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Archive for the ‘ひまわり’ Category

さて、宮城県石巻市において、支援ボランティアを中心として、復興の象徴としてのひまわりを植栽する活動がなされていることを、前回のブログで述べた。

石巻市の北側にある、同じく津波被災地の南三陸町や気仙沼市では、やはり復興の象徴でありつつも、鎮魂の意味をもつ「はるかのひまわり」が植栽されている。

南三陸町の「はるかのひまわり」

南三陸町の「はるかのひまわり」


(南三陸 ホテル観洋のサイトより)

神戸新聞は、2011年8月11日に、次のような記事をネット配信している。

被災地結ぶヒマワリ満開 宮城・南三陸町 

花を咲かせた「はるかのひまわり」と牧野駿さん=7月30日、宮城県南三陸町
 1995年の阪神・淡路大震災で11歳で亡くなった女の子にちなんだ「はるかのひまわり」が東日本大震災の被災地、宮城県南三陸町の畑で花を咲かせ、被災者の心を和ませている。
 はるかのひまわりは、阪神・淡路大震災で亡くなった神戸市の小学6年加藤はるかさんの自宅跡地に咲いたヒマワリ。地元の人が育て、新潟県中越地震の被災地など各地に種が配られ、はるかさんのエピソードとともに復興のシンボルとして広がってきた。
 南三陸町に伝わったのは東日本大震災の後。同町の会社経営及川博之さん(64)が新潟市から炊き出しに来ていた親類の男性から種を受け取ったのがきっかけだった。合併前の旧歌津町長を務め、震災で長男(46)が行方不明となった牧野駿さん(72)が共鳴し、4月中旬から所有する高台の畑に地元住民と一緒に種をまき続けた。
 及川さんや牧野さんらは「三陸ひまわりの会」を立ち上げ、南三陸町と隣の同県気仙沼市の住民とともに国道沿いに種をまく運動を展開。1日には仙台市で開かれる防災をテーマとしたアジア太平洋経済協力会議(APEC)の会合参加者にヒマワリの切り花も贈る。
 牧野さんは「住民の間で出会いや絆が生まれている。来年以降も続けていきたい」と話している。
特集】東日本大震災
(2011/08/01 10:00)

単純にいえば、1995年の阪神・淡路大震災において亡くなった小学生加藤はるかの自宅跡地に咲き、「復興のシンボル」となったひまわりの種を南三陸町や気仙沼市で植える運動が展開されているということなのだ。

この「はるかのひまわり」は、すでに神戸新聞の記事で言及されているように、元々は、阪神・淡路大震災の犠牲者の記憶なのである。この「はるかのひまわり」は、阪神・淡路大震災の記憶において、かなりメジャーなものになり、それを伝える絵本もある。まずは、絵本『あの日をわすれない はるかのひまわり』(指田和子作、鈴木びんこ絵、2005年、PHP研究所)から、「はるかのひまわり」についてみておこう。

『あの日をわすれない はるかのひまわり』(amazonより)

『あの日をわすれない はるかのひまわり』(amazonより)

この話は、単純にいえば、阪神・淡路大震災で亡くなった小学生加藤はるかの自宅跡に自然に咲いたひまわりが「はるかのひまわり」とよばれ、復興の象徴になったということである。

まず、なぜ、「はるかのひまわり」と呼ばれるようになったか、経緯をみてみよう。本書はつぎのように述べている。

その年の 夏の ことです。
「ひまわりが さいた……」
ガレキが かたづけられた いえの あとから かえってきた おかあさんが、ぽつりと いいました。
うどんやの おっちゃんたちが、はるかを たすけだした あのばしょ(引用者注…助け出された時、すでにはるかは亡くなっていた)。
そこに、はるか みたいに まんまるの かおをした 大きな 大きな ひまわりがさいた。
「はるかの うまれ かわりや!」
おっちゃんも きんじょの ひとも いいました。

ーもしかしたら、それ、おとなりさんが かってた オウムの えさが こぼれんたかもしらん。なあ、はるか?

その秋、おっちゃんは、ひまわりの タネを しゅうかくしました。
そして つぎの年の 春から タネを まきはじめたのです。
ガレキが、すこしずつ かたづられた あとの
あきちや みちの はしっこに。
『あの日をわすれない はるかのひまわり』(amazonより)

まずは、「はるかのひまわり」は、震災で亡くなったはるかの「生まれ変わり」として認識されたことに注目してほしい。ある意味では、輪廻転生やギリシャ神話におけるアネモネになったアドニスなどがを思い起こされる。つまりは、神話的もしくは宗教的な意味が「はるかのひまわり」にはあるといえる。そして、この「はるかのひまわり」を植えることは、阪神・淡路大震災の犠牲者に対する一つの「鎮魂」ともいえるであろう。

他方で、この「はるかのひまわり」は、復興の象徴でもある。本書は、このように語っている。

震災の復興の花
 震災から6年目の2001年、神戸市で「KOBE2001 ひと・まち・みらい(神戸21世紀・復興記念事業)」という9か月にもわたるイベントが開催されました。これはたくさんの神戸市民が参加してつくりあげたイベントで、このイメージフラワーにひまわりが選ばれたのでした。ガレキのあとに咲いたあの「はるかのひまわり」は、震災からの一日も早い「復興」を願う人すべての心の花になったのです。
 この年、神戸ではいたるところにひまわりのタネがまかれ、夏にはおひさまのような黄色い花がまちをかざりました。その数150万本。これは、当時の神戸市民の数と同じでした。

このように、「はるかのひまわり」は、このイベントの中で震災復興の象徴となっていくのである。

さらに、この「はるかのひまわり」は、皇室によって正統化づけられていく。「はるかのひまわり」の普及活動を神戸で担っているNPO法人阪神淡路大震災「1.17希望の灯り」のサイトは、次のように伝えている。

2009年12月 9日 (水)

はるかのひまわり報告

  5年前のお話 両陛下が神戸を訪問された時に 一人の少女より 
 皇后陛下のお手に はるかのひまわりの種と 指田和子さんの著書 
皇后陛下もご存知の「あの日を 忘れない はるかのひまわり」が
たくされてからの ひまわりがたどった日々が 平成22年1月2日 
月曜日 午前5時~5時40分に 
 フジテレビの皇室ご一家 新春スペシャルの
内で 放映されます ご期待下さい
http://117kibou.cocolog-nifty.com/blog/cat3051143/index.html

ある意味では、「はるかのひまわり」は、国家が認定したものになったといえるであろう。

なお、気仙沼市・南三陸町に「はるかのひまわり」を送ったのは「はるかのひまわり 絆プロジェクト」という団体だったようである。その団体のサイトでは、次のように、「はるかのひまわり」を普及する意義を語っている。

「はるかのひまわり」を育て採取した種を配布する過程で由来を伝え、災害の悲惨さと共に命の尊さを再考する機会とする事で、「人の尊厳」と「人との関わりの大切さ」を知る感性豊かな地域社会を醸成する事を目的とします。

阪神大震災での災害の教訓と命の尊さを、「はるかのひまわり」の命の連鎖に例え、実際にその手で育てる過程で、社会の最小単位である「家族」。咲いたひまわりを愛でる「見知らぬ人」。会社で育てる事で「社員」。そのひまわりを愛でる「近隣の人々」・・・・に出来事を伝えることで、少しでも地域社会での「絆」と、はるかちゃん、の「命」の連鎖を紡いでゆきたい。

そんな折に東北地方を襲った未曽有の地震と津波。
自然の営みには非情さと、人間にはかなわない力があるのでしょう。
しかし、人間には智恵と勇気と絆があります。
http://www.season.co.jp/haruka_sunflowerFB.htm

このプロジェクトでは、女の子よりひまわりへの転生の過程を、人間社会における関係性の連鎖とアナロジーで捉えているのである。

このように、宮城県の南三陸町・気仙沼市においては、阪神淡路大震災の記憶を源流とした、鎮魂と復興の象徴としての「はるかのひまわり」が植えられたのである。三陸ひまわりの会の中心人物である元歌津町長牧野駿の長男が行方不明であるということも想起されたい。阪神淡路大震災において、鎮魂と復興は、共に課題であった。そして、その課題を解決する象徴としての「はるかのひまわり」という伝統が、同様の状況にある南三陸町・気仙沼市に引き継がれたといえるのである。

付記:三浦博光「『はるかのひまわり』運動が生んだもの」(『世界』2011年8月号)には、地域の自生的な復興運動として「はるかのひまわり」が挙げられている。後述するつもりだが、被災地でひまわりの植栽活動が広まったのは、私自身も、だれでも参加できる復興運動としての意味合いがあると思われる。ただ、この論文には、「はるかのひまわり」がもつ思想史的意義が言及されていないのである。

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今年、福島・宮城・岩手県などの被災地では、多くのひまわりが植えられた。私は、もちろん、それほど被災地でのひまわりを見ていないが、インターネットで検索してみると、被災した多くの自治体や学校などで、ひまわりを植える活動を多くみることができる。さらに、ひまわりの種やプランターなどを被災地に送る運動もある。加えて、他県からきてひまわりを植えるボランティア活動すらあるようである。

もちろん、その一つが、福島県飯館村や伊達市などにおいて、放射性セシウムを除染することを期待してのことであることは言を俟たない。しかし詳しくは後述したいのだが、ひまわり植栽は放射性セシウムをほとんど吸着しないことが報道されている。さらに、そもそも、チェルノブイリ周辺において、除染効果を期待して植栽されているのはナタネであり、ひまわりではないようなのである。

他方、特別に放射性セシウムの除染が課題ではない、宮城県・岩手県の津波被災地にもひまわりを植える運動が生じている。そう考えてみると、そもそも、放射性セシウムの除染とは無関係に、ひまわりを植栽することが津波被災地で一般化していると思われるのである。

そこで、まず、私が見た、石巻市市街地におけるひまわり植栽からみてみよう。私は、7月26日に石巻市市街地を訪れた。石巻市市街地も津波に襲われたところであるが、立町大通りなどの目抜き通りは、概して原形を保った建物が多かった。その一つで、立町大通りに面して建てられている「あいプラザ・石巻」(社会福祉施設)の門前に、ひまわりが植えられている多くのプランターがあったのである。

今、石巻市関係のサイトをみると、さまざまなところに、ひまわりが植えられているようだが…。そこにはひまわりのプランターが多く集められており、突出していた。東京工業大学真野研究室が作成した『石巻まちあるきマップ』でも、わざわざ、あいプラザ石巻前に赤い破線でかこって「ヒマワリ」という表示がなされている。

石巻まちあるきマップ1

石巻まちあるきマップ1

このひまわりのプランターには、寄贈した人の名と住所が書かれていた。この写真は、あいプラザ石巻のブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/iplaza0294/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=1)に掲載されたものである。これなどは、カリフォルニアの人が寄贈しているようである。

石巻のひまわり(2011年6月9日)

石巻のひまわり(2011年6月9日)

そして、私の行った7月後半には、次のような花を咲かせていた。あいプラザ石巻のブログでは、「すべてのひまわり達が、きれいに花を咲かせてくれますように そして、石巻が少しでも明るくなりますように」(2011年7月27日)と書かれていた。いわば、ひまわりが花を咲かせることについて、石巻市が明るくなっていくことの象徴としてとらえられているのである。

石巻のひまわり(2011年7月27日)

石巻のひまわり(2011年7月27日)

このブログには、「このひまわり達は、ゴールデンウイークにボランティアの方や地域のみなさんに植えていただいたもので、たくさんのパワーが詰まったひまわりなんです。」(2011年6月9日)とあり、あいプラザ石巻のスタッフではなく、他地域からのボランティアや地域住民によって植栽されたものであることがわかる。中でも、他地域からのボランティアが率先して、ひまわり植栽を行ったようである。例えば、8月13日、神戸新聞は、次のような記事をネット配信している。

佐用出身の女性 石巻に希望のヒマワリ咲かせる 

 広大なヒマワリ畑で知られる兵庫県佐用町出身の女性が、東日本大震災で被災した宮城県石巻市にヒマワリの花を次々に咲かせている。故郷を染めた黄色い大輪を思い、「被災地の希望となって」と願いを込める。(若林幹夫)

 被災直後から現地入りしたボランティア団体「め組JAPAN」の井上さゆりさん(26)=東京都。佐用町海内出身で、100万本以上を咲かせる旧南光町にある三土中学校にも通っていた。

 東京で看護師をしていた井上さんは震災のあった3月12日、現在の実家がある大阪市内に向かう途中、ボランティアとして被災地入りを目指す知人に出会った。佐用町が大きな被害を受けた一昨年の県西・北部豪雨では、当時取り組んでいた植林ボランティアが多忙で、すぐに駆け付けられなかった。このときの後悔もあり、石巻には被災5日後に入った。

 混乱の中、避難所の把握や支援のニーズ調査を始め、物資配給や家屋に入った泥のかき出しなどにも取り組んだ。復興へ少しずつ歩み始めた5月、「泥だらけの町に彩りを取り戻したい」とヒマワリを植え始めた。

 まだがれきが残り、ほかのボランティアからは「石巻のためになるのか」と批判も受けたが、インターネットで活動を知った佐用町出身の女性から南光のヒマワリの種約1キロが届いた。

 何よりの励ましになった。全国から数万粒の種が集まり、賛同する仲間と街角や道路の中央分離帯に植え、被災者にも配った。芽が出て少しずつ成長する様子に「勇気をもらえる」と被災者が喜んでくれた。

 井上さんは体調を崩したこともあり、7月いっぱいで被災地での活動を終えた。名残惜しいが、「種が取れ、また来年も花を咲かせてくれると思う。復興を発信する何より強いメッセージになると信じています」と話していた。

【特集】東日本大震災

(2011/08/13 13:32)

インターネット上では、被災地にひまわりを植える運動が多数紹介されており、石巻も多い。ゆえに、この団体だけではない。ただ、とりあえず、「『泥だらけの町に彩りを取り戻したい』とヒマワリを植え始めた。」、「『種が取れ、また来年も花を咲かせてくれると思う。復興を発信する何より強いメッセージになると信じています』と話していた。」という意識ではじめたことは、その他の団体にも共通していると思う。「ひまわりで町に彩りを戻すこと」は「復興」を発信するとボランティア側は考えているのだ。そして、それは、独り善がりではなく、「芽が出て少しずつ成長する様子に『勇気をもらえる』と被災者が喜んでくれた。」と、被災者側にも共有されていたといえる。

ここであげられているボランティア団体「め組JAPAN」のブログ(http://maketheheaven.com/megumijapan/?page_id=32)の7月17日の記事をみてみよう。、

【SEEDS OF HOPE班】

活動概要:平和への祈り、復興への祈りを花に託し、世界同時でスタートした希望の種蒔きプロジェクトです。被災地では、地元の人と一緒にひまわりを植え、その成長を見守っています。

活動場所:

作業人数:鹿妻7人+牡鹿18人

活動内容:牡鹿鮎川公民館でひまわり苗植え

鹿妻小学校の花壇整備、種蒔き

素晴らしい花壇ができました。花壇の周りをブロックで囲み、粉炭と培養土を混ぜ、種を植えれる状態にし、みんなで植えて来ました。

明日は炭を粉末にする為、炭を砕く作業と8月1の川開きに駅前で並べるひまわり探しをしに小学校を回る。

【EM・竹炭班】

活動概要:

活動場所:地区

作業人数:

活動内容: 鹿妻小学校でひまわりの手入れ

「平和への祈り、復興への祈りを花に託し、世界同時でスタートした希望の種蒔きプロジェクトです。被災地では、地元の人と一緒にひまわりを植え、その成長を見守っています。」ということで、平和と復興を祈願することを目的としていることがわかる。しかも、この日、この団体では45名石巻に滞在したが、そのうち25名が、この活動に参加している。つまりは、ボランティア人員の半分以上を、ひまわり植栽に費やしているのである。

石巻市における、このひまわり植栽には、福島県での放射性セシウム除染や、岩手県の一部で期待されている塩害除去などは一切想定されていない。より海辺に近い、石巻漁港前の大通りの中央分離帯にひまわりを植える際には、わざわざEM菌という菌をまいて、塩害除去をはかってから、ひまわりを植栽しているのである。

まさに、復興の象徴としてのひまわり植栽であり、文化的意味のみをもっているのである。そして、かなりの労力が、このひまわり植栽に費やされているのである。

さらに、ひまわり植栽には、1995年の阪神・淡路大震災の記憶を前提とした、鎮魂という意味も含まれている。次回は、宮城県気仙沼市・南三陸町などを中心とした、「鎮魂」の象徴としてのひまわりをみていこう。

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