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Archive for 2011年4月7日

福島第一原発建設時には、前述したように、反対論はあったが、強力な反対運動には直面していなかった。しかし、より後に建設された福島第二原発は、強力な反対運動に直面することになった。

東電の原子力発電開発に技術者として担い、最終的には東電の副社長になった豊田正敏は、著書『原子力発電の歴史と展望』の中で、1965年に、福島第一原発の南ヘ12kmの富岡町と楢葉町にまたがる地点に福島県第二原発を建設することを決定し、福島県や関係各町村と折衝し、1968年1月に発表したと述べている。そして、用地買収は、再び福島県開発公社に依頼された。

福島第二原発については、用地交渉が難航した。山川充夫(現福島大学教授)の「原発立地推進と地域政策の展開(二)」によると、楢葉町波倉地区では用地交渉が進んだが、富岡町毛萱地区では絶対反対の決議が出され、町議会や県に反対陳情が出された。しかし、県知事を先頭に、強固な締め付けと特別配慮金1億円の積み上げによって、反対派の切り崩しがはかられ、1970年9月までに用地交渉はおおむね完了したと山川は指摘している。

だが、福島第二原発建設に際しては、より広範な反対運動に直面していた。1968年9月に「原発・火発反対福島県連絡会」が結成され、それが「福島第二原子力発電所設置許可処分取消請求事件」訴訟につながっていくことが山川によって指摘されている。また、楢葉町でも「公害から楢葉町を守る会」が結成されていたことが山川の研究で判明する。

この時期、東北電力も、福島第一原発の北側にある浪江・小高地区に原発を建設することを表明した。しかし、1968年1月には、原発設置予定地の浪江町棚塩地区を中心として「浪江町原発誘致反対同盟」が結成された。また、1971年4月には小高町浦尻地区に「原発対策委員会」が結成され、さらに同時期に小高町福浦農協総会で原発誘致反対決議が出された。そして、東北電力の原発計画は、結果的には中止された。

このように、東北電力の原発計画を中止に追い込むほどの強固な反対運動に直面していたのである。東電は、広野火力発電所建設計画もかかえており、それも反対運動の攻撃対象の一つであった。

このような反対運動を鎮静化させること、それは、用地買収が一段落した後の1971年に設置された福島第二原子力建設準備事務所の所長に赴任した豊田正敏の課題の一つであった。次のブログでその景況をみておきたい。

http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/109/1/3-691.pdf(山川充夫「原発立地推進と地域政策(一)」 福島大学経済学会『商学論集』55-2 1986年10月15日)
http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/110/1/3-701.pdf(山川充夫「原発立地推進と地域政策(二)」 福島大学経済学会『商学論集』55-3 1987年2月15日)
豊田正敏『原子力発電の歴史と展望』(2008年10月25日)

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樅の木会・東電原子力会編『福島第一原子力発電所1号機運転開始30周年記念文集』(2002年3月)にある東京電力調査事務所土木課長Sの回想をもう少し紹介しておこう。

前述のように、用地買収も進展したので、東電は原発建設のため、現地に東京電力調査事務所を設置し、Sも土木課長として大熊町に赴任した。しかし、用地買収の大半は容易に終了したのであるが、構外進入道路工事などは残っており、その測量で地権者や地元住民から反対論が噴出した。この件をSは次のように述べている。

早速S(大熊町長。イニシャルのみ記す)町長に連絡して地元の人達に集まってもらうことになった。敷地の入口に近い道路交差点の角地にある雑貨店の丸添商店の2階で対話することになった。
原子力発電は原子爆弾と同じように危険であるというのが町民の声であった。
そこで私は答えた。「皆さんは原爆がどのようなものかご存知か、私は原爆を投下したB29とそのあと空に舞い上がったきのこ雲を見ている。多くの負傷者の看護にも当たった。その上私の兄も原爆で戦死した。皆さん以上にその恐ろしさは身に染みて知っている。従って皆さん以上に真剣に原子力発電について勉強しました。原子力発電は核反応を静かに優しく行うように考えられておりその反応が万一予想以上に進むときは2重3重の防御を行い、これでもかこれでもかと安全対策をしているので私は安全だと信じています。いささかの不安があればいくら会社の方針とはいえ肉親を失った私は会社に従わない。何も東京電力しか勤めるところがない訳ではないから私は東京電力を止めます。皆さん今まで申し上げた通り原子力発電は安全ですからご安心下さい。町長さんからお話があれば私共は従います。」と一生一代の熱弁をふるった。しばらく沈黙が続いた。やがて町長が「土木課長がこうおっしゃるのですから、原子力発電は安全だし、いつでも私共の話を聞いて貰えるのですから私に委して下さい。道路が完成すれば幅も広く、路面も舗装され我々にとって大変便利になります」と云はれ出席者一同から賛同を得た。この日を期して構外進入道路工事は測量、建設と順調に進捗していった。

Sのこの回想は、重要なことをしめしている。住民は、原爆に恐怖し、それと同様なものとして原子力発電をとらえ、ゆえに原子力発電も危険であると認識している。原爆被爆国の日本によくみられる思考回路といえよう。しかし、Sは、自分は原爆をみた、負傷者の看護にもあたった、自分の兄も原爆で戦死した、大熊町民よりも、身に染みて原爆の恐怖は知っているとした。それゆえに、原子力発電について真剣に勉強した、原子力発電は核反応を静かに行い、二重三重に安全対策を行っているから、安全であると力説したのである。

簡単に概括すれば、原爆体験があればこそ、原子力発電の安全対策は万全であるとしたのである。Sの個人史は不明で、原爆体験については、ここにある以上のことはわからない。しかし、「今となっては…」の感はいなめないが、Sのいうことを単なる強弁とはみるべきではなかろう。原爆に被曝した日本であるからこそ、放射能への不安は強い。そして、それは、住民以上に原発に近づく必要のある、現場の東電社員も共有していた。それゆえに、ことさらに「安全」が意識されたのである。まさに、原爆被爆国ゆえに、住民にとっても、現場の東電社員にとっても、より強い「安全神話」が必要なのであった。

この「安全神話」も、単に危険なものを隠蔽するだけのイデオロギーではなかったであろう。「安全」へのこだわりは、より「安全」なものを作り出そうとする原動力になっていたであろうし、そこまで否定する必要はない。Sは、自分の原爆体験があればこそ、会社が安全ではない方針をとるならば、会社をやめるとまでいっている。

とはいっても、やはり「今になっては…」の感はつきまとってしかたないのであるが。

一方、Sは、町長から話があれば従うともいっている。住民の要望は聞き入れるという姿勢をしめしたといえる。町長は、原発は安全だし、住民の要望は聞き入れるといっている、道路が完成すれば便利だといって、その場をおさめた。Sの言動と、町長のとりなしが、住民の反対論を鎮静化していったのである。

総括しよう。原爆に被曝した日本にとって、たぶん放射能への恐怖はどこよりも強いであろう。そして、このような恐怖は、原発を建設し操作する東電社員たちにも共有されていた。そのため、原発を建設するためには、どこよりも強固な「安全神話」が必要であったといえる。

そして、この「安全神話」の崩壊は、原爆体験などを源流とする放射能への強い恐怖を再び呼び起こすことになったといえる。それが、福島だけではない、「われわれ」の現状なのである。

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国立国会図書館で、樅の木会・東電原子力会編『福島第一原子力発電所1号機運転開始30周年記念文集』(2002年3月)という資料を発見した。この資料は、1号機建設に関係した東電社員の回想録をまとめたものである。ほとんどが、1号機建設や運転にかかわる技術的な問題を扱っているが、地域社会との関連では、東京電力調査事務所で当時土木課長を勤めていたSの回想が興味深い。なお、出版された場合、通常著者の個人名を出すが、現状では東電社員が社員というだけで個人攻撃されているようなので、ここではイニシャルだけを掲載しておく。

Sは、東京電力調査事務所ができる前より福島第一原発の開発に携わっていた。Sは、

昭和38年には用地交渉中であったので、現地調査は東電の人とさとられないように若い女子社員を連れピクニックをする格好をして日曜日にサイト内を歩いた。5千分の一の航空写真化地形図を頼りに中央の沢を下って海岸に出ると、塩水を汲み上げていたパイプの配管が寸断されたまま沢の途中に残っていた。沢の上方に古ぼけた掘立小屋(若衆宿跡?)がありその北方に平坦で広大な塩田用地(元陸軍訓練所飛行場)があった。
沢の海への出口以外は海側すべて崖が屹立しており…用地内は大きな木がなく土地は痩せており…

と回想している。

Sにとって、大熊町は次のように映っていた。

 

大野駅前通りの商店街はみずぼらしい古い家が散見され、人通りも少く閑としていた。人々の生活は質素で人を招いてご馳走するといえば刺身が一番のもてなしであり、肉屋には牛肉がなく入手したければ平市か原町市へ行かねばならなかった。この地方は雨が少いので溜池が多く耕地面積が少いので若い人は都会へ出て行き、給料取りは役場、農協、郵便局のみで福島県では檜枝岐地方と対比してこの地域を海のチベットと称していた。しかし、人々は大熊町まで相馬藩に属しており、隣接町村が天領であるのに比べて「我々は違う」という気位の高さを誇っていた。

Sは、1963年(昭和38)暮にも大熊町を訪れ、現地測量を行った。その際は県の開発部から一人同行した。Sによると、宿舎に、突然町長(当時・故人)が四斗樽をもって現れたという。大熊町長は、「陣中見舞に酒を持ってきました。私は東電原子力発電所に町の発展を祈念して生命をかけて誘致している。本当に東電は発電所を造ってくれるのですか」と問いかけ、その気迫に圧倒されたとSは回想している。Sは、頭の中を整理して、「必ず建設しますからご安心下さい。我々土木屋が来たのは建設準備の第一歩です。基準点の測量するのが事の始まりです」と答えたという。しかし、その後も町長は、何回も「建設してくれますか」と尋ねたという。

町長は、測量するには足が必要であるから、私の車を使ってくださいと帰り際に言い置いた。翌朝、差回された車はデボネアの新車であった。また、それ以外、作業員も大熊町で世話してもらったとのことである。

しかし、測量してみると、地図上では大熊町にあるはずの基準点が双葉町内にあり、そこで県の担当者が双葉町役場に了解を得ようとしたが、双葉町の課長が、大熊町の作業員ではなく、双葉町の作業員でなければ、測量をさせないと主張し、頑として聞き入れなかったという。そこで、県の担当者とともにSは双葉町長に会い、挨拶してお詫びをし、町長は快諾したとのことである。そして、その夜について、Sは次のように回想している。

その夜は双葉駅前の旅館に泊まった。夕食時双葉町長が来て会食した。県の人が「大熊町長は陣中見舞に四斗樽を持って来たよ」と云ったら双葉町長はそれでは今夜の酒代は持たせて戴きますと云った。原子力にかける情熱は大熊町と双葉町では大きい開きがあった。もっとも当時の用地買収では大熊町分が大半で双葉町分はごく僅かであった。その後双葉町内敷地が大きく追加買収された。
県の人は出来るだけ地元両町が熱心に誘致していることを我々東電側に印象づけようと心配りに努めていた。

さて、『大熊町史』のいうように、用地買収は比較的速やかに進んだ。Sは、このように回想している。

用地買収は大熊町長の陣頭指揮で町議会、町当局、有力者を総動員された結果、大熊町内地権者の了解は短期間に終了した。一方北側にある国土興業(西武系)所有の旧塩田跡地は堤康次郎氏の反対で了解が得られなかったが、氏が亡くなられてしばらくして用地が解決したので昭和39年に調査所が設置され大先輩I(イニシャルのみ記す)氏が所長になり次長以下事務系は猪苗代電力所の人が中心であった。

Sの回想は、今まで把握できなかった福島第一原発を誘致した側の景況をいきいきと描き出している。まず、県の担当者が、測量をするSに同行し、地元自治体との連絡をはかり、さらに、地元自治体に対して、東電への協力姿勢をみせるようにあおっていた。しかし、地元といっても一枚岩ではない。大熊町長は四斗樽をもって歓待する一方で、原発誘致に生命を賭していると述べ、東電側に原発立地の確約をせまっていた。それに対して、東電側も、町長の意向にそった形で答えた。大熊町では、高級車の新車を「足」として提供し、測量の作業員も周旋したのである。

他方、初期計画では原発敷地に大きくかからない双葉町では、温度差があった。双葉町の課長は、双葉町の作業員でないと双葉町の測量はさせないと主張し、東電側への接待も県担当者が要求したから行ったというスタンスをとっている。ただ、これは、原発立地への反対を示しているのではないだろう。双葉町の作業員にしか測量をさせないということは、建設反対ではなく、大熊町に多くの利益が与えられることへの懸念を示しているといえないだろうか。そして、東電では、双葉町の買収面積を増やしている。

なお、前回、原発立地に堤側の働きかけがあったと推測したが、Sの回想によると、堤康次郎は反対しており、康次郎が1964年に死去して、ようやく買収できたと述べている。堤義明が敷地売却に積極的であった可能性もあるが、とりあえず、国土計画全体としては積極的に敷地売却を志向していたとはいえないのである。

このように、当事者の証言は重要である。もちろん、美化もあり、隠されたところもあるだろうが、この本は東電関係者のためのものであり、東電関係者にわざわざ事態を偽って語りはしないであろう。このような回想・証言を集めて、より多角的に原発の歴史を可能な限り語っていきたい。

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