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Archive for the ‘雑司ヶ谷お会式’ Category

おえしき新聞第一号

おえしき新聞第一号

豊島区立郷土資料館に収蔵されていた、「おえしき新聞」を入手した。いくつか欠号があるが、この新聞が刊行された1970年以降の雑司ヶ谷お会式の状況を検討する好資料である。さらに、大正期までさかのぼる回想が載せられており、今のお会式のあり方を分析する根本史料であると考えている。豊島の地域紙である『豊島新聞』のお会式の資料も入手しつつあるので、現代のお会式について、より分析を深めていきたいと考えている。下世話な言い方では「乞うご期待」というところかな。
高田若睦発行「おえしき新聞」第一号(1970年10月15日)

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[明治中期の新聞を読んでいるとお会式の思わぬ姿が浮かび出てくる。『二六新報』1902年10月11日号には、池上本門寺のお会式について、「当夜は読経の了ると▲御籠 と称し男女老幼暗き処に打集ふを例とし、此の機に乗じて風俗壊乱の挙動に及ぶ者年々歳々夥しきより、今年は同所に無数の点灯をなし如上の弊風を一掃せん筈なり」と書かれている。まあ、いろいろ評価はあろうが、男女交際の場でもあったといえる(もちろん、公式的ではないが)。
参籠はなかったと考えられる雑司ヶ谷鬼子母神のお会式にも、男女関係を暗示させるものが出ている。『読売新聞』1910年10月18日号の高木敏雄「鬼子母神の会式に就て」は、鬼子母神がユノやヴィーナスのような子孫繁栄の母神を出自にしていることを論じているが、その中で「雑司ヶ谷の会式にも、矢張此風俗の一部が保存されて、道路の両側に樹てられる多くの燈籠には必ず男女の情交に関係した絵が描かれている。而も此祭日に限って、此風俗壊乱的の絵画が公然許されているのは、必ずや相当の理由がある事と思ふ」と書かれている。鬼子母神という神格のためなのか、遊興的雰囲気のためなのか、池上本門寺の参籠の影響なのかはわからないが、男女関係が暗示されるような燈籠が陳列されていたとはいえるであろう。
ただ、現代の雑司ヶ谷鬼子母神のお会式を見る限り、そのようなことを暗示させる万燈などは存在していない。新聞でみる明治末年の状況とは大きくかわっているといえる。
ただ、男女なかよく行列に参列するという意味では、今もそのようななごりはあるだろう。

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さて、近代のお会式について、国家権力はどのように対応したのであろうか。当時の新聞である『二六新報』1902年10月11日号は、池上本門寺のお会式について、次のように伝えている。当時の池上本門寺のお会式は、東京全市から講社が参詣する場であり、そのために、大森駅までの臨時列車が出ていた。そのことについて、『二六新報』は、「当日は例の如く各講中隊を為し列を作り人波打て景気よく押しかくべければとて、品川芝の両署にては非番巡査を召集し新橋品川の両停車場を警戒し、本山上長栄堂前の掛茶屋は其の休息所に当て、又警視庁第三部よりも医員出張し病者負傷者の応急手当に備へ、又▲本山下 の池上小学校も同じく巡査休息所に当て、大森停車場脇病院は根年々休息場に当てられしも、同病院は今年癩病患者多き為同所を駐在所に変更し遺失物迷子等を茲処にて取扱ふ」と報じている。国家権力の末端としての警察は、まずは人混みを規制し、急病人を介護し、遺失物を預かり、迷子を保護するものとして立ち現れてくるといえる。いわば、お会式に集まる民衆を保護するものとして、国家は行動しているといえる。
他方で、『二六新報』は、「又例の肩にして狂ひ廻はる万燈は、先頃の府令に基き市内の祭礼等には此の挙を許さざりしも、同所は郡部の事とて大目に見のがすとの事、但し万燈を振り廻し或は通行人の妨害と認めらるる時は差止めらるること勿論なり」と伝えている。この一文は、なかなか微妙である。府令において、市内祭礼で万燈を振りかざすことは禁止されていたが、「郡部」ということで、特別に許可されているのである。しかし、それも、警察のまなざしで、目に余るという行為は規制するとしているのである。ここでの、警察の振る舞いは、「府令」を根拠にした民衆の行為を規制する権利を保有しつつ、ケースバイケース(ここでは「郡部」という理由で)で許容するというものであった。ここでは、国家は、民衆の行為を規制するものとして立ち現れているといえるのである。
もちろん、このような国家の二面性は、現代のお会式でもみることができる。現在でも、警備を理由に、警察は大動員をかける。実際、車道を行列する際、警官が保護している。一方で、行列の経路は、警察側が認可してはじめて可能となっている。民衆を保護することと、民衆を規制することの二面性―国民国家としての近代国家権力の特徴ということができる。

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本郷講中寄進の鬼子母神の狛犬(2010年12月10日撮影)

本郷講中寄進の鬼子母神の狛犬(2010年12月10日撮影)

さて、神仏分離後のお会式はどうなったのだろうか。明治前期のお会式については、池上本門寺の景況が新聞に掲載されている。すでに汽車が運行され、特別運転がなされ、それが交通手段となっている。ただ、万燈をもって集団で参詣し、池上本門寺に参籠するというスタイルは、幕末期とそれほど変わらない。
雑司ヶ谷お会式については、管見では読売新聞1892年10月4日号に出ている。それには、

◎ 雑司ヶ谷日蓮の会式 本月八日より廿三日まで雑司ヶ谷鬼子母神境内に安置しある安国日蓮大士の会式を執行するに付き近郷近町村講中有志者より安本亀八作の生人形日蓮大士一代記のかざり物等を寄附し猶毎夜数十本の万燈練り込み等ある由

と伝えられている。期間が8-23日となっている。すでに近世期より、将軍の命によってこの期間となっていたが、それを踏襲している。また、近郷講中より人形・飾り物が寄附されて展示されている。これも、雑司ヶ谷お会式の本来の形を踏襲している。しかし、一方で夜間の万燈練り込みが記載されている。これは、たぶんに幕末期以降の池上本門寺における会式のスタイルを受け継いだものといえる。明治中期の雑司ヶ谷のお会式は、近世期の雑司ヶ谷お会式のスタイルと、池上本門寺のスタイルが混合していたといえるであろう。
『高田町史』(1933年)では、「明治年間に至り次第に衰微傾向を呈したので、明治二十六年(1893)、信徒惣代が土地の有志と謀りて再興の策を施し、万燈も復興し、毎年十月八日から十八日まで十日間連日挙行した」とあるが、先の新聞記事とやや食い違っている。その前年には、万燈のあるお会式は挙行されていたのである。ただ、推測でいえば、この頃に、鬼子母神のお会式の再編が行われたのではなかろうか。『高田町史』によると1932年にお会式再興40年記念式が開催されたそうである。
1896年10月9日の読売新聞には「例年よりハ生人形陳列の箇処を増し夜ハ数十本の万燈を出し昼ハ茶番狂言等を奉納して参詣者の観覧に供せんと近町村を始め牛込小石川四ツ谷麹町等の各信徒ハ何れも意気込み居るとの事」と書かれている。この時も、元来の雑司ヶ谷お会式のもつ遊興的感覚が強かったことがわかる。一方、このお会式をささえる講社は、牛込・小石川・四谷・麹町などの、東京北部のかなり広汎な地域からきていることもわかる。熱心な日蓮宗信者にささえられた祭事でもあった。

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雑司ヶ谷大鳥神社(2010年12月10日撮影)

雑司ヶ谷大鳥神社(2010年12月10日撮影)

雑司ヶ谷鬼子母神は、神仏分離によって大きな変容を蒙った。近世の多くの神社は、修験(山伏)を含む仏教寺院が別当寺として管理するところが多かった。明治維新による神仏分離令により、そのような多くの神社では、仏教寺院による管理が廃止され、専門神職によって管理されるようになった。また、それまでの神社祭祀には仏教的儀礼が多く取り入れられていたが、新しく神道独自なものに切り替えられていった。
鬼子母神は、微妙であった。鬼子母神は雑司ヶ谷の産土神であり、本来祭礼も歩射と草薙という神事系のものであり、歩射は雑司ヶ谷村民の宮座によって運営されていた。しかし、鬼子母神は仏教の護法神であり、別当寺大行院の本寺である法明寺によって仏教色が強く植え付けられていた。そのため、鬼子母神は、神仏分離にあたって、仏教寺院として位置づけられるようになったのである。ここで、産土神としての鬼子母神は否定されたといえよう。
一方、鬼子母神境内社であった疫病除神である鷺大明神が鬼子母神門前の料亭に移築され、大鳥神社と改称された。その後、旧幕臣の矢島昌郁が自身の宅地を寄進し、現在地に移築された。この社が雑司ヶ谷の産土となっている。この神社の祭礼は9月の例祭と11月の酉の市であり、鬼子母神の祭礼は受け継いでいない。
参考:『豊島区史』(1951年)

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さて、お会式における万燈は、どのように登場してきたのだろうか。雑司ヶ谷のお会式の近世の資料では、あまり出てきていない。講社による集団参詣の目印は、のぼりー幡であり、今日の万燈のような役割をはたしていた。
『高田町史』(高田町教育会、1933年)では、「文化年間からは、四方から万燈が夥しく行列して来り」とあるが、根拠を示していない。あるいは、前述の金子直徳の「若葉抄」(1811年(文化8)年以後成立)の「ねり供養、音楽法事」という記載が根拠なのかもしれない。ただ、金子は、寺に飾り物があったこと、講社の集団参詣の目印がのぼりー幡であったことを記している。彼は、雑司ヶ谷の住人であり、万燈が会式のメインとなっていれば、そのように記載したと思われる。
斎藤月岑も「東都歳時記」(1838年(天保9))で「音楽ねり供養」があったことを記しているが、彼の場合は寺院の飾り物を中心に記載している。「東都歳時記」でも「江戸名所図会」でも、挿絵に万燈は出てきていない。歌川広重の「名所江戸百景」の「金杉橋・芝浦」(1857年(安政4))でも、のぼりー幡はあるが万燈は出てきていない。文章や挿絵にないからといって、万燈を使っていなかった証左にはならないが、少なくとも、江戸の文人たちが注目するほどの風俗にはなっていなかったといえる。
ところが、歌川広重(二代)の「江戸名勝図会」の「池上」(1862年(文久2))では、のぼりー幡の背後に、上部に造花をつけた万燈があり、周囲には団扇太鼓をもった人々がいる風景が描かれている。万燈は、角張ったものや扇形のもので、単なる提灯ではなく、紋や絵が描かれている。現在のものと比べるとやや小振りであるが、明らかに万燈である。
また、歌川広重(二代)・歌川豊国(三代)の「江戸自慢三十六景」の「池上本門寺会式」(1864年(元治元))でも、万燈が描かれている。そこでは、万燈は二段重ねとなり、上部に造花が飾られている。また、ここでもやはり周囲に団扇太鼓をたたいている人たちが描かれている。現代のお会式の形態に近づいたといえる。
1857年の「名所江戸百景」でも、池上本門寺に向かうとおぼしき行列が金杉橋・芝浦を通過することが描かれていたが、そこでは万燈はなく、のぼりー幡が中心であった。このように考えると、万燈が一般化したのは、池上本門寺という場ではなかったかと推測できる。
その背景を考えてみよう。近世の雑司ヶ谷のお会式は、史料をみているかぎり昼間に行われるものであり、集団参詣の目印としてものぼりー幡で十分足りていたといえる。しかし、池上本門寺のお会式は、10月12日から13日にかけて参籠―泊まり込むものであり、夜間の説法などもあった。夜間の祭りというイメージが強くなっているといえる。そのような夜間の祭りになったからこそ、万燈が大々的に登場してきたのではないだろうか。
『大田区史』中巻では「近世の村々では、地縁を母体とした信仰的集団の、講中が結成された。本門寺の末寺を村内にもつ地区では、その集まりを題目講とよび、ささやかな飲食茶会をともなう月並(日蓮の忌日をあて十二日が多かった)の唱題行事が行われてきた。講中は、おおむね本門寺の歴代貫首が記した十界曼陀羅の掛け軸を所有し、講行事の際には、それを会場に掛けて本尊とした。こうした講中が、毎年十月十二日の夕、お会式の逮夜を期して、団扇太鼓と鉦を手に、題目と、独自の節回しの歌ではやしながら、講中手作りの万燈や、講名を染め抜いた幟を標識として、集団で本門寺に参詣したのである」と書かれている。こういうことが、雑司ヶ谷でもなかったといえないであろうが、商業化され、一般的になってしまった雑司ヶ谷お会式では多かったとも思えない。このようなお会式のありかたをかえた場が、池上本門寺という場であったのではなかろうか。
参考:『豊島区史』資料編3、「東都歳時記」、『大田区史』中巻、、『高田町史』、『特別展「よみがえる大田区の風景」目録』、『大田区史』中巻、『江戸名所図会』、

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名所江戸百景・金杉橋芝浦

名所江戸百景・金杉橋芝浦

これまで述べてきたように、近世における雑司ヶ谷のお会式は、見世物的・遊興的側面が強いといえる。しかし、もちろん、お会式は日蓮を追慕する宗教的行事であり、その側面を無視することはできない。お会式は、日蓮宗の講社による集団参詣の対象であった。現代のお会式は、基本的には講社による集団参詣という形式をとっている。そして、それぞれの講社の目印―アイデンティティを示すものとして、それぞれの万燈があるといえる。しかし、近世中葉のお会式においては、あまり万燈は出てこない。それにかわるものとして、のぼりー幡があったといえる。
金子直徳の「若葉抄」(1811年(文化8)年以後成立)では、法明寺祖師堂に「開帳仏御迎幡・のほり、四、五百本の余も出たり」とある。こののぼりー幡は、金襴・錦・猩々緋・縮緬などで作られ、上部には枝垂れ桜・牡丹などの造花が飾り付けられており、「江都の眼を驚す事なりき」とされている。金子によると、こののぼりー幡は、開帳にて諸国より参詣者が集まってくるが、あまり大勢でそれぞれの講中が集まりにくいので、紙などでのぼりを作り、講中が迷子にならないようにしたことが始まりであるとしている。このようなのぼりを作ったのは神田講中が最初で、木綿にて二本ののぼりを作り、「一天四海皆帰妙法」「五百歳中広宣流布」と書いていたという。こののぼりー幡は最初は木綿で作って書いていたが、しだいに木綿の染め抜きとなり、さらに、目立つように赤い縮緬に金糸などで刺繍するようになったという。そして、題材も題目・和讃だけでなく、四界菩薩や宗弘記なども扱うようになったという。金子によると、このようなのぼりが始まったのは「寛保の末」(1740年代)であったが、年々派手になっていたとしている。しかし、成田山不動尊開帳のとき、大喧嘩となり、一七八八年(天明八)年に、のぼりー幡は禁止されたとしている。
しかし、のぼりー幡の禁止は一時的なものであったらしく、斎藤月岑の「東都歳時記」(1838年刊行)の挿絵では、鬼子母神堂の背後に「安国日蓮大菩薩」と書かれたのぼりが立っている。また、歌川広重の「名所江戸百景」(1857年(安政4)刊行)において、「金杉橋・芝浦」の風景として、南側の池上本門寺に赴くのであろう会式の行列が描かれているが、その中心に位置するのは、日傘で飾られた「一天四海皆帰妙法 南無妙法蓮華経」と書かれたのぼりである。そして、周囲には「江戸講中」など、「講中」を示すのぼりがいくつもある。このように、のぼりー幡は、集団参詣する講社のアイデンティティのよりどころとして機能していたといえよう。

参考:『豊島区史』資料編3、「東都歳時記」、『大田区史』中巻、sohske.cocolog-nifty.com

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