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Archive for the ‘関西研究用原子炉’ Category

2012年11月13日、短時間であったが、1960年代初め、関西研究用原子炉と国内二番目の原子力発電所立地に立候補した福井県坂井郡旧川西町(現福井市)訪問してみた。

1960年において、関西地域で立地が難航していた関西研究用原子炉立地に福井県から立候補したのは、遠敷郡上中町(現若狭町)と坂井郡川西町(現福井市)である。そのうち、坂井郡川西町(現福井市)に行ってみたのだが、まず、この地域のおおまかところを次の航空写真でみてみよう。

ちょっと、分かりにくいかもしれない。旧川西町は、福井市中心部からみて北西方面にあたる。旧川西町の東側には九頭竜川が流れ、西側は日本海に面している。旧川西町の北側は福井平野に属しているが、海岸部は三里浜という砂丘地帯である。一方、南側には丹生山地に接しており、南側の海岸部はいわゆる越前海岸の岩礁となっている。

この川西町による1960年の関西研究用原子炉誘致活動は、次のように報じられている。

原子炉の誘致運動 川西町も名乗りあげる

鷹巣か三里浜に 北会長(県原子力懇談会)に申し入れ

関西研究用原子炉を誘致しようと上中町では積極的に運動を起こしているが、川西町でも同町鷹巣地区か三里浜砂丘地に誘致するよう働きかけてくれと、十八日同町の小林助役が非公式に県原子力懇談会長の北知事へ申し入れた。

県懇談会 現地調査始む

一方北会長は最近県内へ原子炉を誘致しようとする運動が起こっているので、十七日長谷川福井大学長と会い、学術上の意見を聞いた。この結果「たとえ誘致しても付近の人畜に与える危険はない」との見解を得たので同懇談会では県内候補地の現地調査にとりかかった。川西町の候補地へは十八日、県原子力懇談会事務局の係員が山田町長、長谷川産業課長らの案内で下検分し、資料を持ち帰った。

同候補地は海岸沿いの鷹巣地区糸崎台地区、石橋、白方の三ヵ所。糸崎では糸崎山付近を中心に約三十二万平方メートルの敷地があげられる。海岸線まで約五百メートル離れており、糸崎山から流れる水を十分使用できる。付近には松蔭、蓑浦、糸崎、和布の四区があるが原子炉の中心から三百メートル以上も離れているのでまず危険性がないといわれる。一方三里浜海岸の白方、石橋は必要な水源地確保問題に難色があり糸崎よりは条件が悪い。同町では今後、地元との土地買収に力を入れるが、地元ではいまところ深い関心を示していない。山田同町長は「今後地元との話し合いを進め、ぜひ同町に原子炉を誘致したい。半農半漁地帯なので、設置されれば、地元の繁栄はもちろん本県の文化向上にも大いに役立つので、県に近く正式に陳情書を提出して本格的な誘致運動をしたい」といっている。
このほか候補地として北潟湖の近くの国有地(芦原ゴルフ場付近)もあげられているので、懇談会では政府や原子炉を建設する京都大の意向を聞いて、もし本県に設置してもよいということになれば、県、県会、有識者などの代表で用地選定委員会をつくりたいようである。
(福井新聞朝刊1960年3月19日号)

旧川西町の鷹巣地区と三里浜地区が関西研究用原子炉の候補地であったのである。

まず、鷹巣地区糸崎を訪ねてみた。次の航空写真で示しておこう。この地域は、前述したように丹生山地と日本海にはさまれ、海岸部には岩礁がある地域で、それほど広い平地はない。ただ、比較的海岸よりに松蔭・糸崎・和布・蓑浦(現蓑町)の集落があり、そこから300m以上、海岸から500m離れているとしているので、集落の後背地にある水田と山林の間くらいの地域かと思われる。はっきりとは地域を特定できないが、とりあえず糸崎集落の後背地を写真にとってみた。

福井県福井市鷹巣地区糸崎(2012年11月13日)

福井県福井市鷹巣地区糸崎(2012年11月13日)

この写真は、糸崎集落の後背地にある山より撮影したものである。実際にはここで撮影されているよりも、より山側の地域だったかもしれない。ただ、周辺の集落から300m以上離れているというのであり、それほどこの場所から遠くはないといえる。写真に写っている集落は松蔭や蓑浦(現蓑町)などと思われる。半農半漁地域といわれているが、海岸部には鷹巣漁港という小さな漁港があった。集落からかなり近接した地域が候補地であったのである。そして、地図によると、二枚田川という川が流れている。たぶん、新聞記事に「糸崎山から流れる水を十分使用できる」とあるのは、この川をさしていると思われる。見た感じでは、原子炉事故を想定して土地の広さや集落からの距離を考慮したのでなく、後背地の山地から流れ出る水源を中心に立地を考えたといえる。

糸崎よりやや北であるが、鷹巣地区の海岸部に行ってみた。その写真がこれである。

福井市鷹巣地区の海岸(2012年11月13日)

福井市鷹巣地区の海岸(2012年11月13日)

今、地図で確認してみると、和布集落に隣接している浜住という集落であると思われる。写真でみると海岸には岩礁があることがわかるだろう。原子炉立地予定地も含めて、これより南側の海岸部では岩礁が続いているようである。ある意味で、敦賀や美浜の原発に類似した立地と思われる。

結局、関西研究用原子炉は1960年大阪府熊取町に建設されることになり、ここに建設されることはなかった。それが、この地域にとってどのような意味をもつのか、考えさせられる。原発に比べれば、研究用原子炉が地域経済に与える影響は大きくはないが、それでも、ある程度は「潤った」のかもしれない。しかし、他方で、この地域の人びとは不安と抱き合わせの毎日を送ることになったのかもしれないのである。

さて、旧川西町では、この鷹巣地区だけでなく、その北側の三里浜地区も関西研究用原子炉立地の候補となった。そして、1962年、日本で最初の原発(東海第一原発)を茨城県東海村に建設した日本原子力発電株式会社が関西地域で建設しようとした原発の候補地にもなった。結局、ボーリング調査で不適となり、三里浜に建設されることはなかったのだが、福井県に建設する方針は変更されず、敦賀に原発が建設されることになった。次の写真は、鷹巣地区から遠望した現在の三里浜地区である。この三里浜地区は工業開発されており、写真に写っているのは石油備蓄基地である。この三里浜地区については、次回以降述べていきたい。

鷹巣地区から遠望した三里浜地区(2012年11月13日)

鷹巣地区から遠望した三里浜地区(2012年11月13日)

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関西研究用原子炉交野町設置案が挫折し、その後も立地に苦労している状況の下、福井県が研究用原子炉設置に乗り出すことになった。以前、本ブログでこの問題にふれたが、あまり十分に検討したとはいえない。ここで、もう一度、この過程をみておこう。

  • 関西研究用原子炉四条畷町設置案の帰趨
  • その前に、交野町設置案挫折後の関西研究用原子炉設置問題の帰趨をみていこう。交野町設置案挫折後、その南にある大阪府四条畷町に設置する案が浮上した。広重徹『戦後日本の科学運動』や門上登史夫『実録原子炉物語』を参考として、この経緯を追ってみることにする。1959年12月7日の大阪府原子力平和利用協議会において、四条畷町を原子炉設置候補地にすることが正式に決定された。そして協議会会長の田中副知事が京大・阪大両学長を伴い、四条畷町及隣接の大東市に協力を申し入れた。そして、12日には四条畷町で説明会が開かれ、その際は中曽根科学技術庁長官や阪大・京大総長も出席したが、表立った反対はなかった。しかし、12月15日には住民が設置反対を叫んで四条畷町役場におしかけ、翌16日には四条畷町議会全員協議会が開かれ、町議会議員全員が大阪府原子力平和利用協議会に反対陳情に行くことが決められ、17日には町議会議員全員が住民200人とともに府庁に赴いた。この日、大阪府庁への陳情後、四条畷町議会が開催され、設置反対が決議された。20日には大東市で説明会が開かれたが、激しい野次で混乱し、流会となった。27日には四条畷町で関西原子炉設置反対期成同盟の決起大会が開かれ、デモ行進が行われた。

    ただ、四条畷町・大東市とも、反対派ばかりではなく賛成派もいて、地域内で対立しあう状態となった。しかし、1960年3月23日にも大東市議会は四条畷町設置案を白紙に戻せとする決議を行い、翌24日には、四条畷町の反対規制同盟400人が府庁に陳情に行くという状態であり、反対意見は根強く主張されていた。そして、四条畷町では、反対意見を表明しなかった町長が6月にリコールされることになったのである。
     

  • 福井県における関西研究用原子炉誘致運動の開始
  •  
    このように、宇治・高槻・交野・四条畷などへの関西研究用原子炉設置案が住民の反対運動で挫折していった中で、関西圏外の福井県より、関西研究用原子炉設置を誘致しようという動きがみられるようになった。美浜町の『美浜町行政史』(1970年)によると、福井県では1957年に「原子力の開発及び平和利用を目的とした福井県原子力懇談会」(会長福井県知事)が設立され、誘致活動を開始したとされている。1957年は、関西研究用原子炉建設計画が具体化した時期であり、かなり早期から、誘致活動に乗り出したといえる。

    そして、1960年には、関西地域における設置が難航していた関西研究用原子炉を福井県に誘致する運動が惹起された。福井新聞朝刊1960年3月16日号には、次のような記事が載せられている。

    研究用原子炉 ぜひ本県へ 県原子力懇が運動 北知事にも協力要請

    県原子力懇談会は十五日福井市人絹会館で幹事会を開き、研究用原子炉を福井県へ誘致するための運動を起こすことを決め、県の方針としてこれを打ち出すよう同日北知事へ申し入れた。

     “立候補せば有力”

    土地の買収でいま問題になっている関西研究用原子炉の建設見通しが行き詰まってきたので、県原子力懇談会ではこの際思い切って福井県へ誘致してはとかねてから準備をすすめていた。実情調査のため京都大学にある関西研究用原子炉設置準備委員会へ派遣した小野寺福井大学助教授(懇談会幹事)の調査結果がこのほどまとまったので、それを検討したうえで誘致運動を起こすことにしたもの。
    小野寺助教授が関西炉設置準備委員の藤本、丹羽両京大教授、川合同大学事務官らにあって聞いたところによると、大阪府下では候補地がなく、最近では淡路島へでもという情勢にあるようで、福井県が候補地として名乗りをあげればかなり有力になるだろうとのこと。さらに放射能の危険度は極めて低く、炉が設置されると産業、観光、教育面でのプラスが大きい点などが明らかにされた。
    具体的な誘致運動については県と原子力懇談会が話し合って決めてゆくが、一部革新勢力、民主団体などの反対も予想されるので、運動するに当っては県民各層の意見を十分聞いたうえで行なうことを申し合わせた。
     中西原子力懇談会副会長の話 知事へ申し入れたところさっそく実情を調べて努力すると約束した。候補地については県内に二、三ヵ所あるが、十分調べて決めたい。これからの産業も文化も原子力をおいて考えられないからぜひ本県へ誘致したいと思っている。
     小野寺福大助教授の話 八月になると政府が出す土地買収収用の補助金千五百万円が失効するので、それまでに決めなければならないわけだ。土地の広さは三十三万平方メートル(十万坪)あれば十分で、よく水の出る井戸一本、それに下流に飲料用の水源地のないことが条件だった。放射能による川水や海水の汚染はほとんど考えられず、そういった心配はないと私は確信している。

    このように、前述の福井県原子力懇談会が中心となって、関西研究用原子炉を福井県に誘致しようという運動が惹起されたのである。特に、この中で、国立大学である福井大学の教員が積極的な役割を演じ、河川や海における放射能汚染はほとんど考えられないと主張していることは注目される。

  • 第一候補地であった福井県上中町(嶺南)
  • そして、福井県遠敷郡上中町長(現若狭町)が、関西研究用原子炉誘致を当時の中曽根康弘科学技術庁長官に、原発誘致を陳情した。そのことを詳細に伝えている福井新聞朝刊1960年3月18日号の記事をここで紹介しておく。

    研究用原子炉 上中町(膳部)に誘致を 玉井町長がすでに政府と折衝 全町あげて促進 中曽根長官も熱意示す

    玉井上中町長はさきに上京して首相官邸で中曽根科学技術庁長官に会い、研究用原子炉を同町新道地区膳部に誘致する話し合いを行なった。科学技術庁ではいま関西に研究用原子炉の設置を計画、大阪、京都府下に候補地を選定している。しかし各地区で土地買収がうまくゆかず最終候補地である大阪府北河内郡四条畷は地元民の反対にあい難航をきわめている。最近では淡路島九州方面に土地を求めて誘致する気配もみえている。このような情勢から上中町では関西に地の利を得た膳部を選定、中曽根長官に申し入れたもの。

    膳部は上中町中心部から約五キロの地点で滋賀県と県境にあり、国道二十七号線と同京都ー小浜線との中間にはさまれている。ともに約二時間で京都、敦賀に出ることができる。候補地は四方を山で囲まれた盆地で清水がわき出ている。昔は若狭藩主酒井侯の隠し田といわれ、総面積五十万平方メートル、研究用原子炉敷設の条件といわれる、三十二万平方メートルの平たん地、水利の二点では申し分なく、しかも関西に近いという地理的条件にも合致している。中曽根長官は膳部の建設に非常な熱意を示したといわれ、四条畷に建設が不可能な場合、本格的な調査を行うことを伝えた。すでに上中町会でも誘致を了承、また地元膳部では署名で玉井町長あてに誘致促進方を陳情する動きも出ており、今のところ全町あげての熱意を示している。なお同町長は中曽根長官と会見後東海村の原子力研究所の立地条件を視察した。

    玉井町長の話 中曽根長官は関西原子力研究所を九州に誘致しなければならないと心配していたところなので大変喜んでくれた。条件としては申し分ないといっていた。今後は県原子力懇談会と同調してぜひ誘致を実現したい。

    この上中町というところは、いわゆる「嶺南」地域にあった。沿海部というよりも、小浜市より南側の山間部に所在していた。この記事の中で、すでに中曽根康弘科学技術庁長官(当時)に陳情していること、先進地の東海村を視察していることに注目しておきたい。

  • 二番手で手をあげた福井県川西町(嶺北)
  • さらに、福井新聞朝刊3月19日号に、次の記事が掲載された。この記事では、福井県坂井郡川西町(現福井市)も関西研究用原子炉誘致に立候補したこと、そして、福井県の原子力誘致機関である福井県原子力懇談会では、川西町も含め、複数の地点を候補地として、関西研究用原子炉誘致をはかっていこうとする意向があったことが報道されている。

    原子炉の誘致運動 川西町も名乗りあげる

    鷹巣か三里浜に 北会長(県原子力懇談会)に申し入れ

    関西研究用原子炉を誘致しようと上中町では積極的に運動を起こしているが、川西町でも同町鷹巣地区か三里浜砂丘地に誘致するよう働きかけてくれと、十八日同町の小林助役が非公式に県原子力懇談会長の北知事へ申し入れた。

    県懇談会 現地調査始む

    一方北会長は最近県内へ原子炉を誘致しようとする運動が起こっているので、十七日長谷川福井大学長と会い、学術上の意見を聞いた。この結果「たとえ誘致しても付近の人畜に与える危険はない」との見解を得たので同懇談会では県内候補地の現地調査にとりかかった。川西町の候補地へは十八日、県原子力懇談会事務局の係員が山田町長、長谷川産業課長らの案内で下検分し、資料を持ち帰った。

    同候補地は海岸沿いの鷹巣地区糸崎台地区、石橋、白方の三ヵ所。糸崎では糸崎山付近を中心に約三十二万平方メートルの敷地があげられる。海岸線まで約五百メートル離れており、糸崎山から流れる水を十分使用できる。付近には松蔭、蓑浦、糸崎、和布の四区があるが原子炉の中心から三百メートル以上も離れているのでまず危険性がないといわれる。一方三里浜海岸の白方、石橋は必要な水源地確保問題に難色があり糸崎よりは条件が悪い。同町では今後、地元との土地買収に力を入れるが、地元ではいまところ深い関心を示していない。山田同町長は「今後地元との話し合いを進め、ぜひ同町に原子炉を誘致したい。半農半漁地帯なので、設置されれば、地元の繁栄はもちろん本県の文化向上にも大いに役立つので、県に近く正式に陳情書を提出して本格的な誘致運動をしたい」といっている。
    このほか候補地として北潟湖の近くの国有地(芦原ゴルフ場付近)もあげられているので、懇談会では政府や原子炉を建設する京都大の意向を聞いて、もし本県に設置してもよいということになれば、県、県会、有識者などの代表で用地選定委員会をつくりたいようである。

    この川西町は、いわゆる福井県の「嶺北」地方にあたっている。福井市の北西で、沿海部であった。この記事の中でも、福井大学長が危険性がないと明言している。しかし、原子炉の中心から300m以上人家が離れているから危険性がないとしているが、これは、交野町設置案でも推進側が主張した意見である。そして、交野町周辺の住民は1kmも離れていないことを設置反対の理由としていたのである。

    上中町については、『福井県史』通史編6(1996年)で「上中町は住民の合意が得られず誘致運動は進展しなかった」(同書716頁)と述べられている。しかし、福井新聞朝刊3月26日号では、川西町における最有力候補地の糸崎地区の周辺の、松蔭、蓑、糸崎、和布の四区長が建設に同意したことを伝えており、川西町では住民の合意は得られたのである。

  • 原子炉設置反対の声
  • しかし、福島県などとは異なって、福井県では原子炉設置に反対する主張がみられた。福井新聞朝刊1960年3月18日号では「県会で原子爐誘致を追及」という見出しで、17日の福井県議会の総務委員会で社会党の斎藤敬一県議が原子炉誘致方針を追及したことが報道されている。この記事では「斎藤氏の主張によれば『どこの県でも受け入れないものをなぜ県が積極的に誘致しようとするのか』というもの。なお社会党議員団ではもしこの誘致運動が具体化されれば、全組織を動員するといっている。」と述べている。福井県の社会党は、誘致に反対であったといえる。

    4月には、福井県レベルの総評系労働組合のセンターであった福井県労働組合評議会(福井県労評)も、原子炉誘致に反対の姿勢をとった。福井新聞朝刊1960年4月5日号には、次のような記事が掲載されている。
     
     

    誘致には反対 県労評、態度を決める 関西原子炉

    県労評は四日福井市の労働会館で執行委員会を開き、研究用の関西原子炉を県内に誘致する問題について協議した結果「いまの段階では自主、民主、公開の三原則が守られない恐れがある」などの理由から誘致には反対の線を打ち出し近く県にこの旨を申し入れることを決めた。
    研究用原子炉の誘致についてはすでに上中町と川西町が名乗りをあげているので、県労評としては何らかの態度をとるよう考えて、総評の大阪地評などと連絡をとって検討していた。
    この結果①研究の成果が軍事的に利用される恐れがある②上中、川西いずれの場合にも近くの川や海が放射能で汚染される恐れがある③誘致は全県民的な問題なのに、誘致運動は議会や理事会などが勝手に進めているなど自主、民主、公開という原子力研究の三原則をおかしているというもの。
    県労評では、こんご強い誘致運動が行なわれる場合は、関西の民主団体とも連絡して全県的な誘致反対運動を始める考えでいる。

    このように、福井県では、社会党・福井県労評などにおいて、関西研究原子炉設置反対の主張がみられた。この前提には、京都府・大阪府の各地で行われた関西研究用原子炉設置反対の住民運動の影響があったと思われる。

  • 福井県における関西研究用原子炉誘致活動の歴史的意味
  • 結局、関西研究用原子炉は、1960年末に大阪府熊取町に建設が決定され、福井県に研究用原子炉が建設されることはなかった。しかし、その後も福井県により原子力施設誘致の運動は継続され、1962年、日本原子力発電株式会社は、東海村に建設されている東海原発の次の商用炉建設の候補地を福井県川西町として調査を行った。川西町は原発建設の前提となる堅固な地盤が存在しないため候補地から外されたが、日本原電は福井県内で調査を続け、敦賀半島の二地点を候補地とすることになった。この二つが、いまの原電敦賀原発と、関西電力美浜原発となった。つまり、関西研究用原子炉誘致運動は、それ自体としては挫折したが、その後、福井県嶺南地方で集中的に原発建設が行われる契機となったのである。

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    ここで、「原子力の平和利用」の歴史的問題に立ち帰ってみよう。このブログで、以前、京都大学・大阪大学の研究者たちが中心となって関西に研究用原子炉設置が進められ、1957年に宇治市に設置されることになったが、宇治市の住民の反対運動で宇治設置案が撤回されていったことを述べた。その次に関西研究用原子炉設置の候補地となったのは高槻市阿武山であったが、これもまた隣接の茨木市を中心とした住民の反対運動が惹起され、理論物理学者武谷三男らも反対運動に協力し、撤回されざるをえなかった。このことについては、別の機会に検討してみたい。関西研究用原子炉高槻設置案の挫折を受けて、新たな設置候補地が検討されることになった。その候補地として検討されたところが、大阪府交野町星田地区(現交野市)であった。まず、どのような場所かをみておこう。

    京都府と大阪府の中間で、淀川の南岸である。生駒山地の北端にあたるといえる。ちなみに、高槻市も京都・大阪の中間であるが、淀川の北岸に位置している。いろいろ調べてみると、この星田地区には星田火薬庫があるようで、そうなると火薬庫などが所在していた宇治と同じような条件である。この交野町設置案については、隣接の水本村議会議員であり、反対運動の中心であった中西清太郎が『廃墟の中からーわが水本村の闘い』(1988年)という回想録の中でとりあげ、さらに「『ヒロシマ』『ナガサキ』は訴えなかったー三十年前の『反原子炉』闘争(『部落解放』1988年11月号)でも回想している。また、樫本善一「初期原子力政策と戦後の地方自治」 『人間社会学研究集録』2006年2号、2007年)でも分析されている。これらに依拠して、交野町設置案の帰趨についてみていこう。

    交野町に原子炉を設置することについて、交野町の隣接自治体である水本村関係者に内々の打診があったのは、1959年2月19日であったと中西清太郎は回想している。交野町などにも同様の打診があったと思われるが、詳細はわからない。ここで大阪府側から説明にあたったのは、大阪府原子力平和利用協議会小委員会委員長であり、大阪府議会副議長(日本社会党所属)であった高橋重夫である。高橋は関西電力の社員でもあった。つまり、関西電力の組合出身の議員であるといえる。高橋は、高槻市阿武山が第一候補としつつ、星田地区にゴルフ場建設計画がもちあがり、ゴルフ場を建設するくらいならば原子炉のほうがいいという声があがって、交野町星田が候補地となったとした。そして、原子炉の安全性を強調しながら、関連産業が集中し、工場誘致になるとして、原子炉設置のリターンをあげた。また、高槻市については設置困難の状況も認めているのである。

    そして、1959年3月26日、大阪府原子力平和利用協議会は、大阪府交野町星田地区(現交野市)を関西研究用原子炉設置の候補地として検討していることを正式発表した。その理由として、毎日新聞は次ぎのように報じている。

    同協議会の話によると、新候補地は阿武山以上に恵まれた立地条件にあるうえ、地元に対し道路網整備、関連産業誘致など有利な条件の提示もしているので新らしい進展が期待されるという…有利な条件とは
    ① 生駒山系の北端に当たり、地盤が強固で洪水の恐れがない。
    ② 原子炉の廃液は地下のパイプを通じて付近を流れている寝屋川に落されるが、宇治、阿武山のように上水道源に関係がない。
    ③ 付近に有力な産業はなくこれをきっかけに発展が期待される。
    などである。(『寝屋川市史』第六巻688〜689頁)

    重要なことは、ここで「有利な条件」として「付近に有力な産業はなくこれをきっかけに発展が期待される」があげられていることである。製茶業のある宇治市、醸造業がさかんだった茨木市と異なって、ここには有力な産業は存在していなかった。ゆえに、原子炉設置と引き換えに行われる「発展」は、この地域にとって切実なものであった。この毎日新聞報道によると、道路網整備、小公園設置、国鉄片町線の複線化などのプランが地元に示され、さらに、関連産業として電器メーカーが研究所を設置する意向があることも伝えられていたという。原子炉というリスクのあるものと引き換えに、地域開発というリターンを提示するという、その後の原発立地で繰り返されていたパターンが、ここで初めて明示的に行われたといえよう。

    しかし、交野町周辺でも、地域住民の反対運動に直面した。寝屋川市議会が1959年4月2日に、枚方市議会が4月4日に反対決議を出した。最も強固に反対したのは、前述した、交野町星田地区に隣接した水本村(現寝屋川市)の住民たちであった。水本村には被差別部落があり、その団結力は強かった。5月14日、水本村議会は、関西研究用原子炉交野町設置案に反対する決議を行った。この決議では、安全性について前年発表した日本学術会議の意見に依拠して、その理由を述べている。その部分をここで紹介しておこう。

    一、 関西研究用原子炉設置計画に対する日本学術会議の意見として「設置場所の選定にあたっては、人家の密集した市街地、地盤に対する安全性の期し得ない土地、浸水の恐れのある場所は避けるべきである」と述べられているが、交野町設置予定地より半径一粁以内に本村の全住民が居住している。伝えられるところによれば、寝屋川市太秦が候補地として検討されたとき、人家の密集と、地盤の問題で不適格となったとのことである。
    太秦と星田地区は僅か一粁の距離であり、人家の密集状況、地盤問題で大なる相違は考えられず、日本学術会議の意見と反するものである。(樫本善一「初期原子力政策と戦後の地方自治」 『人間社会学研究集録』2006年2号、2007年、91頁)

     
     これに対し、京大・阪大の研究者を中心にして組織されていた原子炉設置準備委員会は、5月26日に反論した。この反論も日本学術会議の意見を正当性の根拠としている。

    1、 関西研究用原子炉設置計画に「設置場所の選定にあたっては、人家の密集した市街地、地盤に対する安全性の期し得ない土地、浸水の恐れがある場所は避けるべきである」と記載されてある意見は、原子力委員会原子炉安全審査専門部会において慎重審議の結果発表され、日本学術会議原子力問題委員会がこれを確認したものである。
    2、 原子力委員会原子炉安全審査専門部会が発表している「人家の密集した市街地」とは、繁華な市街の中心地を指すものであって、そこに原子炉を避くべきである。と述べたもので、現在候補地となっているような環境の所を指しているのではない。
    3、 関西研究用原子炉は、設計上万全の措置を講じ、安全を確保しており、事故が起こらないように装備されている。
    したがって、事故の起こることは実際上予想する必要はないが、念のため、事故が起こったと仮想して、炉体からこれ以上の距たった地点では障害がないと推定されるような距離をとることとしている。
    (中略)
    これらについて、最悪の条件の下で計算した場合でさえ、われわれが設計している関西研究用原子炉の場合では、隔離距離は三百米以内と算定される。
    設置予定地は、住家から三百米以上距たった地点を選んでいる。更に現地のの地形を考えれば、自然の防護措置がなされているため、隔離距離はこれよりなお短くてよいこととなり、貴村に対して危険を及ぼす恐れはない。(樫本善一「初期原子力政策と戦後の地方自治」92頁)

    同じく、日本学術会議の意見に依拠しながら、全く別の結論が導かされているのである。結局、人家の有無ではなく、人家の密集がポイントであると、原子炉設置準備委員会の学者たちは答えたのである。そして、人家からの距離も、住民は1km以上としているのに、学者たちは300mでよいとしたのである。

     しかし、住民らの反対はますます高まっていった。水本村では、関西研究用原子炉設置反対期成同盟が結成され、本部長に村長の木下喜代治が、副本部長に村議会議長の田中周造と村議会議員の中西清太郎が就任し、団体として村議会議員他、河北再生資源取扱業者組合、消防団、青年団、農業協同組合、農事実行組合、部落解放同盟、4 Hクラブ(農業青年クラブ)、婦人会、職員組合、教職員組合、小中学校PTA代表者が参加した。水本村内には「関西研究用原子炉星田地区設置反対」の横幕やビラなどがはられ、枚方、寝屋川、大東、四条畷、交野をはじめとした北河内の各地を宣伝車がまわったと中西清太郎はかきとめている。

    村内に張られたビラの文面について、中西は次のように記録している。

    「危険きわまる原子炉を 安全論で押しつける 甘い言葉に耳かすな」
    「税金を 湯水のごとく費して 危険な原子炉押しつける 金ない吾らは団結だけ」
    「操り人形の学者たち 操る財界ヒモ引けば 口の中から二枚舌」
    「各国の爆発事故を見逃して 安全であると太鼓判 日本の学者も苦しかろ」
    「あちらこちらでいやがられ 行く先定めぬ原子炉も メンツにかけても置くという 学者の口にも舌二枚」
    「貧乏町村につけ込んで 危険な原子炉押しつける 学者の良心鬼になる」
    (中西『廃墟の中から』p153

    6月13日には、関西研究用原子炉設置反対村民決起大会が水本村で開かれ、「水本村の名において、いかなる説得も排除し、われわれの生存権と平和な生活を確立するため、関西研究用原子炉交野町設置案に断固として反対する」(中西前掲書p163)旨の決議がなされた。そして、次のような「宣言」が出された。

       

    宣言
     われわれは関西研究用原子炉の設置が、わが国の原子力平和利用による文化の向上、産業の発展に寄与し、関西経済を振興させる任務を持つことを十分に認識する。さらに研究用原子炉を設置することにより、地元北河内の発展を期待する心境も理解する。
     しかしながら、現段階においては原子炉はまだ完全ではなく、世界の各地では動力用原子炉はもちろん、研究用原子炉においてさえ事故が頻発する状況にある。
     関西研究用原子炉のスイミングプール型では、長期的に空気汚染があることは米国原子力委員会も警告しており、さらに、この原子炉設置には日本学術会議は「人家の密集した市街地を避けること。排水が上水道源に流入しないようにしよう」との意見を付しているが、現在の予定地の半径1キロ以内には村民が居住し、20キロ以内には約1万人が居住している。
     われわれは、宇治案における設置反対理由や阿武山案における学者・地元関係者の反対理由を知るにおよんで原子炉の危険性を深く認識し、なおかつ星田火薬庫の近くに原子炉が設置されることに脅威を抱くものである。
     国会は、現在、わが国の原子力科学技術の低さを認識し、政界は地元居住者の生存に影響する原子炉の危険性を確認している。星田案を撤回して人道主義の立場から科学的、民主的に設置案を基準の討議から再出発さるべきである。
     右宣言する。
      昭和三十四年六月十三日
                                   関西研究用原子炉交野町設置反対村民決起大会

    この宣言については、原子力の平和利用の必要性や地域開発の重要性を指摘しながらも、現状の科学技術では安全性を保証しえないとしている点に注目すべきであろうと思う。それまで、反対運動総体の基調としては、他に設置すればよいのではないかということが反対理由となっていた。それは武谷三男も変わらない。この宣言では、他に設置すればいいという表現は明示されず、現状においては設置すべきではないということが強調されているといえる。被差別部落をかかえている水本村では、結核療養所が立地されていた。ある意味で、条件の悪い地域に他で引き取り手がない施設が立地される悲哀は水本村民たちは了解していたといえる。それが、他に設置すればいいという表現をさけることにつながったといえる。

    6月18日には、近隣の寝屋川市議会が、同市を貫通する寝屋川の上流水源地域に設置され、最終的には廃液が大阪市の重要河川である堂島川や土佐堀川に注がれることになるとして、設置反対の決議を再度行った。しかし、6月29日には、大阪府原子力平和利用協議会より交野町長に設置協力を依頼する文書が手渡され、近隣の寝屋川市や水本村などにも依頼状が送られた。それでも、住民の反対はおさまらなかった。特に、水本村では、建設予定地の強制測量を阻止するため、「強制立入り調査監視所」を設置した。中西によると、監視所には竹槍が常備され、強制測量調査団が来た場合には小型サイレンと半鐘で水本村民に知らせ、村民が集まって、調査団を追い出すということになっていたそうである。

    水本村民の働きかけで星田地区の住民も原子炉設置反対運動に参加するようになった。8月中旬には、当初設置受け入れに傾いていた交野町・交野町議会も慎重姿勢をとらざるを得なくなった。

    そして、8月15日、前述した大阪府原子力平和利用協議会小委員会委員長であり、大阪府議会副議長(日本社会党所属)であった高橋重夫が交野町と交渉するために交野町役場に入ろうとするが、水本村・交野町星田地区・寝屋川市の住民2000人からなるデモに妨害され、そこで暴力を受けるという傷害事件が発生した。そして、8月17日に、交野町は、大阪府に正式に設置撤回を申し入れた。結果的に、曲折はあったが、10月頃には、交野町設置案の挫折は明白になったのである。

    なお、この傷害事件発生について、水本村側は不本意であるとして、記者会見でも反省の弁を発している。そして、8月17日の交野町からの抗議を受けて、水本村は謝罪している。さらに、最終的に9人が逮捕され、全員有罪となった。中西は「しかし、不覚にも原子炉設置推進派の挑発にひっかかって傷害事件を引き起こしてしまった。これが部落差別の再生産に悪用されるのではないかという点が気がかりでならない。この事件は、『部落であるがために』起こったものでは絶対にない。このことについて、とくに強調し、理解を求めたいものである」(中西前掲書p194 )と主張している。

    中西は、部落に立脚した運動の強味をこのように回想している。

     

    村民が団結して、みんなで村を守ろうということだったのです。よそから入ってきた人たちが原則論を並べて訴えても村の人たちはついてはいかなかったでしょう。やはり、顔を知った者同士が声をかけ合うなかでの反対論というのがよかったのではないでしょうか。やっぱり、村のもん同士の話のほうが納得するんですね。運動の指導者と一般村民という関係ではなく、みんなが同じ場所で語り合ったということです。
     このなかで私たちは、被差別部落独特の強みを発見しました。それは、あの公衆浴場です。わしらの村の人は大部分は銭湯に行った。そこは唯一の交流の場所でもあります。この反対運動の最中に銭湯の風景を見ていると、あっちでもこっちでも原子炉問題の話です。裸になったままやり合っている。着物を着ても帰らずに集まって語り合っている。新しい情報がすぐに伝わる。ステテコ一つで二.三人の人が私の家へ「これ、どういうこっちゃ」と聞きに来る。毎日毎日、公衆浴場で原子炉問題の研究会が開かれているようなもんで、それが団結を固めるのに大きく役立ったように思います。原子力のゲも知らなかった人たちが、そういう話のなかで勉強していったのです。専門家はだれもいませんでした。(中西「『ヒロシマ』『ナガサキ』は訴えなかったー三十年前の『反原子炉』闘争」、『部落解放』1988年11月号、p100)

    このように、被差別部落の共同性に依拠しながら、関西研究用原子炉設置反対運動が展開していったといえる。中西は、被差別部落である水本村の過半数は生活に困窮しており、大阪府の施策で豊かにするいうような切り崩し工作があったということにふれながら、このように述べている。

     

    だが、私たちは、一時的によくなるような交換条件を飲んで自分の住んでるところをダメにするわけにはいかん。わしらは長い間、貧乏に慣らされてきてるから貧乏でもいい。それよりも子孫に安全な、暮らしよい郷土を引き継いでいくのが専決じゃ、と頑張ったわけです。(中西「『ヒロシマ』『ナガサキ』は訴えなかったー三十年前の『反原子炉』闘争」p97)

    このような運動の論理は、1960年代末から1970年代かけてにさかんになる一般的な反公害の住民運動の中でもみることができる。原発建設反対運動も含めた住民運動の課題について、政治学者の高畠通敏は、このように提起している。

    しかし、住民運動の主張が、資本主義的な意味での私権の論理ではなく、生活権としての基本的人権に属するものとしての私権の主張へと向かっていることを了解しておくことは、共同体的シンボルや伝統的心情の動員と重ねて理解する上で重要である。共同体や地域社会における生活権の擁護を、工業化や機械化による所得や便益の全体的上昇より優先させるという思想は、結局、日本社会が経済の低成長を受け入れ、公害の少ない知識集約産業を中心に産業構造を変換し、所得や便益よりも生活の質を重視する方向へ全体として体系的に移行することを前提としている。その移行が起こらないかぎり、住民運動は、結局、孤立的・散発的な抵抗として、今後も生起しつづけるに違いない。住民運動を連合して一つの大衆運動としての力を形成しようという試みは、なされているが、それは数としては、未だ一部に止まっている。個別的問題にこだわる住民運動の性質上、そういう運動の横断的組織化は行われにくいのである。」(高畠通敏「大衆運動の多様化と変質」 『55年体制の形成と崩壊』 1979年)

    まさしく、1959年の関西研究用原子炉交野町設置への被差別部落による反対運動の論理は、1960年代末から1970年代の反公害の住民運動の中にも受け継がれていくといえる。そして、これは、私たちの現状の課題でもあるのだ。

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    (前略)その他いろいろな統計をみましたが、その一例として夜光時計にも放射能があるし、飛行機に乗って一万米の上に1時間いるのと、原子炉で仕事をしている者が30年かかって吸うのと同じ位だ。又淀川筋の水を30年かかってのんでいる間に0.4人の奇形児が出来る。牛乳の中にもあり、山陰の温泉なんかは放射能があるが、みなそれにつかったり呑んだりしているというお話がございました。
     要するに原子力は文明の利器だから使わなくてはならない。潜在的危険は零とはいわんが0及至0.4で自動車事故や飛行機事故程度である。心理的に嫌がっている人には勝手なことを申し上げるので、しばらく時機を見たい、絶対という言葉を使いたい位の危険性であって、こちらは、皆さんの心配を防ぐため必要以上のことをやる予定であるということでございました。(樫本喜一「リスク論導入の歴史的経緯とその課題」、『人間社会学研究集録』1、2005年、より引用)

    上記のような議論は、よく原子力開発の推進者たちから聞かされたことがあると思う。近い例では、この前、本ブログでとりあげた工学者茅陽一氏が日本原子力学会の機関誌『日本原子力学会誌』54号(2012年8月号)の巻頭言に書いた「原子力と自転車の安全性」で展開されている議論がよく似ているといえる。もう一度、ここで紹介しておこう。

    もちろん、事故の危険性が図抜けて大きい、という場合には脱原発という決断は仕方がないかもしれない。 しかし、数字で考えると、どうもそうはならないのではないか。一つの方式として、事故の危険をコストではかってみよう。今回の福島第一の事故の被害は、政府のコスト等検討委員会(正確には、国家戦略室コスト等検証委員会)の報告によると5兆8千億円だという。そして、この委員会はこのような事故は40年に1回程度起こるという前提でこのコストを発電コストに換算している。これは,日本が原発の建設を本格的に始めてからほぼ40年経って今回の事故が起きた、という ことを考慮に入れているからだろう。そこで、このコストは日本人一人あたり年あたりどれだけになるかを求 めてみると、上の被害を1億人×40年で除して1,500円/人・年という答えが出てくる。そこで、比較のために別な例として自動車事故を取り上げよう。日本では、年間ほぼ5,000人が自動車事故で死ぬ。人ひとりの損失をどうとるか、いろいろ考えはあるだろうが、一人5,000万円とすると年間2,500億円となる。これを人口1億 で除すると2,500円/人・年という結果になる。
    上記にあげた数字はもちろん幅があっていろいろ変わり得る。だが原子力の損失が自動車利用の損失とさほど違わないものであることはたしかだろう。しかし、交通事故で人が死ぬから自動車の使用を止めろ、といった意見はおよそ聞いたことがない。これは人々が自動車を必要だ、と認識し、この程度の損失はその必要性にくらべて仕方がない、と考えているからだろう。それなら、原子力を人々に受け入れてもらうためには、原子力を自動車と同じように重要だ、と理解してもらうことが必要である。

    http://www.aesj.or.jp/atomos/tachiyomi/2012-08mokuji.pdf

    さて、最初の文章がいつ発言されたかといえば、1957年なのである。本ブログでも取り上げた関西研究用原子炉宇治設置反対運動のさなかの1957年4月15日、宇治市の市議会議員たちが、研究用原子炉宇治設置を推進していた京都大学側原子炉設置準備委員に聞き取り調査を行った際、京大側の関係者が行った発言が、これなのである(『宇治市市議会定例会会議録』1957年6月28日。なお事実関係は前記樫本論文による)。そして、このような主張は、宇治の市民たちには受け入れられず、関西研究用原子炉宇治設置は挫折したのであった。

    前述した樫本氏は、金森修氏の「リスク論の文化政治学」(『情況』2002年1・2月号)を引用しながら、このように述べている。このことには、全く同感である。

     

    上記の実例に見られる、自動車事故や飛行機事故の確率と、研究用原子炉が持つ危険性を無造作に比較することに対し、金森氏の論考は次のように述べる。「人間存在の根元的な不確実性と、先端技術が孕む危うさとを巧みに混淆させ、一緒くたの背景に据えてしまう」、「どれほど細心の注意を払って生活していても、不慮の災害に巻き込まれることから100パーセント逃れることはできないという根元的な事実性が、原発のように安全設計をなされたものでも絶対安全とはいえないという論理と連続的につなぎ合わされ」るという指摘である(金森、2002、p54)。これはまさに、導入時点における素朴なリスク論的言説の、限界と問題点を説明しているのではないだろうか。

    それにしても、50年以上たって、原子炉の安全性を主張する論理に変化がなかったことに驚くしかないだろう。この関西研究用原子炉は計画時の出力は1000kwであった。しかし、現在の原発は数十万から100万kwである。それに、この時点では、東海村で研究炉の建設が進められていたが、まだ臨界には達していなかった。現時点では、それよりも大出力の原発が50基程度は存在している。危険性は増してきているといえる。それにもかかわらず、冒頭で語られた論理は、脈々と受け継がれていったのだ。それは、まさしく、茅陽一氏が父の茅誠司より原発推進という任務を受け継いだことと酷似しているといえよう。つまり、あまり、科学的根拠があるわけではない。原発は安全という結論があって、自動車事故という日常的な事故と比較するというレトリックが継承されたといえるだろう。

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