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江戸名所図会 雑司谷会式

江戸名所図会 雑司谷会式

19世紀初頭には、今のお会式の諸要素が出現していたとはいえるのだが、それがそのまま、現在のお会式につながったわけではない。むしろ、この時期は、法明寺境内で行われる「飾り物」が肥大化し、いわば見世物化していたといえる。18世紀のお会式でも、日蓮の生涯について境内の各寺院は「飾り物」として陳列していた。19世紀前半の化政から天保期にかけて、この「飾り物」が肥大化したのである。小日向廓然寺の僧であった津田敬順が江戸の名所を探訪した紀行文であり、1814年(文化11)―1829年(文政12)年の間に成立した「遊歴雑記」においては、このように書かれている。大行院をはじめとした法明寺境内の八つの寺院では、苦難や神仏の加護にみちた日蓮の生涯を人形に仕立て、本尊を片づけて山川・家宅・寺社・国々の背景を飾っていたとしている。そして、津田がみた時には、からくり仕掛けで人形芝居仕立てとなっており、拍子木の合図によって、動かされているというようになっていたということであった。本来は僧侶である津田は、「元来は勧善懲悪のためなのだろうが、今や人形芝居の趣向と同じだ。悲しいことだが、世が濁っていることの証拠だ。日蓮の人形をもてあそび物とし、飾り物の評判によって貴賤を集め、僧坊を貸座敷として財貨をむさぼっている。手すりによって見ている者は、仕掛けの善し悪しのみを論じるだけで、題目を唱える者はなく、皆が飾り物をみようとして押し合い群集しているだけだ」と批判的にみているのである。
この状況は、神田の町名主斎藤月岑が父祖の調査をもとに文を書き、長谷川雪旦が挿絵を描いた「江戸名所図会」(1834年(天保5))で描かれている。この挿絵では、寺院本堂の真ん中に舞台装置と人形が陳列され、多くの群集がみている。彼らは、万燈・まとい・太鼓などをもっておらず、拝んでいるようにもみえない。そして、別室では、僧侶の話(法話であろう)を聞いている小グループが描かれている。
同じく、斎藤月岑が編纂した「武江年表」正編(1850年(嘉永3))によると、天保年間(1830-1844)は、お会式の「飾り物」が中止されている。この時期、法明寺やその子院で鬼子母神の別当であった大行院について、さまざまな紛争が伝えられている。また、天保改革の時期でもあった。それらの要因で、一時期停止されたといえる。しかし、かなり早期に復活したらしく、「武江年表」続編(1878年(明治11)脱稿)では、1852年(嘉永5)の項に「雑司ヶ谷法明寺会式中、境内にとうがらしをもて大なる達磨をつくる」とあり、新たな「飾り物」が作られていたのである。
参考:『豊島区史』資料編三、zoushigaya.seesaa.net。

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19世紀に入ると、雑司ヶ谷のお会式には変化の兆しがみられる。雑司ヶ谷に住んでいた金子直徳により書かれ、一八一一年(文化八)以後に成立したとみられる「若葉抄」においては、鬼子母神の年中行事として会式が扱われるようになった。一〇月六―八日は会式に使う造花を扱うことを起源とする花市が開かれ、八―十八日まで会式期間とされた。なお、十月八日は鬼子母神の尊神御衣替という神事の日でもあった。しかし、「寺に飾り物」と書かれているように、鬼子母神境内はお会式における宗教的な場というよりも、度々将軍・大名・御殿女中らが参詣する際の幕屋や茶屋の幕屋がはられ、近在の商人の格好の商いの場であった。むしろ遊興的空間であったといえよう。
法明寺とその子院を中心にして行われるお会式にも変化があった。境内の飾り物や法要だけでなく、「ねり供養」「音楽法事」なども行われるようになった。「ねり供養」というのは、何らかの行列で行われる仏事である。この法明寺のお会式の実施は、四谷の檀家である伊藤小右衛門によって皆に知られるように高声で宣伝されたという。この「ねり供養」は僧侶によって行われたのか、在家信者によって行われたのかは不明であるが、現在の鬼子母神お会式の中心をなす「万燈練供養」という行列仏事の原型をなすものといえよう。
このように、19世紀初頭において、鬼子母神は「お会式」の場の一部に取り込まれるとともに、現在の行列による仏事「万燈練供養」の原型が生まれてきていたといえよう。

参考文献:『豊島区史』資料編三

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さて、ここまで、現在の雑司ヶ谷鬼子母神お会式について概観してきた。単純にいえば、雑司ヶ谷地域を中心とした各地の講社で、万燈が製作され、まといと太鼓・笛などの「囃子」を有する「行列」が組織される。そして、10月16日には、各地講社の町内を「行列」が巡回する。17日には、護国寺近傍の「清土鬼子母神」より、雑司ヶ谷鬼子母神堂にむけて、「行列」が踊りながら行進し、鬼子母神堂と法明寺で題目をとなえながら参拝する。最終日には、西武池袋前で集合して行進し、同じく鬼子母神堂と法明寺で題目を唱えて参拝すると説明できる。
一見、古来の伝統にそった形のようにみえる。しかし、18世紀の地誌類における雑司ヶ谷のお会式は、全く違った様相を呈している。大橋八右衛門方長により、1773年(安永2)―1799年(寛政11)の間に書かれたとされる「江戸図説」では、お会式は法明寺の項において「毎年十月八日より十八日迄祖師御影講、俗ニ御名講会式とも云、寺々人形作り花等をかさり殊ニ賑ひ群集せり」と記載されている。鬼子母神ではなく、お会式は法明寺で行うものであり、万燈・まといなどをもって「行列」するものではなく、人形や造花を寺々でかざり、それを参拝するものとして描かれている。他方、同書において鬼子母神の祭典は、正月十六日の「歩射」と六月十六日の「草薙」があげられている。後続の「江戸名所図会」などによると、「歩射」とは弓を射る祭事であり、「草薙」とは社頭の草を刈る祭事であった。鬼子母神の祭神は仏教の護法神であるが、本来の形では、神として遇されていたのである。後年は法華経読経などこれらの祭事にも仏教色が濃くなっていくが、鬼子母神は雑司ヶ谷村の産土神でもあり、神社として祭られていたのである。
また、1795年(寛政7)頃成立したとされる、高井蘭山の「雑司谷詣」は、お会式の参詣を記したものであるが、この書でもお会式は、鬼子母神ではなく法明寺の項に記され、「寺坊の盛物、錺物頗華美にして、或ハ上人在世の危難、或ハ不測救助の体を模像して児女の眼を悦ばしむ」とある。「江戸図説」での「人形」とは、日蓮の苦難を描写するものであった。それを拝観するということが、お会式の参詣の要であったのである。
現在の法明寺のホームページでも、同寺のお会式は日蓮命日の10月13日に開くものとされている。現在行われている10月16-18日のお会式は鬼子母神のホームページに記載されている。これは、お会式の出自の違いが現在でも意識されている証左といえよう。

参考文献:『豊島区史』資料編三(1979年)

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