対策がない段階で、「安全を確認した」として原発再稼働にゴーサインを出した政府の姿勢に「現状把握ができていない。こんな国で原発を持つべきではない」と反発を強めた。

 東海第2原発は11月まで定期検査中。今回、海江田経産相が示した「再稼働」の対象には入っていない。地震で停止したため地震の影響を確認する必要があるという。だが、発表段階では県には、対象外であることは伝えられていなかった。海江田経産相会見後、国の関係機関に確認したところ、20日深夜、資源エネルギー庁が回答してきた。

 個別に説明がなかった点は橋本昌知事も指摘。21日の記者会見で「(海江田経産相が)会見で一般論として語り、地方に説明がない。それはおかしい」と述べた。

 また、橋本知事は「なぜ浜岡原発(静岡県御前崎市)だけ停止したのかなど、原発立地県として疑問をぶつけてきたが、まだ答えがない。納得できない」と政府の対応を批判。福島第1原発事故を踏まえた安全指針が示されない限り、県の防災計画の見直しもできないと不満を漏らした。
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110623/ibr11062302230002-n1.htmより

そして、村上は、7~8月には脱原発の主張を各所で話していくようになった。ここでは、8月2日のシンポジウムでの発言を伝えた茨城新聞のネット配信記事を引用しておこう。

2011年8月2日(火)
「原発マネーで未来買えない」東海村長、シンポで訴え

福島第1原発事故を受け、原子力の安全について考えるシンポジウムが2日、東海村舟石川駅東3丁目のテクノ交流館リコッティで開かれ、村上達也村長は「日本で原発を保有するのは危険が大き過ぎる。『脱原発』の思想、理念に市民権を与え、国民全体で真剣に考えるべきだ」と提起した。

村上村長は「東海第2原発で同じ事故が起きたら東海村は全村避難で、30キロ圏内の約100万人がどうしたかと思うとぞっとする」と述べ、「東海村が原子力に支えられてきたのは事実だが、われわれの暮らしや未来と原発マネーとは等価交換できないと思う」と会場の住民らに問い掛けた。

シンポは日本原子力学会が主催し同村が後援。同学会調査専門委員会の委員らが福島第1原発事故の概要や原子力のリスクについて講演。原子炉工学が専門の東京大大学院の岡本孝司教授は事故の最も重要な教訓として▽事故後の対応▽原子力安全の考え方▽津波対策▽全電源喪失対策―の4点が不十分だったと指摘した。

ほかに各分野の専門家3人が講演し、最後に原子力安全について考えるパネル討論が行われた。住民の関心は高く、定員の倍近い約400人が詰め掛けた。
http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13122844679466より

また、茨城新聞は、次のようなインタビューを10月1日にネット配信している。

2011年10月1日(土)
原発を考えるインタビュー 村上東海村長 極めて内省に欠ける国

-2度の原子力事故を目の当たりにして思うことは。その教訓とは何か。

JCO臨界事故も慢心が招いたもので、この国はいつまでも反省しないという印象だ。利益を追求するあまり、原発推進を「国策だ」と言い続け、安全神話を作るなど、極めて内省に欠ける国だということ。JCO臨界事故の時も思ったが、今回も案の定だ。何にも学んでいない。福島第1原発事故の初期対応を見ても、何という国だと思った。

-国の原子力政策、エネルギー政策をどう見るか。震災と福島第1原発事故で見えてきた日本の電力供給の問題点とは。

日本は地震多発地帯で、1900年からの100年間でM8以上の地震回数は世界一という報告がある。そんな国に54基も原発を置いていいのか。正気の沙汰とは思えない。しかし、日本は原子力推進そのものがエネルギー政策で、自然・再生可能エネルギーの発展を封じていた面がある。原発は炭酸ガスを出さないから環境にいいと言い、放射能・放射線の問題にはふたをして、原発の後処理も後世に先送りしてきた。それはまさに、哲学なきエネルギー政策だという気がする。

-「脱原発」は可能か。日本における再生可能エネルギーの可能性は。普及を進める鍵は。

福島第1原発事故を起こした以上、日本は脱原発について真剣に考える義務がある。脱原発を追求しなければならず、できるできないはその次でいい。自然エネルギーについても、ドイツやデンマークなどは既に取り組んでおり、技術開発も進んでいる。日本でも可能性はある。日本人の勤勉さやこれまで蓄積した技術からみても可能だろう。世界最高水準になれると思う。あとは政府のやる気次第だ。

-東海第2原発の再稼働をどのように判断するか。

私は、福島のように全村避難して戻れないとか、東海村が地図上から消えていく、そういう事態にはしたくない。福島の事故で、国は避難した人たちをどう救済するのか。つまり、国がわれわれの安全を保障できるのか。そこが担保されない以上、判断はできない。

津波対策や非常用電源対策の強化だけでは十分ではない。福島第1原発事故の問題も明らかにしてもらわなければならない。ストレステストは、再稼働のための政治的方便ではないか。

それと安全規制体制をどうつくるのか。原子力安全庁の話は出ているが、さっぱり見えない。これも判断の鍵となる。(東海第2原発の再稼働は)今の時点ではまったくの白紙だ。

-最後に、今後の日本のエネルギー政策への提言を。

エネルギー消費を減らして経済のスピードを落とし、思い切って自然エネルギーの導入に向けて政策誘導すればいい。自然エネルギーはこれまで、政府が後押しした電力会社が壁となり入り込めなかった。自然エネルギーに対する助成を、新しい技術開発に向けた投資だと思ってやったらいい。ドイツがやると言っているのに日本でできないわけがない。あとは政治家の決断だ。http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13174534196411より

その上で、村上村長は、細野豪志原発担当相に、立地している東海第二原発の廃炉を10月11日に申し入れた。茨城新聞は、10月12日に次のような記事をネット配信している。

011年10月12日(水)
東海第2原発 村上村長、担当相に廃炉要望 立地や老朽化理由に

運転開始から30年以上たつ日本原子力発電(原電)東海第2原発について、東海村の村上達也村長は11日、細野豪志原発事故担当相らを訪問し、「30キロ圏内に100万人の人口を抱え、原発立地条件として不適切かつ老朽化している」として廃炉を求める要望書を提出した。

村上村長は細野原発事故担当相と約15分間にわたって会談。その後、取材に応じ、「原発政策についてのわれわれの考え、特に東海第2原発について要望した。細野氏からは『具体的で貴重な提言を頂いたので考えさせていただく』との回答があった」と説明した。

要望書ではまた「原子力安全委員会や原子力安全・保安院の信用失墜が著しく、新たな原子力規制体制の確立なしに原発再稼働は受け入れられない」と指摘。原発再稼働受け入れ条件としては福島第1原発事故避難者への十分な対応が不可欠とし、▽国の原発政策の中身、基準を明らかにすべき▽原子力センター構想への速やかな支援-などを求めた。

東海第2原発は東日本大震災の発生直後に自動停止し、以降は一度も運転を再開していない。5月21日に半年間の予定で定期検査に入ったが、地震の揺れによるタービンの損傷などが見つかり、原電は追加の補修が必要となったとして11月中旬の予定だった終了時期を延期すると発表。再稼動の前提となる国のストレステスト実施の見通しも立っていない。

原電は、2013年度までの3年間で地震や津波を想定した中長期的な安全向上対策を順次進める計画。同原発の再稼動について橋本昌知事は、専門家による県原子力安全対策委員会で技術的に安全性を検討した上で、県の原子力審議会、地元、県議会などの意見を聞いて判断するとの考えを示している。

【東海第2原子力発電所(東海村白方)】
日本原子力発電が1978年11月に営業運転を開始した沸騰水型軽水炉。出力110万キロワット。東日本大震災の津波被害で非常用発電機3台中1台が一時、使用不能となるトラブルがあったが、3月15日未明に安定的な冷温停止状態に至った。http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13183441949375より

東海村は、1957年に日本原子力研究所が立地して、実験用原子炉が建設され、さらに日本最初の商業炉である東海発電所が1966年より営業運転を始めるなど、日本の原子力の発祥の地といえる。現在は、日本原子力研究所の後身である日本原子力研究開発機構が立地し、さらに日本原子力発電の東海第二発電所が設置するなど、村内や周辺には原子力関連施設が数多く立地している。その地の村長が、いわば「脱原発」を主張しているのだ。この意味は大きい。

東海村長村上達也は、なぜ、このような脱原発の主張をするようになったのだろうか。2011年10月26日付朝日新聞朝刊に掲載された「耕論 原発と自治体とカネ」の中のインタビュー「繁栄は一炊の夢だったー『東海第二』廃炉を」で、村上は、このように語っている。

実は東海村の日本原子力発電東海第二原発も、東京電力福島第一原発で起きた「全電源喪失」の寸前でした。地震の影響で外部電源がすべてダウン。非常用発電機でポンプを動かして原子炉を冷却しましたが、1時間後に押し寄せた津波があと70センチ高ければ、海水は防波堤を乗り越えて、すべての冷却機能が失われていたかもしれません。

 2週間後にその事実を知り、背筋が凍る思いをしました。東海第二の場合、20キロ圏内に75万人、30キロ圏内には100万人の人が住んでおり、県庁所在地の水戸市も含まれます。細野豪志原発相に「選択肢として東海第二の廃炉ということも考えるべきではないか」と問題提起したのは、こうした事情があったからです。

 そもそも世界有数の地震大国の日本に、54基もの原子炉があること自体が異常です。しかも、東海第二のように人口密集地に原発を立地している国は世界でもあまり例がありません。

 「原発がなくなったら住民の雇用をどうするのか」「村の財政をどう維持するのか」という議論も村内にはあります。しかし、原発マネーは麻薬と同じです。原子炉を1基誘致すると固定資産税や交付金など10年間で数百億円のカネが入る。そのカネがなくなると、また「原子炉を誘致せよ」という話になる。尋常な姿ではありません。

 東海村の人口約3万7千人の3分の1は、日本原子力研究開発機構を中心とする13の原子力事業所と何らかの関わりを持っています。また原子力関連からの財源は一般会計の3分の1に当たる約60億円にのぼり、まさに「原子力の村」です。

 しかし、今後の世界は「脱原発依存」が主流となるでしょう。いつまでも原発マネーに頼ってはいられない。日本最初の「原子の火」がともった東海村は原子力と55年の歴史を共有し、原子力が文化として定着しています。これをどう地域づくりに生かすかが重要です。

 現在、村では原子力に関する科学・技術や人材を総合的に集積する「原子力センター構想」を策定中です。「脱原発」の場合も、廃炉や放射性廃棄物の処理、原発事故後の環境修復など様々な技術や人材が必要になります。そのための基盤研究、人材育成を担う構想です。世界屈指の大強度陽子加速器施設もあり、海外からも多くの研究者や学生が訪れ、欧米の科学研究都市に匹敵する条件がある。持続性の高い発展が期待できます。

 福島のような事故が起これば何もかも失ってしまう。原発による繁栄は一炊の夢に過ぎません。目を覚まして、持続可能な地域経済をつくるべきです。(聞き手・山口栄二)
(引用はブログ「薔薇、または陽だまりの猫」http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/872febe593af0bfce249c57fbe0f1f09より行う)

まず、村上は、東海村で稼働していた東海第二原発も、地震や津波のため「全電源喪失」寸前であったと述べ、原発の危険性を強調した。このことが、第一に「脱原発」を主張する根拠となっている。村上によれば「福島のような事故が起これば何もかも失ってしまう。原発による繁栄は一炊の夢に過ぎません。」と話している。特に、東海村が、県庁所在地である水戸市も近傍にある、住民密集地であることを強く指摘している。

東日本大震災によって、東海第二原発が「全電源喪失」寸前であったことは、朝日新聞が2011年4月2日にネット配信している。

あわや全電源喪失…津波「想定」ぎりぎり 東海第二原発
2011年4月20日

 東海第二原発は震災による津波でどんな被害を受けたのか。日本原電は緊急訓練に合わせ、被害を受けた「海水ポンプエリア」などを報道陣に公開した。海水ポンプエリアは、発熱する原子炉を冷却するためのいわば「生命線」。だが、そこに押し寄せた津波の高さは、「想定」ぎりぎりだった。

 防波壁や海水ポンプに残るおびただしい土砂――。海岸近くにある「海水ポンプエリア」には津波の爪痕が今も残る。

 ここには、原子炉を循環する大量の冷却水を冷やしたり、非常用ディーゼル発電機を冷やしたりするための海水ポンプがある。四方は海面からの高さ6.1メートルの防波壁で囲まれている。

 3月11日午後2時48分。運転中だった原子炉は地震の2分後、自動停止した。外部電源は遮断され、非常用ディーゼル発電機で海水ポンプを動かし、原子炉を冷却し続けた。が、約1時間後、その海水ポンプエリアに津波が押し寄せた。

 午後7時26分。非常用ディーゼル発電機の海水ポンプの異常を示す警報が鳴る。津波の高さは5.4メートル。防波壁より低かったが、工事中のため壁には穴が開いていた。

 その穴から海水が内部に注ぎ込み、海水ポンプ1台が水没。非常用ディーゼル発電機1台も停止した。残り2台の海水ポンプは水につかったが、水深が低かったため稼働。非常用発電機も2台が無事で、原子炉は冷却し続けられたという。

 震災前、日本原電は5.7メートルの津波を想定し、防波壁の高さを6.1メートルに設定していた。

 今回の津波は5.4メートルと想定内だったが、あと70センチ高ければ、海水は防波壁を乗り越えすべてのポンプが水につかったとみられ、「(冷却機能が全て失われた)福島第一の事態になった可能性は否定できない」(日本原電)という。

 震災後に日本原電がまとめた津波対策には防波壁のかさ上げは含まれていないが、「今後検討する」としている。
http://mytown.asahi.com/areanews/ibaraki/TKY201104190562.htmlより

また、この東海村が、1999年に起きた東海村JCO臨界事故の現場であったことも大きい。茨城新聞は、9月30日に次のような記事をネット配信している。

2011年9月30日(金)
「金のため魂売らない」臨界事故12年で東海村長訓示

1999年9月に東海村の核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」で起きた国内初の臨界事故から12年となる30日、村上達也村長が村役場の朝礼で「原子力に向き合う姿勢を正し、金のために魂を売ってはならない」と訓示し、脱原発の姿勢を明確にした。

訓示は事故の風化を防ぐため、2009年に始まった。東京電力福島第1原発事故のあった今年は、職員に原子力との向き合い方を再確認させる意味もあるとしている。

朝礼の冒頭、職員約100人が黙とう。村上村長は「政府や東電の事故対応はまったくなっていない」と批判。「原発による経済的繁栄は一炊の夢であり、その結果すべてを失う。人に冷たく、無能な国では原発は持つべきではなく、その資格もない」と述べた。(共同)

つまり、近隣を含めてかなりの人口があり、すでに東海村JCO臨界事故を経験しており、東日本大震災においても全電源喪失になりかねない被災を東海第二原発が受けた東海村にとって、原発の危険性は危機感をもっており、そのことが、村上村長をして、「脱原発」を提起する大きな要因となっているといえる。

ただ、村上村長が脱原発を主張するのは、それだけの要因ではないだろうと思う。まずは、原発依存から脱却しても、経済・財政が維持できるという意識もあると思われる。東京新聞は11月2日に次のような記事をネット配信している。

東海村が最先端の原子力研究や人材育成の場として検討を進めている「原子力センター構想」をめぐり、専門家から意見を聞く有識者会議が一日、村内で福島第一原発事故後、初めて開かれた。年度末にまとめる構想については「東海第二原発の現存を前提としない」とする案も出たことなどから、同原発の扱いは別組織で議論することを決めた。 (井上靖史)
 構想は原発事故前の昨年から同会議で議論され、総合計画にも明記。今年夏に構想をまとめ、二〇一五年の実現を予定していた。
 内容は、村に集約する原子力関連施設を生かし、量子ビームなど原子力の平和利用や効率的な廃炉を研究。世界から人材が集まる場にすること。当初、東海第二原発も構想の中に含まれていた。
 この日は脱原発を明言している村上達也村長が重ねて原発の危険性を指摘。座長で国の原子力委員会前委員長代理の田中俊一氏も「福島の人たちが戻れない限り原発の再生は不可能だ」と述べた。
 六人の委員のうち、出席した五人が「異論を排斥する原子力ムラが今回の原発事故を招いた」などと意見交換。早急に村民を交えて意見を聞き、東海第二原発の扱いは社会学者を加えた別組織で議論する。
 会議後、村上村長は「今の状況では原発はあるべきではない。ただ原子力の医学利用などは伸びる分野だ。交付金などは直接入ってこないが、最先端の研究施設の集約で世界から人が集まり、今後の街づくりにつながる」と脱原発後の村づくりを描いた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/20111102/CK2011110202000070.htmlより

つまりは、東海第二原発に依存せず、東海村に集中した原子力関連施設を活用して、新たな自治体運営をめざすとしているのである。もちろん、広義の意味では、これらの施設も原子力施設である。しかし、村上村長は「脱・原発、減・原発でも直ちに原発はなくならない。安全面などの原子力研究は今後も必要だ」(産経新聞ネット配信 http://sankei.jp.msn.com/region/news/111102/ibr11110210540006-n1.htmより)と話しており、彼の論理では、「脱原発」とは矛盾しないのである。

このような村上村長の姿勢は、ある意味では物足りないと感じる向きもあるかもしれない。やはり、原子力関連施設は残るのであるから。ただ、とにかく、最も危険な原発を廃炉にしつつ、原子力関連施設を存続させることで、村経済の維持をはかるということは、村長としてはぎりぎりの選択なのだろうと感じる。

そして、このような選択を村上村長が行えたのは、原発だけではなく、旧日本原子力研究所ー現在の日本原子力研究開発機構などの原子力関連施設が、かなり東海村内外に立地しているということであろう。もちろん、臨界事故をおこしたJCOや、使用済核燃料再処理工場のような、やはり危険といわざるをえないものも中には含まれている。しかし、当面、最も危険性の高い原発ではなく、より東海村の住民にとって、安全な施設を選択ーベストではなくベターとしかいいようがないがーできる可能性が、そこにはあったといえよう。このような選択の余地こそ、「自立」の現れといえるのである。

ひるがえって、福島第一・第二原発が立地している双葉地域などの現状を考えてみよう。少なくとも、福島県が最初に原発誘致に乗り出した時には、建前として原発関連施設などの誘致が意識されていた。しかし、それらが十全に誘致されたとはいえず、結局のところ、原発のみに依拠した地域経済になってしまった。一度、そうなると、東海村ほどの選択の余地もなく、原発に従属しつづけるしかなくなってしまったといえるのである。

今、原発立地自治体の首長たちの多くは、原発存続を訴えている。しかし、彼らの内面にも、東海村長村上達也のような、原発への恐怖感がないとは思えない。その意味で、再び、原発が立地している地域経済の自立もまた問題にしなくてはならないだろう。

Read Full Post »

Older Posts »