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Archive for the ‘築地を見て’ Category

電信創業の地

電信創業の地(2010年8月27日撮影)


運上所跡

運上所跡(2010年8月27日撮影)

この築地居留地を当初管理した部門が、東京運上所である。東京開市にあたり設けられた役所であるが、当初は外国事務局と称し横浜を管轄した神奈川県裁判所が管理していた。東京開市後、東京府の管轄となり、東京運上所となった。この東京運上所は、居留地の造成・管理・財務、日本人―外国人間の裁判、外国人応接のための翻訳、輸出入管理(税関事務)、密貿易取締、外国公使・外国商人・居留地の警衛にあたる別手組(警察組織)管轄など、多様な職務を担っていた。国家機構が整備されるにしたがって、しだいに職務が整理され、1875年には、裁判業務は裁判所に移管され、税関業務については横浜税関出張所となり、居住地業務は東京府支庁となった。
現在、東京運上所跡は割烹となり、プレートのみが残されている。同地は、隅田川に面しており、築地に入ってくる船舶を取り締まるのに都合のよい土地であった。また、日本で最初に電信局が設けられた地でもあり、記念碑が残されている。

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女子学院発祥の地

女子学院発祥の地(2010年8月27日撮影)


立教女学院跡

立教女学院跡(2010年8月27日撮影)


関東学院の源流ー東京中学院発祥の地

関東学院の源流ー東京中学院発祥の地(2010年8月27日撮影)


このように、設置当初の築地居留地は、外国商人たちにとって人気がなかった。1872年の新橋―横浜間の鉄道開通は、それに拍車をかけた。確かに横浜から交通至便になったものの、横浜からの日帰りが可能となり、築地に根拠地を置く必要性はますます薄れたのである。
築地居留地の真の主となったのは、キリスト教各派の教会とそれが経営するキリスト教系学校であった。プロテスタントを中心にカソリックなどまで13会派が進出し、ほぼ10の聖堂が建設された。これらの教会は、関東大震災までにほぼ移転し、現在はカトリック築地教会のみが残されている。これらの教会は、それぞれのキリスト教系の学校を開設した。このようなキリスト教系の大学を源流として、明治学院大学・女子学院・青山学院大学・立教大学・双葉学園・暁星学園・関東学院大学・女子聖学院・アメリカンスクールなどがうまれている。その他工手学校(現工学院大学)や築地カトリック神学校・啓蒙小学校・明教小学校・サンマー英語学校・聖三一神学校・女子聖書学館・女子神学校などが創立された。さらに、フォールズのツキジホスピタルや、トイスラーの聖路加病院など、キリスト教系病院も生まれている。現状では、学校は同地に残されておらず、聖路加国際病院のみが残されている。
この地は、さまざまなキリスト教系学校の発祥地であり、明石町には、多くの学校の創立記念碑が建てられている。これらの「記憶の場」としての築地といえるであろう。

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築地居留地跡

築地居留地跡(2010年8月27日撮影)

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1858年の日米通商条約で、1862年に江戸を開市することが定められた。この開市は再三延長され、明治維新後の1868年にようやく江戸―東京開市が明治新政府の手によって行われた。この江戸―東京の開市にあたり、外国商人の根拠地として設定されたのが築地居留地である。近世、築地・明石町の地域は鉄砲州とよばれた地域で、隅田川に面した地域は河岸場として使われ、内陸部分には大名などの武家屋敷が林立していた。築地居留地設置を構想したのは幕府であり、武家地などを収公して、居留地建設をすすめたのである。
築地居留地は、南は旧松平定信邸の浴恩園(現築地市場、地図では波除神社南側)の北側からはじまり、西側は築地本願寺東側の水路(地図では聖路加看護大学西側の道路)で画され、北は八丁堀(地図では中央小学校北側)まで続いていた。現況の町名では、北から、湊一・二・三丁目、入船一・二・三丁目、新富町一・二丁目、明石町・築地六・七丁目が該当する。なお、主に新富町一・二丁目にあたる部分は、1872年に拡張された部分である。
この居留地は、北部・中部・南部に分割される。現在の明石町にあたる中部地区が本来の居留地であり、この地区の武家屋敷や町地はすべて取り払われ、街路を付け直し、整地した上で、1870年より当初52区画に分割して外国人に貸し出された。一方、残余の北部・南部地区は、日本人が外国人に相対で地所・家屋を貸し出す地区となり、旧武家屋敷を整地して日本人に貸し出した。両方の地区全体が広義の築地居留地といえる。この地域は、水路が縦横に張り巡らされたところで、築地居留地はすべて水路で囲まれていた。さらに、幕末維新期の尊皇攘夷派士族の襲撃を防止するとして、1871年まで築地居留地に繋がる各橋梁には関門が設けられていた。
本来条約上は、江戸―東京に居住する外国人はすべて築地居留地にすむこととされていた。しかし、首都という特殊性より、外国公使館員やお雇い外国人については、それぞれの仕事に便利な居留地外での居住を認めざるをえなかった。そして、公平を保つという観点から、一般外国人にも居留地外の居住を認めることになった。結局、居留地外に住む外国人のほうが多くなったのである。
加えて、すでに横浜が開港場としての地位を確立しており、幕藩制の解体によって衰微した江戸―東京にわざわざ外国商人が進出するメリットは少なかった。港湾設備にしても東京は横浜におとっていた。その上、整地などの造成費もかさみ、築地居留地の地代は横浜のそれよりも高かった。そのような悪条件が重なって、設置当初の築地居留地は人気がなく、1870年の外国人に対する貸し出しにおいては、52区画のうち20区画しか応募がなく、現実に建設されたのは10区画のみであった。この52区画全域がうまるのは、1884年までかかっている。

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吉野屋築地一号店

吉野屋築地一号店(2010年10月16日撮影)

吉野屋築地一号店看板

吉野屋築地一号店看板(2010年10月16日撮影)

最近、移転問題でさかんに議論されている築地市場の場内に、牛丼チェーン吉野屋の築地一号店がある。市場場内の他の店よりは、洗練された造りであるが、決して広いわけではない。接客スペースは数坪程度であろうか。カウンター席しかなく、それも精々十数人程度しか入れない。小さな立ち食い蕎麦屋程度の店だ。このように小さい店は、吉野屋ではみかけたことがない。メニューは、牛丼(並380円)中心で、他の店のように牛鍋丼(並280円)は無かった。店の入口には、吉野屋が魚河岸に1899年に開業したこと、そして魚市場で吉野屋の牛丼の味が育まれたとする看板がかけられている。そして、店内には日本橋魚河岸で開業した吉野屋のレリーフが掲げられている。つまり、吉野屋は元々日本橋魚河岸で開業したのであり、築地に市場が移転した1926年に吉野屋も移転してきたのだ。つまり、地理的にいえば、同地は吉野屋の発祥の地ではない。
しかし、店内に入ってみよう。この築地第一号店は、他の吉野屋とは違った雰囲気を有している。前述のように牛丼中心のメニューだが、ほとんどの客が、細かな味の調整を求めて隠語を使って注文している。ある客については、顔をみたとたん、店員のほうから隠語を発し、注文をとっていた。つまりは、築地市場を中心とした常連客で、この店はなりたっている。そして、それが、吉野屋の食文化をささえているといえるのだ。吉野屋のウィキペディアには、築地一号店しか通用しない隠語が多く掲載されている。
この築地一号店は、吉野屋のアイデンティティの拠り所とされており、公式ホームページに大々的にとりあげられている。地理的な発祥地ではなく、常連客と形成してきた食文化に、吉野屋は自身の過去の「記憶の場」を求めたといえよう。

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蘭学事始地碑

蘭学事始地碑(2010年8月27日撮影)


慶応義塾発祥の地碑

慶応義塾発祥の地碑(2010年8月27日撮影)


近世後半から幕末にかけて、聖路加国際病院を中心としたこの地域には、豊前中津藩奥平家の中屋敷が所在するようになった。中津藩医だった前野良沢は、この地で杉田玄白らとオランダの解剖書を翻訳し、『解体新書』を1774年に編んだ。さらに、時代が下った1858年、中津藩の出身であった福沢諭吉は、この地で慶応義塾の前身の蘭学塾を開いた。今、聖路加国際病院南側の道には、「蘭学事始地」碑と「慶応義塾発祥の地碑」が並んでたっている。中津藩における洋学理解の伝統ということが前提にはなるが、ただ、この地においてこの二つの出来事があったということはおそらく偶然である。しかし、近代化=欧米化であった近現代の日本において、この二つの出来事は結びつけられ、近代化の源流としての意義をもたされるようになったといえよう

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浅野内匠頭邸跡プレート

浅野内匠頭邸跡プレート(2010年8月27日)


浅野内匠頭邸跡碑

浅野内匠頭邸跡碑(2010年8月27日撮影)


近世、築地・明石町界隈で多くの面積を占めていたのが武家地であった。これは、築地・明石町だけではなく、江戸ー東京全体の特徴である。例えば、丸の内が示すように、近代になって、不用になった武家地が多かったことが、東京の近代都市化の前提となったといえよう。武家地を、近代的な施設として読み替えることで、近代都市化が比較的に容易にすすめられたといえる。ここ明石町では、武家地が外国人居留地に読み替えられたのだ。聖路加国際病院敷地を元禄期まで遡ると、忠臣蔵で有名な赤穂藩浅野内匠頭邸が所在していた。忠臣蔵とキリスト教系病院とはミスマッチに一見見えるかもしれない。しかし、このような近世都市構造の読み替えが、近代都市の前提となったのだ。

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聖路加ガーデン緑地

聖路加ガーデン緑地(2010年8月27日撮影)

聖路加国際病院の内外には、アメリカ公使館の石造物、トイスラー記念館の他、非常に多くの記念碑やプレートが所在している。そして、少なくとも聖路加国際病院敷地にあるものについては、聖路加国際病院と聖路加ガーデンの開発にともない、容積率獲得のために設けられたと思われる公開空地の中に点在している。実際、聖路加国際病院や聖路加ガーデンは、庭園化された緑地帯に囲まれており、町中とは思えない。さらに二階部分にも屋上庭園が造られている部分もある。そのような緑地帯の中にある記念物や記念碑を探すのは容易ではない。これらは、もちろん、「過去」とのつながりを保とうという意志に基づいて作られたといえるであろう。しかし、一方では、都市開発のデザイン上のオブジェとしても機能しているといえる。このような都市開発という「現在」の営為の中に「過去」を取り込むということは、聖路加だけではない。より大規模に、港区における森ビルの開発でみることができる。

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