1967年12月12日の富岡町・楢葉町の実地調査から二週間ほどたった12月25日、『楢葉町史』第三巻によると、「楢葉町長(青木要)、富岡町長(山田六郎)南双開発に関する話し合い」をもったとしている。「南双開発」というが、基本的には福島第二原発のことであったであろう。
そして、『楢葉町史』によれば、12月26日に「南双開発のため、第二原子力発電所建設地として、波倉小浜作地内を部落地権者に発表、協力を要請」と書かれている。ここで、ようやく、福島第二原子力発電所建設用地に楢葉町波倉部落が該当していることを同部落に伝えたのである。ここでも「南双開発」が名分になっていることに注目したい。双葉郡のより北側にある大熊町・双葉町などへの対抗意識がうかがえるのである。
福島第二原発用地に同じく該当していた富岡町毛萱部落にどのように原発誘致が発表されたかについては、前述の鎌田慧『日本の原発地帯』が生き生きと伝えている。同書に依拠してみてみよう。
12月12日の実地調査から二週間ほどたって、富岡町・楢葉町の町長ら町の代表者がきて、部落の「協議員全員」と懇談した。『日本の原発地帯』では日付は明示されていないが、『楢葉町史』の記述から見て、12月26・27日頃ではなかったかと思われる。その協議会開催通知は、このように書かれていた。
南双開発懇談会開催について
今般低開発地域の開発促進をはかる為、南双開発期成同盟会を設立いたしました。この計画を更に進捗させる為、貴地域の開発について懇談いたしたく御多忙のところまことに恐縮ですが、お参画下さる様お願いいたします
懇談会開催通知でも、原発誘致は隠蔽され、「南双開発」は旗印となっていた。それに、ひいき目でいえば、町当局も「南双開発」の意欲はあったのだろう。原発立地を契機としてのということになるが。
そして、懇談会の席上、原発誘致が発表された。『日本の原発地帯』は次のように書いている。
この日の懇談会で、町ははじめて『原発』の言葉を口にだしたのだった。部落の代表者たちの意見はそのときはまだ『絶対反対』というほどのものでもなかった。とにかく、部落総会で賛否をとるということで散会した。
このように、ある意味では「だましうち」になった形で、原発誘致が部落に発表されたのだが、その時点では、絶対反対というほどではなく、部落総会で賛否を問おうという形であった。しかし、町当局は、泣き落としという形で、部落総会を無視して合意を取ろうとした。『日本の原発地帯』は、その状況を次のように叙述している。
しかし、翌日の夕方、また助役、総務課長、書記がやってきた。そのいい分は、もう御用納めになるので、部落総会の結論をまつ時間はない、年の明けた一月四日には、県知事は施政方針として発表しなければならない。だから、とにかく、部落の代表者の印鑑がほしい。もし、あとで部落総会で反対になった場合、そのときにはこの調印はなかったものにする。このことは絶対に約束する、町の幹部はたちはそう泣きついてきたのである。そのときだされた条件は、つぎのようなものであった。
一、土地を失い、農家だけで経営出来ない者は東電職員として雇用する。
一、失う土地の代替地は当局に於て絶対に保証する。
全く、無茶苦茶である。もうすぐ御用納めになる、県知事の発表が1月4日にあるから、それまでに部落の代表者の同意がほしい、部落総会の結論をまつ暇はない、部落総会で反対になれば、それはかまわないと述べて泣きついたのである。「泣きつく」というが、これでは、福島県知事のかさに依拠した一種の強制としかいえないであろう。もちろん、雇用・土地などの反対給付は提示しているのだが。
このような「泣き落とし」に、富岡町毛萱部落の人々が、どのように対応したか。それは、次回以降にみていくことにする。
参考に挙げた福島第二原発の写真は、南側から撮影している。原発の向こうにある、緑の水田とその中にある集落が富岡町毛萱と思われる。次の記事でみるように、毛萱は津波で壊滅的打撃を受けたようである。
毛萱は津波で壊滅的打撃を受けたようである。
ではなくて、津波ですべてが流されました。
ご指摘ありがとうございます。毛萱のみの被害状況を記した資料は見当たらず、女川のように現地踏査することもできません。グーグルの航空写真しか入手できませんでした。私がみても、全部流されたようにみえたのですが、写真だけでは判断できないので、あのように記しました。
実際、グーグルの航空写真を見た時は、衝撃でした。自分が書いている対象がすべて消失しているのですから。津波被災という問題をもっと深めて考えてみようという契機になりました。
毛萱もしくはその周辺の方とお見受けします。原発事故と津波被災により、さまざまなご苦難に遭遇されておられるのではないかとお察し申し上げます。ご苦労を考えると言葉もありません。