さて、前回のブログで、研究炉・商用炉設置計画も含めて日本原子力研究所が茨城県東海村に設置されるに至ったことをみてきた。その際、最終的に重要な条件となったことは、放射能汚染問題であり、周囲の住宅・工場・農地・森林などとの相関関係や汚染水をー化学処理・希釈して後のことであるがー外海に放流可能であることが考慮された。
このことは、放射性物質のリスクを考慮すると、原発を含めた原子炉を人口・生産活動が集中している大都市周辺や海に面していない内陸部に建設することが忌避されていくことを示している。そして、大規模な原子炉である原発は、過疎地の沿海部に建設されていくことになるのである。
他方で、研究者たちは、少なくとも研究炉は東京に近いことを希望していた。『原子力委員会月報』第1巻第1号(1956年5月発刊)によれば、日本原子力研究所土地選定委員会は次のように原子炉の立地条件としてあげている。
1.なるべく東京に近いこと。
研究者が喜んで研究に入り得るということと、研究センターとして東京及びその附近の大学、各研究所との施設の共同使用という点から、東京より2時間以内で到達できるという点を重視する。
これが比較的に東京に近い神奈川県武山が研究炉の候補地とされた理由であった。結局、米軍が使用しており、返還されるならば海上自衛隊用に使いたいという内閣の意向もあって、結局武山への立地は断念され、すべて東海村に集約されていくのである。
つまり、研究炉の立地については、ある意味で矛盾する条件が課せられていたのであった。原子炉一般は、放射性物質によるリスクを考慮して過疎地に置くべきであるとされていたが、研究者の側からいえば、研究者の拠点である大都市近傍にあることが望ましい。後者の条件は、新幹線・空港・高速道路などの高速交通システムが整備される以前においては、特に切実な問題であった。
このような矛盾は、第二号研究炉として建設が予定された関西研究用原子炉の立地過程で強く表現されている。1956年1月に発足した原子力委員会は、9月に原子力開発長期基本計画を策定し、その中で京都大学・大阪大学が共同利用する研究炉を設置することを定めた。その候補地となったのが、京都府宇治市であった。つまり、大都市中心部ではないが、かなり近いところに研究炉を作ることが予定されたのである。この地には元々陸軍の火薬製造所があり、当時には京都大学のキャンパスが所在するようになっていた。設置予定個所の詳細はよくわからないが、JR京都線黄檗駅近くに現存する京都大学のキャンパス近辺であったと思われる。とりあえず、周辺の地図を示しておこう。
この関西研究原子炉を宇治に建設するという計画が持ち上がって、建設反対運動が惹起された。東海村その他、1956年における日本原子力研究所の敷地選定の候補地においては、誘致運動こそあれ、反対運動があったことは伝えられていないので、この建設反対運動が、今のところ、日本最初の原子炉建設反対運動といえる。ある意味では、現在の脱原発・反原発運動の源流ともいえる運動であろう。
この宇治研究炉建設問題については、1957年2月21日に開会された衆議院科学技術振興対策特別委員会で、反対運動の当事者たちが参考人として発言しており、そこから状況がうかがえるのである。この中で、特に注目されるのは、宇治原子炉設置反対期成同盟幹事川上美貞の発言である。川上を中心にして、宇治原子炉建設反対運動のありようをみておこう。
川上は、自分自身をこのように紹介している。
私はただいま御紹介をいただきました宇治に住んでおる川上美貞であります。私は現在宇治市の東宇治町木幡に住んでおりまして、お茶の製造、栽培をやり、またお茶の商いをもやっておる者でございます。今度宇治に設置せられるところの原子炉から最短距離五百メートルくらいの所に住んでおりまして、そしてお茶の工場を持ち、またお茶の販売にも従事しておるわけであります。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/026/0068/02602210068005a.html
川上は、自分自身を茶の製造販売業者であるとしている。周知のことと思われるが、宇治は日本で有数の茶の生産地であり、そこで生産されている茶は「宇治茶」とよばれ、ブランドになっている。
では、川上の居住している木幡とはどこか。ここでも地図を示しておこう。原子炉建設地と思われる地域から北側に所在している。
川上は、運動が始まった経過を述べた後ー興味深いが、ここでは割愛するー原子炉建設に反対する理由を逐一述べていく。川上は、1月25日に宇治市の主催で開かれた説明会において、京都大学の研究者たちが「一応設備のいかんによっては心配はないというお説であった」としながら、このように指摘した。
われわれは何がゆえに不安全であると感じるか、これはほかでもございません。それは十分の施設をすれば安全であるには違いない。しかしながら、一方には不安全であるというお説もある。そうして不安全であった場合には、確かに危ない。しかも、大阪、神戸のような大都市を下流に控えておる水源地である。その意味において、なかなかこれはゆゆしい問題である。しかも、安全であり不安全であるということは対々であるとしても、何がゆえに私は不安に思うかといえば、ほかでもない、当初先生方は何とおっしゃるかというと、地震、水害ということに重きを置かれるが、私は地震や水害よりは、なおかつ人の落度というものがあるだろうと思う。ことに科学というものは、一つを研究し、失敗してはまた進んで、そうして研究を完成する。この段階において、おそらく失敗ということがたびたび繰り返されるものであろうと思うのであります。未知の世界を研究するにおいて、初めからたんたんとして成功いちずにいくというようなことは、ほとんど想像することもできないと存じます。その意味において、水害だとか、あるいは地震だとか、先生方の言われること以外に、大きな問題が残されておるのじゃないか。何がゆえに私はそういうことを言うかというと、あの建物は、以前は火薬製造所であったのであります。私が過去四十五年向うに住んでおる間に、火薬製造所の大爆発が二回、小爆発が二回ありましたが、この四回ともいずれも人の手落ちであったのでございます。
地震や水害という天災よりも、ヒューマンエラーによる人災の可能性をここでは提起しているのである。その論拠として、原子炉建設地の前身である陸軍火薬製造所の事故をあげているのである。その上で、川上は、このように主張している。
私は、五年ぐらい前にあの火薬製造所が復活するという問題が起ったときに、大反対したのであります。何がゆえに反対したか、これは国家存亡の場合ならいざ知らず、もう日本も軍備がなくなって、火薬なんかは緊急な必要でないときに、あの市中になった伏見や宇治に隣接しているところに火薬製造所を引っぱってくる必要はないと思うたから、宇治市の市内全体で七千名ほどの署名をとって反対をやったんであります。これは火薬製造所の場合でありますが、これは四回とも人の落度でございます。だから、科学者におかれても、十分の設備とまた細心の注意をせられても、ここに落度がないということは、私は言い得ないと思う。それがために私はやはり心配になって困る、たまらないのでございます。
さらに、川上は、反対の理由をこのように述べている。
そういうわけで、今度置かれるところは宇治川の上流であって、下流には六百万といい、あるいは八百万という大都市を控えている。水というものは、赤ん坊から年寄りに至るまで一日も半日も欠くべからざるものである、その意味において事が重大である、そういう工合に感じるのでございます。われわれも地元で井戸を使い、また水道を使っているから、非常に関心は深いのであります。その以上に、私は地元においてお茶の栽培をやりお茶の製造をもやっておりますから、このお茶に汚染をするようなことがありとしたら、おそらく宇治茶の需要は半減するんじゃないかと私は想像するのであります。この間も、私どもは東京にも三十軒余り問屋さんのお得意を持っておりますが、私の方の店の者が東京へ来て、あんた方宇治に原子炉ができて、そしてこれが運営せられるようになったら、宇治の茶を買われるかと尋ねたところが、二十五人まで、そういうところの茶は買わなくても、茶というものには不自由がないから買わないということを言われるにおいては、われわれはこれは安閑としていられないということがはっきりと認識できるのであります。
すでに、放射性物質による水道・お茶の汚染が懸念されていたのである。加えて、原子炉立地地域のお茶を買い控えるという意味での「風評被害」が問題とされてもいたのだ。
その上で、川上は、このように論じている。
しかしながら、この原子炉なるものも宇治に置かなかったら絶対置く場所がないというならば別として、宇治でなくともほかでもできる原子炉でないかということは、われわれしろうとの常識においても考えられることであろうと存ずるのでございます。おそらくこれは宇治ということをきめて、まず第一候補地ときめて既成事実ができ上っているから宇治にこだわられるけれども、私はそういうことではいかぬのじゃないかと存ずるのでございます。
川上によれば、このような考えを前提にして、原子炉反対期成同盟を結成したとしている。
そうして、まだあまり長い話じゃないのですが、われわれ地元が先日も公民館へ寄りまして、宇治の原子炉反対期成同盟というのを作ったのでございます。それで、何がゆえにそういうことをしたかと申しますと、宇治の池本市長も市会の方もきわめて事が重大だと見ておりながら、市会なんかも何ら働いておりません。私は先日大阪の市会の事務局をたずねて、大阪の市会の御意見を聞いてみますと、非常に強い意味において反対の気分を持っておるということをおっしゃられました。このことはもっともであった、その背後には六百万の市民がおるということから見まして、私は、万一の場合のことを思っても、強い反対を示されるということは当然のことであろうと存じたのであります。私は、先日宇治の市会議長にさるところで会うて、お話を聞いたら、なに宇治みたいな小さいところの市会がそんなにやいやい言わぬでも、大阪がやってくれるじゃないか、あなた方の希望通りになるよ、そういう実に心もとないことを言われるにおいては、われわれははなはだ寒心にたえないものでございます。その意味において、私どもはこのわれわれの地区に、小さい地区でございますが、宇治の原子力反対期成同盟というものを作ったのでございます。この期成同盟を作った趣意は、こういう意味において、期成同盟を作って強く推進していこうじゃないかというのです。
川上は、原子力基本法に定めた原子力三原則をもとに、宇治に原子炉を設置することを次のように批判する。その意味で、原子力三原則は、政府が原子力政策を強行した場合の歯止めをなしていたといえるのである。
最初に、原子の三原則には、原子は公開であり、民主的であるということを承わっておるが、初めこの宇治にきめるということは、ほとんど天下り式にきめられたようで、それまで何ら公開の席でわれわれは聞かされたんでなかったのであります。かような重大なる炉の設置を、既成事実を先に作ってしまって、そうして押しつけるようなことをするということは、民主主義に反するのもはなはだしいものではないかと私は信ずるのであります。
そして、川上は、自分が木幡地域の世論を担っていることをこのように表現している。
その意味において、私は宇治原子炉反対期成同盟の結成をしたわけでございます。それで、先日もわれわれはここに署名をとりましたら、木幡の住民は二千二、三百でございますが、およそ、小さい者以外に千五百の署名がわずか三日かそこらの間にここにちゃんとまとまったのでございますから、いかに地元の者は火薬にこり、また今度原子炉に驚かされるかということを心配しておることは、これをもってもわかると思います。そうして私は商人でありますから、かつて旅行をするときに、人から送ってもろうたようなことはございませんが、昨日木幡の駅を出るときには、いなかの駅には、珍しく七、八十人の人が、女もまた男も見送ってくれて、わしがカバンを持ってやろうというようなことで、私は出発して、全く感激したのでございます。その意味において原子炉が宇治にできるということになれば、この大阪六百万の人心の不安、またわれわれ宇治の茶業に携わる者、お茶を扱う人の非常な不安というものを思うと、政治に携わるこの委員会の先生方にも深甚の御考慮を願って、私は善処をしていただきたいと存ずるものでございます。
この日の委員会においては、宇治川の下流にあたる大阪府の府会議長大橋治房も参考人として陳述し、原子炉を人口稠密地の近くや水道の水源地に設置すべきではないとして、反対の意思表示をした。また、そもそも原子力開発を講和条約発効直後から主張していた大阪大学伏見康治教授も、宇治原子炉設置立案にかかわっていたにもかかわらず、絶対安全とはいいきれない主張した。ある意味では、住民の不安にそった意見であるが、武谷三男は、大阪大学において、宇治では大阪大学から遠すぎるという感情があったのではないかと観測している。
結局、宇治設置は取りやめとなった。その後、大阪府高槻市、大阪府交野町、大阪府四條畷町などが関西研究用原子炉設置の候補地となるが、そのたびに激しい反対運動が置き、取りやめになっていく。そのうちに、福井県に研究炉を設置するという案も出た。研究炉は設置されなかったが、このことが、福井県の原発誘致の前提となっていくのである。そして、研究炉自体は、1960年、大阪府熊取町に設置が決定された。これが、小出裕章氏らが所属する京都大学原子炉実験場となっていくのである。これらの過程については、別の機会にそれぞれ詳述しておきたい。
このように、原子炉ー原発の放射性物質による汚染というリスクは、すでに1950年代後半の大都市周辺住民において強く意識され、反対運動が生まれるにいたったのである。例えば、大阪府熊取町のように、小規模の研究炉を大都市周辺に建設することはその後もあったが、大規模な原子炉である原発を大都市周辺部に建設することは、たえてなかった。そのことの一因として、宇治を先駆けとして行われた関西研究用原子炉建設反対運動の存在があるのではないかと考えられるのである。
川上美貞は私の実の祖父です。祖父は40年以上前に亡くなり、3/11の後叔母が教えてくれるまで、こんな事があり、まして祖父が反対運動のリーダーとして国会まで行ったなんて、全く知りませんでした。半世紀以上前のことでもあり、今地元でこの事を覚えている人はほとんどおらず、叔母も先月亡くなり、この貴重な体験が記録されることもなくこのまま風化していってしまうのか、自分に何かできることはないのか、日々悩んでいます。。関電への抗議行動に参加、素人の集団がプロ相手に闘い勝利したこの運動はまさに「脱原発」の原点やったんやという思いがますます深くなりました。
脱原発運動の源流となった方の御子孫からコメントをいただき、感激しております。この記事の執筆時期には知らなかったのですが、樫本喜一という方が「宇治原子炉設置反対運動の考察ー原子力研究開発最初期における住民運動」(『大阪民衆史研究』第57号、2005年)という論文を書いており、『宇治市議会定例会会議録』『京都新聞』『洛南タイムズ』などを典拠にして、運動の経過を分析されています。ただ、私が典拠とした国会会議録はあつかっていないようです。宇治を皮切りにした関西研究用原子炉反対運動については、樫本氏が検討を加えています。この運動は、物理学者武谷三男の原子力に対する懸念を最初に表明する契機となり、さらに都市部で原発を建設しない前提となったこともあり(その結果、関電は福井県に原発を建設します)、原発の歴史にとって重要なものだったと思います。
早速の返信こちらこそ感謝しております。私にとってはただのおじいちゃん、本人もまさか死後時を経て「脱原発運動の源流」と言われるとは夢にも思っていなかったでしょう。樫本氏の論文は入手済み、宇治断念後熊取に落ち着くまでの経緯を記した「関西原子炉物語」(絶版・推進した側からの回想録)も読みました。しかし一般の人が読めるような形での宇治の運動の記録は残っていないようです。本でも小冊子でもいいので何とか記録を残したい、京都に於ける最大の反原発運動だった関電久美浜原発問題と併せて本を作れないか、協力してくれる人はないか、現在色々やっていますが、プロの方に相談したところ「やはりあなたがまずハラをくくって」やらないと諭されました。ずぶの素人の私にそんな重責は担えないと思いつつ、祖父も一介のお茶屋の「番頭」さんやったのにお国や京大の先生方を向こうに回して闘ったんやから、そんなへたれたこと言うてたらおじいちゃんに怒られるかな、なんて思ったり、無理無理と思いつつ「京都には原子力はいらん!」てタイトルだけは浮かんできたり。武谷先生やその後の運動や「原子力施設は過疎地に」という流れに影響を与えたというご指摘についても、なるほど現時点からふりかえるとそういう意義があったんやと、気づかせていただきました。本当にありがとうございます。
宇治の運動についてまとまる計画をお持ちとのこと、感激しております。今まで、あまり脱原発運動の歴史についてまとまった著作はありません。わたしなども、福島の原発のことで書きたいと考えております。その中で、この運動のこともとりあげる(もちろん部分的ですが)ことを検討しています。これからも、よろしく、ご教示お願いします。
東海村では反対がなかったということに思いが及んでいませんでした。そうすると確かに宇治での反対運動が日本初ということになるわけですね。宇治の次の候補地であった茨木では実際に運動された方がご存命でこの5月に「日本初の反原発運動を振り返る」主旨の展示をしておられること、鳥取県で長らく活動されてきた土井淑平さんという方が鳥取から京都(久美浜)にいたる地域でいくつも原発建設を差し止めたことを記録しようと呼びかけをされていること、紀伊半島には一機も原発がないことに関しては4冊も記録集が既に出ていることなどが、この間に判明しました。しかし宇治での件は記憶している人が皆無に等しい、一緒に事実の調査発掘をしようと言ってくれる人がいない状況で、なかなか苦しいところです。何の科学的知識もない素人が科学の先端を行く研究者の集団に果敢に挑戦し勝利を収めたと言う意味でも、宇治の運動の記憶を風化させてはならないと思いつつ、現実はなかなか厳しいです。福島での事故、福井での再稼働という新たな展開の中で、今この時に過去を語ることの意義はどこにあるのか、そのことをまず考えなくてはと思い、この頃は原子力、原発建設、科学技術の社会に対する責任といったことについて、基本的なことについてまず理解しようと勉強中です。こちらこそ、また色々とご教示お願いいたします。
オクニシさま:わたしの実家は現在、木幡の檜尾にありますが、母も82歳で少々ぼけ始めてます。調査するなら急がなきゃいけませんね。埼玉に居住しているので、現地調査などは難しいですが、弟が宇治で小学校の先生をしているので、今度、話をしてみようかと思っています。
わたしは木幡駅の近くで1957年1月に生まれ、幼稚園も中学も、黄檗の京大宇治キャンパスに隣接してました。それなのに、宇治キャンパスに原子炉を持って来る計画があったなんて、初めて知りました。今度帰省したら、少し調べてみようと思います。
ただ、京大の宇治キャンパスあるいは陸上自衛隊の基地のところはやはり木幡ではなく黄檗なので、予定地となっていたのは宇治火薬製造所の木幡分工場の方ではないかと思います。

ご感想ありがとうございます。ブログを書いている時はよく知りませんでしたが、樫本喜一氏の「宇治原子炉設置反対運動の考察」(『大阪民衆史研究』57号)によりますと、宇治火薬廠の火薬庫は元の万福寺に返還され、本工場は京大木材研究所と警察予備隊基地となり、分工場が原子炉建設予定地となったそうです。ご指摘の通りだと思います。地理不案内ですみません。
なお、ある意味で関西研究用原子炉設置反対運動(宇治ばかりではなく)は、いわゆる原子力開発に対する反対運動の源流といえます。高槻原子炉設置反対運動には武谷三男も参加し、広い意味での原子力開発を批判する思想が形成されていったといえます。このことは、一方で、大都市圏で大容量の原子炉である原発が建設されることを阻止していったといえます。しかし、他方で、福島や福井などの低人口地帯に原発が建設される前提となったともいえると思っています。
香里にあった分工場も含め、東京第二陸軍造兵廠宇治製造所の全貌が公表された資料として見当たらないのでいつもいらいらしています。万福寺の地所が京阪電車より西にも広がっているとは知りませんでした。現在は京大キャンパスと陸上自衛隊ですが、一部は万福寺が貸しているのかも知れませんね。分工場の近くに、当時、うちの自家用のたんぼがあり、分工場への引込線を歩いて通っていたものです。当時を覚えているひとたちもご高齢ですし、今のうちに調査しておきたいですね。オクニシトモコさんにも協力したいです。
わが家でこの出来事を記憶していた唯一の人物である叔母が七月に他界してしまいました。宇治でもこのことを覚えている方がどんどん減っているのでは、その間に資料なども散逸していくのではと心配しています。叔母の遺品整理しながら祖父が遺したモノの中に何かのこっていないか調べたいのですが、仕事を抱えている身で思うにまかせません。樫本喜一さんの論文以上の資料はなかなかみつけにくいのではないかとも思います。「核エネルギー言説の戦後史1945-1960」という本を最近出された山本昭宏さんという方がこの件について調べたいとおっしゃっています。私は親族からのコネクションがありますので、直接連絡をとってみようと思っていますが、多田さんもよかったら宇治在住のご家族とコンタクトをとってみられたらいかがでしょうか。
そうですね。私自身も残念ながら、宇治で調査を行う余裕はありません。史料整理がなされるなら、お話のようにしていただければと思います。中嶋
わたしの父や祖父も関わっていた可能性は高いのですが、すでに他界しております。母が何か記憶しているかどうか、帰省したときに確かめたいと思っております。幸い、弟が宇治で小学校の教諭をしていますので、うまく使えたらいいなと思っています。
多田
現在宇治在住の方が昨年来この件について調査をしておられることがわかり、近々連絡を取る予定です。また私の母の実家に祖父の遺したメモの類が少しはあるようだということも最近になって分かりました。今年7月に亡くなった叔母の遺品整理のついでに私も資料探しをする予定です。また今年1月「核エネルギー言説の戦後史 1945-1960」という著書を出版された山本昭宏さんという若い研究者の方も興味を持ってくださり、ご協力いただけることになりました。なお26日に茨木阿武山(宇治の次の候補地)の反対運動関係の講演会があるとのことで、私の夫が行く予定です。それぞれ多忙な身なので、思うようには進んでいませんが、少しずつでも調べていこうと思っています。