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Archive for the ‘雑司ヶ谷お会式’ Category

さて、前回は、高木仁三郎が、日本原子力事業株式会社や東大原子核研究所で科学者として経験を積む過程の中で、原水爆実験などにより広範に放射能汚染が存在している現実にふれ、そのことより、それを推進したり回避したりすることによって進められていく「科学者」の立場性に懐疑をもったことを述べた。

高木仁三郎が、科学者の立場性に強く懐疑をもつようになったのは、1960年代後半であった。1960年代後半は、いわゆる「学生反乱」の時期であった。高木は、前回のブログで紹介した『市民科学者として生きる』(岩波新書、1999年)において、「全国いや全世界的な現象として起こった学生反乱は、より本質的な問題、『大学とは何か』『科学とは何か』『科学者は何をすべきか』を鋭く問いかけていた。その問いは、多分に未消化で、生硬なものだったが、そうであるだけに一層、心臓にささった棘のように未解決のままに私の胸を痛めた」(本書p109)と回想している。

そして、彼は、自身の根本的転換を求めて、乞われるままに、学生反乱中の東京都立大学理学部に助教授として1969年に赴任した。

そこで、まず、遭遇したものは、ある意味では企業とも類似した大学教員たちの共同体的意識であった。高木は、それを「暗黙のうちにある種の家族共同体的集団に共通の利害が形成され、それを守ることが自明の前提になる」(本書p115)と指摘している。この共同体的意識は「大学自治を守れ」「学問の自由を守れ」などと表現され、「大学解体」を唱える全共闘系の学生に対しても、彼らの活動を口実に大学の介入してくる警察権力に対しても使われるが、「守られるべき大学の自治とは何か」「守られるべき学問とは何か」という問いを発したとたんに、アウトサイダーとして共同性の外にはじかれてしまうものであったと高木は述べている。そして、高木は、いつのまにか「造反教員」のレッテルをはられてしまうようになった。

そんな中、高木は、何をなすべきかということを模索して、さまざまな社会運動に参加した。特に衝撃を受けたのは、成田空港建設反対した地元農民の運動である三里塚闘争であった。彼は、反対農民の土地を強制収用する成田市駒井野での第一次強制代執行について、このように回想している。

 

それは、きわめて可視的な構造であった。かあーっと巨大な口をあけて迫るブルトーザーは国家権力そのもので、その下に体ひとつで抵抗しながら自分の耕す土地にしがみつこうとする農民がいる。そして、それをなすすべもなく見つめる自分がいる。自分はどっちの側にいるのだろうか。心情的には農民の側にいるが、実際には明らかに自分は巨大システムの側にポストを占めているのではないか。(本書p113)

さらに、高木は、このように述べている。

 

ここにおいて、私は自分のとるべき立場がはっきりして来たように思った。しかし、果して、自分の「学問」は彼ら民衆にとって何ものかでありうるだろうか。私の脳裡に、かの崩されゆく北総台地の光景が、いわば第二の原風景ともいうべき形で焼きついている。鎖で体を木に縛ったり、地下壕に籠ったりする農民の抵抗は、異議申立てとしては正しい。そこには大義がある。しかし、これを永遠に持続していくことはできないのではないか。これを持続させ、農民が百姓として生き続けられるようにするためには、農民が大地の上に生き続けることが、緑野を破壊して空港をつくることより大事なことを、大義として理性的にも社会に認めさせる必要があるだろう。それこそ、自分のような立場の人間の行う作業なのではないか。(本書p119)

ここで、高木は「農民が百姓として生き続けられるようにするためには、農民が大地の上に生き続けることが、緑野を破壊して空港をつくることより大事なことを、大義として理性的にも社会に認めさせる必要があるだろう」ことを自分の課題として考えるようになったのである。

その時、出会ったのが、宮沢賢治であった。高木は、もちろん宮沢賢治を少年時代に読んでいたが、特別な感慨はなく、「雨ニモマケズ」の冒頭部分にストイックな道徳主義を感じて辟易していたと書き留めている。しかし、都立大学の同僚で詩人の菅谷規矩雄に薦められて、宮沢賢治を読み、次の言葉に出会った。

 

われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか(「集会案内」〔羅須地人協会関係綴〕 『校本宮沢賢治全集』第十二巻下p168)

高木は、「この言葉に出会った衝撃といったらなかった。これこそ、私自身が今直面している問題そのものではないか」(本書p120)と述べている。

ここで、この「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」という言葉が、どんな状況で発話されたかをみておこう。周知の通り、宮沢賢治は花巻農学校の教師をしていたのだが、1926年に辞任し、自ら耕作しながら農民に教え、共に学ぼうとして羅須地人協会を設立した。その羅須地人協会の集会案内の中に、この言葉は出てくるのである。この言葉は、宮沢賢治が農民に対して行った講義の演題であったのである。

この言葉に出会ってから、高木は宮沢賢治に傾倒していき、『宮沢賢治をめぐる冒険』という著書まで書いている(残念ながら未見)。

そして、宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』に仮託して、次のように高木は述べている。

宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美を創らねばならぬ

職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である。

 私はこれらの文章の芸術を科学に、職業芸術家を職業科学者に、美を真におきかえて、わがこととして読んだ。極端な理想主義と言えばそれまでだが、今、自分もまた、理想主義に徹するしかないのではないか。「職業科学者は一度は亡びねばならぬ」、と。(本書p122〜123)

周知のように、宮沢賢治の羅須地人協会は、特別な成果もなく終わった。しかし、高木は、宮沢の企図は失敗とか成功とかで論じるべきではないとしている。高木は「彼はとにかく農民の中に入り、その眼の高さから、芸術を、科学を実践しようとした…つまり農民と感性を共有するところから始めるしかないと考えた。それ以外のあり方は、ありえないというのが彼の決意だっただろう。」(本書p123〜124)と評価している。

その上で、高木は、次のように決意した。

 

私に言わせれば羅須地人協会は、ひとつの実験、自らの人生をまるごと賭けての「実験」だったと思う。実験ならば、失敗は当然のことで、むしろその失敗こそ、次に引き継がれて豊かな稔りの種ともなるだろう。実験とはそういうものだ。
 実験科学者である私は、私もまた象牙の塔の実験室の中ではなく、自らの社会的生活そのものを実験室とし、放射能の前にオロオロする漁民や、ブルトーザーの前にナミダヲナガす農民の不安を共有するところから出発するしかないだろう。大学を出よう、そう私は心に決めた。(本書p124)

前回のブログで述べてきたように、自らの課題でいえば放射能汚染の問題に触発されて科学者の「立場性」を懐疑するようになった高木は、学生反乱に直面して企業と同様に自己の組織の共同性を守ることに終始した大学教員たちにふれて、いよいよ科学者の立場性を強く批判するようになったといえよう。

しかし、それでは、どのように意味で科学が必要なのか。それを教えてくれたのが三里塚の農民であったといえる。「農民が百姓として生き続けられるようにするためには、農民が大地の上に生き続けることが、緑野を破壊して空港をつくることより大事なことを、大義として理性的にも社会に認めさせる必要があるだろう」ことこそが、高木のような立場の人間が行うべきこととして示されたといえる。

そして、宮沢は「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」という課題において、「どんな方法で」というところについても高木に啓示を与えたといってよいであろう。この言葉は、単に字面だけではなく、羅須地人協会という宮沢の実践の中で発話されたということも高木に衝撃を与えたのではないかと考えられる。高木自身の実践のモデルとして、宮沢の羅須地人協会が意識されることになったといえよう。三里塚農民と宮沢賢治との出会いが、科学批判だけでなく、よりポジティブな形でオルタナティブな科学のあり方を模索するようになったと考えられる。

 そして、高木仁三郎は、大学をやめて、原子力資料情報室を運営していく。高木は、原子力資料情報室を、彼自身にとっての羅須地人協会であると述べている。このことについては、次回以降述べていきたい。

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さて、前回紹介した資料は、雑司が谷地域でお会式を支えた講社の実態を伝えている。まず、戸張(政)によると、御嶽中島講は40軒程度の家で組織され、その代表の12-13人で、造花づくりなどの準備を清立院で行ったと述べている。
一方、戸張(政)より約15歳年長の吉田は、講中の各家では年番をつとめることになっており、準備はその家でも行ったといっている。さらに、吉田は、雑司が谷では、御嶽中島・南古木田・清土・六家町・上り屋敷・原・水久保という講社があり、それら(吉田は六つとしているが、あげられた講社は七つ)がまとまって妙法結社を組織していたとしている。そして、妙法結社内の各講社にも年番があり、それにあたると、下総中山の鬼子母神(法華経寺)、安房の誕生寺、鎌倉の竜口寺、身延山などに参詣に行ったと述べ、中山では、酒食の接待を受けたことを回想している。
一方、妙法結社では、お会式の際、法明寺門前にのぼりをあげるとしている。妙法結社全体の世話人は、後藤権二郎と安井銀太郎がしていたとしている。そして、妙法結社では、堀之内妙法寺と池上本門寺に万燈を奉納しに参詣したと吉田はのべている。いわば、大山講や伊勢講などと同様な代参講の形式をとっているといえるが、戸張(政)は知らないとしている。これは、雑司が谷の例であるが、この当時、地域外からくる講社も同様の形態ではないかと思われる。つまりは、参詣を中心とした講が、お会式を担ったと考えられるのである。
この講社名であるが、「新編武蔵国風土記稿」にある、雑司ヶ谷村の「小名」には、「古木多」「原」「水久保」「中島」「清土」とあり、五つが近世の小字名に由来することがわかる。なお、上り屋敷は、1916年の一万分の一地形図に山手線西方の地名としてでているので、これも小字名である。六家町は、たぶん四家町の誤記であろう。そうなると、目白通り沿いの高田四家町が該当することになる。つまり、この講社名は、雑司が谷地域の地名に由来しているのである。
さて、この講社名を前述の地図でみてみると、中島御嶽は雑司が谷霊園の南側の現雑司が谷1丁目を中心とした地域である。古木田は、その南側の現雑司が谷二丁目となる。清土は、地形図には出ていないが、この地名は鬼子母神出現の地であるから、現雑司が谷一丁目に隣接する文京区目白台2丁目で不忍通り沿いとなる。六家町が四家町ならば、目白通り沿いの雑司が谷2丁目・高田2丁目ということになる。上り屋敷は、山手線の西側の現西池袋2丁目で、上り屋敷公園が所在している。水久保は、雑司が谷霊園の北側で、現在では南池袋4丁目・東池袋4・5丁目あたりである。原については、よくわからないが、法明寺の北側に「中原」「東原」という地名があるので、その周辺ではないかとおもわれる。そうなると、南池袋2・3丁目ということになる。大体、雑司が谷鬼子母神・法明寺を囲んだ形で雑司が谷の講社は所在していたといえる。
吉田は、雑司が谷では10月1日に寄合があり、その時は、鬼子母神境内の茶屋から接待があったことを回想している。雑司が谷境内は、いわば接待側であったのである。講社名で、鬼子母神や法明寺の地元はみられないことと照応しているといえる。今日では、そのものずばりの地元の「大門宮元講」があるが、この時期は、参詣する各地域の講社をもっぱら接待していたといえるのである。
内田の回想によると、奉公人でもお会式の準備過程から参加できたようである。そのことも、この座談会では確認できる。
こうしてみてみると、戦前期のお会式を担った講社の実態がここにでていると思われる。雑司が谷では、各講社は地縁的な団体で、奉公人も参加できたが、本来の形は代参講の形態をとっていたと思われる。各講に年番がいた。そして、これら講社を統括する存在として妙法結社が存在し、雑司が谷お会式だけなく、池上本門寺や堀之内妙法寺のお会式にも万灯奉納を行っていたのである。一方、鬼子母神境内を中心とした地域は、お会式の接待側にまわっていたのである。

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ここから、何回かにわけて、「御会式新聞」第17号(1987年10月15日)に掲載された座談会「三嶽中島講 古老に聞く」を紹介しておきたい。戦前のお会式に参加した講社の実態が、この座談会によくあらわれている。まず、冒頭から、原文通りにみていくことにしたい。ここでは、お会式の準備から話が始まり、奉公人のお会式参加や、地域の講社組織のあり方まで及んでいる。この件についての分析は、次回行うこととする。

三島中島講 古老に聞く

吉田磯次郎さん(八八)
内田松五郎さん(七八)
戸張政次郎さん(七三)
戸張三郎さん (六九)
 司会  伊藤博
 まとめ 須藤昭雄

お会式が始まるぞ!
司会 今日は、古くから、お会式を愛しつづけてきた方々から、私たちの知らない昔話を伺いたいと存じます。まず、準備のあたり、内田さんにお願いいたします。
内田 そうですね、私は大正十二年四月、震災の年に十四歳で小僧にきました。昼間は小僧ですから仕事は休めませんでしたが、お会式が近づくと、夜は親方が「万灯の花を作る手伝いに行け」と指示してくれました。これが嬉しくてね。当時は一日と十五日の休みはあったものの、あまり外へは出られなかったのに、お会式の時だけは公然と出ていけましたから。
戸張(政) 清立院の屋敷や本堂を借りてやった覚えがありますよ。人数は、三嶽中島講の家が、このへんには四〇軒くらいあったから、その代表が出て、十二~三人くらいかな。
吉田 そうだな、それだけいれば、作ってしまう。講の年番に当たると、その家でもやる。吉野さんとか私の家でもやったよ。昔、雑司が谷には、今はない講もあるが、三嶽、南古木田、清土、六家町、上り屋敷、原(ここが一番いい万灯を出したね)、水久保とあり、これが番をぐるぐる回ってる。年番に当たると、わが家じゃ中山の鬼子母神へ奉納に行くんです。戦争のちょいと前までだったかな。奉納に行くと、二の膳付き、おかん徳利が二本ついて、しかも女の人がおしゃくしてくれる。そういうふうに、ご馳走になって帰ってくる。雑司が谷の鬼子母神は、十月一日に寄合いがあるんだ。鬼子母神の境内には、お団子屋さん、雀焼きの店が十一軒ばかりあった。上総屋、武蔵屋とかいったな。そのお茶屋の娘さんや奥さんが手伝いに来ておしゃくしてくれるんだ。たいへんなご馳走だったよ。
さっき話した六つの講がまとまって、妙法結社というのができていた。結社では、法明寺の仁王門の前にお会式のときには大きなのぼり、一〇間からあるやつを立てた。今は石が残っているだけだけれどね。
戸張(政) その中山の話は全然知らないね。
吉田 結社の講中では、番が回ってくると、中山の鬼子母神と房州の誕生寺、鎌倉の竜口寺、身延山などへお参りに行く。震災から戦争までぐらいやったね。
そして結社では池上、堀之内への万灯を奉納に行くんだ。つまりお参りさ。その時分は後藤権二郎さんと安井銀太郎さんが妙法結社の世話人だった。(後に続く)

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御嶽山清立院(2011年1月11日撮影)

御嶽山清立院(2011年1月11日撮影)

御嶽中島講の所在地について、本日再度調査したので、紹介しておきたい。1909年の一万分の一地形図によると、「中島御嶽」とは、清立院の東、雑司ヶ谷霊園の南に所在していた。現在でいえば、前述の通り、雑司ヶ谷一丁目なのだが、清立院など一部は、現在は南池袋四丁目に入っている。なお、雑司ヶ谷一丁目町会とは別個の町会であるとされる亀原自治会の亀原は、中島御嶽の東、より護国寺に近い側に所在していた。
現在、清立院は「御嶽山清立院」とされる。御嶽社と一体化したようである。現地にいってみてみると、元弦巻川(今は弦巻商店街)の谷間に臨んだ崖地に所在している。雑司ヶ谷一丁目の多くの部分は、大体この崖地の上部にある台地に所在している。雑司ヶ谷二丁目が元弦巻川の谷間に多く所在していることとは著しい対象をなしている。

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近代都市において、「講社」とはどのように存在していたのか。単に、雑司ヶ谷鬼子母神お会式のことだけでなく、日本の近代都市における民衆の結合形態全体を検討するためにも分析されなくてはならない課題である。
一般的に「講」とは、庚申講・大山講・伊勢講・念仏講・題目講・頼母子講など、農村部の民衆結合を中心に検討されてきた。そして、都市化につれて消滅していく民俗事象として理解されてきた。しかし、今日の雑司ヶ谷お会式の隆盛をささえているのは、東京という巨大都市の一部である雑司ヶ谷地域の「講社」に他ならない。これは、雑司ヶ谷お会式にとどまらない。都市部の寺院・神社をみていると、かなり多く「講」による石造物や灯篭などが存在しており、「講」によって維持されている部分が多いように思われる。このような都市部の「講」については、民俗学にせよ歴史学にせよまだ十分検討されていないといえる。
雑司が谷お会式の機関紙である「お会式新聞」は、お会式を検討し、さらに近現代の講社の実態を分析するためのよい資料といえる。もちろん、戦後が中心であり、後々は戦後について検討する予定である。ただ、この前から続けているように、まずは、「お会式新聞」から、大正期―昭和戦前期のお会式とそれをささえた講社に実態についてみてみよう。
ここで、集中的にとりあげるのは、大正期に存在した「御嶽中島講」である。この講社は、戦前において、雑司ヶ谷地域における有力な講社であった。しかし、戦後は中絶し、1982年に「三嶽中島講」として復活し、戦後のお会式の主催団体であるお会式連合会に参加した。「お会式新聞」第12号(1982年10月15日)には三嶽中島講の「連合会入会に際して」という一文が掲載されている。そこでは、まず「今年度より雑司が谷一丁目三嶽中島として連合会に入会させて頂きます。」と宣言している。そして、「戦前我々の町、一丁目には古くから御嶽中島講という講社があって毎年鬼子母神の御会式に万燈を出し御嶽の大太鼓といって有名だったそうです」と説明している。
その上で、なぜ「三嶽中島講」に改名したのかについては、(1)一丁目町会・第一町会・亀原自治会と三町会があり、この三町会の有志が心を一つにして計画したこと、(2)老中若の三世代の人々が心をあわせて実行することになったことという、二つの理由をあげている。
「三嶽中島講」となった由来はわかるのだが、もともとの「御嶽中島講」となった由来は何か。『角川日本地名大辞典』によると、雑司ヶ谷村の小字名に「中島御嶽」がある。このように、元来は小字名に由来している。ただ、『地誌御調書上』(1825-1829年成立)では、雑司ヶ谷町の字「御嶽」とされ、『新編武蔵国風土記稿』(1828年完成)では、雑司ヶ谷村の小字「中島」とされている。「御嶽」と「中島」が同一の地をさしているかいなかはわからないが、いずれにせよ、後代には「中島御嶽」となっているので、同一でなくても、近接していたといえる。「中島」の由来はわからないが、「御嶽」については、鬼子母神以前の雑司ヶ谷村の鎮守といわれる「御嶽社」に由来している。この「御嶽社」の別当寺が清立院であり、清立院は現存している。この清立院も日蓮宗寺院である。たぶん、御嶽社―清立院の門前の地域が御嶽中島の範囲と考えられるのである。このように、戦前の「御嶽中島講」は、雑司ヶ谷村の一小字によって組織されていたのである。

なお、参考のために地図をだしておく。「水仙寺」とされているところが清立院である。

参考文献:『豊島区史』資料編第三巻

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おえしき新聞15号3面(1985年10月15日)

おえしき新聞15号3面(1985年10月15日)

今まで述べてきたように、近世の雑司ヶ谷お会式では、日蓮の生涯をあらわした人形が飾り立てられ、近世の文人の目を引き付けていた。明治中期においても、新聞報道で「生人形」が陳列されていたことがわかる。しかし、それ以降、新聞報道でも回想でも、人形陳列についてはみることができなかった。
「おえしき新聞」15号(1985年10月15日)には、塩谷喜代枝の「子供の頃の思い出」がのせられている。彼女は当時70歳で、雑司ヶ谷二丁目に居住していた。鬼子母神表参道が中心のホームサービス会からお会式に出ているというので、表参道に近いところに居住していたと思われる。彼女が子供の頃といえば、大体1925年頃で、大正から昭和に移り変わる頃といえる。この回想で、彼女は、次のように述べている。

忘れてはならないのは鬼子母神様の左側に日蓮上人のごくろうされた人形が人の大きさでかざられていました。又、法明寺の中にも同じような人形がかざってありその人形も戦争でやけてしまったのでしょう。

この回想から、戦前の鬼子母神お会式では、まだ人形陳列が行われていたことがわかる。もはや、万燈行列がお会式の中心をしめるようになっていたが、法明寺が戦災にあうまでは、人形陳列もなされていたのだ。目立たない形であるが、雑司ヶ谷お会式の近世以来の伝統が生き残っていたといえよう。

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妙法寺仁王門(2011年1月2日撮影)

妙法寺仁王門(2011年1月2日撮影)

妙法寺祖師堂(2011年1月2日撮影)

妙法寺祖師堂(2011年1月2日撮影)

両国東西講中奉献の石塔(2011年1月2日撮影)

両国東西講中奉献の石塔(2011年1月2日撮影)

鳶奉献の常夜燈(2011年1月2日撮影)

鳶奉献の常夜燈(2011年1月2日撮影)

青山十二日講の石造物(2011年1月2日撮影)

青山十二日講の石造物(2011年1月2日撮影)


ここで、雑司ヶ谷のお会式の競争相手であった堀の内妙法寺の現況を紹介しておこう。1月2日に行ったので参詣客が多い。境内伽藍の多くが近世後期の建築であるが、鬼子母神ー法明寺に比べて、境内・伽藍も広大な感じを受ける。なお、本堂は修復中であった。
祖師堂内部は撮影禁止であるが、外から見ると金箔がはられており、豪華な印象を受ける。境内には多くの石造物があり、年代をみると近世後半から明治・大正期にかけてのものが多いようである。ほとんどが、日本橋・青山・両国などの講中による建造物である。また、鳶の寄付した常夜燈もあった。参詣者の少ない時期に、石造物を調査すると、お会式のさかんだった近世後半から明治・大正期の妙法寺に対する江戸ー東京の信仰のあり方がわかるのではないかと思う。

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