Feeds:
投稿
コメント

Archive for the ‘雑司ヶ谷お会式’ Category

名所江戸百景・金杉橋芝浦

名所江戸百景・金杉橋芝浦

これまで述べてきたように、近世における雑司ヶ谷のお会式は、見世物的・遊興的側面が強いといえる。しかし、もちろん、お会式は日蓮を追慕する宗教的行事であり、その側面を無視することはできない。お会式は、日蓮宗の講社による集団参詣の対象であった。現代のお会式は、基本的には講社による集団参詣という形式をとっている。そして、それぞれの講社の目印―アイデンティティを示すものとして、それぞれの万燈があるといえる。しかし、近世中葉のお会式においては、あまり万燈は出てこない。それにかわるものとして、のぼりー幡があったといえる。
金子直徳の「若葉抄」(1811年(文化8)年以後成立)では、法明寺祖師堂に「開帳仏御迎幡・のほり、四、五百本の余も出たり」とある。こののぼりー幡は、金襴・錦・猩々緋・縮緬などで作られ、上部には枝垂れ桜・牡丹などの造花が飾り付けられており、「江都の眼を驚す事なりき」とされている。金子によると、こののぼりー幡は、開帳にて諸国より参詣者が集まってくるが、あまり大勢でそれぞれの講中が集まりにくいので、紙などでのぼりを作り、講中が迷子にならないようにしたことが始まりであるとしている。このようなのぼりを作ったのは神田講中が最初で、木綿にて二本ののぼりを作り、「一天四海皆帰妙法」「五百歳中広宣流布」と書いていたという。こののぼりー幡は最初は木綿で作って書いていたが、しだいに木綿の染め抜きとなり、さらに、目立つように赤い縮緬に金糸などで刺繍するようになったという。そして、題材も題目・和讃だけでなく、四界菩薩や宗弘記なども扱うようになったという。金子によると、このようなのぼりが始まったのは「寛保の末」(1740年代)であったが、年々派手になっていたとしている。しかし、成田山不動尊開帳のとき、大喧嘩となり、一七八八年(天明八)年に、のぼりー幡は禁止されたとしている。
しかし、のぼりー幡の禁止は一時的なものであったらしく、斎藤月岑の「東都歳時記」(1838年刊行)の挿絵では、鬼子母神堂の背後に「安国日蓮大菩薩」と書かれたのぼりが立っている。また、歌川広重の「名所江戸百景」(1857年(安政4)刊行)において、「金杉橋・芝浦」の風景として、南側の池上本門寺に赴くのであろう会式の行列が描かれているが、その中心に位置するのは、日傘で飾られた「一天四海皆帰妙法 南無妙法蓮華経」と書かれたのぼりである。そして、周囲には「江戸講中」など、「講中」を示すのぼりがいくつもある。このように、のぼりー幡は、集団参詣する講社のアイデンティティのよりどころとして機能していたといえよう。

参考:『豊島区史』資料編3、「東都歳時記」、『大田区史』中巻、sohske.cocolog-nifty.com

Read Full Post »

雑司ヶ谷鬼子母神・法明寺は、他寺院と競争しあっていた。例えば、現杉並区の堀之内妙法寺は、小川顕道の「塵塚談」(1814年(文化11))によると、彼が30歳くらいまでは(換算すると18世紀中葉)は地名を知る人すらいなかったが、祖師堂など伽藍を改築してからは、新宿から門前まで水茶屋・料理茶屋などの飲食店が建ち並び、日蓮宗以外の人々も尊尊宗して年々賑わうようになったとしている。一方、雑司ヶ谷鬼子母神は、彼の若年の頃までは参詣が多かったが、「近頃に至り殊の外淋しくなり、只堀の内のミ参詣多し」と述べている。彼は「仏神にも盛衰あり、不思議と云へし」と評している。19世紀にお会式に変化があると私は述べたが、このような衰退に対する対応であったのかもしれない。
斎藤月岑の『江戸名所図会』・『東都歳時記』にも妙法寺のお会式は記載されている。『東都歳時記』では、雑司ヶ谷が鬼子母神境内の露店や法明寺子院の飾り物を中心に描いているのに対して、妙法寺は、仏事の式次第が記載され、挿し絵もそれが中心となっている。今でも、妙法寺はさかんにお会式が行われている。
一方、日蓮が息を引き取った池上本門寺は、もちろん日蓮宗の大寺院であり、現在、最も盛大にお会式が行われている。しかし、斎藤の『江戸名所図会』には、会式の記載はみられない。お会式が行われていなかったわけではないだろうが、江戸市中から大挙していくということはまだ一般的ではなかったのではなかろうか。しかし、『東都歳時記』には、十月十日の項に「池上本門寺会式、今日より十三日迄修行。〔十二日十三日開扉あり。十二日の夜通夜の人多し。夜中説法あり、十三日十四日には門前笊籠の市立つ〕」とあり、夜に参籠するというイメージが打ち出されている。雑司ヶ谷のお会式は参籠するというイメージがあまりないが、池上本門寺のお会式は、夜参籠するというイメージがある。そして、歌川広重の『絵本・江戸土産』(1850年(嘉永3))では「毎年十月十三日、祖師の忌日により、前夜より堂内に籠る人夥しく、万を以て算ふべし」とされている。
その他、『東都歳時記』には、本所表町本久寺・深川浄心寺・谷中瑞林寺・本所法恩寺・青山仙寿院・丸山本妙寺・下総真間弘法寺・総州中山妙法華経寺・品川妙国寺・丸山浄心寺・大塚本伝寺・浅草どぶ店長遠寺・牛込原町願満・高田亮朝院・赤坂今井谷・小梅村常泉寺・雑司ヶ谷感応寺などのお会式などが記載されている。江戸よりかなり遠いところもあるが、それでも賑わったとされている。
参考文献:『豊島区史』資料編三、『江戸名所図会』、『東都歳時記』、『大田区史』(資料編)地誌類抄録

Read Full Post »

鬼子母神境内の露店(2010年10月18日撮影)

鬼子母神境内の露店(2010年10月18日撮影)

他方、鬼子母神境内自体は、どのようにお会式にかかわっていたのだろうか。斎藤月岑の『江戸名所図会』(1834年(天保5))では、十月八日から十八日まで参詣群集したとし、これを「会式詣」とよんでいた。同じく斎藤の『東都歳時記』(1838年(天保9))では、「鬼子母神の境内には、茶店柏戸檐をつらね、行客を停て酔をすすむ。川口屋の飴、麦藁細工の角兵衛獅子、風車等を土産とす」と述べている。ここでは紹介しないが、同書の挿絵では鬼子母神境内が描かれており、飲食を中心とする露店によって境内が埋め尽くされている。かなり見世物化されてはいたが、一応法明寺境内が日蓮の生涯を語る「聖なる場」であるとすれば、鬼子母神は遊興中心の「俗なる場」であったといえる。そこは、例えば随筆「続飛鳥川」(年代不詳)に「歌比丘尼、うりひくに、歌ひくにハ、雑司ヶ谷会式に茶屋茶屋を廻る…売ひくにハ、二人ツツ屋敷を廻る遊女也」と書かれるような空間であった。
なお、ここでは、現代の鬼子母神境内の露店を画像として出しておくことにする。
参考:『豊島区史』資料編三

Read Full Post »

江戸名所図会 雑司谷会式

江戸名所図会 雑司谷会式

19世紀初頭には、今のお会式の諸要素が出現していたとはいえるのだが、それがそのまま、現在のお会式につながったわけではない。むしろ、この時期は、法明寺境内で行われる「飾り物」が肥大化し、いわば見世物化していたといえる。18世紀のお会式でも、日蓮の生涯について境内の各寺院は「飾り物」として陳列していた。19世紀前半の化政から天保期にかけて、この「飾り物」が肥大化したのである。小日向廓然寺の僧であった津田敬順が江戸の名所を探訪した紀行文であり、1814年(文化11)―1829年(文政12)年の間に成立した「遊歴雑記」においては、このように書かれている。大行院をはじめとした法明寺境内の八つの寺院では、苦難や神仏の加護にみちた日蓮の生涯を人形に仕立て、本尊を片づけて山川・家宅・寺社・国々の背景を飾っていたとしている。そして、津田がみた時には、からくり仕掛けで人形芝居仕立てとなっており、拍子木の合図によって、動かされているというようになっていたということであった。本来は僧侶である津田は、「元来は勧善懲悪のためなのだろうが、今や人形芝居の趣向と同じだ。悲しいことだが、世が濁っていることの証拠だ。日蓮の人形をもてあそび物とし、飾り物の評判によって貴賤を集め、僧坊を貸座敷として財貨をむさぼっている。手すりによって見ている者は、仕掛けの善し悪しのみを論じるだけで、題目を唱える者はなく、皆が飾り物をみようとして押し合い群集しているだけだ」と批判的にみているのである。
この状況は、神田の町名主斎藤月岑が父祖の調査をもとに文を書き、長谷川雪旦が挿絵を描いた「江戸名所図会」(1834年(天保5))で描かれている。この挿絵では、寺院本堂の真ん中に舞台装置と人形が陳列され、多くの群集がみている。彼らは、万燈・まとい・太鼓などをもっておらず、拝んでいるようにもみえない。そして、別室では、僧侶の話(法話であろう)を聞いている小グループが描かれている。
同じく、斎藤月岑が編纂した「武江年表」正編(1850年(嘉永3))によると、天保年間(1830-1844)は、お会式の「飾り物」が中止されている。この時期、法明寺やその子院で鬼子母神の別当であった大行院について、さまざまな紛争が伝えられている。また、天保改革の時期でもあった。それらの要因で、一時期停止されたといえる。しかし、かなり早期に復活したらしく、「武江年表」続編(1878年(明治11)脱稿)では、1852年(嘉永5)の項に「雑司ヶ谷法明寺会式中、境内にとうがらしをもて大なる達磨をつくる」とあり、新たな「飾り物」が作られていたのである。
参考:『豊島区史』資料編三、zoushigaya.seesaa.net。

Read Full Post »

19世紀に入ると、雑司ヶ谷のお会式には変化の兆しがみられる。雑司ヶ谷に住んでいた金子直徳により書かれ、一八一一年(文化八)以後に成立したとみられる「若葉抄」においては、鬼子母神の年中行事として会式が扱われるようになった。一〇月六―八日は会式に使う造花を扱うことを起源とする花市が開かれ、八―十八日まで会式期間とされた。なお、十月八日は鬼子母神の尊神御衣替という神事の日でもあった。しかし、「寺に飾り物」と書かれているように、鬼子母神境内はお会式における宗教的な場というよりも、度々将軍・大名・御殿女中らが参詣する際の幕屋や茶屋の幕屋がはられ、近在の商人の格好の商いの場であった。むしろ遊興的空間であったといえよう。
法明寺とその子院を中心にして行われるお会式にも変化があった。境内の飾り物や法要だけでなく、「ねり供養」「音楽法事」なども行われるようになった。「ねり供養」というのは、何らかの行列で行われる仏事である。この法明寺のお会式の実施は、四谷の檀家である伊藤小右衛門によって皆に知られるように高声で宣伝されたという。この「ねり供養」は僧侶によって行われたのか、在家信者によって行われたのかは不明であるが、現在の鬼子母神お会式の中心をなす「万燈練供養」という行列仏事の原型をなすものといえよう。
このように、19世紀初頭において、鬼子母神は「お会式」の場の一部に取り込まれるとともに、現在の行列による仏事「万燈練供養」の原型が生まれてきていたといえよう。

参考文献:『豊島区史』資料編三

Read Full Post »

さて、ここまで、現在の雑司ヶ谷鬼子母神お会式について概観してきた。単純にいえば、雑司ヶ谷地域を中心とした各地の講社で、万燈が製作され、まといと太鼓・笛などの「囃子」を有する「行列」が組織される。そして、10月16日には、各地講社の町内を「行列」が巡回する。17日には、護国寺近傍の「清土鬼子母神」より、雑司ヶ谷鬼子母神堂にむけて、「行列」が踊りながら行進し、鬼子母神堂と法明寺で題目をとなえながら参拝する。最終日には、西武池袋前で集合して行進し、同じく鬼子母神堂と法明寺で題目を唱えて参拝すると説明できる。
一見、古来の伝統にそった形のようにみえる。しかし、18世紀の地誌類における雑司ヶ谷のお会式は、全く違った様相を呈している。大橋八右衛門方長により、1773年(安永2)―1799年(寛政11)の間に書かれたとされる「江戸図説」では、お会式は法明寺の項において「毎年十月八日より十八日迄祖師御影講、俗ニ御名講会式とも云、寺々人形作り花等をかさり殊ニ賑ひ群集せり」と記載されている。鬼子母神ではなく、お会式は法明寺で行うものであり、万燈・まといなどをもって「行列」するものではなく、人形や造花を寺々でかざり、それを参拝するものとして描かれている。他方、同書において鬼子母神の祭典は、正月十六日の「歩射」と六月十六日の「草薙」があげられている。後続の「江戸名所図会」などによると、「歩射」とは弓を射る祭事であり、「草薙」とは社頭の草を刈る祭事であった。鬼子母神の祭神は仏教の護法神であるが、本来の形では、神として遇されていたのである。後年は法華経読経などこれらの祭事にも仏教色が濃くなっていくが、鬼子母神は雑司ヶ谷村の産土神でもあり、神社として祭られていたのである。
また、1795年(寛政7)頃成立したとされる、高井蘭山の「雑司谷詣」は、お会式の参詣を記したものであるが、この書でもお会式は、鬼子母神ではなく法明寺の項に記され、「寺坊の盛物、錺物頗華美にして、或ハ上人在世の危難、或ハ不測救助の体を模像して児女の眼を悦ばしむ」とある。「江戸図説」での「人形」とは、日蓮の苦難を描写するものであった。それを拝観するということが、お会式の参詣の要であったのである。
現在の法明寺のホームページでも、同寺のお会式は日蓮命日の10月13日に開くものとされている。現在行われている10月16-18日のお会式は鬼子母神のホームページに記載されている。これは、お会式の出自の違いが現在でも意識されている証左といえよう。

参考文献:『豊島区史』資料編三(1979年)

Read Full Post »

18日は、前述のように、西武池袋前から鬼子母神に向かう。雑二講の行動を中心に編集されている。撮影されているのはまといを中心にしている。鬼子母神堂前で、ハイテンションすぎて、題目を唱えることを主導する僧侶が困惑気味であることが印象的だ。

Read Full Post »

10月17日は、護国寺前から、不忍通り・目白通りをへて鬼子母神堂に向かうことになっている。大正期頃は、そちらがメインコースであった。一応、護国寺ルートとなっているが、実際の出発地点は、護国寺門前ではなく、護国寺のところより、ちょっと不忍通りを上った地点である。ここは、清土鬼子母神(お穴の鬼子母神)といわれ、田の中にあった鬼子母神像が最初に掘り出された場所であった。
集合した講社の名前がわかるように編集されているので、非常に都合がよい。多くは地縁的な結合をもとにしていることが理解できよう。
このビデオの編集においては、「まとい」が中心に描かれている。万燈よりも、「囃子」と「まとい」の踊りが中心となっている。
ビデオには、どう見ても欧米人が鐘をたたいている姿が撮影されている。あまり関係ない人も取り込む魅力がこの祭りにはある。
翌日と同様、鬼子母神堂と法明寺での参拝で、行列はしめくくられている。

Read Full Post »

10月16日は、お会式の町内回りの日にあてられている。夕方、雑二講では、雑司ヶ谷二丁目をまわっている。まずは、弦巻商店街(昔の弦巻川流路)から出発し、北側の雑司ヶ谷墓地近辺の御獄山清立院(日蓮宗寺院)に行き、南側の廃校になった高田小学校跡地に行き、また、弦巻商店街に戻るという経路のようである。万燈は運ばれず、電飾され、太鼓を載せれられたリアカーと、まとい二基、あとは太鼓などをもった「囃子」方である。子どもが多く、まといをもって踊る人々も少年少女が中心のようである。清立院では、花吹雪で迎えられている。この清立院にも万燈があるようだが、雑二講のものなのかどうかはわからない。最後の場面で、子どもには菓子が配られていた。

Read Full Post »

雑司ヶ谷二丁目講(雑二講)という講社のお会式への参加を撮影していた動画がyoutubeに引用されていたので、ここで一つずつ紹介したい。
雑二講とは、雑司ヶ谷二丁目を中心とする講社である。雑司ヶ谷墓地の裏側といってよいだろう。地縁的な講ということができる。いわば、町内会的な講である。
雑司ヶ谷二丁目町会のサイトでは、「9雑司が谷の一番の行事は、9月の大鳥神社の祭礼と10月の鬼子母神の御会式(雑司が谷二丁目講があり万灯、まといを出します)が盛大に行われ、参加者は、約200人位になります。」とあり、実際は町内会の行事であるといえる。

この動画では、お会式の準備過程を撮影している。造花は「婦人部」の手作りであり、それを針金に通して万燈を作るのである。発電機を載せるリアカーも手で作っている。
まといの練習光景もある。ほとんどが少年少女だ。実際のお会式では、それほど少年少女は目立たなかったが、この講社では多いのだろう。

Read Full Post »

« Newer Posts - Older Posts »