ここで、福島第一原子力発電所が建設された経緯について、『東京電力三十年史』(1983年)や『大熊町史』第一巻(1985年)を参考してみてみよう。特に『大熊町史』は、山形大学教授(当時)の岩本由輝が執筆し、通り一遍の記述ではなく、批判意識をもって書かれている。
まずは、候補地選定の経過をみておこう。この地域への原発誘致に積極的であったのは福島県側であったようである。『東京電力三十年史』によると、福島県浜通りにおいて、南の小名浜地区、北の相馬地区はそれなりに工業地域を有していたが、双葉郡地域は農業地帯で特段の産業もない過疎化地域であり、福島県や町は工業立地の構想を模索していたとしている。そして、大熊町では、1957年に、大学に依頼して地域開発に関する総合調査を実施していたとしている。この大学とは、どこか。『大熊町史』では、早稲田大学と東京農業大学としている。
特に、当時の福島県知事佐藤嘉一郎は原発誘致に熱心で、1958年には商工労働部開発課に原子力発電の可能性に関する調査を命じ、1960年には自身が日本原子力産業会議に入会した。そして、同年、現在の福島第一原子力発電所の敷地を、原発候補地としてあげ、東京電力に意向を打診してきた。
この場所は、どんなところだったのであろうか。まず、この場所は、双葉町と大熊町の境にあった。もともと平坦な段丘地であったが、戦時中、旧陸軍航空隊の長者ヶ原飛行場が置かれ、かなり整地が進んでいたと思われる。そして、戦後は、堤義明が代表取締役をつとめていた国土計画興業株式会社がその用地を取得し、塩田事業を行っていた。もちろん、国土計画以外の土地も多かったが、元々、一地権者がまとまった土地をもっていたのである。
東京電力では、この意向を受け入れて、1960年8月にこの土地を原発建設地として確保する方針を決め、福島県知事に斡旋を申し入れた。そして、福島県知事は11月に原子力発電所誘致計画を発表した。
『東京電力三十年史』では、「このように、当社が原子力発電所の立地に着眼する以前から、福島県浜通りの未開発地域を工業立地地域として開発しようとの県、町当局の青写真ができており、この先見性こそ、その後の福島原子力にかかわる立地問題を円滑に進めることができた大きな理由といえよう」と評している。
ただ、東電側はそのように評価するが、国土計画や早稲田大学などは、どのようにこの経過に関わったのであろうか。それこそ、今後の研究を期待したい。
東日本大震災の歴史的位置ー福島第一原発候補地選定の経緯
2011年4月3日 投稿者: Hisato Nakajima
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