昨日(2013年5月26日)、歴史学研究会という歴史関係の学会の大会が東京の一橋大学で開催された。この大会の現代史部会は、「対抗運動の可能性ー保守時代の構想と展開」という全体テーマで行われた。その中で、西田慎氏が「70年代西ドイツにおけるオルタナティブ勢力の形成ー緑の党を例に」という報告を行っていた。非常に興味深いので、ここで紹介しておこう。なお、この報告については、今年の秋にだされる歴史学研究会の機関誌『歴史学研究』に掲載される予定になっている。また、西田慎氏には『ドイツ・エコロジー政党の誕生ー「六八年運動」から緑の党へ』(昭和堂、2009年)、「反原発運動から緑の党へーハンブルグを例に」(若尾祐司・本田宏編『反核から脱原発へードイツとヨーロッパ諸国の選択』、昭和堂、2012年)という研究がある。前者は未見だが、後者は興味深く読んだ。
さて、西田氏の「70年代西ドイツにおけるオルタナティブ勢力の形成ー緑の党を例に」の紹介に戻りたい。まず、西田氏は「西ドイツにおけるオルタナティブ運動や政治的オルタナティブ勢力(緑の党やオルタナティブ・リスト等)の形成過程を通して、日本との違いを考えていきたい」(当日配布のレジュメより。なお、レジュメからの引用は出典を略す)と報告の課題を提起した。
西田氏によれば、緑の党などのオルタナティブ勢力の源流は西ドイツの68年運動=「議会外反対派」(APO)であるとされる。この「議会外反対派」の運動目標は、当時のキージンガー大連立政権(キージンガー首相が元ナチ党員)への反対、大学の民主化要求、ナチスの過去追及、ベトナム戦争への反対、非常事態法制定への反対であった。この議会外反対派は1970年頃に解体に向かい、政治的には、①私生活に退却、②社会民主党に入党して体制の中から改革実現をめざす、③テロ組織を結成して暴力革命をめざす(赤軍派など)、④新左翼諸集団を結成して革命をめざす(教条主義的新左翼Kグループなど)の四つの方向に分裂していった。
他方、西ドイツの68年運動は、社会変革の戦略と、自己変革の過程(「日常の政治化」、対抗文化)がわかちがたく結びついていたが、APOの解体以降、両者は分離していった。そして自己変革の過程の流れから75年以降オルタナティブ運動が生まれてきたと西田氏は述べた。
このオルタナティブ運動について、西田氏は「70年代に発生した、対抗文化を展開する運動。現体制を否定するだけでなく、それを越えてオルタナティブな社会、文化を対置しようとした」と定義した。オルタナティブ運動の具体的なものとして、西田氏はコンミューン(ブルジョワ家族の否定)、居住共同体(シェアハウス)、空き家占拠、田舎コンミューン(都市からの逃避)、オルタナティブ経営体、オルタナティブ・メディアをあげている。西田氏は、特にオルタナティブメディアの代表例として、日刊のターツ紙をあげ、「オルタナティブ運動や社会の周辺集団、女性運動、エコロジー運動、平和運動等のための代弁者としての立場を確立」したと述べた。
そして、反原発運動の展開を契機に、政治的オルタナティブ運動が生まれて来ると西田氏は主張している。そのきっかけが1973年のヴィールにおける反原発闘争であり、この闘争では、反対デモだけでなく、建設予定地の占拠も行った。そして、この反原発闘争に、運動への行き詰まりに直面していた新左翼のKグループが参加していった。
反原発闘争の展開は、他方で、独自に環境「政党」(「緑のリスト」)等を組織し、地方自治体選挙に挑戦する動きにつながっていくことになる。なお、「リスト」とは候補者名簿のことである。1977年にはニーダーザクセン州の一部自治体で議員が選出された。1979年には、ブレーメン市議会(州議会と同等)において、「緑のリスト」が初めて議席を獲得した。また、同年には、「それ(既成政党)以外の政治的結社・緑の党」という形で欧州議会選挙に参加し、予想外の善戦で、巨額の選挙補助金を獲得した。そして、この選挙補助金を前提に、全国政党「緑の党」が1980年に結党されたのである。
なお、このような「緑のリスト」などの運動は農村地域のエコロジー派が主導するもので、新左翼諸集団との間で亀裂を生むこともあったという。その中で、主に北ドイツの大都市で、環境保護だけにあきたらない新左翼グループが「多色のリスト」(緑と赤という意味)「オルタナティブ・リスト」を結成していった。西田氏は、事例としてハンブルグと西ベルリンをあげた。これらの「多色のリスト」「オルタナティブ・リスト」は、一時期緑の党と併存したが、最終的には、緑の党と合流することになっていったと西田氏は述べた。
西田氏は、このようなオルタナティブ勢力の特徴、意義、そして限界などについても述べたが、ここでは省略しておきたい。ただ、このような、西ドイツにおけるオルタナティブ勢力の形成過程をみて、いくつか感じたことを述べておきたい。
まず、緑の党などの源流が1968年の運動であるということが印象づけられた。日本において、1968年の運動は、全共闘運動に加わったという猪瀬直樹などのように、サブカルの出現を除いて、体制に包摂されたという傾向が強いといえる。西ドイツの場合、やはり政治的には挫折したといえるのだが、「70年代に発生した、対抗文化を展開する運動。現体制を否定するだけでなく、それを越えてオルタナティブな社会、文化を対置しようとした」オルタナティブ運動へとつながっていったことが違うといえる。そして、このオルタナティブ運動を前提として、政治的オルタナティブ運動が展開していったといえよう。いわば、単に、現体制を否定するだけでなく、「オルタナティブな社会、文化を対置する」ということがやはり必要なのだといえる。
他方で、いわゆるエコロジー派である「緑」と、新左翼的な「赤」との間の亀裂は、そう簡単に埋められなかったことも印象に強く残った。西田氏は、一時期西ベルリンの緑の党支部がネオナチの浸透作戦を受け右翼化したことがあったと述べている。エコロジー派は農村が中心で、一部に保守層が含まれているといえよう。対局には、共産主義(といっても中国共産主義の影響が強いのであるが)的な新左翼が存在していたのである。この両者の亀裂をうめることは、そう簡単ではなかった。
結局のところ、新左翼の影響の強い大都市では、「多色のリスト」「オルタナティブ・リスト」という形で議員候補者名簿を共有するという形で、議席獲得がはかられていくことになる。このようなことは、日本においても一つの課題になるのではないかと思うのである。
神戸大学の西田慎です。当日の歴史学研究会大会での報告がどのように受容されたのかをブログ検索していたところ貴サイトに到達した次第です。私の当日の報告を非常に的確にまとめていただきありがとうございます。私としては結局、日独の1968年運動の差が今日の日独の到達点の差を招いたのではと一貫して考えております。脱原発にしても、緑の党にしても、オルタナティヴ運動にしてもそうです。
また拙稿「反原発運動から緑の党へ-ハンブルグを例に」(若尾祐司・本田宏編『反核から脱原発へ-ドイツとヨーロッパ諸国の選択』、昭和堂、2012年)も読んでいただいたそうでありがとうございます。拙著『ドイツ・エコロジー政党の誕生-「六八年運動」から緑の党へ』(昭和堂、2009年)では、こうした日独の1968年運動の差や、なぜ日本では緑の党のようなオルタナティヴ政党が定着しなかったのかという点にまで踏み込んで考察しております。こちらの方もぜひご一読いただければ幸いです。
ご報告は非常に興味深くお聞きしました。午後、特設部会に出ており、討論に参加できなかったことを残念に思います。貴著も機会をみてお読みしたいと思います。