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Archive for the ‘近世’ Category

池上本門寺の公式ホームページ(http://honmonji.jp/05topic/05event/oeshiki/2010/oeshiki.html)には、次のような記載がある。

お会式12日夜の万灯行列の華やかさと講中の威勢の良さは、安藤広重の版画にも描かれているように、江戸の昔から有名で、一晩で30万人を超える参詣者で賑わいます。そして、この夜の大堂は、僧侶の大太鼓とご信者達の団扇太鼓が一体となって、お堂が震動するほどの音と唱題の声で満たされ、13日の明け方まで続きます。そして、午前8時に法要を営み、七百二十八年前のこの朝、多くの弟子信者が見守る中、日蓮聖人のご入滅を告げる鐘を日昭聖人が打ち鳴らされたように、「臨滅度時の鐘」を鳴らして、ご遺徳を偲び、法華経を弘め伝える誓いを新たに致します。
 これこそは、池上のお会式でしか味わうことのできない法悦です。是非とも、臨滅度時法要にご参列下さい。
 お会式中の参籠(宿泊)、団体参拝(10月12日のみ)を只今募集中です。
 お会式報恩料はお一人9000円(宿泊代・開帳料等を含む)です。300名まで参籠(さんろう)可能です。全国各寺院のご参拝をお待ちしております。
本年の団体参拝の受付は定員に達しましたので終了させていただきました。(2010/09/25)

近世における池上本門寺のお会式の特徴は、参籠を伴うというところにあるといえる。その伝統は、現在にも引き継がれているといえよう。

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谷中領玄寺会式桜(『東都歳時記』)

谷中領玄寺会式桜(『東都歳時記』)

お会式桜(2010年12月28日撮影)

お会式桜(2010年12月28日撮影)

池上本門寺の公式ホームページ(http://honmonji.jp/05topic/05event/oeshiki/2010/oeshiki.html)
には、次のように記載されている。

日蓮聖人が亡くなられた時、庭先の桜(お会式桜)が時ならぬ華を咲かせたという故事から、万灯は紙で作った造花で灯明輝く宝塔を飾っています。

日蓮の逝去は旧暦の10月13日であり、晩秋か初冬の頃である。少なくとも近世には、谷中領玄寺や池上本門寺には、この故事に従ってお会式桜が植えられていた。もしかすると、池上本門寺のものは日蓮逝去時から存在していたのかもしれない。これは、いわゆるフユザクラと考えられる。斎藤月岑の『東都歳時記』(1838年)には、次のように記載されている。

○〔日蓮宗谷中領玄寺に桜ありて十月に花咲く、この故に会式ざくらといふ。当寺は甲州身延山の隠居寺なり、身延三十三世日亨上人自植る所にして、宝暦三癸酉年(1753)十一月廿二日上人三十三回忌の刻始て花咲くといふ、今にいたり例年十月花さき、春に至りて花さくこと又余木に同じ、亨師ざくらともいへり。池上本門寺にも是に等しき桜ありて、此頃花咲こと当寺にかはらず

斎藤は、お会式桜について、池上本門寺ではなく、谷中領玄寺を中心に記載している。そこには、日蓮逝去時の挿話は語られていない。長谷川雪旦が描くお会式桜も、谷中領玄寺であり、日亨上人の墓の前に所在している。斎藤や長谷川にとって、いまだ池上本門寺は遠隔地であり、「お会式桜」といえば、谷中領玄寺がまず思い浮かんだのであろう。
 ホームページでみてみると、谷中領玄寺や池上本門寺にはお会式桜が現存しているようである。雑司ヶ谷の法明寺には、元来お会式桜の伝承はないが、現在、法明寺近傍の児童施設「子どもスキップ南池袋」園内にお会式桜が植えられ、開花していた。新たな伝統の創造といえよう。

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雑司谷法明寺会式詣(『東都歳時記』)

雑司谷法明寺会式詣(『東都歳時記』)

堀の内妙法寺会式(『東都歳時記』)

堀の内妙法寺会式(『東都歳時記』)

「御会式新聞」第8号(1978年10月16日)の、同年9月5日に開かれた「座談会・お会式について」の中で、当時83歳であった新倉留吉は、次のように雑司ヶ谷のお会式を位置づけた。

―新倉 鬼子母神のお会式は信心家のお祭りではなく、う合の衆の行事だからね…だから鬼子母神のお会式はマンガ的で、自由奔放なんだが、池上、堀の内は信仰的で、まじめで宗教行事としての自覚が強いと思うね。

夜、万燈や太鼓をもって行列し、参詣するというスタイルは、明治期以降、雑司ヶ谷も池上本門寺や堀の内妙法寺と共通であったと思われる。しかし、それでも、そのような違いがあったといえる。

近世においては、雑司ヶ谷のそのような性格は、より鮮明であったといえる。斎藤月岑の『東都歳時記』(1838年(天保9))において、雑司ヶ谷法明寺の「会式詣」が描かれているが、その舞台は鬼子母神であり、それも境内に酒や土産物を売る露店が密集し、そこに着飾った男女が集まっているところが描かれている。

『東都歳時記』の本文の記述もそのような側面が強調されている。一部引用したが、もう一度あげておこう。

雑司が谷法明寺〔法会中開帳あり、音楽邌供養等法会厳重なり。十二日のころより支院飾り物あり、大行院を首とす。年ごとに種々の機巧をなす、何れも宗祖御一代の記によりて其さまを造りなせり。境内見せものかるわざ等出で、廿三日迄諸人群集し繁昌大かたならず。鬼子母神の境内には、茶店拍戸(れうりや)檐(のき)をつらね、行客を停て酔をすゝむ、川口屋の飴、麦藁細工の角兵衛獅子、風車等を土産とす。寺中其外飾り物をなす寺院は、観乗院、玄浄院、真浄院、知足院(以上支院なり)、清立院、宝城寺(十八日会式)にも会式修行飾物あり○今日(十月八日)同所鬼子母神更衣あり〕

開帳による法会のことも言及されているが、ほとんどが飾り物・見世物・軽業・飲食などの遊興的なことを述べている。これらの遊興は、能動的に参加するというよりも、受動的に拝観するという面が強いといえよう。

堀の内妙法寺のお会式について、『東都歳時記』は、「堀の内妙法寺。〔当月中参詣稲麻の如く、宝前供物等山の如し、会式中開帳あり、法会の次第左のごとし。〕としており、この後に8日より13日における法会の式次第が記載されている。挿絵においても、前面に法会を執行する僧侶たちが描かれ、その後ろ側に祈祷に参加する群集が配置されている。妙法寺のお会式では、より真摯に、より能動的に一般民衆がお会式に参加しているといえる。
池上本門寺のお会式について、『東都歳時記』は、「○池上本門寺会式、今日(十日)より十三日迄修行。〔十二日十三日開扉あり。十二日の夜通夜の人多し、夜中説法あり、十三日十四日には門前笊籠の市が立つ。当寺は宗祖上人入寂ありし霊跡にて大伽藍なり、今日祖師御更衣あり〕と記載している。挿絵はないが、比較的遠方の池上本門寺に泊まり込みで参加し、夜中の説法まで聞いたというので、かなり真摯かつ能動的に一般民衆はお会式に参加したといえる。
今日のお会式は、どちらかといえば池上本門寺の影響が強いのではないかと議論してきた。ただ、雑司ヶ谷のお会式においては、比較するならば、その後も遊興的な側面が残存していたのではないかといえよう。

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さて、お会式における万燈は、どのように登場してきたのだろうか。雑司ヶ谷のお会式の近世の資料では、あまり出てきていない。講社による集団参詣の目印は、のぼりー幡であり、今日の万燈のような役割をはたしていた。
『高田町史』(高田町教育会、1933年)では、「文化年間からは、四方から万燈が夥しく行列して来り」とあるが、根拠を示していない。あるいは、前述の金子直徳の「若葉抄」(1811年(文化8)年以後成立)の「ねり供養、音楽法事」という記載が根拠なのかもしれない。ただ、金子は、寺に飾り物があったこと、講社の集団参詣の目印がのぼりー幡であったことを記している。彼は、雑司ヶ谷の住人であり、万燈が会式のメインとなっていれば、そのように記載したと思われる。
斎藤月岑も「東都歳時記」(1838年(天保9))で「音楽ねり供養」があったことを記しているが、彼の場合は寺院の飾り物を中心に記載している。「東都歳時記」でも「江戸名所図会」でも、挿絵に万燈は出てきていない。歌川広重の「名所江戸百景」の「金杉橋・芝浦」(1857年(安政4))でも、のぼりー幡はあるが万燈は出てきていない。文章や挿絵にないからといって、万燈を使っていなかった証左にはならないが、少なくとも、江戸の文人たちが注目するほどの風俗にはなっていなかったといえる。
ところが、歌川広重(二代)の「江戸名勝図会」の「池上」(1862年(文久2))では、のぼりー幡の背後に、上部に造花をつけた万燈があり、周囲には団扇太鼓をもった人々がいる風景が描かれている。万燈は、角張ったものや扇形のもので、単なる提灯ではなく、紋や絵が描かれている。現在のものと比べるとやや小振りであるが、明らかに万燈である。
また、歌川広重(二代)・歌川豊国(三代)の「江戸自慢三十六景」の「池上本門寺会式」(1864年(元治元))でも、万燈が描かれている。そこでは、万燈は二段重ねとなり、上部に造花が飾られている。また、ここでもやはり周囲に団扇太鼓をたたいている人たちが描かれている。現代のお会式の形態に近づいたといえる。
1857年の「名所江戸百景」でも、池上本門寺に向かうとおぼしき行列が金杉橋・芝浦を通過することが描かれていたが、そこでは万燈はなく、のぼりー幡が中心であった。このように考えると、万燈が一般化したのは、池上本門寺という場ではなかったかと推測できる。
その背景を考えてみよう。近世の雑司ヶ谷のお会式は、史料をみているかぎり昼間に行われるものであり、集団参詣の目印としてものぼりー幡で十分足りていたといえる。しかし、池上本門寺のお会式は、10月12日から13日にかけて参籠―泊まり込むものであり、夜間の説法などもあった。夜間の祭りというイメージが強くなっているといえる。そのような夜間の祭りになったからこそ、万燈が大々的に登場してきたのではないだろうか。
『大田区史』中巻では「近世の村々では、地縁を母体とした信仰的集団の、講中が結成された。本門寺の末寺を村内にもつ地区では、その集まりを題目講とよび、ささやかな飲食茶会をともなう月並(日蓮の忌日をあて十二日が多かった)の唱題行事が行われてきた。講中は、おおむね本門寺の歴代貫首が記した十界曼陀羅の掛け軸を所有し、講行事の際には、それを会場に掛けて本尊とした。こうした講中が、毎年十月十二日の夕、お会式の逮夜を期して、団扇太鼓と鉦を手に、題目と、独自の節回しの歌ではやしながら、講中手作りの万燈や、講名を染め抜いた幟を標識として、集団で本門寺に参詣したのである」と書かれている。こういうことが、雑司ヶ谷でもなかったといえないであろうが、商業化され、一般的になってしまった雑司ヶ谷お会式では多かったとも思えない。このようなお会式のありかたをかえた場が、池上本門寺という場であったのではなかろうか。
参考:『豊島区史』資料編3、「東都歳時記」、『大田区史』中巻、、『高田町史』、『特別展「よみがえる大田区の風景」目録』、『大田区史』中巻、『江戸名所図会』、

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名所江戸百景・金杉橋芝浦

名所江戸百景・金杉橋芝浦

これまで述べてきたように、近世における雑司ヶ谷のお会式は、見世物的・遊興的側面が強いといえる。しかし、もちろん、お会式は日蓮を追慕する宗教的行事であり、その側面を無視することはできない。お会式は、日蓮宗の講社による集団参詣の対象であった。現代のお会式は、基本的には講社による集団参詣という形式をとっている。そして、それぞれの講社の目印―アイデンティティを示すものとして、それぞれの万燈があるといえる。しかし、近世中葉のお会式においては、あまり万燈は出てこない。それにかわるものとして、のぼりー幡があったといえる。
金子直徳の「若葉抄」(1811年(文化8)年以後成立)では、法明寺祖師堂に「開帳仏御迎幡・のほり、四、五百本の余も出たり」とある。こののぼりー幡は、金襴・錦・猩々緋・縮緬などで作られ、上部には枝垂れ桜・牡丹などの造花が飾り付けられており、「江都の眼を驚す事なりき」とされている。金子によると、こののぼりー幡は、開帳にて諸国より参詣者が集まってくるが、あまり大勢でそれぞれの講中が集まりにくいので、紙などでのぼりを作り、講中が迷子にならないようにしたことが始まりであるとしている。このようなのぼりを作ったのは神田講中が最初で、木綿にて二本ののぼりを作り、「一天四海皆帰妙法」「五百歳中広宣流布」と書いていたという。こののぼりー幡は最初は木綿で作って書いていたが、しだいに木綿の染め抜きとなり、さらに、目立つように赤い縮緬に金糸などで刺繍するようになったという。そして、題材も題目・和讃だけでなく、四界菩薩や宗弘記なども扱うようになったという。金子によると、このようなのぼりが始まったのは「寛保の末」(1740年代)であったが、年々派手になっていたとしている。しかし、成田山不動尊開帳のとき、大喧嘩となり、一七八八年(天明八)年に、のぼりー幡は禁止されたとしている。
しかし、のぼりー幡の禁止は一時的なものであったらしく、斎藤月岑の「東都歳時記」(1838年刊行)の挿絵では、鬼子母神堂の背後に「安国日蓮大菩薩」と書かれたのぼりが立っている。また、歌川広重の「名所江戸百景」(1857年(安政4)刊行)において、「金杉橋・芝浦」の風景として、南側の池上本門寺に赴くのであろう会式の行列が描かれているが、その中心に位置するのは、日傘で飾られた「一天四海皆帰妙法 南無妙法蓮華経」と書かれたのぼりである。そして、周囲には「江戸講中」など、「講中」を示すのぼりがいくつもある。このように、のぼりー幡は、集団参詣する講社のアイデンティティのよりどころとして機能していたといえよう。

参考:『豊島区史』資料編3、「東都歳時記」、『大田区史』中巻、sohske.cocolog-nifty.com

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雑司ヶ谷鬼子母神・法明寺は、他寺院と競争しあっていた。例えば、現杉並区の堀之内妙法寺は、小川顕道の「塵塚談」(1814年(文化11))によると、彼が30歳くらいまでは(換算すると18世紀中葉)は地名を知る人すらいなかったが、祖師堂など伽藍を改築してからは、新宿から門前まで水茶屋・料理茶屋などの飲食店が建ち並び、日蓮宗以外の人々も尊尊宗して年々賑わうようになったとしている。一方、雑司ヶ谷鬼子母神は、彼の若年の頃までは参詣が多かったが、「近頃に至り殊の外淋しくなり、只堀の内のミ参詣多し」と述べている。彼は「仏神にも盛衰あり、不思議と云へし」と評している。19世紀にお会式に変化があると私は述べたが、このような衰退に対する対応であったのかもしれない。
斎藤月岑の『江戸名所図会』・『東都歳時記』にも妙法寺のお会式は記載されている。『東都歳時記』では、雑司ヶ谷が鬼子母神境内の露店や法明寺子院の飾り物を中心に描いているのに対して、妙法寺は、仏事の式次第が記載され、挿し絵もそれが中心となっている。今でも、妙法寺はさかんにお会式が行われている。
一方、日蓮が息を引き取った池上本門寺は、もちろん日蓮宗の大寺院であり、現在、最も盛大にお会式が行われている。しかし、斎藤の『江戸名所図会』には、会式の記載はみられない。お会式が行われていなかったわけではないだろうが、江戸市中から大挙していくということはまだ一般的ではなかったのではなかろうか。しかし、『東都歳時記』には、十月十日の項に「池上本門寺会式、今日より十三日迄修行。〔十二日十三日開扉あり。十二日の夜通夜の人多し。夜中説法あり、十三日十四日には門前笊籠の市立つ〕」とあり、夜に参籠するというイメージが打ち出されている。雑司ヶ谷のお会式は参籠するというイメージがあまりないが、池上本門寺のお会式は、夜参籠するというイメージがある。そして、歌川広重の『絵本・江戸土産』(1850年(嘉永3))では「毎年十月十三日、祖師の忌日により、前夜より堂内に籠る人夥しく、万を以て算ふべし」とされている。
その他、『東都歳時記』には、本所表町本久寺・深川浄心寺・谷中瑞林寺・本所法恩寺・青山仙寿院・丸山本妙寺・下総真間弘法寺・総州中山妙法華経寺・品川妙国寺・丸山浄心寺・大塚本伝寺・浅草どぶ店長遠寺・牛込原町願満・高田亮朝院・赤坂今井谷・小梅村常泉寺・雑司ヶ谷感応寺などのお会式などが記載されている。江戸よりかなり遠いところもあるが、それでも賑わったとされている。
参考文献:『豊島区史』資料編三、『江戸名所図会』、『東都歳時記』、『大田区史』(資料編)地誌類抄録

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鬼子母神境内の露店(2010年10月18日撮影)

鬼子母神境内の露店(2010年10月18日撮影)

他方、鬼子母神境内自体は、どのようにお会式にかかわっていたのだろうか。斎藤月岑の『江戸名所図会』(1834年(天保5))では、十月八日から十八日まで参詣群集したとし、これを「会式詣」とよんでいた。同じく斎藤の『東都歳時記』(1838年(天保9))では、「鬼子母神の境内には、茶店柏戸檐をつらね、行客を停て酔をすすむ。川口屋の飴、麦藁細工の角兵衛獅子、風車等を土産とす」と述べている。ここでは紹介しないが、同書の挿絵では鬼子母神境内が描かれており、飲食を中心とする露店によって境内が埋め尽くされている。かなり見世物化されてはいたが、一応法明寺境内が日蓮の生涯を語る「聖なる場」であるとすれば、鬼子母神は遊興中心の「俗なる場」であったといえる。そこは、例えば随筆「続飛鳥川」(年代不詳)に「歌比丘尼、うりひくに、歌ひくにハ、雑司ヶ谷会式に茶屋茶屋を廻る…売ひくにハ、二人ツツ屋敷を廻る遊女也」と書かれるような空間であった。
なお、ここでは、現代の鬼子母神境内の露店を画像として出しておくことにする。
参考:『豊島区史』資料編三

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