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Archive for the ‘チェルノブイリ事故’ Category

さて、チェルノブイリ事故の際の西ドイツ社会において、放射能汚染という現状に対し、母親としても父親にしても、次世代に対する責任に直面させられたことを話してきた。

また、母親たちの行動に議論を移そう。チェルノブイリ事故からしばらくたって、このような状況が現出した。田代ヤネス和温は『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)で、このように述べている。

 しかし、あれから時間が過ぎてゆき、表面は何ごともなかったかのように平穏な日常に復帰した社会の中で、母親たちは孤立する。ある農家の主婦はこう語っている。
 「私たちの村ではおどろくほど早くいままで通りの生活が戻ってきました。私の家の前の畑には、草花しか残っていないというのに、隣り近所の畑ではいつものように野菜が育っています。回りの人たちに不安を打ち明けると、きまって『あまり大げさに心配しない方がいいよ』とか、『だって何か食べないわけにはいかんだろう』という答が返ってくるのです。」
 熱しやすく冷めやすいマスメディアの影響も見のがすことはできない。放射能の危険についての報道が下火になるにしたがって、人びとはストロンチウムとかセシウムなど、寿命の長い放射性物質が、人体に与える長期的な影響への関心もしだいに失った。誰もがいままでと同じように、平気で何でも食べている。

けれども その中でも、母親たちは行動するようになった。田代は、このように述べている。

それでもチェルブイリの後、原発社会における子どもたちの将来を案じて、「母親の会」や「両親の会」を名のる、数えきれないほどのグループが生まれた。新しい市民グループの参加者は、90パーセント以上が女性である。
 それは、これまでよくあった古いタイプの政治運動団体と、まったくちがう体質をもっていた。権力志向に首までつかった古い世界では、海千山千の男や女がたがいにかけひきに熱中し、競争相手の足をひっぱり、自分を目立たせ、高く売りこむことに生きがいを感じていた。新しく生まれてきたグループは、まるで反対の極にあるといえよう。

全国いたるところで、子供づれの親たちが原発停止を要求する

全国いたるところで、子供づれの親たちが原発停止を要求する

田代は、いくつか、このような母親たちのグループの活動を紹介している。まずあげられているのが、「原子力に反対する母親の会」ミュンヘン支部である。ミュンヘンのあるバイエルン州は、政治的に保守色が強かったが、放射能汚染の度合いも高かった。このグループは、1986年5月11日の母の日の行動をきっかけに生まれたと田代は述べている。

 

この日ミュンヘン市では1000人を超える数の母親たちがマリエン広場に集まり、母の日の記念に家族から贈られた花束をもち寄って、放射能のマークの形を作って歩道に並べた。それは、母親としてわが子を守ってやることのできない無力感と怒りを表現したものであり、その静かな行動はあたかも宗教的な儀式のように、祈りのこめられた感動的なものだった。ここにはカソリックの信仰の強い地方性が表わされているのかも知れない。

母親たちの活動は、伝統的な宗教行事とかさなるものであった。田代は、西ドイツ全般の母親たちの運動について、このように伝えている。

 

かの女たちの活動は伝統行事との接点を保っている。収穫感謝祭の日には、食物の汚染に抗議の気持ちを表し、十一月の死者の霊を慰める日には、放射能のマークの形にローソクの火をともして、チェルノブイリの犠牲者のために祈りをささげた。

その他、さまざまな活動を行っている。「放射能汚染の未来を憂慮する親たちの会」では、自力で放射能汚染測定器を買い込み、学校の校庭などを測定した。1万ベクレルを超えるビーズバーデン市では汚染の強い校庭の除染を強いられることになった。

このブログで紹介した、アニャ・ルゥールは「授乳中の母親の会」の世話役となり、子どもにあらわれるであろう後遺症を追う必要があるとして、子どもたちの統計的調査を行うことを呼びかけた。

もっとも西ドイツで大きな「親の会」になったのは、ドイツ北部のキール市に本部をおく「無汚染食品のための親の会」であると田代は述べている。この会は、政治問題ではなく、食物の問題を前面に押し出しており、1986年6月12日には、母親たちはシュレスヴィヒ・ホルンシュタイン州の社会省に妊婦や成長する幼児たちに汚染されていない特別食を求めて団交し、その直後にハンストに入った。田代は「母親たちはECがストックしている汚染されていない食品を提供させること、そのほかスウェーデンで実行したように、汚染された草を刈り、廃棄することを要求した。ハンストを続ける妻たちのために夫たちは飲物を差入れ、家で子どもらの面倒を見た」と指摘している。

このように、チェルノブイリ事故の際の西ドイツ社会において、母親たちがさまざまな取り組みをしていたことをみてきた。今、脱原発デモに出ると「子どもを守ろう」という声が鳴り響いている。そして、放射能測定をする母親たちは無数にいる。その人びとに、西ドイツでも同様であったことを実感してほしいと思う。

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前回はチェルノブイリ事故の際の西ドイツにおいて、放射線への恐怖に対して、ジェンダー的な差異があることを田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)を通じてみてきた。そして、福島第一原発事故の日本においても、自分自身の反省もふまえつつ、同じような状況があるのではないかと提起した。

ただ、あまりにも、ジェンダー的な差異のみを強調するのもどうかと思う。ある友人からも、そのような批判をされた。田代も「私はこの章でチェルノブイリの雲に対する男女の反応の差を、二分化法で性急に追い求める気はない。後章で触れるように、反応の差は両性の間で顕著だったが、また男女を問わず個人の間で顕著であることにも気づいたからだ」と述べている。

ここでは、男性である田代ヤネス和温自身が、夫人との間で「チェルノブイリの雲の下で子どもを産もう」とすることについて、どのように考え、行動したかを分析しなから、ジェンダー的差異をこえて、人としてどうこの問題に対面するべきなのかを考えてみたい。

本書の末尾による履歴によると、田代ヤネス和温(かずおみ)は、1950年に鹿児島県で生まれ、早稲田大学理工学部を中退し、1971年より西ドイツに在住した。肩書はフリージャーナリスト・市民エネルギー研究所員となっている。「エルケ夫人と反核運動に参加」とあり、夫人との共著で『ブロックを超えるー西ドイツの緑の党』(筆名遠藤マリヤ)などがある。チェルノブイリ事故時は36歳ということになる。本書によるとエルケ夫人は、西ベルリンの病院で勤務していた。最初、エルケ夫人は看護師かと思っていたが、そうではないようだ。

 1986年4月29日、西ベルリンで放射能の数値が上昇しているというラジオニュースを聞いたとき、田代は、次のように考え、行動した。

 「エッ、ついにそこまできたのか!」
 私は内心ギクリとした。私は瞬間、ちょうどこの日病院の当直で勤務に出ていた妻のエルケのことを思った。偶然にもそのころ、私たちは初めての子を得たいと願っていたのだった。この放射能の雲の下で、生まれてくる生命の将来はどうなるのか。母親になる人はどんな気もちで新しい生命の到来を待たねばならないのか。私の胸の中を暗い思い予感がよぎった。私の足は自然に妻が働いている病院の方向に向いていた。

 子どもをもちたいと思っている夫としての当然の心情といえるだろう。そして、妻の勤務する病院に田代は到着した。

 

私は当直中の妻を病院に訪ねた。私たちは診察室の窓を閉めてさわやかな外気を遮断した。これからは室内の古い空気を呼吸することでがまんするのだ。それから病院にあったヨウ素剤を服用し、看護婦さんたちにも服用をすすめた。

日本でも、妊娠していたかもしれない妻をこのように気遣いする夫はいるだろう。しかし、田代の気遣いは、妻に対するものだけではなかった。かなり微妙な問題なので、やや長い引用をしておこう。

 

当時五月一日にはメーデーのデモやピクニックがあり、翌々日には全国的な反原発行動が準備されていた。私とエルケは前記の知人たち(西ベルリンの反原発運動の活動家ベレーナ・マイヤーーこの人の手記はたびたび紹介したー、オルターナティブ・エルテ所属のベルリン市会議員レナーテ・ハイトマン、ノルトライン・ヴェストファーレン州の緑の党中央委員マーティン・パネンなど)に電話をかけ、五月三日にもし雨が降ったら野外集合やデモはただちに中止し、とくに妊婦や子どもは急いで帰宅させるように要請した。
 ベレーナとマーティンは、五月三日の集会に出てきて何か話してほしいと私たちに頼んだ。とんだやぶヘビになるところであった。いまになってみれば、そのとき私たちは子どもを欲しがっていたことを率直に言っておけばよかったと思う。けれども、そのときはなぜかうその言いわけのように思われるのではないかと案じたりして、言いそびれてしまった。私ひとりで集会へ出かけると言っても、おそらくエルケがとめたことだろう。
 私たちが子どもを得たいと願ってさえいなかったら、集会に出て放射線から身を守るためにどのような対策が必要かを話すべきだったと思う。いずれにせよその時点で私たちは私たちは人びとの対応の鈍さにやきもきしながらも、目に見えないところで少しでも事態を動かすことができないものかと試みていた。
 私たちの要請を受けたレナーテさんは、三日の行動を中止するのは無理だろうが、雨天の際はとりやめるよう説得してみようと言ってくれた。あとで聞いてみると、かの女の提案はほかの人たちから笑いものにされただけであったという。つまり臆病者か狂人あつかいされたのだった。ベレーナさんは最初私たちの要請を「神経質すぎる」と感じていたようだが、数日後には、降雨の際には三日の行動を中止にすると決定した提案の原動力のひとりになった。マーティン氏も雨天中止を決めるのがやっとだったといってきた。
  もし私とエルケがマーティンやベレーナの依頼を受けて、集会で発言したらどういうことになっただろうか。私は不必要な被ばくを避けることを訴え、したがって放射能の雲の下でデモをすることに反対を唱えていただろう。そうすれば私は確実に、集会の大多数の参加者たちから非難と抗議の的にされたにちがいない。たとえ少数の人たちが私のことばに耳を貸してくれたとしても……

要点をいえば、このようになるだろう。

①西ドイツの放射能汚染は深刻であり、なるべく野外集会やデモはさけるべきであり、特に、妊婦や子どもは参加させるべきではない。

②妻が今後妊娠するかもしれない田代ヤネス和温自身も集会への参加をとりやめた。

③放射能汚染が強い期間野外集会やデモを自粛するように主張した田代の主張は、緑の党などの環境保護運動団体には十分とりいれてもらえなかった。

③の論点は重要である。今後検討していきたい。しかし、ここでは、②の論点を中心に考えてみよう。

田代は、自身の子どもをほしいと願った。チェルノブイリからの放射能は、妻だけでなく、たぶん遺伝子を守るという形で、田代自身もそこから防護されなくてはならないものであった。田代の経歴からすると、集会で発言するということは、彼の信念の発露もであり、彼の仕事の一環でもあったと思われる。しかし、それを放棄しても、二人の間に生まれてくる子どもの健康と安全を守ろうとする意識が強かったといえる。

確かに、男は、女よりも放射線の影響を受けることが少ないのかもしれない。それでも、すべて、放射能防護対策を女まかせにしようと、田代は考えなかったのだ。生まれてくる子どもに対して、最善の対策を、男もとるべきである。それが、ジェンダー的差異をこえた、人としての、親としての責任の取りかたということができよう。

確かに、ジェンダー的差異は、女たちに放射能への恐怖をより感じやすくさせたかもしれない。しかし、その責任は、男もとるべきことなのであると、女たちは考えているのだ。田代は、『ターゲス・ツァイトゥンク』紙に載った「棺桶を買え」という投書を紹介している。

 

女たちは子どものことばかり心配している、ということを口実にして、男たちが家にでんと腰をすえて動こうとしないのを、私たちは認めない。母親でない大人たちはまるで死んだも同然であってよいのか。原発事故に対する関心の冷えこみぶりは信じがたいほどだ。だから私は、近いうちに棺桶を買って、上からの命令で一斉に中へ入る日を待っているんだと言われても、ちっともおどろきはしない。

この言葉は、今の私にも向けられているのだ。

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前回、西ドイツ社会において、1986年のチェルノブイリ事故における西ドイツ社会での意識の分裂について述べてきた。このような意識の分裂は、ある意味でジェンダー的な差異を介して、強く意識されることになった。

田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』は、このように語っている。

 

歴史を振り返ってみると、女はしょっちゅう男が引き起こしたことのしりぬぐいをさせられきた。もっぱら男たちが始める戦争がいい例だが……チェルノブイリは女たちの内部に眠っていた古い記憶を呼び起こした。愛する家族にガンのくじを引かせてはならないと、本能の声が呼びかける。けれどもかの女たちが迎えている破局的な状態は、これまで経験してきたものとどこかちがっていた。
 男たちが作り上げた原発社会は、破局なぞどこにも起こっていないと言い張っている。だが、女たちは家族に迫ってくる不安を体で感じている。この不安を取り除くには、不安の原因である危険な原発なぞない社会を選びたいと願う。これは女にとってごく自然な心のはたらきである。
 これまでも男の負っている役割と女が負っている役割との間には、ときどき摩擦が激しくなり、きしみ声を上げることがあった。男は社会全体に対する責任を優先させ、女は家を守り子どもを養育する役割に重きを置いた。チェルノブイリは両者の対立を、敵対的な矛盾にしてしまったとさえ言える。破局なぞどこにもないと主張する男と、破局を超えて原発のない社会を願う女との間には、埋めることのできない亀裂ができた。そして、その亀裂の底に、将来にむけての起爆剤が仕かけられていることに気がついた人は、まだそれほど多くない。

 この「女たちの不安」について、田代は、ベアルホフという人の手記「私は子どもらを犠牲にしたくない」を引用することによって、端的に示している。

 

地獄は、私たちが地下室にとじこもり、髪の毛を切り、住居をまるで手術室のように簡素にし、規律と清潔を完全に守り、母親たちがヒステリーを起こすことなしには子どもらが水たまりで遊べず、森で走りまわれず、砂場を掘り返せず、木に登れず、野原でかくれんぼ遊びができず、ひざ小僧をすりむいたりできないことに現れている。
 地獄は、何も感じないのに、目に見えないのに、常に最悪の場合を考えて暮さねばならないことにある。
 地獄は、女たちがあくせく動きまわっているときに、男たちが狂った進歩主義の終着点を見るのをいやがって、勝手に気ばらしをしたり、無力感にひたったりすることにある。
 地獄は、子どもたちが放射能の病気になったことについて、、それは母親が十分に清潔にしなかったからだとか、正しい食事をあたえなかったからだとか、責任を負わされることにある。
 地獄は、誰も検査なしに妊娠したり、出産したりできなくること。不適当と見なされた女たちに堕胎や不妊が強いられること、遺伝子操作の強要。出産に『適した』女たちが、汚染されていない貴重な精子で人工的に妊娠させられ、産む機械とさせられることにある。
 私が地獄を見たあの日、体が反応を始めた。寒気を感じ、体ががたがたふるえ始めた。ふるえているとき、恐怖感が不意に野獣のように私の首にとりつき、体をゆさぶった。それから私はしくしく泣いたり、泣きわめいていたりすることがますます多くなった。食欲がなくなり、しだいにやせ細った。
 …地獄を見たときの恐怖感は、しだいに子どもをみるときの心の痛みに変わっていった。私は結構年をとり、自分の人生を生きたじゃないの。私の恐れているのは自分のことじゃない、私のチビ(息子)はまだ四歳にもなっていない。

一方、男は、どのような対応であったか。田代は、『ターゲス・ツァイトゥンク』に投稿されたベーター・タオットフェストの「チェルノブイリが家庭に引き起こしたこと」を引用している。タオットフェストは、ヒロシマの被ばくも知っており、反原発運動には理解があるのだが、それでもこのように言っている。

 

台所から妻は、どこそこで今日はしかじかのベクレルが測定されたから、明日も子どもたちを外に出さない方がいいのじゃないかと聞いてくる。私たちの間の空気は冷え切っている。私は台所に行って、用心深くことばを選びながら、なぜ私が放射線防護対策を守りたくないかを話した。『新しい生活のルールが私にはヒステリーであるだけでなく、真の危険を過小評価しているように見えるのだ』
 ……私たちは簡単な対策で被ばくが防げるかのようにだまされているのだ……私たち緊急事態に少しずつ馴らされるつつあるのだ。だから私はサラダを食べなかったり、牛乳を飲まなかったりするかわりに、サラダを食べ牛乳を飲み、それから市役所の前に行って『こういう形では身を守れないぞ』と抗議すべきなのだ。
 ……夫たちが鈍感なのではない。そうではなくて妻たちの度が過ぎているのだ。危険に際会した反応として、こんなにも男女に差が生じるのはおかしい。危険の度合いについての知識に両性の差はゼロのはずだから。ならばやはりこれは男と女のちがいの問題なのだろうか。一方に冷静で恐怖感を持たない男がいて、他方に心配過多症の女がいる。私にはわからない。知ったかぶりはやめておこう。
 ただ気がついたのは、身のまわりに起こった危機は、必ず家庭内で表面化するということだ。五月の私たち夫婦の間に生じたいきちがいやいさかいは、危険が迫ってくると必ず起こる性質のものだ……

田代は、「生活の内部にまでいや応なく侵入してきた放射能は、根の深いところでの男と女の対応の違いをあらわにさせた。夫婦の間にもいさかいが生じ、それが昂じて離婚にいたったという話もまれではない」と述べている。

翻って、現在の状況をみてみよう。東京も含めてなのだが、福島第一原発事故で、かなり多くの放射性物質が降下した地域では、女性たちはベアルホフの手記にあるように感じ、かなり努力をして放射線防護対策をとっている。それは、家族全体を今まで住んでいた地域から移住する計画を企てるほどのものなのだ。他方で、男たちは、第一に職場などの生業の場を変えたくないという意識が強い。一時は、そのことで離婚が増加したと聞いている。今でも、夫などの男たちが放射線の強い福島県などで働き、女性・子どもが他府県に移住するというケースはざらにみかける。

私自身も、ある意味では、ここであげられている「男性」のように考えていたことを告白しなくてはならない。過度に放射線防護対策をとらねばならないということに違和感をもっていた。

しかし、今は多少違ってきた。一つに、田代の著作に出会ったことが大きい。チェルノブイリ事故の際の西ドイツ社会の状況は、今、私たちが目にしているものと同一の様相を示していた。田代の著作を読むことによって、自らの意識が相対化されたといえよう。それは、まさに「歴史」の効用といえるであろう。

そして、もう一度、自分の目で、セシウムなどの汚染状況をチェルノブイリ事故の際と今と比較してみると、愕然とした。専門家でないので、数字自体はよくわからないが、田代の著作にあるようなパニックとなった西ドイツよりも今の日本の状況は深刻であり、福島県にいたっては、チェルノブイリ原発自体が立地していたウクライナ・ベラルーシに匹敵する(もちろん面積などには違いがあるが)ものとして考えた方がよいのではなかろうか。

その意味で、現在、私自身の意識も変化していく最中なのである。

そして、私自身の中にもあった「男性的」な意識の背後には、ここでみてきたジェンダー的な差異があること、これも田代の著作から学んだことの一つである。

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1986年4月26日のチェルノブイリ事故において広がった西ドイツでの恐怖、さらに情報隠蔽と影響の過小評価に終始した西ドイツ政府の対応について、田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)に依拠しつつ述べてきた。

西ドイツ政府の公式発表は、ほとんど信用できないものであったのだが、その公式発表にすがる意識も生じた。それは、反原発運動の活動家の中にもあったのである。

西ベルリンの反原発運動の活動家の一人であるベレーナ・マイヤーの手記「パニックと不安抑圧の狭間で」を田代は引用している。ベレーナ・マイヤーは、もちろん、放射能汚染について恐怖を感じていた。すでに、本ブログで紹介したのであるが、もう一度みておこう。

 「私たちは原発事故の際の緊急対策計画の馬鹿さかげんをいつも笑いものにしていた。たとえば缶詰を食べ、入口や窓を閉じ、シャーワーを浴び、ラジオを聞き、外で着ていた服を家の中にもちこまないなどである。しかし、いまになって私たちがしていることはといえば、つまりはそれと同じことではなかったか。私たちは缶詰を食べ、靴を家の外に置き、ラジオをつけっぱなしにしている……。
 放射能の雲がやってきてから初めて雨が降った。雨の下を20メートル走る。傘は準備していた。家に帰ってシャワーを浴びたが、傘はどこに置いたらいいんだ?
 ……私たちは一生の間、輸入食品で過ごすことはできない。汚染されたものでも食べないわけにはいかない。それでも最初の数週間、私はまったく食欲がなかった。汚染されていたものはおいしくなかった。私が好きなものはすべて汚染されていた。だからのどを通らなかったのだ。私の体重はみるみるうちに減った。」

一方で、マイヤーの中には、政府などから出される、楽観的なニュースにすがりつく意識も生まれていた。

 ……ある朝、「チェルノブイリでは事故炉の火が消え、東ヨーロッパ全域で放射能の値は下がっている」と報道された。私はこのニュースに小躍りしながら飛びついた。そして半日の間この情報を信じていた。もちろん私はこの情報が信じるに値しないことを、心の底で知っていた。しかし、この悪夢が少しでも早く終わってほしいという望みが、政府の出す情報は信じられないという私の知識を押し退けるほど強かったのだ。ほかの人たちも私とほぼ同じように反応していた。
 「おれは国の言うことなど頭から信用していないよ」と日ごろ言い切っていた人までが、ラジオのニュースを突然信じてしまうという場面にも出会った。だがたとえ不安感を抑圧したとしても、その反響はかならずやってきた。不安感を遠ざけようとすればするほど、恐怖感はより深くなるのだった。

ベレーナ・マイヤーは、反原発運動の活動家で、それ以前から政府など信用していなかった。むしろ、恐怖から解放されたいという思いが、普段は全く信用していない政府発表の「楽観性」を信じようとしてしまうのであるといえる。その意味で、西ドイツ政府の、「日常生活を変えない」という点から行われた情報操作に多くの人がからめとられていく要因がここに現れているといえよう。西ドイツ政府の公式見解の「根拠」など、どうでもよかった。「日常生活を変える必要がない」という政府見解にこめられた楽観的な希望があれば、そこにすがりつく。たとえ、その希望が虚妄であっても。

そして、西ドイツ社会に大きな亀裂が走ることになった。この亀裂は、社会全体にも、一人一人の内面にも及んだ。田代は、このように書いている。

 

いずれにしても五月の初めの日々、私たちはあらゆる手をつくして各方面から放射能汚染のデータを集めた。それらのデータは私たちの不安を増幅させるだけのものだった。電話で伝える情報の伝聞の間に、ときには厳密性が失われることがあった。また平常値との比較もできなかったし、汚染の規模を確実に把握することもできなかった。
 不確実性に基づく不安感に追い打ちをかけたのが、正確な情報から完全に遮断されているという事実だった。恐らく体験者でないと想像できないだろうが、それは世界を「正気」と「狂気」に二分したのだった。
 たとえば陽がさすと外に出て日光浴をする人たちがいる。一方、私の耳には電話を通じてさまざまな放射能測定値が届いてくる。これら二つのうち、はたしてどちらが「正気」で、どちらが「狂気」なのだろうか。私自身が二つに引き裂かれ、幻覚に悩まされたのだ。しかもそれに重なるように加わったのが、いちばん濃い放射能の雲がドイツ上空にさしかかったとき、運悪く雨が降ったのではないかという妄想である。それは一種の被害妄想であったかも知れない。
 多くの人たちが、これはソ連のできごとで、東ヨーロッパの人たちには気の毒だが、自分たちには直接の影響はないと考えている。他方、その反動として自分たちこそ最大の犠牲者にほかならないといった、「被害妄想」が生じたことは否定できない。とくに雨が降り始めるとともに、核のゴミのすべてがここに落ちてくるのではないかという強い恐怖感に襲われたことをはっきり記憶している。あの当時は、雨よどうかこれ以上降ってくれるなと願うしかなかった。そして、とどのつまり、まるで手も足も出せない「放射能袋小路」から脱出し、チェルノブイリの雲がとどかない場所への避難を夢見るようになる。

田代は、「不確実性に基づく不安感に追い打ちをかけたのが、正確な情報から完全に遮断されているという事実だった。恐らく体験者でないと想像できないだろうが、それは世界を「正気」と「狂気」に二分したのだった。たとえば陽がさすと外に出て日光浴をする人たちがいる。一方、私の耳には電話を通じてさまざまな放射能測定値が届いてくる。これら二つのうち、はたしてどちらが「正気」で、どちらが「狂気」なのだろうか。」と問いかけている。つまりは、放射能を考慮せずに「日常生活」の「習慣」を守ろうとする志向と、放射能汚染を心配するあまり自分たちこそ最大の被害者であるという「被害妄想」ともいえる意識をもつ志向に、に西ドイツ社会全体も、それぞれの個人の内面も引き裂かれ、さらに正確な情報がない状況においては、どちらが「正気」でどちらが「狂気」かわからなくなってきたとしている。そして、チェルノブイリ事故の影響がないところにへの避難が欲求されていったのであった。

なお、ここでも、確認しておこう。これは、1986年のチェルノブイリ事故の際の西ドイツ社会のことを論じているということを。

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これまで、本ブログで、1986年4月26日に起きたチェルノブイリ事故の際、西ドイツ政府が、情報隠蔽や影響の過小評価、基準値の大幅な緩和を繰り返していたことをみてきた。

その背景には、どのようなことがあったのであろうか。

田代ヤネス和温は『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)で、このように述べている。

 

多くの市民から内務省や放射線防護委員会に問い合せ、苦情、不安や抗議の声が寄せられた。しかし、これらの政府機関はいずれも、人びとの日常の暮らしにさざなみほどの変化も起さないことを鉄則としていた。なぜなら、世間の人びとは日常生活を変えなければならないときがきて、はじめて危険が身に迫っていることを知るからだ。その意味で「習慣を変えない」ことが支配の要諦なのである。
(中略)
 いまにして思うのだが、私たちは放射能の危険に対処する能力を持つと同時に、内務省、放射線防護委員会など、いわゆる原子力ロビーがいったん原発事故が発生したようなさい、どれほど危険な役割を演じるかについて、日ごろから正確な認識を持っておかねばならなかった。これからの運動で生かすべき教訓として、あらためてここに記しておきたい。

もちろん、おわかりのことと思うが、これは、西ドイツ政府のことである。

田代の本で引用している、田代の友人で、三人の子の母親であるアニャ・ルゥールの手記は、より端的に述べている。

 

日曜日(1986年5月4日)以降、私は政府の発表が信じられなくなった。政治家たちの恐れているのは放射能の害ではなくて、私たち普通の人びとが放射能に恐怖心をもち、原発のような破壊的な科学技術に反対するようになることを恐れているのだ。

その後、アニャ・ルゥールは、自然発生的に出来上がった「授乳中の母親の会」の世話役になった。

放射性物質の降下による人民の生命・健康を恐れるよりも「日常生活を変えない」ことを優先し、原発などの破壊的科学技術に疑問を持たせないようにしたのが、西ドイツ政府の意向であったといえよう。

 このような西ドイツ政府の対応は、多くの「身体障害事件」としての政府への告訴を引き起こした。田代は、その一つの告訴事件を例にして次のように語っている。

  

この告訴事件を担当した裁判官の一人は、国民に危険が迫っているとき、国に国民を保護する義務が生じるのは当然のことと考えられるが、しかし、この義務を明文化した法律がないと、語った。言いかえると、人民主権の民主国家とは言うものの、国が国民に対して負うべき義務など、何ひとつ存在しないのである。

「人民主権の民主国家とは言うものの、国が国民に対して負うべき義務など、何ひとつ存在しないのである」のはチェルノブイリ事故の際の西ドイツ政府であったことを、もう一度確認しておく。田代は、さらに「ただし政府がウソをついてもさしあたりこれを罰する規定がないわけで、このところウソのつき放題といった感じだった」とも述べている。

さて、問題だったのは、西ドイツ政府だけではない。チェルノブイリ事故は、西ドイツ社会自体にも大きな亀裂を引きおこした。次回以降、述べていきたい。

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さて、また田代ヤネス和温『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)にもどって、1986年4月26日に起きたチェルノブイリ事故の際における西ドイツ社会の対応をみていこう。

2011年8月11日付の『朝日新聞』朝刊には、福島県や千葉県の各地で、住民や自治体によって、校庭や道路などの除染作業が実施されていることが紹介されている。

チェルノブイリ事故の際の西ドイツでも、除染作業の必要性は認識されていた。

ミュンヘンにおいては、マオラー・エレクトロニクス株式会社とイノーヴァ精密技術株式会社という二つの技術会社を母体にして発行された『汚染通信』第一号(1986年5月11日号)で、除染作業の必要性が提唱された。チェルノブイリ事故後、表面汚染の測定器を購入して、両社が所在している集合住宅の子どもの遊び場を計測したところ、5月6日から10日にかけて16万~10万Bq/㎡の表面汚染が測定されたと『汚染通信』第一号は伝えた。この汚染度は、さまざまな放射性物質、とりわけ半減期の短いヨウ素131を含んでいるので、かなり高いように思われるが、東京でもヨウ素131だけで10万Bq/㎡程度は降下しているとされているので、東京も大差なかったのではないかと思われる。

田代は、『汚染通信』第一号を引用しながら、このように語っている。

 『汚染通信』第一号にのった住宅地域の表面汚染値は、従来政府が規定していた許容量より30倍も高いものだった。また舗道の表面がきわめて高い汚染値を示したことも、政府の発表は市民に告げていない。「私たちは実験的に高い圧力を加えた水を舗道にかけながら、ブラシを使って表面を洗滌すれば、汚染を大幅に減らせることを確認した」と『通信』は言う。この実験を踏まえてかれらは、先述した集合住宅の建物の持主に、子どもの遊び場の除染を提案した。すると持主は即答を避け、「そういうことなら消防署と相談してほしい」と応答した。

民間の『汚染通信』が、除染作業を提案したのである。なお、西ドイツにおいて住宅地域の表面汚染値の許容量は、3700Bq/㎡であった。

しかし、ここで、重大なことがわかったと、田代は述べている。

 

そこでミュンヘン市の消防署に問い合わせてみたところ、大変なことが判明したのだ。つまり5月9日朝、同署の放射線管理責任者はボンの放射線防護委員会から電報を受けとり、1平方メートル当たり10万ベクレルの値なら心配は要らないとの指示を得たというのだ。これが実に曲者で、現行放射線防護規定の基準を30倍以上上回る数値なのだ。
 その上当の放射線管理責任者は、直接の上部機関から道路の除染作業は一切禁止するとの強いお達しがあったことを明らかにした。別の筋からの情報では、一部の学校で校内の除染作業が始められていたのに、突然中止命令が出されたとのことだった。

つまりは、中央政府の放射線防護委員会は、基準を30倍以上緩和して、除染作業は不要と通達し、それを受けた形で道路や校庭の除染作業をミュンヘン市では中止させたのである。これについて、『汚染通信』グループは、必要で実行可能な除染作業が責任官庁の一方的判断で中止してよいのかと指摘し、「これらの措置は、政府機関が救助義務を怠ったケースに該当しないかどうか、判断してほしい」と法律の専門家に協力をよびかけたのである。

『汚染通信』グループは、このように主張している。

 「私たちはパニックを煽り立てる気など少しもありません。政府発表が言っているように、大気中の放射能レベルが相当低下したとか、急性の健康障害は予想されないということは多分当たっているでしょう。けれども土壌汚染は公式発表よりはるかに高いのです。この汚染でいちばん被害を受けているのが、地面の上で遊んでいる子どもたちです。私たちがどうしても理解できないのは、なぜ西ドイツ政府がたった24時間のうちに、現行規定の許容水準を30倍も緩和し、それを無害と断定したかということです。」

このような考えのもとで、『汚染通信』第一号は、除染作業の必要性を提案した。

 

私たちは牧場の草をいますぐに刈って捨てることをすすめたい。刈られた草は放射能を含む特別のゴミである。これによって放射性物質の大部分が除かれ、食糧への汚染を防止することができる。農業への打撃もこれによってある程度軽減されよう。
 私たちは公的機関の人員や資材を動員して、妊婦や子どもの被ばく線量を下げるための対策を実行することが必要だと考える。
 放射能の許容量を政治的に決めてはならない。人体の組織は許容量などあずかり知らないからだ。
 市民に正確かつ十分な情報を提供し、不必要な汚染を避けることが大切だ。

 このように、チェルノブイリ事故の際の西ドイツのミュンヘンでは、民間団体が除染作業の必要性を提唱し、中央政府の指示にしたがってミュンヘン市当局は除染作業を中止させたのである。

写真は、市当局が除染作業をしないことに抗議して、ミュンヘンの歩行者天国を水洗いするボーイスカウトとガールスカウトが写されている。

ミュンヘンにおける除染作業

ミュンヘンにおける除染作業

翻って、日本はどうであろうか。『朝日新聞』の記事でも、除染作業に対する国の対応は報じられていない。学校施設においても、ほとんど避難基準である年間20ミリシーベルトを制限基準としている。その意味で、チェルノブイリ事故時の西ドイツ政府・ミュンヘン市当局と同様の対応をしているといえるのではなかろうか。

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前回のブログで、チェルノブイリ事故に対して、西ドイツ政府が情報隠蔽と汚染度の過小評価に終始したことをみてきた。

さらに、放射能汚染に対する許容量を、これもまた現在の日本政府と同様に緩和している。田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)で確認してみよう。

1986年4月26日のチェルノブイリ事故により、西ドイツ各地で放射能汚染が拡大したことを受けて、5月2日、西ドイツ政府の放射線防護委員会は5月2日にボンで記者会見を開いた。

この放射線防護委員会について、田代はこのように指摘している。

これは西ドイツ政府内務省の諮問委員会であり、16人の学識経験者から構成され、すべて原発推進の立場に立つ科学者である。同委員会は「中立公正」を表看板にし、最高水準の科学技術専門家が自由に論議して意見をまとめる場だと吹聴しているが、本来これは「原子力利用の促進」を目的に設置された機関であることに何の疑問もない。

現在の日本にも、このような機関は原子力安全・保安院、原子力安全委員会など、たくさん存在している。

さて、5月2日の放射線防護委員会の記者会見では、次のようなことが発表されたと田代は述べている。

 

生鮮野菜や果物はよく洗って食べること。これは現に放射能汚染の危険が存在するからではなく、あくまでも「予防的対策」にすぎない。「放射線被ばくによる後遺症の危険が皆無とは言えないので、それを少しでも減らすための勧告」だとつけ加えた。
 チェルノブイリからの放射能の量は、自然放射能に比べてまったく小さい。
 ヨウ素剤を服用することは危険である。
 東欧諸国からの食糧品輸入に対してきびしい規制を導入する。
 農家には乳牛を放牧しないように勧告する。
 母乳の放射能汚染度が高くなることは考えられない。

いろいろ、矛盾した言明である。基本的には西ドイツの放射能汚染は問題がない、問題は東欧諸国からの輸入食糧品であるとしている。しかし、野菜・果物はよく洗え、乳牛の放牧を自粛せよと、最低限ではあるが、放射能汚染対策にも言及している。

しかし、放射線防護委員会の記者会見の眼目は、田代にとっては、次の点であった。

 

肝腎なのは「牛乳の許容量をヨウ素131については1リットル当たり500ベクレル(1万3540ピコキュリー)とする」としたことだ。これは1リットルの牛乳を飲めば、成人は25.5ミリレム、子ども250ミリレムの甲状腺被ばくを受けることを意味している(子どもは大人に比べて放射線には8倍も敏感なのだ)。これまでの放射線防護規定の年間許容量は90ミリレムだったが、これを無視してきわめて緩やかな新許容量を設けたことになる。
 しかし、放射線防護委員会の面々はこの数値の改訂について、口をぬぐって何も語ろうとはしなかった。記者たちも「ベクレル」「レム」……など、初めて耳にする記号と数字に惑わされたのか、基準改訂のカラクリを鋭く質問する者はいなかった。一般の市民がこうした発表内容の背後にある事態の変化を見抜けず、いたずらに状況にふりまわされていたのも無理はなかった。

つまりは、牛乳1リットル当たりのヨウ素131の許容量を500ベクレルとしたのである。田代が西ドイツ政府の対応を嘆くのをみながら、日本政府のそれをみると、西ドイツ以上に酷いと思うことが一般なのである。しかし、現在、日本の牛乳1kgあたり(1リットルとほぼ同等)の放射性ヨウ素(ヨウ素131を中心とする)の暫定規制値は100ベクレルであり、それよりは低い。田代は500ベクレルであると、3,6リットルの牛乳を飲めば年間許容量90ミリレムに達するとしている。日本の暫定規制値であると18リットル飲めば達する計算となる。日本の暫定規制値でも、牛乳を飲む習慣があれば、日常的に90ミリレムには達しうるのである。

田代は「ここで大切なのは、チェルノブイリ事故発生後、この委員会がいかに新しい基準値作成に腐心したかを見ておくことだ」と述べている。

西ドイツ政府の他の研究機関も同じような対応であった。田代は、次のようなエピソードを紹介している。

 

ミュンヘン市近郊に放射線環境研究協会という国立の研究機関がある。そこのゲオルグ・ブルガー博士がミュンヘンのあるラジオ局のインタビューに答えて、次のように述べている。
 「ここでは1平方メートル当たり40万ベクレルの放射能が降ってきた。国の放射線防護規定によると、3万7000ベクレル以上になると放射線防護服の着用が義務づけられる。しかし、実際には州民すべてがそんな服を着るのは無理だから、結局防護規定の方が存在理由を失ったことになる。まあ、これは特殊な事態なのだから、それに応じた対策が必要だろう。」

放射線防護服の着用が義務づけられる限度の10倍以上になっているにもかかわらず、州民(ミュンヘンが州都であるバイエルン州民のこと)全員が防護服を着ることはできないから、防護規定が無意味になったというのである。

これと似たようなことは、現在の日本でもみられる。かなり緩い暫定規制値など、枚挙に暇がないだろう。対策がとれないならば、規制値や防護規定を大幅に緩和して、放射能汚染をなかったことにするのである。

再三言っているが、これはチェルノブイリ事故直後の西ドイツで起こったことである。しかし、福島第一原発事故以後の日本でも現在進行形で行われていることなのである。

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