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Archive for 2011年11月

本ブログで岩本忠夫について紹介したところ、かなり多くの人が閲覧してくれたようだ。そこで、もう少し岩本について、みておこう。

岩本は、1971年の福島県議会に、双葉郡選出の日本社会党所属県議として原発建設を批判した。そして、双葉町長としては、原発建設を推進した。3.11以後は、避難を余儀なくされながら、「東電は何をやっているんだ」と怒りつつ、認知症となり、死を迎えた。彼自身はどう思っているかわからない。しかし、外から見ていると、彼の人生は悲劇であり、ある種の挫折とみることができよう。

1968年以後、岩本だけではなく、社会党の多くの県議は原発批判を行うようになった。これは、単に、地元での反対運動の展開を受けてということではないだろう。開発中心であった1950~1960年代のあり方について見直そうとする動きの一つのあらわれではなかったかと思う。この当時の福島県議会では、公害問題がさかんに議論され、革新自治体が主張したシビル・ミニマム論が提唱され、福島大学などでの学園紛争が問題とされていた。1960年代末から1970年代初頭は、戦後社会を見直し変えていこうとすることが強く意識された時代だったと思う。反原発運動もその一翼ではなかったのではなかろうか。しかし、これらの動きの多くは挫折していった。現在、究極の公害ともいえる原発事故がおきた。革新自治体は新自由主義的自治体経営にとってかえられてきた。学生運動は挫折し、大学の管理社会化は推進され、さらには原子力「御用学者」をうんだ。

新左翼運動も挫折したものの一つといえよう。特に、テロや集団リンチで有名になってしまった赤軍派の運動は、当人たちの意図は別にして、新左翼運動の挫折の象徴となっているといえる。ウィクペディアによると、赤軍派の指導者の一人であり、現在獄中にある重信房子は、

2009年6月に、初めて産経新聞のインタビューに応じ、過去の活動について「世界を変えるといい気になっていた」と語った。一方で「運動が行き詰まったとき、武装闘争に走った。世界で学生運動が盛り上がっていたが、故郷に戻り、運動を続けたところもあった。私たちも故郷に戻って運動を続けていれば、変わった結果になったかもしれない」と自責の念にも駆られていたとも述べた。

と語っているという。なお、重信房子は主に国外で活動しており、集団リンチ殺人事件など国内での事件に関与していない。

この重信房子は、1967年に、選挙アルバイトとして岩本忠夫の県議選に関わった。この経験を、重信房子は、重信房子を支援する雑誌である『オリーブの樹』104号に掲載された獄中手記で回想している。これについては、「野次馬雑記」というブログから引用してみた。

3月16日 「東日本大震災」は今日も被害が拡大しつづけ、福島第一原発は制御不能で、4号機でも爆発との記事。岩本さんはどうしてるかな……と思わざるをえません。岩本忠夫さんは双葉町にこの原発を推進誘致した町長です。
 67年の梅の咲く頃、私は社会党県会議員に立候補した彼の「応援弁士」で走り回っていました。21歳です。少し前にあった町田の選挙で弁士をやっていたのを聴いた父の知人の岩本さんの弟が、福島での選挙を泊まり込みで手伝ってほしいと頼んできました。当時「雄弁」をやる学生にとって、選挙はとても高給アルバイトでした。
「双葉の町にも浪江の町にも春がやってまいりました。しかし父の居ない、兄の居ない、これが本当の春と言えるのでしょうか⁉」などと、出稼ぎ問題を問い、地域で住民が働ける街づくりを私も訴えました。彼は出稼ぎ問題解消や葉たばこ共闘会議議長で、30代後半か。はつらつと反自民で闘っていました。
 当時私が驚いたのは、山間で切々と演説していると、わざわざ50メートルくらいの道まで家から出てきて、「すまないけど、もう自民党から○円もらったから。票は入れられないから」と、わざわざ断りにくるのです。票読みはまったく外れないし、「政治」より「選挙」の保守王国ぶりにびっくり。東京人は「選挙」に無関心だったので。こうした中、「地元の青年が地元で暮らして豊かになる道」を訴え、落選しつつ考えていた岩本さん。
 ある日、アラブで、日本の雑誌を読んでいて、あの岩本さんが双葉町長になり、原発町長になっている記事を見てびっくり。街と暮らし住んでいる人々の幸せと豊かさを求めたのでしょう。原発に絶対大丈夫は歴史上にもない。「想定」は企業の都合で、「想定」を越えた時を想定することができず、被害者は住民。岩本さん生きていたら、何を考えているだろう。まず根源的に生活、暮らしの豊かさが問い返されています。原発を必要とする世界はいらない!(中略)
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/meidai1970/comment/20110422/1303477268より

一応ことわっていかねばならないが、赤軍派の結成は1969年である。1967年の重信房子は、明治大学生の一介のアルバイターとしていったのである。

この回想で、重信房子は、1967年の県議候補だった岩本忠夫をいきいきと描いている。「『双葉の町にも浪江の町にも春がやってまいりました。しかし父の居ない、兄の居ない、これが本当の春と言えるのでしょうか⁉』などと、出稼ぎ問題を問い、地域で住民が働ける街づくりを私も訴えました。彼は出稼ぎ問題解消や葉たばこ共闘会議議長で、30代後半か。はつらつと反自民で闘っていました」というくだりは特にそうである。もちろん、当時の重信はアルバイターでしかないのだが、彼女自身が当時の岩本に共感していたことがわかる。もちろん、現在の彼女は反原発を指向しており、原発推進の双葉町長となった岩本にはびっくりしているのだが、それでも「街と暮らし住んでいる人々の幸せと豊かさを求めたのでしょう。」と彼の意向を忖度している。そして、「岩本さんはどうしてるかな……と思わざるをえません。」と、3.11の際に岩本の消息を気遣っている。

そう、岩本に対してではないが、私も3,11には、この地域の知人たちの消息を気遣ったものである。そして、何も現実的にはできない。そのもどかしさが、このブログを書き連ねる原動力の一つとなっている。

重信房子と岩本忠夫、現在、一人は獄中にある。もう一人は原発推進の双葉町長として生き、そして死んだ。彼ら二人の現在の立場は全く違う。しかし、彼らは、1960年代末には接点があった。そして、両者の営為について、現在では評価することは難しいだろう。たぶん、どちらも、1960年代末から1970年代に抱いた思いを実現できないでいるといえる。その意味で、この二人の生を重ね合わせることはできるだろう。そして、私たちは問わなくてはならないのだ。1960年代末から1970年代初頭に抱いた戦後社会への懐疑、そして、日本社会を変えていこうという思いを封印して、私たちは今何を得たのかと。これは、原発問題だけには限らないのである。

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さて、前回は、1960年11月29日に原発受け入れ方針を福島県知事佐藤善一郎が表明したことをみていた。これに対し、福島県議会はどのように対応したのであろうか。

前々回のブログで前双葉町長岩本忠夫が、1971年に日本社会党所属の県議会議員として登場し、原発建設批判を行ったことを述べた。それからみると、日本社会党などが原発建設に反対し、自民党などが賛成していたように想定されるかもしれない。

しかし、全く違うのである。1960年半ばまでの福島県議会では、原発建設をほとんどが歓迎していたのだ。その一例として、原発建設受け入れ方針が表明された1960年11月29日直後の、12月13日の福島県議会における、山村基の発言をみておこう。

 

質問の第一番目は、原子力発電所誘致問題でございますが、質問に入る前に、本問題についての知事のとられた労苦に対してはまことに多としております。のみならず、今後大いに期待し、希望し、そうして来年の知事選挙には、なおかつ佐藤知事がまた県政を担当していただくことが双葉郡民の大体における希望じゃないかということを申し伝えておきます。

単純化すれば、佐藤知事の原発建設受け入れ方針の表明をもろ手をあげて歓迎し、双葉郡民は佐藤知事の再選を支持するであろうと山村は述べたのである。

その上で、山村は、楢葉町龍田海岸、浪江町幾世橋海岸などをあげて、双葉郡には大熊町以外にも適地があるとした。なお、この両地点は、その後発表された福島第二原発、計画された浪江・小高原発の建設地点と重なる。そして、山村は、このようにいったのである。

こうした双葉郡、相馬郡にわたって原子発電所のまことにいい条件のところが少なくとも三カ所はございます。聞くところによれば、東京電力、それから東北電力と双方で発電所を作るというような話でございますけれども、そうだといたしましたならば、二カ所の土地というものが設定されるだろうと思いますが、県はこの土地に調査を進めてみるお考えがあるかどうかお尋ねしたいと思います。

東北電力が原発立地を進めているという話を前提に、県も調査をすすめるつもりがあるかを聞いているのである。いわば、もっと原発誘致を進めてほしいと、暗に訴えているといえよう。

この山村の質問に対し、佐藤善一郎知事は、このように答えている。

 

原子力発電所につきましては、その実現について調査研究を進めている段階でございます。本県でも現在その立地条件を検討中でございます。私は双葉郡、これは率直に申し上げまして本県の後進郡だと申し上げてよろしいと思うのであります。従って、ここの開発につきましては、いろいろと皆様とともに考えておりまして、最も新しい産業をこの地に持っていきたいと考えております。

つまりは、現在、原発立地のため調査を続けているとし、県内でも後進地域であるため、新しい産業を誘致したいと知事は答えているのである。単に、電源開発だけではなく、後進地域とされる双葉郡に新しい産業を誘致することー一応、原発誘致における、福島県側の建前を知事は述べているのである。県議会では、原発誘致に反対する声はなかった。全体としては、福島県議会は、原発誘致を認めていたといえるであろう。

さて、この山村基は、どのような人物だったのだろうか。山村の議論全体は、双葉郡を代表してされており、たぶん双葉郡選出の県議会議員であったことがわかる。また、県知事は山村が医者であることに言及している。さらに、自民党の大井川正巳は「もっとあの避難港を促進させるとするならば、やはり、血は水よりも濃いというたとえの通り、山村議員がわが党に入党して、そして大幅に自民党現政府から予算獲得するということが一番手近でありますので、この際考えていただきたい」と述べているので、保守系無所属であると考えていた。

しかし、調査を続けていくうちに、興味深いことが判明した。『福島県議会史』昭和編第六巻(1976年)に1959年4月23日に執行した県議選当選者一覧が掲載されているが、それによると、山村基は双葉郡浪江町出身で「日本社会党所属」であったことがわかる。山村は、少なくとも一度は社会党に所属していたのだ。

ただ、山村の発言には、ほとんど社会党らしさは感じない。良くも悪くも双葉郡の利益代表という印象がある。後に「無所属クラブ」という会派に入っていることがわかるので、すでに日本社会党を脱党していたのかもしれない。

いずれにせよ、前述したように、他の議員から原発誘致を批判する発言はなかった。県議会で、原発誘致の問題点を検証する営為はみられず、「後進地域」とされる双葉郡の発展を期待する、地元出身の山村基により原発誘致を認め、推進していく発言がなされたのであった。なお、正直にいえば、他地域選出の県議会議員たちは、この時期においては、概して原発誘致についてあまり個人的な関心をもっていない様子がうかがえる。結局、双葉郡を中心とした「開発」幻想の中で、佐藤善一郎の原発誘致方針は県議会の中で認められていくのである。

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さて、再び、1960年代の福島県をみてみよう。福島県で正式に原発受け入れ方針を表明したのは、1960年である。もう一度、『東京電力三十年史』(1983年)をみてみよう。

 福島県の双葉郡は六町二か村からなり、南の小名浜地区は良港や工業地帯をもち、また北の相馬地区は観光資源のほか、小規模ながら工場もあるのに対し、双葉郡町村は特段の産業もなく、農業主導型で人口減少の続く過疎化地区であった。したがって、県、町当局者は、地域振興の見地から工業立地の構想を熱心に模索し、大熊町では三十二年には大学に依頼して地域開発に関する総合調査を実施していた。 
 こうした地域事情を勘案しつつ、当時の佐藤善一郎福島県知事は、原子力の平和利用に熱意を示し、三十三年には、商工労働部開発課に命じて原子力発電の可能性に関する調査研究を開始するとともに、三十五年には日本原子力産業会議に入会、企画開発担当部門のスタッフにより、県独自の立場から双葉郡内数か所の適地について原子力発電所の誘致を検討していた。そのうち大熊町と双葉町の境にあり、太平洋に面する海岸段丘上の旧陸軍航空隊基地で、戦後は一時製塩事業が行われていた平坦地約一九〇万平方メートルの地域を最有力地点として誘致する案を立て、当社に対し意向を打診してきた。
 当社は、前述の検討経緯もあり、三十五年八月、大熊町と双葉町にまたがる広範な区域を確保する方針を固め、県知事に対し斡旋方を申し入れた。知事は、この申入れをきわめて積極的に受け止め、同年十一月には原子力発電所誘致計画を発表した。
 このように、当社が原子力発電所の立地に着眼する以前から、福島県浜通りの未開発地域を工業立地地域として開発しようとの県、町当局の青写真ができており、この先見性こそ、その後の福島原子力にかかわる立地問題を円滑に進めることができた大きな理由といえよう。

このように、東京電力は、自身でも候補地選定を行いつつも、いわば工業立地による双葉郡の開発をめざした、福島県側の積極的な働きによって、福島第一原発建設を決めたとしている。

福島県企画開発部開発課長であった横須賀正雄も「東電・福島原子力発電所の用地交渉報告」(『用地補償実務例』(Ⅰ) 1968年)でこのように語っている。

 

さきに水力、火力発電に努力してきた本県では、さらに原子力利用による発電事業が、本県内で実施できるかどうかを調査することとし、昭和35年にこれを実施した。
 福島県の海岸線は、南部の小名浜地区、北部の相馬地区を除くとほとんど単調な海岸が南北に連なり、漁業の発展も比較的少ない。この海岸線に着目し、特に中央の双葉郡の海岸線を利用した発電所の建設が可能かどうかを調査した。県内でも双葉郡は別表のとおり産業活動がおくれ、人口も少なく、しかも海岸線は大体海面から30m程度の断崖になっている所が多く、適地がいくつかあることがわかったのでその調査書を作成した。
 調査を行った地点は、双葉郡の大熊町と双葉町にまたがる地点、双葉町、浪江町、この3地点を選び、その地点についての気象条件、気象状況、人口の分布状況、あるいは土地の形態、地目等を調査し、1冊の調査書を作成し、東京電力、東北電力、あるいは電子力産業会議(原子力産業会議の間違いであろう)等に話を持ち込み、検討を願ったのである。
 この結果、東京電力としては内々に原子力発電所建設を意図していたらしく、私どもが提出した資料では、まだ不十分な点があるということから、さらに幾つかの調査を東電から依頼された。当時、福島県では財団法人福島県開発公社を設置してあったために、以後の調査等については、この開発公社に依頼し、調査が進められた。その結果、原子力発電所建設地としては十分耐えられるという評価が出されたので、東京電力では、この場所(大熊町)に原子力発電所を建設しようとする意向がほぼ内定したわけである。

横須賀も、福島県側の積極的な働きかけによって福島第一原発の立地が決められたとしている。重要なことは、現在福島第一原発のある大熊町・双葉町だけではなく、より北方の双葉町、浪江町も候補地とされていたことである。さらに働きかけは、東京電力だけではなく、東北電力や日本原子力産業会議にもされていたことである。福島第一原発誘致と同時に他の原発も誘致されていたのである。そして、東北電力による福島県浜通りの原発建設計画は、1968年に浪江・小高原発建設計画として具体化されるが、すでにこの時期から、このことは進行していたのだ。

そして、福島県知事は1960年11月29日に、原発建設を受け入れ方針を正式に表明した。1960年11月30日付読売新聞朝刊は、次のように伝えている。

福島に原子力センター計画 東電が発電所建設へ

【福島発】東京電力はこのほど福島県夫沢地内旧陸軍飛行場と隣接海岸の旧塩田跡に営業用原子力発電所を建設するため地下水ゆう水量を測定するボーリング調査を行いたいと申し入れていたが、二十九日開かれた福島県開発公社第二回理事会(理事長、佐藤善一郎福島県知事)でこの調査を同公社が引き受けることを決めた。調査は来年五月までに終わるが、有望な水脈が確認されれば九電力会社による日本で初めての営業用原子力発電所が福島県に建設される公算が大きい。

 佐藤知事の話では旧飛行場跡と旧塩田を合わせて約三百三十万平方メートルもあり、海岸沿いであることから立地条件は茨城県東海村をしのぐほどで、東京電力は遅くとも十年後に百万キロワットの出力を持つ原子力発電所を設置する意向だという。

一方東北電力も東京電力の建設地の北隣に三十万キロワットの出力を持つ原子力建設計画を進め両社の話し合いは同知事のあっせんでついているので、これが実現すれば茨城県東海村の東海原子力センターにつづいて新しい東北原子力センターが生まれる見込みである。

この記事では、東電の建設計画を福島県が受け入れた形になっている。しかし、東電、福島県双方の記述とも、原発誘致における福島県側の積極的な働きかけを伝えている。その意味で、正式な発表では、福島県側の働きかけは隠蔽されたといえる。

他方、重要なことは、この記事でも福島第一原子力発電所の北側に東北電力が原発を建設する計画があることを伝えている。そして、二つの原発を建設することで、この地域を東海村に比肩する「原子力センター」とすることがうたわれている。後述するが、福島県としては、東電だけではなく、福島県内に電力を供給できる東北電力もこの地域で原発建設を行い、この地域を「原子力センター」とすることを要望したのである。

そして、この方針発表の場が「福島県開発公社」で行われたことにも注目したい。この公社は、調査だけでなく土地買収なども担当していくのである。

この福島県の対応につき、県議会はどのように反応したのか。次回以降みていきたい。

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2011年7月17日付朝日新聞朝刊に、次のような小さな記事が掲載された。

元福島県双葉町長の岩本忠夫さん死去
2011年7月16日20時40分
 
岩本 忠夫さん(いわもと・ただお=元福島県双葉町長)が15日、慢性腎不全で死去、82歳。葬儀は17日午前11時から福島市宮町5の19の福島斎場で。喪主は長男久人さん。

 1985年から町長を5期務めた。社会党の県議時代は原発に反対したが、84年に離党後、推進に転じた。全国原子力発電所所在市町村協議会副会長などを歴任。東日本大震災後は福島市内に避難していた。
(典拠はhttp://www.asahi.com/obituaries/update/0716/TKY201107160529.htmlより)

この岩本忠夫という人物は、この記事にあるように、1970年代は日本社会党所属の県議として原発建設に反対したが、1985年以降は、双葉町長として原発建設を推進していた。最近、福島県議会における原発問題の議論を調査していて、岩本忠夫に注目するようになったのだが、3.11時点まで存命していたことを、つい最近知った。

岩本忠夫は、福島第一原発事故について、どのように思ったのであろうか。その疑問に答えた記事が2011年8月25日付の毎日新聞朝刊に掲載されている。なお、この記事は「この国と原発⑥ 第一部 翻弄される自治体」の一部である。なお、引用は、http://petapeta.tumblr.com/post/9369888334/7-15-5より行った。

7月15日午前5時。岩本忠夫・前福島県双葉町長は福島市の病院で、付き添っていた長男の双葉町議、久人さん(54)に見守られ、静かに息を引き取った。82歳。原発事故の避難生活で急速に衰え、入院後の40日間は会話もできなかった。
 「本当は何か言いたかったんじゃないかな。話してほしかった」と久人さんは言う。
 岩本氏は85年12月に町長に初当選し、05年まで5期20年務めた。町内には東京電力福島第1原発5、6号機があるが、財政難を背景に7、8号機の増設を求める原発推進派の筆頭格だった。
 一方、町長になる前は社会党(当時)県議や「双葉地方原発反対同盟」委員長として、反原発の先頭に立った。県議時代の74年、電源3法の国会審議に参考人招致され「危険な原発を金で押しつける法案と解せざるを得ない」と述べた。
 原発と戦い、信じ、最後に裏切られた岩本氏。人生の軌跡を追うと、原発に翻弄(ほんろう)され続けてきた自治体の姿が浮かび上がる。
 ◇作業員被ばくを追及
 双葉町に生まれ、青年団活動を経て社会党員となった。71年4月、県議に初当選。原発作業員の被ばくや放射性廃液漏れなどを厳しく追及し、質問に立つ時は「東電幹部社員が傍聴席を埋めた」(本人の手記)という。
  反対運動の組織化にも熱心だった。原発建設に携わった建設会社幹部の男性(69)は活動ぶりを覚えている。「第1原発の正門前に10人ほどで集まり、旗を 振って原発反対を訴えていた」。作業員に労働組合を結成させようと、仲間と現場に乗り込んできたこともある。「俺の弟が猟銃の空砲を撃って追い返した よ」。だが、男性は後の町長選で岩本氏を支援することになる。
 県議になった時、既に第1原発1号機が運転を始めていた。地元は潤い、反対運動は広がりを欠いた。その後3回県議選に出たが当選できず、スタンスは変わっていく。
  当時、社会党の地元支部書記長だった古市三久県議(62)=民主=によると、岩本氏は82年に反対同盟を辞め、最後となった83年の県議選では原発反対を 言わなかった。「原発に反対し続けても票は増えなかった。東電がそれだけ根を張ってきたということ」と古市氏は言う。「根」は岩本家にも及んだ。長女と次 女が東電社員と結婚している。
 岩本氏は家業の酒販業に専念することを決意、84年には社会党も離党した。「俺はいろいろ卒業したんだ」。 そう言っていたのを元町職員は覚えている。ところが85年、下水道工事を巡る不正支出問題で町長が辞任し、政治の舞台に引き戻される。区長としての人望 や、社会党出身のクリーンな印象から町長選に担ぎ出された。保守系の票も集めて大差で当選。57歳だった。
 社会党時代からの盟友、丸添富二・元双葉町議会議長(76)は「原発は『町民が望むならば推進する』くらいにした方がいいと助言した」と話す。当選後の地元紙の取材に岩本氏は「もし町民が望むなら、増設運動を繰り広げていきたい」と語っている。
  当選直後の議会では「転向」を問う質問が相次いだ。元町職員によると、岩本氏は「反原発運動の経験を生かし、安全な原子力行政に取り組む」と答えたとい う。町長室を1階に移してガラス張りにしたり、町民と直接対話する会合を開くなど、市民運動的な理想を実現しようともした。職員にも気さくに声をかけ、慕 われた。
 だが、電源3法交付金や東電の寄付を財源に、町総合運動公園(40億円)や保健福祉施設「ヘルスケアーふたば」(16億円)など 公共事業に多額の予算を投じた。その結果、財政は急速に悪化。09年には財政破綻一歩手前の「早期健全化団体」に転落することになる。1~4号機のある隣 の大熊町への対抗意識や町民からの要望が背景にあったと、多くの町関係者は指摘する。
 91年9月には町議会が7、8号機の増設を求めて決議。当時の毎日新聞の取材に岩本氏は「企業誘致などでは追いつかない財源が得られる」と語った。
 05年町長選に岩本氏の後継者として出馬して敗れた元町議、大塚憲さん(61)は言う。「今思えば、まんまと国策にはまったんだと分かる。正常な判断ができなくなってしまうほど、カネの力、原子力政策の力は強かった」
 ◇「東電、何やってんだ」
 岩本氏は「反原発のたたかいを省みて」という手記を残した。元社会党支部書記長の古市氏によれば、79年ごろに書かれたという。
  「東電には文句をつけられない雰囲気が地域を支配しているなかでの原発反対運動はけっして安易なものではなく、原発が止まったら生活ができなくなる、こん な話が反対同盟に寄せられ、このような人達(たち)を相手に反対運動の重要なことを理解さすことはむずかしいことであった」
 24年後の03年。超党派の国会議員らによるプルトニウム平和利用推進団体「原子燃料政策研究会」の機関誌の取材にはこう答えた。
 「原子力には期待もし、そこに『大きな賭け』をしている。『間違ってはならない賭け』をこれからも続けていきたい。(中略)原子力にかける想(おも)い、それが私の70才半ばになった人生の全てみたいな感じをしているものですから」
  岩本氏は人工透析を週2回受けていたが、長男の久人さん一家と避難を強いられた。当初、南相馬市の避難所にいた頃は、ニュースを見ながら「東電、何やって んだ」と怒り、「町民のみんなに『ご苦労さん』と声をかけてやりたい」と話していたという。だが、次第に認知症の症状が表れる。3月末に福島市のアパート に移ってからは「ここはどこだ」「家に帰っぺ」と繰り返すようになっていった。
 なぜ原発推進という「賭け」に出たのか。古市氏は言う。
 「ある時は住民のために原発に反対し、ある時は町民の生活を守るために原発と共存しながら一生懸命やっていた。最後に事故になり、自ら放射能を浴び、いろんな批判をかぶって死んでいった。ただ、本心は分からない。誰にも言わず、棺おけの中に持っていってしまった」

岩本忠夫が福島県議会議員に当選した直後の1971年7月8日ー福島第一原発が営業運転を開始した直後でもあるー、県議会で初めて行った岩本の質問が『福島県議会会議録』に残されている。原発建設についてふれた部分の冒頭で、彼は、このように言っている。

 

次に地域開発について質問いたします。
 山と水と森、それは、すべての生物を生存させる自然の条件であります。地域開発は、まさにこの偉大な自然の中で、これを活用し人間の生命と生活が保護されるという状態で進められてことが大切であります。いままで現実に進められてきた開発行政は、一般住民の生活基盤の整備が放置されたままに大企業の立地条件をすべてバラ色に装飾された図式のもとで、至るところ企業の誘致合戦が展開されてきたのであります。人間が生きていくことに望ましい環境をつくり、それを保持することが今日最大の必須条件でありますが、現実にこれが尊重されず、企業本位の開発進行がなされてきたところに、人間の命が軽視される公害発生となったのであります。このことを確認する上に立って、特に後進地帯といわれる双葉方部にスポットをあてながら、さまざまな分野でお尋ねをするわけであります。

「山と水と森、それは、すべての生物を生存させる自然の条件であります。地域開発は、まさにこの偉大な自然の中で、これを活用し人間の生命と生活が保護されるという状態で進められてことが大切であります。」という冒頭の一句は、まるで『もののけ姫」を思わせる。そして、この後、岩本は、固定資産税と雇用の増加はみられるとしつつも原発を中心とした発展はどう考えるのか、欠陥農政、常磐線の複線化の遅れ、漁港未整備の中で後進地域とされた双葉地域の現状、建設予定の広野発電所の公害問題を論じていく。そして、アメリカや敦賀、東海などでの原子炉で発見された欠陥を指摘しつつ、安全確保の方策や安全対策のための特別交付税が必要でないのかと問いかけた。最後に岩本は、このように言った。

住民の負託にこたえる政治の責任を明らかにしなければなりません。火力と原発にからむ公害は絶対に起きないのか。安全性は確かであるのかどうか。双葉全住民にこたえる責任ある答弁をこの職場に求めて、私の質問を終わります。

この当時、岩本に限らないのだが、社会党議員は原発建設に反対するようになっていた。自民党の議員ですら、懸念を表明するようになっていた。ただ、岩本は、まさに地元選出の県議会議員であり、一際熱心に原発建設反対を叫んでいたのである。

その彼が、先ほどの記事の中にあるように、双葉町長時代は原発建設を推進し、「原子力には期待もし、そこに『大きな賭け』をしている。『間違ってはならない賭け』をこれからも続けていきたい。(中略)原子力にかける想(おも)い、それが私の70才半ばになった人生の全てみたいな感じをしているものですから」と語っているのである。

そして、福島第一原発事故が起きた。社会党所属の県議の時代は原発建設反対を叫び、双葉町長としては原発建設を促進した岩本忠夫は、自らも避難を余儀なくされつつ、「東電、何やってんだ」だと怒り、「町民のみんなに『ご苦労さん』と声をかけてやりたい」と話しながら、しだいに認知症となり、死を迎えたのである。

岩本の人生については、言葉もない。人は誰でも長寿を願っている。しかし、彼が長く生きて、3.11を迎えたことは、あまりにも残酷なことではなかったのだろうか。周りの人びとは、原発建設反対も推進も、住民のためにやったことと語っている。しかし、双葉町の住民は、今、どこにいるのか。岩本自身も双葉町には住めなくなった。それを了解し続けることは、彼にとってはできないことだったのだろう。そして、彼は避難先で死を迎えていく。

どうして、こうなったのだろうか。東京で入手できる『福島県議会会議録』などに依拠しながら、福島県の政治と原発について、これからみていくことにしたい。

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昨日(11月8日)、東京経済大学で韓国の現代史研究者である韓洪九氏の「韓国から見たフクシマー韓国の歴史学者が問う原発問題と平和」と題された特別講演会(主催東京経済大学21世紀教養プログラム)が開かれた。東京経済大学のホームページより、この講演会の趣旨と韓氏の略歴をまず引用しておきたい。

韓洪九(ハン・ホング)先生特別講演会
「韓国から見たフクシマ」

趣旨
韓洪九(ハン・ホング)先生は韓国の高名な現代史研究者であり、NGO「平和博物館」創設や長年にわたる在韓被爆者支援運動などで知られる平和運動家でもあります。
この度、韓先生と平和博物館の一行が、原発依存率がフランスについて世界第二位という韓国において原発事故への認識をさらに深めるため福島原発事故の被災地の調査に来日されることになりました。この貴重な機会をとらえて、核問題、原発問題に関する先生のご高見を聴くとともに、東アジアの平和と安定実現のため何をなすべきかをともに考えたいと思います。

1959年ソウル生まれ。ソウル大学国史学科大学院卒業。米国ワシントン州立大学で博士号取得。現在、聖公会大学教授。2004年から2007年まで、韓国政府の委嘱により「国家情報院過去事件真実究明による発展委員会」の委員を務めた。著書は数多いが、日本で翻訳刊行されているものは次のとおり。『韓洪九の韓国現代史Ⅰ 韓国とはどういう国か』『韓洪九の韓国現代史Ⅱ 負の歴史から何を学ぶのか』(いずれも平凡社)、『倒れゆく韓国 韓洪九の韓国「現在史」講座』(朝日新聞出版)

公開講演会であり、東京経済大学と無関係な私も出席して、この講演会を聞くことができた。以下、本ブログで、簡単に内容を紹介しておきたい。なお、パワーポイントを使った講演で、特にレジュメなどはなく、私のメモしか記録が手元にない。聞き間違いや認識不足の点も多々あるかと思うが、それは私自身の責任であることをまずことわっておきたい。

韓氏は、昨日まで福島にいっており、そこで20km圏内のゲートをみたことを話した。その無人のさまをみて、韓氏は、植民地期に故郷を離れざるを得なかった韓国の人びとを歌った詩を引用し、「奪われた地にも春がくるのか」と問いかけた。

その上で、韓氏は、まず、原子力政策を推進している人びとについて「原子力マフィア」とよび、日本と韓国の共通性を指摘した。韓国でも、日本と同様、学者・官僚・建設業界・マスコミ・政治家・電力業界・金融界などを中心として「原子力マフィア」が存在し、市民を排除して原発建設を推進しているという。特に、韓国の現大統領である李明博は現代建設の社長を長く務め、現在稼働中の21基の原発のうち12基の建設にかかわったという。そして、現在、韓国では、競争相手であった日本を尻目に、アラブ首長国連邦・インド・トルコなどに原発輸出をすすめているそうである。

そして、日中韓などの東北アジアでは、ナショナリズムが強く、「国家が国民に犠牲を強要している」ため、核兵器や原発建設が推進され続けていると述べた。「国家が国民に犠牲を強要する」というのは、韓氏の今回の講演のキーコンセプトであった。このコンセプトを使って、韓氏は、韓国がかかえている現状を、原発問題に限らず述べていった。

韓国においても、福島第一原発直後は原発に対する不安感が広がり、政府やマスコミはその鎮静化にやっきになったそうである。その点は日本と同じである。しかし、韓国においては、「核不感症」ともいえる状況があると韓氏は述べた。朝鮮戦争以来の「分断」が、北朝鮮を脅威とする意識を植え付けていると韓氏はいう。韓国の極右の中には、朝鮮戦争において核兵器が使われなかったことを残念がる人すらいるそうである。もちろん、韓国の極右勢力は、北朝鮮の核兵器保有には反対であるが、中には、「統一」により、結果的に北朝鮮の核兵器により韓国も核武装することを期待する人もいるそうである。そして、核兵器開発に韓国の人びとの70%が賛成しているそうである。

つまりは、「分断」による「軍事国家」化が、核不感症の原因であるといえる。講演の後の質問でわかったことだが、韓国の原発の多くは、軍事政権下で建設され、大規模な反対運動はできなかったということである。

ただ、近年は、民主化の一定の成果で、放射性廃棄物処分場建設に対する大規模な反対運動が可能になったという。1990年における安眠島における反対運動は、光州事件以後最大といわれる規模で行われ、安眠島の住民は「独立」まで叫んでいたという。1994年の仁川・堀米島、2003年の扶安においても、反対運動がおき、計画は中止された。

ただ、住民投票という形で「合意」形成がなされたとして、2005年に慶州で放射性廃棄物処分場の建設が決定された。この「住民投票」は、四つの候補地に賛成率を競わせ、もっとも高かった慶州(約89%)に建設することにしたそうである。これは、いわゆる民主化政権の時代に行われたことであるが、韓氏は、その時期でも原子力マフィアは実権を失っていなかったからであると述べた。

韓氏は、関東大震災における朝鮮人虐殺を批判した。しかし、それでも「国家によって犠牲を強要された」人びとー原発労働者・被爆者・国民ーに対する思いを強調した。彼らの犠牲の上に「電力が供給されている」と主張したのである。

そして、「国家により犠牲を強要された人びと」として、昨年の天安艦沈没事件の犠牲者や、徴兵制軍隊内部での暴力での犠牲者をあげている。韓氏は、アメリカのケネディ大統領の言葉をひっくりかえし、「国家が俺に何をしてくれたのか」と述べた。この言葉は、ギャグとして、韓国で使われているそうである。

今、韓国では、来年で任期が切れる李明博の在任期間中に、原発建設をすすめようとする動きが加速していると韓氏は述べた。来年3月にはソウルで「核安保サミット」が開催される予定になっている。その時、「核安保民間会議」のようなものが必要なのだとした…遺憾ながら、それほど資金は潤沢ではないようのだが。来年、民主化勢力が政権を獲得する可能性は高いが、残念ながら、彼らの核問題に対する関心は高くなく、核問題を争点にできるかどうかは課題であると、韓氏は述べた。そして、韓国でも電力消費をあおって原発建設を正当化しようとしているとして、生活のスタイル総体を変えなくてはならないと主張した。

この講演会の感想について、私は、昨日フェイスブック上でこのように書いた。

ブログで書く予定の話ではあるが…。本日韓洪九氏の講演を聞いていてわかったこととして、韓国で現在稼働中の原発の多くは、軍事政権期に建設され、それこそ反対運動など認められなかったことがあげられる。多少民主化されたので、核廃棄物の保存個所については反対運動が展開できたとのこと。しかし、そのことについては、2005年に慶州で「住民投票」によって核廃棄物保存場が開設されることになったと韓氏は話した。
韓国は、民主化以後も軍事国家の側面が強く、38度線付近では、軍服を着た人びとを多くみかける。韓流ドラマにはほとんど出てこないが、軍服を着てデートする人もいた。自衛隊も米軍もー少なくとも東京においてはー街中では軍服など着ていないことからみれば、大いに違和感を感じた。
ただ、日本においては、むしろ「自治体参加」の建前のもとに、それこそ、韓国以上に原発が建設されたことからみるならば、そのような権力関係が隠蔽される構造があるのではないかと思う。たぶん、アルチュセールやフーコーはそのような課題と挌闘したのではないかと思う。私たちは、韓国の原発建設を「軍事的強権」のもとにあったとして「他者化」できるのか。腐朽した「民主主義」によって正当化しているだけではなかろうか。
私個人だって、結局のところ、3.11以前は、エジプトやリビアの出来事を「軍事権力のため」と自己認識していたといえる。日本は、形式的には「軍事権力」のもとにはないが…この惨状はなぜと問い返さなくてはなるまい。

ある意味では、過去は軍事政権下にあり、分断国家として、いまだに軍事色の強い韓国。一応、形式的には「民主主義」国家であるはずの日本。現象的には違う要素があるだろう。しかし、韓氏が主張したように「国家が犠牲を強要する」ということは同じなのだ。そのような「犠牲を強要する」ということを、形式的には「民主主義」「地方自治」などの制度を使って「合意」させている日本のほうが、より住民を内的に屈折させているという点では、よりたちが悪いということもいえるかもしれない。

そして、一見「原子力の平和利用」とされている「原発」は、実は核兵器開発と表裏一体のものであることを忘れてはならないのだろう。韓国の場合は、そのことが表に出ている。しかし、日本では「平和国家」という美名のもとに隠蔽されている。日韓両国とも、アメリカの核兵器ーつまり核の傘の下にいることは同じであるということは、もう一度想起される必要がある。そのことを通じて、沖縄普天間基地問題もTPP参加問題も検討していくかねばならないだろう。

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1950年代後半、福島県議会でも原水爆実験禁止が決議されるようになったが、その先頭にたったのは、やはり日本社会党所属の県議たちであった。「原水爆実験禁止に関する要望について」という意見書案が可決された日である、1957年7月3日の福島県議会で、日本社会党所属県議の会田亮は、質問項目の中に原水爆実験禁止をとりあげた。会田は、このようにいっている。

 

さてこの原水爆実験禁止でありますが、言うまでもなく、われわれ日本人は広島、長崎、ビキニの実験と三回にわたつてその惨害を受けた世界最初の原爆被害者でありまして、今年になつても、去る六月十九日に十六歳の高等学校の生徒の死亡を加えまして、すでに十二名の犠牲者を出しております。この悲惨事をわれわれ日本人はもちろん、世界の人々に再び繰り返すまいと、全世界の有識者、平和愛好者は原水爆の製造、実験及び使用を永久に禁止すべく、全情熱を傾けて立ち上がったのでございます。

このように、福島県議会で可決した原水爆禁止実験決議につき、三度の被爆体験を契機として展開された、原水爆禁止運動を前提とするものとしているのである。

当時の人びとにとって、原水爆の脅威は、過去のものでも、未来のものでもなく、現在に存在するものであった。会田亮は、日本遺伝学会及び日本人類遺伝学会による「放射線はたとい少量でも遺伝的に有害である、私たち遺伝学に関心を持つものは、これらの緊要切実な問題について世の注意を促し、適切な対策を一日も早く立てられることを切望してやまない」という見解を紹介している。その上で、彼は、次のように主張している。

…4月3日には武谷博士は、昭和30年3月から観測を続けている空気中の死の灰調査資料に基づく結論として、相次ぐ水爆実験によつて吹き上げられた死の灰の量は、やがて地上に落下するその量は、現在までのものでも、人類の安全を脅かすぎりぎりのところまできていると述べています。6月21日の東京大学における日本学術会議の発表によれば、ストロンチウム90は年々2倍に達し、セシウム137も同じく1割ずつ増加し、しかも最も重大なことは米に一番含有量が多いと、戦慄すべき警告を発しているのであります。

現在、原子炉事故で懸念されていることと同じようなことを、1950年末の人びとは原水爆実験について思っていたのだ。少なくとも大気中の核実験が過去のものとなったーもちろん、核戦争の脅威は現在でもあるがー今日では想像つかないことではある。その頃にも、ストロンチウム90やセシウム137の降下は脅威だったのだ。

福島第一原発事故直後、大気中の核実験が行われた1950年代の放射線量を引き合いに出して、現在の放射線量は心配がないなどという学者をテレビなどでけっこうみかけた。いやはや、1950年代の人たちだって、放射線量の増加は懸念のまとであったのだ。

さて、また、会田の質問にもどろう。会田は、全世界で行われている核兵器禁止運動について話し、1955年、1956年に行われた第一回、第二回原水爆禁止世界大会について言及し、1957年8月には第三回原水爆禁止世界大会が開催される予定となっていることを述べた。その上で、会田は、各県では県知事が先頭にたっているとしつつ、福島県は過去の大会にはなはだ冷淡であったとした。その上で、福島県としては今後、どのように対処するのであろうとといかけた。

さらに、会田は、質問の最後にこのようにいった。

以上質問いたしました要旨について、事平和問題にははなはだしく不感症であり、社会保障の諸政策にはまたことごとく冷淡であるのが現在の自由民主党の基本的な性格でありますけれども、事あるごとに与党の諸君から人情知事と称せられる大竹知事が、辞任を目前に控えましていかなる考えがあるか、代理者の誠意ある答弁をお願いいたす次第であります。(拍手)

ある意味で、自民党知事であった大竹県政を批判する質問であったといえるのである。

これに対して、すでに辞任を表明していた県知事大竹作摩は答弁しなかった。それにかわって、副知事山口光三は、次のように答えている。

 

次に原水爆実験禁止の件でございます。御指摘のように、人類を不測の惨害から救うということはだれしも願うことでありまして、全国知事会におきましてもこれを取り上げ、原水爆の実験禁止について強くその実行を促して参つたのでありますが、その意に反しましたことはまことに遺憾と存ずるのであります。今後ともこの種実験の阻止につきましては皆様とともに努力して参りたいと思う次第であります。

副知事の弁であるが、福島県政としても積極的に原水爆実験禁止に関わっていくという答弁をしたのであった。前述したように、同日の意見書案も総員起立で可決されている。日本社会党系の人びとによって提起されても、自由民主党系の人びとは、少なくとも建前としては、原水爆実験禁止に賛成せざるをえなかったのだ。

それは、ある意味で、原水爆実験による「死の灰」の降下が、眼前の危機としてみなされたゆえであろう。ゆえに、日米安保体制を原理的に肯定していた自由民主党系の人びとにとっても賛成せざるをえなかったといえよう。

ともあれ、1954年の第五福竜丸事件を契機にした原水爆禁止を求める運動の中で、放射線に対する恐怖感は確立していったといえる。しかし、いまだ、稼働する原子力発電所がないこの時期、いまだ原発への警戒感につながっていかなかった。後述するが、1960年末以降、原発への不安が表面化していくことになるのである。

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前回は、福島県で原発誘致を開始した1958年の福島県議会における、自由民主党の県議会議員大井川正巳の原発誘致促進発言を紹介した。当時の福島県知事は日本社会党の推薦を受けて当選した佐藤善一郎である。前述したように、彼の手で原発誘致は開始されている。つまりは、原発誘致は、自由民主党も日本社会党も反対しないものであり、いわば超党派で行われたといえる。その後、主に自由民主党所属や保守系無所属の福島県議会議員たちー多くは双葉郡出身ーによって、誘致を促進する発言がなされている。そして、日本社会党の議員たちは、ほとんど原発にはふれないできたのであった。

しかし、単に、原発誘致だけをこの時期の福島県議会において問題になっていたわけではない。佐藤善一郎が福島県知事に就任する直前の1957年3月16日、福島県議会では、福島県議会議長渡辺鉄太郎により、次のような決議案が提出された。

議案第四号
    原水爆の実験禁止についての要望決議案
 原水爆の実験禁止は今や国を挙げての輿論であり、世界各国民の等しく要望しているものである。
 しかるに大国においては依然として原水爆の実験を行い、或は実験を計画していると報道されているが、これが実験を行われんかその惨禍と脅威に日夜おののいているのである。
 よって政府は、急速に世界の平和を愛好する各国の国民に、原水爆の実験禁止を訴えるとともに、国際間において、これが実験禁止の取決めを行い、世界永遠の平和に資する措置を講ずるように強く要望するものである。
右決議する。
 昭和三十二年三月十六日
                           福島県議会
(『福島県議会会議録』)

このように、福島県議会においては、原水爆禁止実験禁止を訴える決議案が上程されたのである。この決議案は、「起立総員」で可決された。後に、原発誘致促進を訴えるようになった自由民主党所属や保守系無所属の県議会議員たちも、原水爆実験禁止には賛成したのであった。

このような、福島県議会における原水爆禁止を訴える決議は、1950年代後半にはかなり多く可決されている。1957年7月3日には、福島県議会議長河原田盛雄外議員全員によって「原水爆実験禁止に関する要望について」という意見書案が提出され、「総員起立」によって可決された。その意見書は、次のようなものである。

  

 意見書案
一、原水爆実験禁止に関する要望について
   理由
 近時、米、英、ソ三国においては南太平洋その他の地域において、水爆実験を行われたために、同地域における漁民は勿論のこと、沿海諸国民は、常に惨害の恐怖におびやかされていることは、人道上決して黙視することができない。
 今や、我が国を始め、東南アジア各国間においては、実験禁止運動が展開され、世界の与論も又その方向にあるにも拘らず、依然として、三国は実験禁止の態度を表明しないのは、誠に遺憾とするものである。
 政府においては、常に実験阻止について凡ゆる手段を講ぜられつつあるも、この際、原水爆の惨禍を最もよく知る我が国が、率先して、これが実験の禁止方につき、世界の与論に訴えるため、速やかに適切なる方策を講ぜらるるよう強く要望する。
右地方自治法第九十九条により意見書を提出する。
 昭和三十二年七月  日
                                     福島県議会議長 河原田盛雄
(『福島県議会会議録』)

また、1959年7月10日にも、同様の「原水爆の実験禁止について」の意見書が、総員起立で可決されたのである。

原水爆の実験禁止という問題にしぼってではあるが、自由民主党も保守系無所属も日本社会党も、「全会一致」で賛成したのである。つまりは、原発誘致について全体としては「反対」しなかった福島県議会は、一方で「全会一致」で「原水爆実験禁止」を決議したのである。

このような、「原水爆実験禁止」決議の背景には、1954年の第五福竜丸事件を契機とした、原水爆禁止運動の展開があった。次回以降、『福島県議会会議録』に依拠して、これらの決議案の背景をみていきたいと思う。

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