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Archive for 2011年6月

さて、また原発のことに話をもどしてみよう。原発立地は、本当に立地した町村財政にプラスになるのだろうか。まず、想定できるのは、原発設備に対する固定資産税である。しかし、原発運転開始時には多額の固定資産税が入るが、原発の減価償却につれて、毎年固定資産税額は下がってしまう性格を有している。

 1974年、田中角栄が首相で中曽根康弘が通産相であった時期に制定された電源三法(発電用施設周辺地域整備法・電源開発促進税法・電源開発促進対策特別会計法)により電源交付金が創設された。この電源交付金は、電力会社が電力料金に上乗せして消費者より税金を徴収し、それを原子力などの発電所が立地する自治体・隣接自治体・府県に交付するものであった。

 だが、これも発電所が建設されるまでの直前はかなり多く支給されるが、発電所の営業運転が開始されると固定資産税が入ってくるので、電源交付金はしだいにもらえなくなってしまう。そして、固定資産税は、前述のようにしだいに減額されていくのである。

 電源交付金は、創設当初はいわゆる「箱もの」への支出を中心としていたので、必要性の少ない施設が多く作られた一方、維持費や人件費はその後も自治体財政の負担となった。

例えば、福島第一原発が所在する双葉町についてみてみよう。『朝日新聞』2011年5月28日付朝刊で、編集委員神田誠司が「『増設容認』カネの魅力、神話の陰にー福島原発40年④」という署名記事を書いている。この記事を再構成しつつ、原発立地が町村財政にプラスなのかいなかを検討してみよう。この記事において、双葉町財政が豊かであった時期はこのように叙述されている。

 

双葉町の5・6号機が運転開始したのは1978、1979年のことだ。当時、人口約8千人の町には巨額の「原発マネー」が奔流のように流れ込んだ。
 原発立地を促すための国の電源3法交付金、東電からは巨額の固定資産税などの税収……原発関連の固定資産税収だけでもピークの83年度は約18億円、当時の歳入総額33億円の54%に達した。町は下水道や道路整備、ハコ物建設に次々と手をつけた。

しかし、それは長くは続かなかった。同記事は、このように叙述している。

 

だが、双葉町の「原発バブル」は長くは続かなかった。施設の老朽化に伴って頼りの固定資産税収は激減。期限のある交付金も減った。それでもいったんタガの緩んだ財政規律は戻らない。温水プールつき健康福祉施設などを続けて借金を膨らませ、予算も組めなくなっていた。

この状態を、経済学者諸冨徹は、「原発震災から地域再生へ」(『現代思想』2011年6月号)で、このように説明している。

こういった交付金を一度受けてしまうと、財政構造が強烈な依存型へと変わってしまうのです。強烈な依存型になるということは、二つあるのですが、交付金自体が外部から箱物投資のためにくるものですから、まずは色々な公共設備を作っていくわけです。例えばコミュニティーセンターやコンサートホールですね。どれも非常に立派で美しい建物ですが、年間数千万円の維持費がかかりますから、とても事業収入だけでペイできない。残りは全て一般会計からの持ち出しになります。こうした建物だけにとどまらず、下水道や道路建設の公共事業も一挙に進めることになります。そのことで設備水準は上がるのですが、維持管理コストも跳ね上がってしまう。
 さらに一度上げた事業水準は、収入が減ったとしても落とすことは難しいものです。維持管理費は恒常的に発生し続けますから費用の歳出構造の水準が硬直化する現象が発生します。しかし反面で、収入の方は恒常的に一定の水準を維持するわけではありません。

諸冨によると、電源交付金などは原発稼働の七年前くらいから大幅に上がるが、原発稼働後は固定資産税に置き換わる、しかし減価償却のため固定資産税は年々減額され、約10年で半分以下になってしまうとのことである。そのため、歳出構造を原発建設期もしくは建設直後にあわせると全く歳入が足らなくなってしまうというのである。

このような財政危機は、どのような形で克服がはかられるのか。次回以降のブログでみていこう。

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前回のブログにて、明治三陸津波、昭和三陸津波による鮫浦、大谷川浜、谷川浜の被災状況を記した。『牡鹿町誌』中巻(2005年)によると、昭和三陸津波の後、1933年4月10日、罹災地域の各地町村に対し、「宅地造成の高さは今回及び明治二十九年の海嘯以上となすこと」という指示を出した。高地移転を命じたといえる。罹災地には臨時海嘯地家屋復興計画委員会を設置させ、6月30日に「海嘯罹災地建築取締規則」を公布した。同規則は、第一条で、海嘯罹災地域もしくは海嘯のおそれがある地域では、知事の許可がなければ住宅建設を認めないとしている。そして、第二条で、次のように建築方法を定めている。

第二条 前条の場合住居の用に供する建物の敷地並に構造設備は左の各号に依るべし。
一、建物の敷地は安全と認められるる高さ迄地揚を為すこと。
二、建物の腰積を設け又は之に代るべき基礎を設くること。
三、建物は土台敷構造と為し、土台は前号の腰積又は基礎に緊結すること。
四、建物の土台及び敷桁の隅角には燧材を使用すること。
五、建物には適当に筋違又は方杖を設くること。
  土地の状況に依り支障無しと認むるときは前各号の制限に拘らず認可することあるべし。

敷地を高めること、基礎を強化すること、建物に筋違を入れることが決められている。単に、高さだけではなく、津波を受けても流失・全壊しない住宅を建設することが期されていたといえよう。

鮫浦・大谷川浜・谷川浜が所属していた大原村では、「総工費七万四十六円を投じて住宅復旧と、田、宅地の場合坪一円五十銭以内、畑一円以内、その他の土地は六十銭以内で購入した移転先の土地の造成を行」ったと『牡鹿町誌』中巻は記載している。昭和三陸津波で流失・全壊した住宅は、鮫浦・谷川浜に限られており、鮫浦では14戸、谷川浜では29戸が集団移転の対象となり、1935年までには完了した。つまりは、基礎自治体である大原村主体で、集団移転が実施されたのである。

具体的な集団移転については、次の二図を参照してほしい。なお、谷川浜では、「新田」地区は西側であり、その他は集落の南側に位置している。谷川浜の洞福寺住職である石田正孝が執筆したと思われるが、『牡鹿町誌』上巻(1988年)には「これによって集落は集団移動を余儀なくされ、かつては居久根や生垣に取り囲まれ、大きな納屋と門構いの家が並んでいた美しい谷川浜の姿は再び見ることはできなくなった」と記載されている。

谷川浜の集落移転(『牡鹿町誌』中巻より)

谷川浜の集落移転(『牡鹿町誌』中巻より)

鮫浦の集落移転(『牡鹿町誌』中巻より)

鮫浦の集落移転(『牡鹿町誌』中巻より)

大原村では、朝日新聞社より震災記念碑建設指定の義援金残額の一部1040円90銭を県より配分され、谷川浜、鮫浦、大谷川浜、小渕、小網倉に震災記念碑が建設された。たぶんに津波の最高到達地点に建てられ、将来にわたって津波被災を警告する意味が込められていたと思われる。

また、大原村独自で、義援金9180円を公共事業施設費として使うこととして、「震嘯災記念館」が、大原浜、谷川浜、鮫浦、小渕に建設された。『牡鹿町史』によると建設は1935年であったようである。設立目的は「記念館ハ非常災害ノ場合ニ於テハ避難場所トシ、常時ニ於テハ協同精神ニ基キ環境ノ改善近隣居住者ノ生活向上並善隣関係ノ確立ヲ図リ以テ昭和八年三月三日三陸大震嘯当時各方面ヨリ寄セラレタル芳志ニ応ズルヲ以テ目的トス」とされている。

谷川浜の記念館は、戦後一時大原中学校の分校となり、また教員住宅や医院に利用されたが、その後取り壊されて牡鹿9町公民館分館となったとのことである。鮫浦の記念館は元々あった行屋(講のためのお籠りの場)を取り壊されて立てられ、牡鹿町になって建替えられ、地区の生活センターとして使われていたとのことであった。

このように、1933年の昭和三陸津波に被災し、少なくとも鮫浦と谷川浜はかなり津波対策を実施していたといってよいであろう。集落の高地への集団移転、津波で流失・全壊しない住宅の建設、津波被災を将来にわたって警告する震災記念碑の建立、避難所であり公民館としての機能もはたす震嘯災記念館建設など、当時としては意欲的な津波対策がとられた。

この津波対策は、1960年5月24日のチリ地震津波には有効であった。この際は、鮎川浜など、牡鹿半島西側のほうが被害は大きかったが、谷川浜・鮫浦では、床下・床上浸水程度ですんだ。

しかし、今回の東日本大震災では、津波対策していた筈の鮫浦、谷川浜でも壊滅的な被害を与えた。現地に行ってみても、グーグルの航空写真をみても、平地部の家屋はほとんど流失してしまった。高地移転したはずの家屋も、避難所として機能するはずであった震嘯災記念館の後継施設も含めてである。谷川浜のかなり山際のほうにようやく少し家屋が散見できるくらいであった。昭和三陸津波では約5m程度の波高であったが、今回の津波では波高が13~14m以上ともいわれている。ある意味では、そのためであったであろう。

どのような津波対策が今後可能なのか。真の復旧とは何か。この二つの集落の津波との歴史は、そのことを考えさせるのである。

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前のブログで牡鹿半島の太平洋側に属する宮城県石巻市鮫浦・大谷川浜・谷川浜が全戸流失に近いほどの津波被害を受け、大谷川浜・谷川浜は集落組織解散の状況となっていることを述べた。

この地域は、度々津波を受けた。『牡鹿町誌』中巻(2005年)により、この地域の津波被災をみておこう。1896年6月18日の明治三陸津波の際に、鮫浦で3,1m、谷川浜で3.4mの津波を受け、鮫浦では床上浸水程度の被害ですんだが、谷川浜では死者1名、住居流失4、住居全壊2などの損害を受けた。谷川浜では翌年も津波被害を受けたという。この際、谷川浜では高台移転の話が出たが、「海岸から遠く離れた場所に移っては、職住一体の生活に不便を感ずる漁家の多くは現在地に踏み止まり」(『牡鹿町誌』中巻)とされ、結局、湯屋を営んでいた「石森氏」のみが海岸から数百m後方の、脇の入の山麓の畑を買って移転したという。

この地域では、1933年3月3日の昭和三陸津波のほうが被害は大きかった。鮫浦で4.8m、大谷川浜で5,2m、谷川浜で4.8mの津波を受けた。『牡鹿町誌』中巻では、昭和三陸津波を受けた谷川浜の景況をこのように記述している。なお、地震が起きたのは3月3日の午前2時32分であり、大体約30分後に津波が三陸沿岸を襲ったとされている。深夜であったことに留意されたい。

 

太平洋に向かってU字形の湾口を開いている鮫浦湾の湾奥にある谷川浜は、当時イワシの大漁が続き、大勢の人々が粕製造で夜遅くまで働いていた。引潮に気づいた「堤防」の老婆が、「津波だぁ、津波がくるよぅ」と叫んで知らせたが、疲れて寝入っていた人々の耳に届くのが遅かった。逃げる暇もなく四・八メートルの津波の第一波が幔幕を湾口の幅一杯に広げたようになって押し寄せ、集落の中心部を呑み込んでしまった。年寄りや子供の殆どは家の中で死んだ。湾口の幅が約九十メートルと狭い袋状の鮫浦は、これも襲い掛かった波高四・八メートルの第一波が湾内で、ぐるぐる廻って渦を巻き、引潮で家も、中にいた人も一気に湾外に運び出されてしまった。翌朝の鮫浦湾内は谷川浜に積み出されていた大量の材木と雪の積もった屋根だけの家々が漂い、海が見えない程であった。
 その当時筆者(洞福寺住職となり『牡鹿町誌』の中心的執筆者であった石田正孝)は谷川浜の洞福寺に住んでいる十二歳の小学六年生であった。足を怪我して血だらけになった同級生の土井啓之進が雪道を裸足で駆けつけ、津波の来襲を教えてくれた。「津波だ。起きろ。」と言われて私が起きた時、前夜から祖母の法要で泊まっていた大勢の人達が総出で庫裏や本堂の戸障子を開け放ち、庭に火を焚き、忙しく焚き出しの準備をしていた。海はごうごうと鳴り響き、合間に助けを求める人々の叫び声が聞こえていた。父は仙台から来ていた甥の立花親雄を連れて急いで近道の山越えして大原へ知らせに出掛けていった。後で聞くと、父の知らせが県に届いた津波第一報であったという。時がたつにつれて、亡くなった人々の死体が戸板に乗せられて運ばれてきた。畳を揚げた本堂の中は運び込まれた死体で一杯になり、廊下まで並べられていた。庭では息の絶えた娘の周りを焚き火で囲み、体を温めながら声を嗄らして娘の名前を呼ぶ老婆の声が何時までも夜空に聞こえていた。

もはや、想像力でしかこの景況は理解できないのであるが、それでもカタストロフであったことはわかる。

しかし、今回の東日本大震災における、鮫浦・大谷川浜・谷川浜の津波の高さや被災状況はよくわからないが、近くの女川原発の津波が高さ約13mであったといわれている。たぶん、昭和三陸津波の二倍以上の津波が今回は襲ったといえる。想像を絶するとはまさにこのことをさすのであろう。

この昭和三陸津波で、鮫浦では、死者19名、行方不明者17名、負傷者19名、流出住宅10戸、全壊住宅3戸の被害を出した。谷川浜では死者24名、行方不明者2名、負傷者22名、流失住宅31戸(内半流失3戸)の被害を出した。明治三陸津波では大きな被害を受けなかった大谷川浜でも床上浸水の被害を受けている。

この昭和三陸津波について、大きな被害を受けた鮫浦・谷川浜では集落の高地移転がなされている。次回以降、そのことを述べていきたい。しかし、高地移転したところも、今回の津波で被災したのである。

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東海村の松林と原研施設(2011年4月24日撮影)

東海村の松林と原研施設(2011年4月24日撮影)

前のブログでは、中曽根康弘や正力松太郎などによって原子力開発が本格的に始まるとともに、ビキニ環礁での水爆実験を契機に原水爆禁止運動が盛り上がってきた1954~1955年において、原子力開発を推進した側も原水爆禁止運動の側も、原子力の危険性をあまり意識せず、双方とも「原子力の平和利用」に楽観的な希望を抱いていたことを述べた。

しかし、実際に原発を建設する時点においては、原発の危険性も意識されるようになってきた。前のブログに述べたように、1956年において、実験用・動力実験用の原子炉建設も含めて、原子力研究所の立地選考が行われ、神奈川県横須賀市武山、茨城県東海村、群馬県高崎市、群馬県岩鼻村の四か所が候補に上がった。

『東海村史』通史編(1992年)によると、原子力研究所敷地選定委員会では、1956年2月8日に、原子力研究所敷地候補地として次の五案を決定した。①横須賀市武山に実験用から動力試験炉まで集中的に設置する、②東海村に実験用から動力試験炉まで集中的に設置する、③武山の一部に実験用原子炉、東海に動力試験炉を分離して設置する、④群馬県岩鼻に実験用原子炉、東海に動力試験炉を分離して設置する、⑤高崎市観音山に実験用原子炉、東海に動力試験炉を分離して設置する。

この五案が作られる際、この四つの候補地は次のように評価されている。

[武山]東京から通勤可能な地であり、面積は142万㎡、用水には米軍施設が利用でき、地勢や地質も良好である。汚染した水は相模湾に放流できるので、東海についで条件はよい。風は海側に吹くので安全性は高い。
[東海]東京からの距離は候補地中一番遠いが、面積は330万㎡をこえ、用水も久慈川、阿漕ケ浦を利用できるので心配ない。地質的にもほとんど問題はなく、汚染した水を太平洋に流すことができるのでこの点では問題は少ない。風も海側に吹くことが多い。
[岩鼻]東京から約2時間、面積は76万㎡、用水、地質に大した問題はない。汚染した水は利根川水域に流すので問題があり、渇水時には流量が不足する。
[高崎]東京から約2時間、面積は330万㎡あり、用水のため動力ポンプが必要である。汚染水は岩鼻と同じく利根川水系に流すので影響が大きく、放水のため2kmのパイプを引く必要がある。

この評価をみて、今日の人は驚くであろう。「汚染した水を太平洋に流す」ことが当たり前のように記されている。利根川水系ならば問題だが、太平洋や相模湾ならば問題は少ないとされているのである。

このような議論をされているのは、水俣病の公害としての発覚以前であったことも留意しなくてはならない。1956年5月に水俣病発生は公式に確認されたが、原因は不明であり、ようやく1959年に熊本大学から有機水銀が原因であると公表したが、水銀を排出していた新日本窒素肥料も、それに政府も工場排水が原因であると認めず、1968年まで、水銀排出は続けられた。汚染した水は、海に流せばよい、そのような時代であったのだ。

風についても、「海側に吹く」ことが安全性の高い基準になっている。つまりは、放射能で大気を汚染することも想定されていたといえるのだ。

高崎や岩鼻は、中曽根康弘の選挙区であって、政治的に誘致は有利であった。しかし、内陸で、汚染水を利根川水系に流せねばならないということで、海に面している横須賀市武山や東海村が有利になったのである。

このことは、原子力平和利用の楽観的な期待とは裏腹に、原発による放射線汚染はそれなりに考慮されていたことを示しているといえよう。そして、最終的には、海か大気に汚染物質を放出することも想定されていたのである。その後、実際に建設される原発の多くは、海に面した人口の少ない過疎地に建設されているが、言外には、放射能汚染が想定されているといえる。

翻って、現在の福島第一原発事故について想起してみよう。4月2日、高濃度の汚染水が海に漏出していることが発見され、4月4日、高濃度の汚染水の保管を優先するため低濃度の汚染水を太平洋に放出した。本記事を執筆している6月20日現在、東電は汚染水の処理に苦慮している。結局は、汚染水の(意図的か非意図的かは別として)排出に追い込まれるのではなかろうか。原発を海の側に建設した言外の意図が実現してしまうことを今は恐れている。

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1954年は、日本の原子力にとってある種運命の年である。1954年、中曽根康弘らの手により、原子力開発予算がつけられ、原子力開発が開始された。他方で、この年は、アメリカによるビキニ環礁で実施された水爆実験が実施され、そのため日本のマグロ漁船が被曝した第五福竜丸事件があった年でもあった。そして、この第五福竜丸事件を契機として、原水爆禁止運動が展開したのであった。もちろん、1945年の広島・長崎への原爆投下もあったのだが、そのことについては日本政府・GHQ双方の情報統制があり、同時代で運動が強く展開されたわけではなかった。しかし、第五福竜丸事件は、マグロ漁船が被曝し(なお、被曝した漁船は第五福竜丸だけではない)、被曝したマグロ(水爆マグロ・原爆マグロとよばれた)が市場に流通し、さらに水爆実験により多くの放射性物質がまきちらされたため、より身近に放射線への恐怖をうむことになった。そして、今日と同様、水産物(被曝とは無関係なものも含めて)は買い控えられた。また、広島・長崎の原爆投下も思い起こされ、原爆・水爆などの核兵器を禁止しようとする原水爆禁止運動が展開した。

この原水爆禁止運動は、保守層も含めた多様な人々に当初賛成されていた。例えば、1954年4月1日には、衆議院本会議で、当時の自由党幹事長であった佐藤栄作によって「原子力の国際管理に関する決議」が提案され、全会一致で可決された。「全会一致」といえば、あの中曽根康弘も賛成したことになる。決議は下記のようなものである。

本院は、原子力の国際管理とその平和利用並びに原子兵器の使用禁止の実現を促進し、さらに原子兵器の実験による被害防止を確保するため国際連合がただちに有効適切な措置をとることを要請する(丸浜江里子『原水禁署名運動の誕生―東京・杉並の住民パワーと水脈』、2011年より引用)。

参議院でも4月5日に「原子力国際管理並びに原子兵器禁止に関する決議」が提案され、全会一致で可決された。

衆議院の決議案を、もう一度よく読んでみよう。原子兵器の使用禁止と原子兵器の実験による被害防止を国連に求めたことは首肯できる。しかし、「原子力の国際管理とその平和利用」というならば、1953年のアイゼンハワー大統領の「アトムズ フォア ピース」演説と趣旨は全く同じであり、結局は、原発開発を進めるということになるだろう。

これは、国会だからそうなのだろうか。中曽根康弘のような強硬な原発推進派がいるからそうなのか。そう信じたくもなるだろう。しかし、そうではない。

5月28日に中野区議会において「原子兵器放棄並びに実験禁止その他要請の決議」が提案され、これも全会一致で可決した。提案者近藤正二は、決議の趣旨について、次のように語っている。

(前略)
 今般のビキニにおきますところの伝えまするところの実況と申しますものは、そのビキニ環礁におきますところの爆発点におきましては、地下百七十五フィート半径一マイルの大きな穴を起しまして、そこの噴火口から爆発いたしました所の珊瑚礁の飛沫というものが富士山の三倍の高さまで到達し、それが今日見ますような空から灰が降る、あるいはもらい水であるところの雨水にまでもその放射能によるところの被害というものが感ぜられるわけでございます。
 翻って考えまするに、原子力の破壊力というものは、七年前に比べますると、その力は一千倍の惨害を呈するところにまで至っておりまして、今日の日進月歩の科学の力をもっていたしまするならば今後その猛烈な破壊力の到達するところは、これを戦争目的あるいは破壊的な形において実験するならば、人類は真に破滅に瀕するということは、もはや明瞭な事実でございます。しかるに人類は現在この原子力を持ちましたことによりまして、かつて人類の歴史に見なかったところの光栄ある未来を築き、精神的にもまた物質的にも偉大な繁栄が、この原子力の平和的な利用ということにかかって存在し得るのでありまして、逆な形で今申したごとく、これを破壊目的に使用するならば、人類は破滅に瀕するという、まことに人類の歴史にとって、かつてない重大な危機に立っておると言っていいのであります。
(後略 『中野区史』昭和資料編二 1973年)

前段の、放射性物質の降下を恐れる心情は、今と共通しているといえよう。しかし、後段の、原子力の平和利用を主張する部分は、今では理解しづらくなっているであろう。原子力の平和利用に対する楽観的な希望があるとしかいえない。

なお、近藤正二は、当時無所属であったが、後に社会党に入っている。その意味で、彼は保守層ということもできないのだ。

そして、このような認識は、区会議員だけではない。当時『中野新報』というローカル紙が、アンケートを実施した。アンケートに答えて大和住宅共同組合理事長渡辺潜は、次のように語っている。

一、水爆実験に対する非難の声、今後実験中止を要求する声は世界的に起こって来た。日本は被害体験者だけに憤りや恐怖心の入り交じった混乱した気持は一番激しいのは当然である。
一、水爆実験の結果は原子力の前には戦争は不可能になったという事を実証したと思ふそこで
(一)原子力の超国家機関による管理、(二)原子力の平和利用(既に各国によって進められつつある。例えば発電所の建設、医学的な応用等無限にその分野は開拓されつつある。新しい産業革命は原子力によってもたらされるであろう)について世界的な運動が必要である。広島や長崎又ビキニなどで被害を受けた最初のそして最大の犠牲者を出した日本こそは堂々と世界の与論を喚起しなければならないと思う。原子力の国外に立っている、まことにあわれな政治の姿ではあるが又それならばこそすぐれた政治家の奮起を待望してやまないのである。

このように、原子力で産業革命がおこるとまでいっている。この時期、具体的な原発建設計画はなく、原発の実情がまだ理解されてはいなかった。結局、原子力については、兵器としての利用を問題にしているだけなのである。むしろ、原子力開発に対する楽観的な希望が語られている。あれほど放射性物質に対する恐怖を感じていたのにと、今日の目からすると思ってしまう。たぶんに「科学信仰」なのであろう。このような心情を背景に、中曽根康弘や正力松太郎の戦略は有効性を有したといえる。

広瀬隆は、このように言っている。

核戦争の愚かさだけを訴える反核運動は、欧米にはない。英語で核兵器はnuclear weapon,原子力発電はnuclear power、したがってanti-nukeをただ反核運動と報じているのは、わが国のジャーナリストに特有な誤訳としか思えないのである。
日本では考えられないほど、一般の人びとが原子力に関心を持っているのだ。これに対して日本では地元の人が反対しているだけで、都会人は完全に原子力を肯定している。(『東京に原発を!』1986年)

もちろん、原水禁運動も時代につれてかわっていくのであり、ずっと原発を肯定していたとはいえないだろう。ただ、やはり、初発にはらんでいた問題性はあるだろう。私自身、核兵器反対のデモに出たことはあるが、脱原発のデモに出たことはなかった。

そして、このようなことに気づくようになったということは、東日本大震災による認識の変容の一つの現れであると思う。

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さて、以前のブログで、福島第二原発の公聴会について述べた。『東京電力三十年史』(1983年)を見返してみると、公聴会について述べているところがあるので、紹介しておきたい。

福島第二原子力発電所の建設 [初の公聴会] 福島第二原子力の一号機は、昭和四十七年八月に内閣総理大臣に対する原子炉設置許可申請を行い、安全審査に付されていたが、原子力委員会が四十八年五月に公表した「原子炉の設置に係る公聴会開催要領」の適用第一号となり、同年九月十八、十九日の両日、福島市で初の公聴会が開催された。これは、原子炉の安全審査などに地域の意向を反映させようとするもので、同委員会としては、在来炉に比べ出力規模が大きいことから公聴会の開催の実施に踏み切り、福島県がこれに協力した。
公聴会に対して、反対グループの対応は二つに分かれ、一方は公聴会に参加して反対意見を陳述する立場をとり、他は公聴会の開催阻止に動くという立場をとった。
十八日は、早朝から千数百人のデモ隊が一時会場周辺を取り巻き、機動隊も出動したが、公聴会は予定どおり開催された。席上、当社は、原子力開発の必要性、安全性、経済性、とくに一号機の信頼性について詳細に説明するとともに、安全と環境保全に関する諸施策を述べ、地元の理解と協力を懇請した。
公聴会は、翌十九日夕刻までまる二日間にわたり、三九人の陳述人が、賛否双方から原子力発電所の設置に関する意見、要望を述べて閉会した。
この公聴会における陳述意見は、安全審査に反映され、また、関係省庁の意見も付された原子力委員会の検討結果説明書が公表された。こうして原子炉設置許可申請は四十九年四月、一年八か月ぶりに許可された。

このように記述している。前から思っていたことだが、『東京電力三十年史』は、他の電力会社の社史などと比べてよくできていて、一応は歴史叙述になっている。恩田勝亘『原発に子孫の命は売れない』(1991年)ともそれほど大きく齟齬はない。ただ、当時「早朝から千数百人のデモ隊が一時会場周辺を取り巻き、機動隊も出動した」ことは、この叙述でしったことである。デモ隊と機動隊との対峙の中で、公聴会は実施されたのである。

しかし、もちろん、『原発に子孫の命は売れない』にあった、陳述人が賛成派25人、反対派15人と、賛成派が多く選ばれるとともに、傍聴人が関係町村役場の手によって賛成派・中立派住民だけで占められるように仕組まれたことなどは、全く出ていない。なお、陳述人中欠席したのは、反対派の舛倉隆一人であったようである。このような仕組まれた公聴会が、前述したようにデモ隊と機動隊との対峙の中で開催され、原発建設を正当化していったのである。

広瀬隆は、『東京に原発を!』(1986年)において、公聴会の一般的な姿について、このように記述している

だがこれではいかにも危険だと指摘されはじめた昨今では、地元民の発言を反映させようと「公開ヒアリング」の制度が設けられたが、質問の時間が十分間、回答も十分間に限られ、しかもこれ一回きりの応答で次の話に進んでしまうので、なにも言わないのと同じ結果になる。なおおそるべきは、この公開ヒアリングが行われると、それによって“全地元民の賛成が承認された”ということになるのだ。周囲にはシンジケートの暴力団機動隊と私服警官が配置され、彼らはヒアリングの入場者を身体検査し、その重装備によって一般の市民に威圧感を与え、少しでも腹を立てる短気な者があれば、首根っこを押さえて引きずり出す始末である。手帳を持ち、物も言わずに立っている陰気な男があれば、それは百パーセント私服警官である。ヒアリング会場の周囲を観察すると、その警官の数にわれわれは驚きを覚える。
 これが、われわれの見聞した民主主義の姿のようだ。

なお、福島第二原発三号機・四号機増設につき、1980年2月に、原子力安全委員会主催で第二次公開ヒアリングが福島市において開かれ、19人の陳述人が意見を述べたと『東京電力三十年史』は記載している。たぶん、同じような状況であったであろう。

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以前、本ブログで述べたように、日本の原子力開発は、1953年のアイゼンハワー大統領による「アトムズ・フォア・ピース」演説を契機とした、原子力の平和利用を国際的に進めることでソ連に対する優位を保とうとするアメリカの戦略によって開始されたことは今日よく知られている。特に、日本においては、1954年3月のビキニ環礁における水爆事件で被曝した第五福竜丸事件を契機とした原水爆禁止運動を、原子力の平和利用をアピールすることで抑制することも目的していた。

具体的には、1954年3月に当時改進党所属の代議士であった中曽根康弘らによる原子力開発予算案が提案され、修正可決した。中曽根は、翌年社会党議員なども巻き込みながら原子力基本法などの議員立法を行った。

他方、読売新聞社主の正力松太郎は、CIAと協力しながら原子力平和利用キャンペーンを行いつつ、1955年に総選挙で「保守合同」と「原子力平和利用」を公約としてその年の総選挙に立候補し、代議士となった。そして、保守合同後の1955年末の鳩山内閣の内閣改造により「原子力担当大臣」に正力は就任し、原子力開発を強力に推し進めた。

原子力開発を推進した中曽根や正力らは、原発の危険性を当初考慮していなかったと思われる。正力は1955年11月に「原子力平和利用博覧会」を開催したが、その際、協力したCIA文書によると、「展示してある小型の原子炉を購入したいので、今すぐ手配しろとほとんど命令を下すかのように正力がいったとする記述さえ出てくる。何に使うのかとたずねると、自宅に持って帰って家庭用の発電に使うと答えた」(有馬哲夫『原発・正力・CIA』 2008年 新潮社 124頁)ということがあったらしい。

中曽根も大同小異であった。1956年における原子力研究所の敷地選定の際、神奈川県横須賀市武山、茨城県東海村、群馬県高崎市、群馬県岩鼻村の四か所が候補に上がった。佐野真一『巨怪伝―正力松太郎と影武者たちの一世紀』(1994年 文芸春秋)には、

このうち高崎は、原子力予算を最初に提案した中曽根康弘の地元ということもあって、すさまじい誘致運動が繰り返された。高崎市の町なかには「歓迎原子力研究所」の横断幕がいくつも垂れさがり、誘致促進陳情団が、連日のように、バスを連ねて上京した。原子炉から出るアイソトープを県内の公衆浴場などに無料で提供すれば、群馬は“原子力温泉”のメッカとして一躍観光化される、というのが、この運動の音頭をとった中曽根の持論だった。(佐野前掲書p550)

と、書かれている。まるで、「ラジウム鉱泉」ののりである。近年、「低放射線ならば人体に有益だ」と提唱した学者がおり、それにのってわざわざ福島まで出向いて「放射線」を浴びて体が良くなった感じがすると述べた代議士がいたが、その歴史的前提なのかもしれない。

ただ、中曽根や正力の「浅慮」をただ笑うことはできない。彼らを批判する立場にいた初期の原水禁運動の側も「原子力の平和利用」には賛成していた。次回以降、機会をみて、みていきたい。

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