さて、前回は1975年に原子力情報資料室が創設されたことを述べた。創設時の原子力情報資料室は、「専門家各人が資料をもちより、共通に閲覧し、必要に応じて意見交換する、一種のサロン的場」(高木『市民科学者として生きる』、岩波新書、1999年)をめざすものであったと高木は回想している。
しかし、創設まもない頃、高木は、代表であった武谷三男らと、原子力情報資料室の運営方針をめぐって論争した。やや長文になるが、ここでその経緯を紹介したい。
ところが、それに(原子力情報資料室…引用者注)自分の一生を賭けるつもりでいた私は、明らかに「サロン」には不満で、「全国の住民は日々にさまざまな情報を求めているのであり、また政府・電力会社の計画や原発の安全性を独立の立場から日々解析・批判していくことが社会的に求められているのではないか。これに対応するには、きちんとした専従スタッフの体制を敷くと共に、われわれ研究者自身がいわば自分たちの運動として資料室にかかわるべきではないか」と主張した。
これに対して武谷先生は、次のように言われた。
「科学者には科学者の役割があり、(住民)運動には運動の果すべき役割がある。君、時計をかな鎚代りにしたら壊れるだけで、時計にもかな鎚にもなりはしないよ」
もちろん、ここでは、科学者・専門家が精密機械としての時計に、大衆的な行動の力である住民運動がかな鎚にたとえられていた。かなり強い調子で言われたので一瞬皆が固唾を呑んだ。私も少したじろいだが、恐いもの知らずの”遅れて来た人間”だった私は、
「資料室はともかく、私個人はそういう役割人間であることを拒否したいと思います。少なくともかな鎚の心をも併せもった時計を目指したいのです。時計は駄目でもせめて、釘の役割でもよいです」。
正確にこの通りではないが、そんな風に言った。なんとも生意気な発言だった。その場はまわりの人がとりなして終ったが、後から水戸巌さんに、「武谷先生に対しては、誰もあんな風には反論しないものだよ。ま、君は古いことを知らないから、はっきりものを言って、それはそれでよかったと思うけど」と言われた。水戸さんは武谷先生の一番若い弟子とも言える立場で、その世代以前の人にとっては、学問的にも思想的にも輝かしい業績があり指導的な地位にあった武谷先生は、深い尊敬の対象であり、軽々に反論などできない存在だった。
武谷先生の名誉のためにも、誤解を招かないためにも付け加えて置きたいのだが、先生が私に言ったことの中には、「運動をやっているという自己満足で、専門性を鈍らせたり精進を怠ったりするなよ」という、貴重な忠言が含まれていた。その時の私にはそのように受けとめるだけのゆとりがなく、世代間の思想的違いとのみとらえて、がんばったのである。
しかし、その後、私は常にこの時のことを頭に入れ、大見得を切った手前、ぜったいに「壊れた時計」にはなるまいと、常に心に誓って来た。その意味で、武谷先生の言葉は現実によい忠言になったと思う。
なお、武谷先生はこのやりとりからしばらくあって後、資料室の代表を辞任したが、私との間に対立関係が生じたわけではなかった。先生は、現在に至る私の活動を評価してくれ、頻繁な行き来はないが、よい関係が続いていると私は思っている。(同書p164〜166)
武谷三男と高木仁三郎では、知識人・専門家のあり方について、大きく見解が異なっていたといえる。武谷は、自身も高木も「専門家集団」であり、彼らは直接に運動を行う存在ではなく、運動側を知識によってサポートしていくという形で意識していた。その意味で、専門家が情報を提供し、利用し、意見交換するためのものとして原子力情報資料室を武谷はとらえていた。武谷にとっては、専門家・知識人と、運動は、別々の役割を担うべきものであった。このような考えは、戦前来の知識人の自己認識といえよう。武谷の発言は、それを体現したものであった。
他方で、高木は、運動側に資料を提供することにとどめるのではなく、専門家もまた自身ものとして運動を担っていくべきであるというように考えていた。高木にとって、知識人・専門家と運動は別々の存在であってはならなかったのである。これは、まさしく、1970年代以降に生まれた、知識人のあり方についての新しい考え方であった。高木仁三郎は、単に、今日の脱原発・反原発運動の源流というだけでなく、知識人のあり方ーひいては科学・学術のあり方について、新しい考え方を提示した先覚者としても評価しなくてはならない。ここまで、高木について、延々述べてきたのは、このことを言いたいがためである。
しかし、このことは、簡単にできることではない。先ほど引用したところで高木が武谷の言葉について反省して述べているように、運動にたずさわることと、研究を深めていくということを両立することは、並大抵なことではないのだ。高木は、結局、専門家と市民という「二足のワラジ」の両立に悩んでいたことを本書で書き留めている。さまざまな活動を通じて「反原発のリーダー」として目されていく反面、身体的にも精神的にも高木は疲弊していった。一時期はうつ病になったこともあると、高木は告白している。そして、そのことを、高木は次のように述べている。
精神医学的なことは私には分からないが、個人的に考えると、私が鬱になった原因は、先述の「二足のワラジ」の両側に私が引き裂かれてしまって、時計としてもかな鎚としても自分が機能していないことに、ほとんど絶望的に悩まされたことにあった。そのうえに、私のこの問題意識は、まわりの誰にもうまく共有してもらえなかった。
むしろ、原子力資料情報室の運営委員会内にも、資料室が運動側に傾斜しすぎていることに関係して、私への至極当然の批判も生まれ、それに端を発して、スタッフの役割、専門家の位置づけなど、蓄積していた意見の相違なども顕在化し、議論が錯綜した。私はついに行き詰まり、医師の助言もあって、三ヵ月近くの休暇をとった。1990年の夏頃のことであった。(同書p172〜173)
そして、休暇中に、高木は、次のように考えるにいたったのである。
プルトニウムという原点に戻ろうと思った。それまでの反省として、自分の専門の間口をひろげ過ぎ、「時計」の精度が悪くなって来たことが、自分自身でよく分って自分を悩ませていたということがひとつにあった。もうひとつの反省としては、柄にもない「運動のリーダー」役を担いすぎ、しかもそれを内発的な動機というよりは、押しつけられた責任として実行しようとしすぎた。それはもう断ちきらねばならない。
といって、もちろん、「専門家」に徹し切るつもりはなかった。一人の人間として、一市民活動家の立場は、すでに自分から取り除くことのできない身体の一部のようなものになっていた。それなら、専門家と市民、時計とかな鎚という二足のわらじをはくのではなく、やることの範囲を絞ったうえで科学者=活動家といった地平で仕事をすることも可能ではないか。いや、そこにしか自分が今後生きていく道はないのではないか。それまでは、ディレンマとしかとらえられなかった問題も、妙な肩の力みを除いてみると、案外止揚できるかもしれない。それだけの失敗の経験と苦しみは味わってきたのではないか。
そう思うと、妙に気が楽になって、立ち直れるのではないかと思えて来た。
そして、自分の営みが、基本的には市民の目の高さからの科学、すなわち「市民の科学」を目指すことであり、資料室は、市民の科学の機関であると位置づけることが、ごく自然のように思えて来た。(同書p174〜175)
まさに、「市民の科学」をめざすこと、これが、科学者と市民という「二足のワラジ」の矛盾に苦闘した高木の回答であったといえよう。ある意味では、先行する武谷三男から投げかけられた問いを、高木は、このように解こうとしたのであったのである。
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